2005年8月の記事


51 手鞠唄、数え唄 2005/08/30 和歌
50 江戸・物売りの口上、七味唐辛子 2005/08/29 書評
49 峠の神の伝説と歌の神 2005/08/27 和歌
48 神話の森・神話浪漫館の構想 2005/08/26 書評
47 梟(ふくろう)の女王 2005/08/23 鳥の神話
46 鳥の名をもつ王 2005/08/22 鳥の神話
45 鳥装の人と神 2005/08/21 鳥の神話
44 鳥霊について 2005/08/20 鳥の神話
43 木地師の祖神、惟喬親王 2005/08/19 職業と神
42 女帝とその御製 2005/08/16 和歌
41 辞世の歌(戯作者などの) 2005/08/14 和歌
40 瓦職人と稲荷の神 2005/08/11 職業と神
39 鍛冶屋の神 2005/08/10 職業と神
38 油と八幡宮 2005/08/09 職業と神
37 敬語の力と歌の力 2005/08/08 和歌
36 須佐之男の詩 2005/08/06 日本の神
35 日本の神ランキング 2005/08/05 日本の神
34 天神さま、菅原道真 2005/08/04 日本の神
33 ななばんげ 2005/08/03 歳時記
32 木花之佐久夜毘売 2005/08/02 日本の神
31 須佐之男命 2005/08/01 日本の神


comments (0) | trackbacks (0) | Edit

手鞠唄、数え唄

こんな手鞠唄があるそうです。

一番始めは一の宮、
二は日光の東照宮、
三つ三河のお稲荷さん、
四はまた信濃の善光寺、
五つ出雲の大社、
六つ村々鎮守様、
七つ成田の不動様、
八つやはたの八幡宮、
九つ高野の弘法様、
十で東京招魂社

ある人の話では手まり唄以外の遊戯唄として同じ歌詞で歌われることもあるそうです。
「東京招魂社」とは、明治2年に東京九段に創建された神社のことで、その10年後には「靖国神社」と名を改めた神社のことです。歌のできた年代もそのころなのでしょう。
そこで一つ作ってみました。

一は 稲荷の狐さま
二は 鶏 お伊勢さま
三は 山王 お猿さん
四は 鹿の住む 春日さま
五は 牛頭天王 八坂さま
六つ ムカデは 聖神社
七は 
八は 八幡 鳩が飛ぶ
九は 熊野の やたがらす

動物と神さまの関係を読んではみたのですが、七ができていません。
神使として有名な動物で残っているのは、蛇や竜がありますが……
comments (9) | trackbacks (0) | Edit

江戸・物売りの口上、七味唐辛子

江戸売り声百景昔なつかしい物売りの声、豆腐売りや飴売りなどのほか、
バナナの叩き売りやガマの油売りの口上など。
それらをとりまぜて、寄席芸として寄席で演じているのが、宮田章司という人です。『江戸売り声百景』(岩波書店 岩波アクティブ新書)という本も出版されています。
珍しい内容の良い本です。

その中から七味唐辛子売りの口上を引用してみます。
七味とは何を入れるのかの説明にもなっています。

まず最初に入れますのは、武州川越の名産・黒胡麻が入ります、
続いて入れますのは、紀州は有田のミカンの皮、これを一名、陳皮(ちんぴ)と申します、
続いて入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子。
続いて入れますのは、東海道静岡は朝倉名産、粉山椒(こなざんしょう)、
四国高松の名産は唐辛子の粉、大辛中辛を決めて参ります。
大和の国の芥子の実が入ります、
最後に野州日光、麻の実が入りまして七色唐辛子。
大辛に中辛、家伝の手法。お好みに応じて調合いたします、
はいどうぞー!

百科事典などによれば他に、シソ、青海苔、生姜などが入ることもあり、七つが固定しているわけではないそうです。
最初は江戸両国の薬研堀の「からしや徳兵衛」が売り始めたものといい、江戸の蕎麦好きには欠かせないものとなりました。唐辛子そのものは豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに輸入されたものといいます。
日本三大七味唐辛子というのもあります。
江戸・薬研堀 七味唐辛子 善光寺・八幡屋礒五郎 京都・七味屋本舗

 青くてもあるべきものを唐辛子  芭蕉
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

峠の神の伝説と歌の神

奥州街道の白河の関所の付近を道路地図で見たら、福島県と栃木県の県境に、「境の明神」という神社が記載されていた。地図をよく見ると福島県側なので「平成祭データ」で調べると、「福島県白河市字明神前 境神社」とある。けれどそれ以上の記述はなく、この資料で記載が少ないのは小規模の社であることが多く、そのような社なのだろうと思った。

その後、和歌山市にもある玉津島神社の分布を調べたとき、栃木県那須郡那須町寄居に、「玉津島神社 通称 境明神」という神社があることがわかった。地名辞書で調べると、奥州街道の下野と奥州の境の南北に2つの「境の明神」という小祠があるらしい。今の境神社と玉津島神社のことだろう。

和歌山市の玉津島神社は、平安時代から「和歌の神」としてよく知られる。歌枕にもなり、都の雅びな人に好まれ、多くの歌が詠まれた。そんな神社が、なぜ辺鄙といわれた奥州の入口に祀られるのだろうか。だが、その理由は難しいことではない。
もともと関所のおかれたような峠や湊では、土地の神に通行を許してもらうための歌が詠まれたのである。役人のいる関所に限らず、峠や交通の要所などでは、土地の神をたたえる歌を詠まなければ通してもらえなかった。「歌語り風土記」には、そのような歌がおそらく数百単位で載せてある。なかでも紀貫之が玉津島神社参詣の帰りに、和泉国の蟻通明神で馬が動かなくなったときに詠んだ歌は、こんな歌である。

  かき曇りあやめも知らぬ大空に有りとほしをば思ふべしやは  紀貫之

暗く曇った空にも有ると、星のことを思うべきだ、という意味の歌だが、「有りと星」とは「ありとほし(蟻通し)」を掛けている。単に「ありとほし」の名を巧みに詠み込んだだけの歌と見てしまいがちだが、このような歌を神に奉納しなければ通れない場所だった。
もう一つ、峠の神にものを手向けた有名な歌。菅原道真が上皇の吉野行幸に従ったときの歌である。

  このたびは幣も取りあへず、手向山、紅葉の錦、神のまにまに  菅原道真
  (この度の旅には手向の幣はあへて供へません。といふのは、この山の見事なもみぢ葉に優るものはないからで、どうぞこの紅葉の葉を御心のままにお受取り下さい)

峠(たうげ)という言葉は、「手向(たむけ)」という言葉が音便化した言葉であり、神に手向けをしなければならない場所という意味である。手向けるものの中で特に重要なものの一つに、歌がある。

白河の話にもどって、荻上紘一氏がこんなことを書かれている。
「白河の関は2箇所にあったので「二所の関」といわれている。片方だけ訪ねたのでは片手落ちになるので、そのもう一方といわれる栃木県との県境にある「境の明神」にも行ってみた。玉津島神社と住吉神社が並んでいるが、福島県側には「福島県側が玉津島神社、栃木県側が住吉神社」と書かれており栃木県側には「栃木県側が玉津島神社、福島県側が住吉神社」と書かれている。一体どうなっているのだろうか。」http://svrrd2.niad.ac.jp/faculty/ogiue/tabinikki/nasu.html

白河市には「住吉神社」という名の神社は前述の資料にはなく、この「住吉神社」とは冒頭に述べた「境の明神」のことだろうと思う。住吉の神は海上交通の神ともされるが、玉津島の神と並ぶ「和歌の神」でもある。柿本人麻呂をまつる柿本神社を加えて「和歌三神」ということもある。それはともかく、境の神として住吉神社が祀られるのも、歌の神だからなのだろうと思う。

中山道の信濃から美濃へ越える神坂峠(みさか)は、日本書紀によるとヤマトタケルの尊が難儀した場所である。、尊は白狛に導かれてこの峠を越えることができたという。この白狛は神坂社の使だという(似た話は埼玉県の三峰神社にも伝わる)。神坂社は長野県下伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平にあり、通称「住吉社」とも呼ばれ、表筒男命以下の住吉三神を祭神としている。ある本では、宗像系の安曇族が通過した跡だからこの神が祭られたのだろうと書かれるが、しかし峠を通過した部族は数知れず、ここは素直に「歌の神」だからとしたほうが良いだろう。
(この文の主要部分は半月前の発想だが、神坂峠の例を知って確信が持てたので、書上げてみた。峠に祭られる歌の神の例は、探せばもっと出てくるだろう)
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

神話の森・神話浪漫館の構想

7〜8年前に「歌語り」という表現形式に着目して、いくつかの執筆計画を立てた。平成10年に『歌語り日本史』を仕上げて印刷し、『歌語り風土記』『歌語り歳時記』の三部作のうち、『歌語り風土記』は印刷物ではなくweb上へアップしたのが平成14年である。これはひとことでいえば地方神話のカタログである。地方神話の再構成とまではいっていない。
『歌語り歳時記』は一時単独のブログで始めたが、方針を変更してこの『神話の森のブログ』の中で展開される予定。いわゆる歳時記的なもののほか生死の問題や天体気象、動植物そのほか。

ほかに『日本の神話』と題して、古事記と日本書紀を合体させて口語訳で述べて、他の文献で補うというもの。これもweb上にアップして、関連する項目は『歌語り風土記』などへリンクするかたちが良いと思う。とりあえず、ちかぢか古事記の口語訳のみをアップして、あとで書紀の内容を追加してゆくことになる。口語訳の原稿はかなりできているのだが、漢字のよみがなをつけたり、簡単な注釈を付けるのに手間取っている。
さらに個人的に芸能芸術論と創作集なども別に考えている。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

梟(ふくろう)の女王

古事記によると、第22代の清寧天皇に皇子がなかったので、次の皇位継承者について、飯豊王(いひとよのおう)に問うたという。飯豊王は履中天皇の皇女である。
飯豊王は、播磨国に履中天皇の孫の皇子が二人生存していることを告げたようである。二人の皇子は飯豊王の甥でもあり、意祁王(おけのおう)、袁祁王(をけのおう)という。二人の皇子は播磨国で発見され、飯豊王の宮である葛城の忍海の高木の角刺宮(つのさしのみや)に住んで成長されたという。

次の天皇が決まるまでの間、飯豊王は、女帝として即位していたのではないかともいわれて、飯豊天皇と書く中世の文献もある。少なくとも次の天皇を決めるほどの立場にあり、養育の責任も負ったことになる。聡明な女性であったにちがいない。皇子の生存を予言したことから、すぐれた宗教的な立場でもあったようである。

ところで、イヒトヨという名前は、文字で書くと飯豊で穀物の稔り豊かな意味のようでもあるが、『和名抄』によると、鳥のフクロウのことだという。
フクロウは、ヨーロッパでも知恵の象徴とされ、夜の鳥であることから、死の国・異界とのなかだちをするともいわれる。フクロウの生態はどこの国でも同だろうから、日本でも同様に解されるのだろう。ヨーロッパでは死の国=不吉という面が強調されることもあるが、日本では異界と交信する鳥として見られたようである。

ちなみに前回記事でふれたミミヅクも、フクロウと同類の鳥である。
ふくろうの総て 古典に見る・日本
comments (3) | trackbacks (0) | Edit

鳥の名をもつ王

16代の仁徳天皇は、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)という名前で、サザキとはミソサザイのことである。古事記では漢字表記が異なり「大雀命」と書かれる。

日本書紀によると、天皇がお生まれになる日に、産殿に木菟(みみずく)が飛び入った。
翌朝父帝の応神天皇が、何の瑞兆だろうと大臣の武内宿禰に聞くと、大臣は「まさに吉祥です。昨日の同じ日に私の妻も出産し、ミソサザイが産屋に飛び入りました。これもまた吉祥」と申し上げた。
天皇は、同じ日に生まれたとは益々目出度いこととお喜びになり、「その鳥の名を交換して子に名づけ、後の世の契りとしよう」と仰せになった。
そして皇子は「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」と名づけられ、大臣の子は木菟宿禰(つくのすくね)と名づけられた。

以上が日本書紀の話だが、産殿に鳥が飛びこむのは、子どもの霊を鳥が運んできて生まれたと理解されたからだろう。仁徳天皇の霊は木菟が運んだが、名前を交換したために、大鷦鷯の名になったという。東アジア方面では結友のしるしに名前を交換する習俗が少なくないというが、応神天皇も成人後に名前を交換した話がある。

古事記をみると、大雀命の弟に根鳥命という人がいる。また異母兄弟に、木之菟野郎女、女鳥王、速總別命、大羽江王、小羽王という名前が見える。
速總別命(はやぶさわけのみこと)が生まれたときも、産殿にハヤブサが飛びこんだのだろうか?

仁徳天皇陵は大阪府堺市にあるり、百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)と呼ばれる。崩御されたあとの御霊は、モズが運び去ったのかというと、そうでもなさそうで、平林章仁氏によると、古墳を造成するときに土地の地主神の霊をモズに託して立ち去ってもらったことからくる名前だろうという。
倭建命は亡くなって白鳥になったというが、こちらは白鳥陵古墳といっている。

17代の履中天皇陵は、近くの百舌鳥耳原南陵石津丘古墳とされるが、通称「ミサンザイ古墳」というらしい。ミサンザイとはミソサザイに似た言葉だが、陵のことをいうミササギのことだろう。古くはミサザキといったらしい。場所の離れている神武天皇陵も「山本ミサンザイ古墳」といい、仲哀天皇陵は「岡ミサンザイ」、宣化天皇陵は「鳥屋ミサンザイ古墳」という。
http://www58.tok2.com/home/miyosida/kofun/tennouryou.html
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

鳥装の人と神

日本書紀神代上巻によると、大国主命の前に現われた少彦名命は、
「白斂(かがみ)の皮を以て舟に為り、鷦鷯(さざき)の羽を以て衣にして、潮水の隨に浮き到る。」
とある。鳥の羽を着ていたわけである。(ヤマカガミ=白蓮 鷦鷯=ミソサザイ のこと)

神武天皇の東征のとき吉備国を出発すると、
「亀の甲(せ)に乗りて、釣為つつ打ち羽挙(はぶ)き来る人、速吸門に遇ひき。」(古事記)とある。
羽ばたいていた人に出会ったわけである。

神功皇后が熊襲を討とうとしたとき、
「荷持田村に羽白熊鷲といふ者あり。……身に翼ありてよく飛びて高く翔ける。」といい、大和に従わなかったという。翼があって実際に高く飛んでいたということは、鳥人なのかもしれない。

清水風遺跡各地の弥生時代の遺跡から出土した土器などに、鳥装の人の絵が描かれる。
奈良県田原本町の清水風遺跡出土の土器片に描かれた巫女と戦士の絵のスケッチがある。
右の楯を持つ戦士像は、頭に羽根をつけ、足の指が3本に見える。
左の巫女像は、大きな羽根をかざしている。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/005/re_005_040529.htm

『鹿と鳥の文化史』(平林章仁)によると、鳥装のシャーマンは世界中に広がって存在したという。ヨーロッパの伝説をもとに作られたというモーツァルトのオペラ『魔笛』にもパパゲーノという森に住む鳥装の人が登場することを思い出した。鳥が死後の世界と行き来できたように、鳥装のシャーマンも、あの世とこの世を行き来できるということなのだろう。
上記URLの解説では、穀物の種を運ぶ鳥や、鳥が餅に化ける伝説の話から、穀物の豊穣との関連を中心に述べているが、葬儀や戦争そのほかにも鳥装の人が深く関わっていたようである。
comments (2) | trackbacks (0) | Edit

鳥霊について

以前にもふれた吉成直樹著『俗信のコスモロジー』から抜き書きしておいたもの - - -

幼児の死を「トリツバサになった、トリツバサにする、鳥に飛ばす、鳥が飛んだ」という。
幼児の葬式は簡単に済ませ、祭はせず、墓にも埋めない。早く別のものに生まれ変わってほしいから供養はしない。

鳥は異界との間を往復する。人は死後に鳥になると信じられた。
古墳の副葬品の鳥形木製品、鳥の埴輪土製品、魂を乗せて飛び立つ。
福岡県鳥船塚古墳の壁画に 船の舳先に鳥。鳥取県では 鳥装の舟人。(天鳥船)
天稚彦の葬儀でのさまざまの鳥の役割。日本武尊が白鳥になったこと。

葬式の次の晩に盆に灰を敷き、翌朝には灰の上に鳥の足跡がつく(蛇、蝶、人の跡とも)。これによって死後に鳥になった、蛇になったと占う。
盥に水を入れ、親族それぞれが笹舟を浮かべ、どの笹舟に乗ってあの世へいったかを占う。天鳥船である。

産屋を鵜の羽で葺き、全部葺かないで残しておくのは、鳥の霊を招き入れるため。
人は生まれる前も鳥だった。今でも生まれてすぐの子の死で鳥になるとされることがある。幼児はいつでも生まれる前の姿に戻ってしまう。

間引き 生まれてすぐ首を絞め、泣いたらトリツバサになる、泣いたら人間になるので絞められないという。
正月に死んだ女は七人ミサキになる。七体の人形とともに埋めて供養する。
鳥のほか、蛇や犬を、自らの先祖とする家系がある。

子供が死んで鳥になる昔話は多い。小鳥前世(分類名)、「馬追鳥」「山鳩不幸」。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

木地師の祖神、惟喬親王

平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)は、母は紀氏でしたが、即位することはありませんでした。清和天皇が九歳で即位され、外祖父の藤原良房が人臣初の摂政となった時代です。
親王は太宰帥などの地方官を歴任し、貞観十四年(782)、二十八歳で出家して、比叡山の麓の小野の里に住んだといいます。

  桜花、散らば散らなむ。散らずとて、ふる里びとの来ても見なくに  惟喬親王

伝説では、親王は近江国の君ケ畑などに住み、老木からお椀などを作ることを考案され、轆轤挽(ろくろびき)の方法を考案しました。その技法は木地師に受け継がれ、そこから木地師は全国にちらばって木地製品を広めたのだといいます。親王は木地師たちに祖神として崇められ、掛け物にも描かれます。

お椀のほか、こま、盆、こけしなども、木地師が木を回転させながら削って作ったものです。
木地玩具
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

  page top