奥州街道の白河の関所の付近を道路地図で見たら、福島県と栃木県の県境に、「境の明神」という神社が記載されていた。地図をよく見ると福島県側なので「平成祭データ」で調べると、「福島県白河市字明神前 境神社」とある。けれどそれ以上の記述はなく、この資料で記載が少ないのは小規模の社であることが多く、そのような社なのだろうと思った。
その後、和歌山市にもある玉津島神社の分布を調べたとき、栃木県那須郡那須町寄居に、「玉津島神社 通称 境明神」という神社があることがわかった。地名辞書で調べると、奥州街道の下野と奥州の境の南北に2つの「境の明神」という小祠があるらしい。今の境神社と玉津島神社のことだろう。
和歌山市の玉津島神社は、平安時代から「和歌の神」としてよく知られる。歌枕にもなり、都の雅びな人に好まれ、多くの歌が詠まれた。そんな神社が、なぜ辺鄙といわれた奥州の入口に祀られるのだろうか。だが、その理由は難しいことではない。
もともと関所のおかれたような峠や湊では、土地の神に通行を許してもらうための歌が詠まれたのである。役人のいる関所に限らず、峠や交通の要所などでは、土地の神をたたえる歌を詠まなければ通してもらえなかった。「歌語り風土記」には、そのような歌がおそらく数百単位で載せてある。なかでも紀貫之が玉津島神社参詣の帰りに、和泉国の
蟻通明神で馬が動かなくなったときに詠んだ歌は、こんな歌である。
かき曇りあやめも知らぬ大空に有りとほしをば思ふべしやは 紀貫之
暗く曇った空にも有ると、星のことを思うべきだ、という意味の歌だが、「有りと星」とは「ありとほし(蟻通し)」を掛けている。単に「ありとほし」の名を巧みに詠み込んだだけの歌と見てしまいがちだが、このような歌を神に奉納しなければ通れない場所だった。
もう一つ、峠の神にものを手向けた有名な歌。菅原道真が上皇の吉野行幸に従ったときの歌である。
このたびは幣も取りあへず、手向山、紅葉の錦、神のまにまに 菅原道真
(この度の旅には手向の幣はあへて供へません。といふのは、この山の見事なもみぢ葉に優るものはないからで、どうぞこの紅葉の葉を御心のままにお受取り下さい)
峠(たうげ)という言葉は、「手向(たむけ)」という言葉が音便化した言葉であり、神に手向けをしなければならない場所という意味である。手向けるものの中で特に重要なものの一つに、歌がある。
白河の話にもどって、荻上紘一氏がこんなことを書かれている。
「白河の関は2箇所にあったので「二所の関」といわれている。片方だけ訪ねたのでは片手落ちになるので、そのもう一方といわれる栃木県との県境にある「境の明神」にも行ってみた。玉津島神社と住吉神社が並んでいるが、福島県側には「福島県側が玉津島神社、栃木県側が住吉神社」と書かれており栃木県側には「栃木県側が玉津島神社、福島県側が住吉神社」と書かれている。一体どうなっているのだろうか。」
http://svrrd2.niad.ac.jp/faculty/ogiue/tabinikki/nasu.html
白河市には「住吉神社」という名の神社は前述の資料にはなく、この「住吉神社」とは冒頭に述べた「境の明神」のことだろうと思う。住吉の神は海上交通の神ともされるが、玉津島の神と並ぶ「和歌の神」でもある。柿本人麻呂をまつる柿本神社を加えて「和歌三神」ということもある。それはともかく、境の神として住吉神社が祀られるのも、歌の神だからなのだろうと思う。
中山道の信濃から美濃へ越える神坂峠(みさか)は、日本書紀によるとヤマトタケルの尊が難儀した場所である。、尊は白狛に導かれてこの峠を越えることができたという。この白狛は神坂社の使だという(似た話は埼玉県の三峰神社にも伝わる)。神坂社は長野県下伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平にあり、通称「住吉社」とも呼ばれ、表筒男命以下の住吉三神を祭神としている。ある本では、宗像系の安曇族が通過した跡だからこの神が祭られたのだろうと書かれるが、しかし峠を通過した部族は数知れず、ここは素直に「歌の神」だからとしたほうが良いだろう。
(この文の主要部分は半月前の発想だが、神坂峠の例を知って確信が持てたので、書上げてみた。峠に祭られる歌の神の例は、探せばもっと出てくるだろう)