新嘗祭、勤労感謝の日

今年の秋も終ろうとしています。
実りの秋、味覚の秋、といわれるように、秋は新米を始め、さまざまな収穫物や食物に恵まれる季節です。それらの中には冬を迎える前に加工され保存食とされるものもあります。
今年の新米がとれたとき(または購入したとき)、最初に神棚や仏壇の先祖さまにお供えし、その後で家族でいただくという習慣は根強くあると思います。米以外の季節の初物なども同様です。そうやって今年一年の「実り」を感謝し、来年のしあわせを祈るわけなのです。

そうした家々の祭りを、さらに地域で集約して行なうかのような神社の祭礼が、新嘗祭(にいなめさい)です。春に五穀豊穣を祈り、秋に感謝の祭を行なう、そうしたお祝いごとは、もともと大勢で集まってお祝いするものだからです。
11月23日は戦後、「勤労感謝の日」という祝日に定められました。それより以前は「新嘗祭」というそのままの名称の祝日でした。

この日の夕刻過ぎ、宮中では天皇陛下が御自から今年の稲の初穂を皇室の先祖の神々に捧げられて、国民の幸福を祈られ、未明まで続けられるお祭りがあり、これも新嘗祭と呼ばれます。このとき天皇陛下も、神々にお供えされたいわば新米をいただくというお話です。
皇室の新嘗祭もまた毎年行なわれる行事なのですが、御即位の年の新嘗祭は特別に大嘗祭(だいじょうさい)と呼ばれ、最も重要な祭であるとされています。
次の御製は陛下の皇太子時代、昭和天皇の新嘗祭に際してのものです。

 神遊びの歌流るるなか、告文(つげぶみ)の御声聞こえ来(く)。新嘗(にひなめ)の夜  御製

大嘗祭は「おほにへのまつり」ともいい、「にへ(ニエ)」とは、初穂を神に捧げること、または捧げたもののことです。
「にひなめ(ニイナメ)」の意味には諸説がありますが、「にへの忌み」が縮まったものだろうというのが折口信夫説です。忌みとは祭のために夜通しお籠りすることをいいます。

 誰そこの屋の戸押そぶる。新嘗(にひなひ)にわが兄(せ)を遣りて、斎(いは)ふこの戸を  万葉集東歌
(誰が戸を押し叩いたのだろう、新嘗の祭にわが夫は出かけて、家では妻の私が籠って祭をしいる、その戸を叩いたのは)

万葉集のこの歌では、家で戸締まりをして妻が祭をしていたのですから、戸を叩いたのは神、先祖の神だろうということになります。
常陸国風土記の(三)筑波郡の項にも新嘗の夜に先祖の神が、富士山や筑波山の神のところを訪れたという話があります。
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柿の木の伝説

柿柿は古代から霊木とされてきたようだ。
信州では亡くなった人の魂が家に帰ってくるときは柿の木に降りてくるといい、また幽霊は柳ではなく柿の木の下に出るという。
となると「柿本人麻呂」という名前はどういう意味になるのだろうか。

柿本神社のある島根県石見地方では、柿の種には人丸さん(人麻呂)が宿るから種も枝も燃やしてはいけないという。
兵庫県明石の柿本神社の柿は、人麻呂が植えたものだといい、その実を懐中すれば安産の御守りになり、また、火事の類焼を除けるために次の歌を書いて門口に貼るという。

  焼亡(じょうもう)は柿の木まで来たれども あかひとなればそこで人丸

「人丸」に「火止まる」をかけて火事を防ぐのだという。また「人産まる」で安産の御利益の神といい、どちらも語呂合せにも見える。

日本俗信辞典によると、柿を燃やしてはならないという禁忌は全国に拡がり、荒神様が嫌うからだと説明されることが多い。また古くから火葬の行なわれた地方では柿を燃やして焼くので、普段は燃やしてはならないとされるようになったのではないかという。嫁入りに柿の苗をもってゆき、死んだときはその木で火葬にしたという地方もあるらしい。
普段燃やすことのない柿だから「火止まる」の力があるとするのは、語呂合せだけともいえないようだ。
「人産まる」についても、死を媒介することはあの世ともつながる木であり、新しい命もそこから行き来するのかもしれない。村の境や、坂などに植えられることも多かったという。

柿の実はすべて採らずに一つか二つ残しておくものだという。鳥のため、また旅人のためともいう。その実は「木守り(きまもり)」と呼ばれ、また来年の実りを約束してくれる木守りさんに供える実なのだともいう。来年の実りとは柿の実りのことだけではなく、すべての作物の豊作を約束してくれるということである。木守りさんとは木の神のことだろう。新年に豊作を祈る「成木責め(なりきぜめ)」も柿の木に対して行なわれることが多いという。

柿の実にはビタミンCも多く、高血圧にも良いらしい。
「雪月花 季節を感じて」に「柿のはなし」という秋らしい記事がある。
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神無月とは

旧暦10月のことを神無月(かんなづき)という。
日本中の神さまが出雲に集まって何か相談されるので、村々には神さまがいなくなるので、神無月というという。逆に出雲では神在月(かみありづき)という。

田を守ってきた神さまが、収穫を終えて帰って行くときの神送りの行事がもとにあるともいい、また11月の新嘗祭など重要な収穫の祭のためにお籠りをしたので、10月は神を祭らなかったからともいう。
現代では10月の祭礼行事は多い。

家々には留守神(るすがみ)があって、カマド神や荒神(こうじん)、恵比須、大黒さまなどが留守を守るといわれた。これらは普段から家の神や土地の神として、主として女性たちによってまつられてきた神である。

鎌倉時代の『徒然草』によると、神々は出雲ではなく伊勢の神宮へ集まるという別の考えかたも紹介しているという。出雲の大社は伊勢の神宮と並びうる国民の信仰だったということだろう。

  雲さそふ空にしられて神無月 嵐のうへをゆく時雨かな  二条為定

雲が動き嵐や雨が降るという歌である。旧暦10月は立冬のころからをいうので、嵐というのはあまりありえないかもしれないが、神送りにはがつきものだったという伝説がある。

(※ この日の夜、関東の一部では雷がなり雨が降ったので、この時期はそういう天候もあるのだろう。新潟県上越地方では新暦11月に初あられが降るという。)
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秋の彼岸

彼岸花彼岸といえば先祖祭、墓参り。仏教色をともなって説明されることも多いが、インドや中国にはない日本だけの行事であるらしい。

大和言葉で、春・夏・秋・冬のうち、冬(ふゆ)という言葉が最も新しく、古今集の時代でも「冬の歌」とされるものはわづかで、しかも雪と梅が同時に詠まれたりするような歌が多い。これは冬という季節の分類の観念が新しいものだからだろうと池田弥三郎氏が述べていた。
秋の稔りを祝う新嘗祭は旧暦11月で四季の冬に当り、新穀を神に捧げてのち、神から戴く来年のいのちのようなものが「みたまのふゆ」といわれ恩頼と書いてそう読ませる。「みたまのふゆ」は秋から春を迎えるために必要なものだったのだが、これが冬の語源だという説もある。

それはともかく、夏(なつ)という言葉も次に新しく、はるか古代には、春と秋、という二つが交互にやってくるという観念だったらしい。そして二つの替わり目の行事が、盆と正月である。
そして春と秋のそれぞれの中の中心となる行事があった。現代の神社の祭礼で春祭りと秋祭りを重視するのはそれを伝えているのだろう。
あるいは春分・秋分のころに、自然を尊び、祖霊に感謝することが行なわれ、それが仏教の知識と習合して彼岸の行事になったらしい。自然を尊ぶとは、太陽を中心とした自然の恵みに対してであり、日を拝むことから、日拝み→ヒヲガミ→ヒガンという語源説まである(日に願をかけるというのもある)。ともかく、太陽が真東から昇り真西に沈むころに、日に向かって拝む行事がさまざまあったということである。

昭和23年の「国民の祝日に関する法律」では、
 春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」、
 秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日」
と規定されている。
しかし現在では「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」であるという意識はかなり薄れてしまって、先祖祭一色になっているようなところがある。けれども60年近く前のころは、そうではなかったのだろう。五、六十年単位でも人々の意識はこの程度には変ってしまうものなのである。この法律では、春分の日と秋分の日の趣旨が好対照に説かれているが、当時はそのような傾向があったのかもしれない。しかし自然を讃え、祖先を敬うことは、春秋共通のことであったらしいのである。
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敬老の日

昨日が敬老の日。
この祝日が戦後制定されたころは9月15日だった。なぜ9月15日になったかについては、兵庫県多可郡の八千代町で、町長が農閑期を利用して「としよりの日」を定めたことから国民の祝日となったらしい(Wikipediaによる)。

一説によると、聖徳太子が四天王寺に悲田院(古代の養老院のようなもの)を建立した日であるとか、あるいは元正天皇が美濃国の養老の滝に行幸した日であるともいわれる。
参考 http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/09/keiro.htm
これらの説は単なる俗説であるとされているが、わづか20〜30年のうちに付会されて流布されたことになる。この日についての解説した出版物等が少なければ、こうした説を出典を示さずに複数の人が引用しただけでそれらしい説になってゆくのかもしれない。

それはともかく、美濃国の養老の滝の伝説で、元正天皇が行幸されたのが霊亀3年(717)9月中旬のことだったから、という説は、なんとなく魅力があり、農閑期云々の話よりも、老いについての日本人の考え方をよく反映しているように思えてしまう。養老の滝の水(湯?)は、一種の変若水(おちみず)でもあった。

  古(いにしへ)ゆ人の云ひ来(け)る老い人の変若(を)つとふ水そ。名に負ふ滝の瀬   大伴東人

老人の価値を歌った万葉歌(折口信夫訓読)。

  物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし 万葉集巻10

こんな歌もある(入間川が逆流する場所で詠んだという)。

  立ち寄りて影をうつさば、入間川、わが年なみも逆さまに行け  道興
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秋の七草といえば

秋の七草といえば、万葉集の山上憶良の歌がある。

  萩が花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花また藤袴 あさがほの花  山上憶良

「あさがほ」とは今の桔梗のことだともいう。
春の七草がすべて食用で、長寿を願う若菜摘みなどの多彩な民俗を形成しているのに対して、秋の七草はおもに十五夜などでの鑑賞用とされる。あるいは七夕やお盆でも飾られ、神霊の依代であるとする説もないわけではない。
山上憶良の歌は、秋の野では種々の草花を見ることができるという趣旨の歌で、歌われた七つだけにこだわる必要はないのだろう。

埼玉県秩父地方では秋の七草にちなんだ七つのお寺があるそうだが、秩父の城峰山には平将門の愛妾だった桔梗の前の悲劇の伝説もある。
ほかに、宮城野の萩武蔵野の尾花吉野の葛などがよく知られる。
次の有名な歌は長崎県の壱岐で詠まれた。

  葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり   釈迢空

参考 春の七草
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十五夜の話

旧暦8月15日の夜が十五夜、今年は9月18日に当る。
八幡宮や八幡神社の例祭がこの日であることが多かったが、現在は月おくれの9月15日の祭とするところが多い。

  石清水すみける月の光にも昔の神を見る心地する  後鳥羽院

十五夜では、縁側に月見だんごや柿の実やすすきなどを供え、江戸時代のころから江戸の庶民の風流な行事とされた。江戸のやり方が全国に広まりつつあるようではあるが、地方の習慣では、供えるのは、だんごではなく里芋であることが多い。すすきでなく稲穂である例もある。和歌山県西牟婁郡では、高い竿の先に稲穂と芋を結びつけて庭先に立てるという。月に届くかのような高い竿ではあるが、竿自体は神の依代だと考えられているらしい。元は稲の収穫祭ではないかとも言われる。沖縄では、十五夜の前後の旧暦8月には、祖霊の祭と稲の収穫祭が行なわれるそうだ。

芋に着目してゆくと、稲作以前の、芋栽培の収穫祭ではないかという見方もある。十五夜の里芋(またはだんご)は、子どもたちが盗んでも良いとされてきた。もとは大人が盗んでも良かったらしいが、その場合、量に制限があり、盗んだしるしに藁づとなどをその家に置いて来なければならないなどのルールがあった。盗まれた家からすれば、神に供えた芋を神が持ち去ったものと考えて、喜ばしいこととされたという。

あるいは、正月の雑煮が餅でなく里芋が主だった地方があり、十五夜にも里芋を食べた。雑煮の餅が四角でなく、丸い餅の地方では、もとはそういう「里芋の文化圏」だったような傾向もあるらしい。
芋のなかでも特に里芋が好まれるのは、里芋の葉にたまった露が七夕で月の神に供えられたこととも関係しているのだろう。(七夕の記事を参照)

  月ごとに見る月なれど このつきの今宵の月ににる月ぞなき 村上天皇

(「つき」は杯の意味の古語の「つき」を掛けていて、杯に映った月を見ている風情である)
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重陽の節句

9月9日は重陽の節句。といっても今はあまりぴんと来ません。この日が誕生日の男性で「重陽」と命名されシゲアキと読ませる、そういう人がいたことを思い出すくらいです。

けれど江戸時代の江戸の庶民のあいだでは、この日に菊の花を鑑賞し、長寿を祈る菊酒もいただくということが盛んだったようです。
もともと大陸の陰陽道などによって奇数の数字を吉として、それが重なる9と9でこの日が最高の吉日とされ、五節供の一つとされるので、年中行事の解説書には必ず載っています。

  長月の九日ごとにももしきの八十氏人の若ゆてふ聞く  (古今十帖)

古くから京都の貴族には浸透していた行事だったようです。江戸時代に庶民にも広まりましたが、明治時代に新暦が導入され、新暦の9月は菊の季節ではなくなったために廃れたのだろうといわれます。9という数字が重要な意味をもっていたために、七夕のように月後れで行なうのも不自然と思われたとか。

大陸伝来の行事なのですが、日本の独自な信仰も少し見られます。

一部の地方では旧暦のこの日を「刈り上げ節供」と呼んで、収穫のお祭でした。長崎県の「長崎くんち」というお祭の「くんち」とは9日のことで、もとは旧暦9月9日のお祭だったようです。

平安時代の京都では、「菊綿(きくわた)」と称して、8日の夜に綿を菊花にかぶせておくと、綿に露と菊の香が染み込み、その綿で9日の朝に肌を拭くと若返るといわれ、その菊綿は贈物にもされたそうです。七夕の里芋の露の話に似ています。「綿」が使用されるのは、この日から冬物の綿入れを着るからだといい、一種の衣更えの行事でもあったとか。
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ななばんげ

盆迎えのころの子供たちの行事には、青森県の「草ねぶた」などがあります。
子供たちが木の枝の先に灯籠を下げて七晩家々を廻り、七日目にそれを海に流すという行事だということです。
北海道で村の子供たちが、八月七日(または七月七日)の夕方に集り、竹に短冊と灯籠をさげて持ち、笛太鼓で囃し、歌いながら村の家々を巡ってローソクをもらうというローソクもらいも良く似た行事です。
青森県の「ねぶた」は、どんどん規模が大きくなって大きなお祭になっています。

木曽義仲の故郷の長野県日義村では、「だっぽしょう」といって、お盆迎へのころ、里の子供たちが行列を組んで行進し、山吹山の山頂で花火をあげるそうです。花火が盆の迎え火のようなものなのでしょう。

北関東などでは「七晩げ」という行事があります。検索したら「桐生の方言」というサイトしか出ませんでしたが、その説明によると「しちばんげ バンゲは夕方のこと 夏土用の一週間を言い藁を束ねて家の前で燃やしこれに暖まるとハヤリヤマイにかからない」とあります。
埼玉県北部では、同様のものをナナバンゲと言っているようです。晩は夕方のことですが、ゲの意味は不明としたほうが良いでしょう。これも盆迎えの行事が変化したものらしいのです。
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死に水と生き返らせる水

井之口章次著『日本の葬式』(ちくま文庫)は、死に水をはじめとした葬式関連の習俗や俗信の調査事例をもとに、日本人の死生観について述べた本です。

普段、手を洗ったあと水を拭かずにパッパッと水を切るような動作をするのは、縁起が悪い、その水が人にかかると親の死に目に会えない、という俗信があります(最近はないかもしれませんが)。
それは、水のかけかたが、一部の地域に残る死に水のかけかたと同じだからだろうといっています。死に水は、近親者が箸の先につけた白い布に水を浸して亡くなった人の口に含ませるのが一般的なやりかたです。しかし徳島県で、顔に水を吹き掛けて「○○さん戻るか」と声をかけるという調査報告があり、魂を呼び戻すための水と考えるべきということになります。
死にかかった身体から抜け出した魂を呼び戻すための呪法があり、びっくりした子供に対して、「沖縄ではマブイ(魂)の抜けた子供にマブイツケルとき、茶碗の水を子供の額につける」のも同様の意味だろうというわけです。

同書では、葬儀についてのいろんな習俗が、じつは生き返らせるための呪法だったという指摘が多く、日本人の死生観を改めて考えさせられる本でした。

昔は原因不明とされる病気も多く、若い人でも突然に死が訪れることも少なくなかったのでしょう。それで魂を呼び戻す方策がいろいろ考えられたことでしょう。
けれどそれで生き返ることがなかったという経験の積み重ねによって、死に水は「末期の水」、諦めてお別れするための水という解釈になっていったのかもしれません。

この本は途中まで読んで休止しています。読むほうにとっては「生き返らせる」というのが現世への執着を意味するように感じられることがあったからです。
もう少し諦めの段階に入って、別の次元へ生き返らせること。そして亡くなった魂の一部が次の世代の者にうまく継承されるようにすること。そういう観点からのものを読みたくなったためです。
けれどそういったことは、葬式の後、49日ないし50日の期間に行われることであって、葬式に関しては、著者の言うように、あれもこれも元は生き返らせるための作法だったという見方が正しいのでしょう。

20年くらい前までは通夜には黒い「喪服」ではなく、平服で参列するのが普通でした。それは生き返って欲しいということの表現だったわけです。葬儀になったら黒い服に変えて区切りを付けるという気分でした(喪服が黒になったのは戦後のことです)。
けれど最近はみんな黒い服で区別がなくなり、通夜や葬儀に始まり、50日や1年、3年……、区切りの諸行事の違いや区別もよくわからないという人が多くなってしまいました。
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