大国主神の5つの名

古事記によると大国主神には5つの名があるという。

「大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り」

これらの5つの名については、古事記の物語の場面によって、使い分けられているような印象があったので、あらためて確認してみることにした。

以下は、古事記の話の概要を知っていることが前提で、余計な説明は付けないので、知らない人にはわかりにくいかもしれない。〈〉内は現代の本で章や節に分けたときの見出し名。

(1)大国主神(おほくにぬしのかみ)  系譜、国作り、国譲り 
 いわば「公的」な場面での名といえる。
 〈系譜〉〈国譲り〉の話では、この大国主神の表記のみである。〈国作り〉でも多い。
 〈稲葉の白兎〉の冒頭で、兄弟に八十神ありという系譜的な表現。
 〈大国主神の末裔〉は系譜そのもの。
 〈少彦名と国作り〉 基本は大国主神だが、例外あり。
 〈天菩日・天若日子〉は、系譜の部分(大国主神の女下照姫)もあるが、次の〈事代主神・建御名方神〉〈国譲り〉に続く前段でもある。

 〈根の国訪問〉で須佐之男命の言葉に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」とあるのは、国作りへの期待の表現か。
 〈須勢理毘売の嫉妬〉で歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とあるのは、「神」が付かず「吾が」がつき、親しみの表現か。「大国主神」とは違う。

(2)大穴牟遅神(おほなむちのかみ)  薬用、試練など。
 兄弟、叔母、妻、舅が登場する「私的」な場面での名。
 〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、大穴牟遅神。兄弟と叔母が登場。
 2つの話に共通するのは、試練と薬用による健康の回復の話であるということ。
〈根の国訪問〉も試練の話なので、基本は大穴牟遅神。最後は妻と舅の関係。
〈少彦名と国作り〉で、「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき」とある。二神は「兄弟」。

(3)葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)  根国、または高天原からみた呼び名
 〈根国訪問〉 根国の須佐之男命が「こは葦原色許男ぞ」と確認。
 〈国作り〉 高天原の神産巣日神が、少彦名に「葦原色許男と兄弟となりて」と命ず。
 根国、高天原から、別空間である「葦原(の中つ国)」をみている。

(4)八千矛神(やちほこのかみ) 求婚の場面
 〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉の場面のみ、八千矛神となる。
 矛にせくしゃるな意味もあるのかもしれない。

(5)宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
 〈根国訪問〉 国作りの神の美称的表現か。(1)を参照。

物語の順序に従って、次に整理してみる。

 冒頭は、「大国主神」。
〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、「大穴牟遅神」。
〈根の国訪問〉も、「大穴牟遅神」。
  須佐之男命は「こは葦原色許男ぞ」と確認。
  脱出のとき須佐之男命に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」と言われるのは、国作りへの期待のためか。

〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉では、「八千矛神」。
  須勢理毘売の歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とある。「日子遅の神」というのもあるが5つに含まれない。

〈大国主の末裔〉は、系図の記述で、「大国主神」。
〈少彦名と国作り〉では、基本は「大国主神」。2つ例外あり。
  神御産巣日神の言葉に、少名毘古那神と「葦原色許男命と兄弟となりて」とある。
  ほかに「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばしてこの国を作り堅め」とある。
〈天菩比〉〈天若日子〉では、「大国主神」。
〈事代主神 建御名方神の服従〉〈大国主神の国譲り〉では、「大国主神」。

※ 日本書紀も確認してみたほうが良いかもしれない。
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「老い」について

「老い」についての短い随筆を集めた本があったので、拾い読みしてみた。
(作品社『日本の名随筆 34 老』)

作家そのほか沢山の人のエッセイなどが収録されているが、どれから読むべきか。やはり今までに好感をもって読んだことのある著者のものということになる。

吉行淳之介「年齢について」
七十幾歳の男女の恋愛の実例の話が出てくる。著者の知人の七十幾歳の女性から聞いた話で、逢引きの様子などを、微笑ましく綴っている。このように人は老いても変らない情熱を持ち続けることができるのだから、実際にそういう行動をとるかは別に、一般的に、老いを悲観することはないということらしい。そんな噂話に熱中する年配女性についても微笑ましく描いている。

山本健吉「ちかごろの感想」
シリアスな話だった。
「老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。」という書き出しで、重い話が続く。
確かにそういう面はあると思う。そういう「心の錯乱」は、常に抑えられ鎮められているのだろう。そして心はどのように対応したら良いのかという、実利的な結論を期待してしまったのだが、途中から万葉歌人の山上憶良の話になる。「老い」をテーマに書いたというのではなく、憶良についての解説を依頼されて執筆された小文の冒頭が、上記のようになったということだろう。

團伊玖磨「義歯」
 総入れ歯を飲み込んでしまった老人の話。すぐに医者に駆け込むと、医者は平然として、日数はかかるが一週間か十日で出てくるでしょう、心配はいらないという。その通りになったらしい。慌てず騒がずが良いのだろう。 ちなみに小さな差し歯なら、一日か二日で出てくると思う。

次に読もうと思ったのは石川淳だが、永井荷風の死にあたっての追悼の文章のようで、荷風についての文学論が主題と思われ、いったん本を閉ぢた。
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餅なし正月とサトイモ

 「餅なし正月」とは、民俗学用語であるが、正月に餅を食べず、もっぱら里芋(さといも)を食べて祝う地方の民俗のことという。
 サトイモについて、最近知ったことは、畑の里芋と、田のサトイモ(田芋)と、2種類があるということである。吉成直樹『沖縄の成立』によると、田芋は水田で栽培され、東南アジア方面から北上して沖縄にもたらされたものだろうという。
 万葉集(3826)に次のような歌もある。長意吉麻呂(ながのおきまろ)の諧謔の歌。

 蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの 意吉麻呂が家なるものは宇毛(うも)の葉にあらし

 歌の意味は「(理想の女性とは)蓮の葉のような佇まいのものであって、そこへいくと我が家のものは、まるで芋(うも)の葉だ」となる。
 吉成氏によると、ウモはオーストロネシア語に由来する言葉なので、この歌のウモは南方から来たものであり、万葉時代以前に沖縄を経由して大和にも伝わっていたことがわかるという。文脈が少しわかりにくいのだが、イモでなくウモと呼ばれたことに着目したのだろうか。ただ、それなら、魚のことを和語でウヲともイヲともいうので、発音の転訛の可能性も考えないといけない。
 それよりも、蓮の葉と芋の葉とを、同列に比較しているという点が重要だ。似たところが多いから、同列に対比できるのだろう。どちらも水中から葉を出し、根が食用になる。誰もが知っている共通点がいくつもあるが、見栄えが違うので、洒落の効果も大きくなる。
 いづれにせよ、水田のサトイモは、万葉時代の大和でも普通に見られるものだったようである。
 芋で祝う正月とは、稲作が普及する以前からの民俗だとする説がある。一方、その分布を調べると、稲作文化圏にしか存在しないので、稲作文化の一つではないかという説もある。そこで思うのは、「稲作文化の一つ」ではなく「水田文化の一つ」なのではなかろうか。それなら両方の説が矛盾せずに成り立つ。
 水田は、稲も作れば、田芋も作る。古くからあるのは、もちろん田芋だが、田芋しか作らない田でも、良い種籾が手に入れば、水田稲作はすぐにできる状態なのだろう。
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「うどん正月」

「うどん正月」という言葉があるのかどうか知らないが、我が家の隣りの集落では、正月は主にうどんを食べるといっていた。我が家の近隣でもそういう家は多かったらしい。ただ、私の子ども時代はそういう記憶はあまりないのだが、忘れたのか、そういうことが少なかったのかだが、旧上層農民や公務員などは少なかったかもしれない。
市内F地区では、米が獲れる所ではなかったので、主食はウドンや煮ぼうとう、ツメリッコ(すいとん)などだったと、U氏が言っていた。関東地方はおおむね畑作地帯なので、そういう家が多かったのではないかと思う。
戦後に「貧乏人は麦を食え」と言われた時代もあったが、高度成長期に米食が普及していった後も、正月などのハレの日の食べ物だけは変らないというのは、一般的に多い。
米を多く食べなかった時代は貧しい時代だったのだと、人々が意識するようになれば、人はそのことを語らなくなり、記憶から消えてしまうこともある。

有名な学者の対談で、日常食として米食が定着したのは江戸後期以後ではないか、ある山村では戦時中の配給米で初めて米を口にしたという報告もあると言っていた。祭などの共食の場ではなく、隣人の私生活での食事内容については、知らないのが普通だ。普通の人々が、ふと思い出話として、つぶやくような機会にしか知ることはできない。正座して対面して質問事項を読み上げても、本当の答えは得られないだろう。江戸時代から都市部では米の消費量は多かったらしいが、地方では土地によってさまざまだったろう。定着とか普及とかいっても、その定義が曖昧なままでは意味がない。学者やインテリには上層民が多いが、そうでない人が米ばかり食べてきたわけではないことくらいは、頭に入れておかないといけない。

東京下町の地域行事で水団がふるまわれたとき、珍しい物なので、若い人も、おいしい、おいしいと言って食べていたそうだが、おいしいのは良質のカツオダシなどをふんだんに使っているからであって、終戦直後に食べたスイトンほど不味いものはなかったと言った人があった。美味か不味いかは個人の主観なので、なんともいえないが、本当に不味かったのかもしれないし、料理に時間をかけられないほど忙しく働いた時代だったのかもしれない。
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