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  口訳・常陸国風土記



◆ 序  「衣手、常陸の国」


 常陸の国の(つかさ)が申し上げます。古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語を。
 古へは、相模の国の足柄の(やま)より東の諸々の(あがた)は、すべて吾妻の国といってゐたもので、常陸といふ名の国もなかった。ただ新治(にひばり)筑波(つくは)茨城(うばらき)那賀(な か)久慈(く じ)多珂(た か)の小国には、朝廷より(みやつこ)(わけ)が派遣されてゐた。
 後に、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、高向(たかむこ)臣や中臣幡織田(はとり だ)(むらじ)らを派遣し、足柄の坂より東を八国として総轄統治せしめた。その八国の一つが、常陸の国である。
 行き来するのに、(うみ)を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いてゐるので、まっすぐ行ける道、つまり直通(ひたみち)といふことから、「ひたち」の名がついたともいふ。
 また、倭武(やまとたける) の天皇が、東の(えみし)の国をお巡りになったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水をお褒めになり、そして手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったともいふ。諺に、「筑波嶺(つくば ね)に黒雲かかり、衣手(ころもで)ひたちの国」といふ。

常陸の国は、国広く、山も遥かに、田畑は肥え、広野の拓けた良き国である。海山の幸にも恵まれ、人々は安らぎ、家々は満ち足りてゐる。田を耕し、糸を紡ぐ者たちには、貧しき者はない。左方の山では塩が取れ、右方の海では魚が取れる。また、後方の野には桑原が広がり、前方の原には麻が栽培されてゐる。海川山野の幸の豊かなところである。ただし(湿地が多く)水田は上質のものが少ないので、長雨が続くと、苗が育たないことがある。程よい日照りがあれば、穀物の実りは充分豊かである。

◆ 一、新治郡 「白遠ふ新治の国」 

   ……油置売ほか(中西部、小貝川中流 郡家=下館の東の協和町付近)

昔、美麻貴の天皇(崇神天皇)の天の下知ろし食しし御世に、東国の荒ぶる賊たちを言向けようと、新治の国造の祖先となったひならすの命を遣はした。ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を()ったことから、新治の名がついた。諺に「白遠(しらとほ)ふ新治の国」といふ。この井戸は今も新治の里にあり、季節ごとに祭が行なはれる。

 郡家(郡庁)より東五十里のところに、笠間(かさま)の村がある。村へ通ふには葦穂山(あしほ やま)を越えねばならない。葦穂山には昔、油置売(あぶらおきめ)の命といふ山の主(山姥)がゐた。今は森の中の社の石屋に眠ってゐる。こんな俗謡もある。

 言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)

(もし人に知られて辛くされたら、小初瀬山の石室にともに眠らねばならない。だから気持ちを押さへてくれ、私の恋人よ。)

◆ 二、白壁郡 

   (記載なし)(筑波山西北、真壁、明野あたり)

◆ 三、筑波郡 「握り飯、筑波の国」

   ……富士の神と筑波の神、歌垣など。(筑波山南西、毛野川(小貝川)郡家=筑波山南麓)

 筑波の県は、昔、()の国といった。美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女(うねめ)臣の一族が、筑箪(つくは)命を、この紀国の国造として派遣した。筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。諺に「握り(いひ)筑波の国」といふ。
昔、祖先の大神が、諸国の神たちを巡り歩いたときのことである。旅の途中、駿河の国の富士山で日が暮れてしまった。そこで福慈(富士)の神に宿を請ふと、「新嘗祭のために今家中が物忌をしてゐるところですので、今日のところは御勘弁下さい。」と断られた。大神は、悲しみ残念がって、「我は汝の祖先であるのに、なぜ宿を貸さぬのだ。汝が住む山は、これからずっと、冬も夏も、雪や霜に覆はれ、寒さに襲はれ、人も登らず、御食を献てまつる者もゐないだらう。」とおっしゃった。さて今度は、筑波の山に登って宿を請ふと、筑波の神は、「今宵は新嘗祭だが、敢へてお断りも出来ますまい。」と答へた。そして食事を用意し、敬ひ拝みつつしんでもてなした。大神はいたく喜んで歌を詠まれた。
 ()しきかも我がすゑ 高きかも神つ宮
 天地(あめつち)と等しく 日月(ひ つき)とともに 
 民草集ひ(ことほ)ぎ 御食(み け)御酒(み き)豊けく 
 代々に絶ゆることなく 日に日に弥栄え
千秋万歳に たのしみ尽きじ

かうして、富士の山は、いつも雪に覆はれて登ることのできぬ山となった。一方、筑波の山は、人が集ひ歌ひ踊り、神とともに飲み食ひ、宴する人々の絶えたことは無い。
筑波山は、雲の上に高く聳え、西の頂は、高く険しく、()の神(男体山)といって登ることは出来ない。東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。坂東の諸国の男女は、桜の花咲く春に、あるいは紅葉の赤染む秋に、手を取り連れ立って、神に供へる食物を携へ、馬に乗りあるいは歩いて山に登り、楽しみ遊ぶ。そして思ひ思ひの歌が歌はれる(歌垣において)。

 筑波嶺に 逢はむと いひし子は ()(こと)聞けば 神嶺(かむみね) あすばけむ

(筑波嶺の歌垣で逢はうと口約束したあの娘は?
 ちゃんと誰かの言葉を聞き入れて神山の遊びをしてゐるよ)

 筑波嶺に (いほ)りて 妻なしに
 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも

(筑波嶺の歌垣の後で宿りするのに、相手がなけりゃ?
 さっさと独りで寝れば、こんな夜はすぐに明けてしまふさ)

多くの歌があり、すべてを載せることはできない。諺に「筑波嶺の集ひに、妻問のたからを得ざれば、娘とせず」といはれる。


◆ 四、河内郡 

   (記載なし)(今のつくば市周辺)

◆ 五、信太郡(しだ)  

   ……葦原、乗浜など(南部、霞ヶ浦の西、竜ヶ崎市など、郡家=美浦村付近)

 郡より北十里のところに、碓氷がある。昔、大足日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)が浮島(うきしま)(とばり)の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部(うらべ)をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗(をぐり)の村にある。
 碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。昔、天地の初め、草も木も言葉を語ったころに、天より降り来たった神があった。名は普都(ふ つ)の大神といひ、葦原の中津の国(この付近のことらしい)を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和めた。それを終へて天に帰らうとして、身に着けてゐた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けてゐた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行った。(略)
諺に、「葦原の鹿の味は、腐ってゐるやうだ」といふ。山の鹿の肉とは味が違ふ。だから下総との国境の狩人たちにも、獲り尽くされることはあるまい。
 その里より西にある飯名(いひな)の社は、筑波の山の飯名の神を分祀したものである。
 ()の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる。(略)
 昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜(のりはま)に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。(略)
 乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでゐる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしてゐる。

◆ 六、茨城郡 「水泳る茨城の国」

   ……高浜に来寄する波…(中南部、 郡家=石岡市、国府も)

 昔、山の佐伯(さへき)、野の佐伯といふ国巣(く ず)(俗に「つちくも」または「やつかはぎ」)がゐた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでゐた。まるで狼か梟ででもあるかのやうに、あちこちに潜んでゐては、物を盗み、祭に招かれても様子がをかしく、風習がまったく異なってゐた。あるとき、(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。 諺に「水泳(みづくぐ)る茨城の国」といふ。
別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻ってゐた。彼らと戦ふために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城といふやうになった。

 郡の西南を流れる信筑(しづく)の川は、筑波の山に水源を発し、郡内をめぐって、東の高浜の海に注いでゐる。(略)この地は、花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かける。春には浦の花が千々に彩り、秋には岸の紅葉が百々に色づく。野辺に鴬は歌ひ、水辺に鶴は舞ふ。山里の男たちや海浜の娘たちが、次々に集まり、商人や農夫たちも舟を急がせて通ふ。夏には、朝夕に友を呼び、下僕を連れ、浜辺で海を眺めて過ごす。波を蹴立てて寄せる風に、暑さや気怠さを忘れ、岡の陰が長く伸びるころになると、涼しさもひとしほである。歌はれる歌は、

 高浜に 来寄する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

(高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せ来ても(他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。)

 高浜の 下風(したかぜ)さやぐ 妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも

(高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちがこみあげてくる。こんな私だのに。)

 郡より東十里のところに、桑原(くははら)の岡がある。昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食(み け)を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。

◆ 七、行方(なめかた)郡「立雨ふり、行方の国」

   ……夜刀の神、建借間命など(霞ヶ浦内の半島部 潮来から北、郡家=玉造町南部)

 昔、難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の白雉四年に、茨城の国造 小乙下 壬生連麿(みぶのむらじまろ)、そして那珂の国造 大建 壬生直夫子(みぶのあたひをのこ)らが、惣領高向大夫、中臣幡織田大夫たちに申し出て、茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里(面積のこと)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした。

 昔、倭武の天皇が、天の下を巡幸され、霞ケ浦より北を言向けられたとき、この国を過ぎ、槻野の清泉(いづみ)に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
 さらに車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。諺に「立雨(たちさめ)ふり、行方の国」といふ。また、この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられた。
 この丘を下り、大益河(おほや がは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。

 野の北には、(いちひ)(くぬぎ)、楓、桧などが密生する深い森がある。そこの(ます)の池は、高向大夫の時代に掘ったものである。北には香取の神の分祀された社があり、傍らの山野は土が肥え、草木も密生してゐる。
 郡の西の渡し場から望む行方の海には、海松や、塩を焼く藻はあるが、魚に珍しいものはなく、鯨も見ない。
 郡の東に土着の古い社があり、県の(かみ)と称へられてゐる。杜の中にある清水は、大井と呼ばれ、近くに住む者が、水を汲みに来て、飲料に当ててゐる。
 郡家の南の(かど)に一本の大きな槻の木が聳えてゐる。北側の枝は、地面に着くまで垂れ下がり、その先は再び空に聳えてゐる。この地は、昔、水の沢(沼)だったため、今でも長雨になると、庁舎の庭に水溜りができる。郡家の傍らの集落には橘の木も繁ってゐる。
 郡より西北に向ふと提賀(て が)の里がある。昔、この地に住んでゐた手鹿(て が)といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。里の北に香島の神を分祀した社がある。周囲の山や野は、土が肥え、栗、竹、茅などが多く繁ってゐる。提賀の里より北に、曾尼(そ ね)の村がある。やはり昔この地に住んでゐたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。

  ○夜刀(や つ)の神
 昔、石村(いはれ)玉穂(たまほ)の宮に大八洲知ろし食しし天皇(継体天皇)の御世に、箭括(やはず)氏のまたちといふ人があって、郡家より西の(やつ)の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀(や つ)の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでゐる。)
 それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に(しるし)の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司(かむづかさ)となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。以来またちの子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されてゐる。
 後に、難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世に、壬生連麿がこの谷を治めることになり、池の堤を築いた。そのとき、夜刀の神は、池のほとりの椎の木に登り群れて、なかなか去らなかった。麿は、声を挙げて「堤を築くのは民を活かすためでございます。天つ神か国つ神かわかり申さぬが、詔をお聞きください」といひ、さらに工事の民に、「目に見える動物、魚虫の類は、はばかり恐れることなく殺すべし」と言はうとしたときに、神蛇は逃げ隠れた。その池は、今は椎井の池と呼ばれる。池のまはりに椎の木があり、清水の出る井もあり、それを取って池の名とした。ここは香島への陸路の駅道である。

 郡より南へ七里のところに、男高(を だか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(を だか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。
 麻生(あさふ)の里には昔、沢の水際に麻が生へてゐた。その麻は、竹のやうに太く、長さ一丈に余りあるほどだった。椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
 飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生(おほふ)の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。
 郡家より南へ二十里のところに、香澄(か すみ)の里がある。古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(い なみ)鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。里の東の山にある社には、榎、槻、椿、椎、竹、箭、やますげが多く繁る。里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(を つくは)の山が見えることから、名付けられた。
 香澄の里より南十里のところに、板来(いたく)の村がある。近くの海辺の渡し場に駅家が置かれ、板来の駅家といふ。その西は榎の林になってゐる。飛鳥の浄御原の天皇(天武天皇)の御世に、麻績(を み)(おほぎみ)が、都を追はれて住んだ場所である。海には塩を焼く藻、海松、うば貝、辛螺、蛤などが多く住む。

  ○建借間の命
 昔、斯貴(し き)の瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あ ば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(く ず)夜尺斯(や さかし)夜筑斯(や つくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふ つ な)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、()く斬ると言った所が、吉前(え さき)の邑である。
 板来の南の海に、周囲三四里ほどの洲がある。春には香島や行方方面から男女が挙ってやって来て、蛤、うば貝その他いろいろの貝を拾ふ。

 郡より東北へ十五里のところに、当麻の郷がある。昔、倭武の天皇の巡行の折りにこの郷を巡ったとき、鳥日子(とりひ こ)といふ名の佐伯が、命に反逆したので、これを討った。そして屋形野の帳の宮に向かったが、車駕の行く道は、狭く、たぎたぎしく(凸凹してゐて)、悪路であったことから、当麻と名付けられた。野の土はやせてゐるが、紫が繁る。また香取、鹿島の二つの社がある。その周囲の山野には、檪、(ははそ)、栗、柴などが林をなし、猪、猿、狼が多く住んでゐる。

 当麻より南に、芸都(き つ)の里がある。昔、寸津比古(き つ ひこ)寸津比売(き つ ひめ)といふ二人の国栖がゐた。寸津比古は、天皇の巡幸を前にして、命に逆らひ、おもむけに背いて、はなはだ無礼な振る舞ひをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津比売は、愁ひ恐こみ、白旗をかかげて道端にひれ伏し、天皇を迎へた。天皇は憐れんでみ恵を下し、その家をお許しになった。更に乗輿を進め、小抜野(を ぬきの)の仮宮に行かれるときに、寸津比売は、姉妹をともに引き連れ、雨の日も風の日も、真の心を尽くして朝夕に仕へた。天皇は、そのねんごろな姿をお喜びになり、愛はしみになったことから、この野をうるはしの小野といふやうになった。

 芸都の里の南に()の里がある。息長足日売(おきながたらしひめ)の皇后(神功皇后)の御世に、この地の古都比古(こ つ ひ こ)といふ人物は、三たび韓国に遣はされた。その功労に対し、田を賜ったことから、その名となった。また波須武(は ず む)の野は、倭武の天皇の仮宮を構へ、弓筈(ゆはず)をつくろったことから、名づけられた。野の北の海辺に香島の神の分社がある。土はやせてゐて、檪、柞、楡、竹などがまばらに生へてゐる。
 田の里より南に相鹿(あふか)大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。

◆ 八、香島郡 「霰ふる香島の国」

   ……鹿島の神、童子女の松原、白鳥の里ほか(東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡家=鹿島神社前)

 昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。国ぶりの言葉に、「霰ふる香島の国」といふ。

  ○鹿島の神
 浮かぶものと沈むものとが入り交じって、天地がひとつに溶け合ってゐたころ、かみるみ、かみるきの神が、八百万の神たちを高天原に集へ賜ったときのことである。かみるみ、かみるぎの神は、詔して、「今、わが御孫の命の知らすべき豊葦原の水穂の国」といひ、この言葉によって高天原より天降って来た大神の御名を、香島の天の大神といふ。天では、日の香島の宮と称へ、地では豊香島の宮と称へた。(豊葦原の水穂の国を任せ与へむとの詔に、荒ぶる神たちも、岩も木立も草の片葉も、言葉多くて、昼は五月の蝿のやうに騒がしく、夜も火の燃える国であった。これを言向けるべき大御神として、天降り仕へた。)
 その後、初国知らしし美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に至り、奉納された幣帛は、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、ころ四口、枚鉄一連、練鉄一連、馬一匹、鞍一具、八咫鏡二面、五色のあしぎぬ一連であった。(美麻貴の天皇の御世に、大坂山の頂に白妙の大御服を着てお現れになり、白鉾の御杖を取り、下された御神託に、「我が御前をまつれば、汝が聞こし食すべき国を、大き国も小さき国も、事を任せよう。」とあった。そこで天皇が、八十の族長を召し集へて、御神託をことあげて問ふと、大中臣の神聞勝の命が申すに、「大八洲国は天皇が知ろし食すべき国と、言向けたまった、香島の国に鎮まる大御神の下された御神託です」と答へた。天皇は、これをお聞きになり、驚き恐こんで、先の幣帛を神の宮に奉納したのである。)神戸は六十五戸。(略)
 淡海の大津の大宮(天智天皇の御世)に初めて使ひを遣はして、神の宮を造らせた。それ以来、式年に改修されてゐる。
 毎年七月に、舟を造って、津の宮(霞ヶ浦浜の分社)に奉納してゐる。そのいはれは、昔、倭武の天皇の御世に、天の(香島)大神が、中臣の巨狭山命に、「今、御舟を仕へまつれ」とおっしゃった。巨狭山の命は、「つつしんで大命を承りました。敢へて異論はございません」と答へた。大神は、夜が明けて後に、「汝の舟は海の上に置いた」とおっしゃった。そこで舟主の巨狭山の命が、探して見ると、舟は岡の上にあった。大神は、「汝の舟は岡の上に置いた」とおっしゃった。そこでまた巨狭山の命が探し求めると、舟は海の上にあった。こんな事を何度も繰り返してゐるうちに、巨狭山の命は恐れ畏み、新たに長さ三丈余りの舟を三隻造らせて献った。これが舟の奉納の始まりである。
 毎年四月十日に、祭を設けて、酒を戴き、宴をなす。卜氏の一族は男も女も集ひ、昼も夜も幾日も酒を飲み楽しみ、歌舞をする。その歌に、

 あらさかの 神の御酒(み さけ)を ()げよと 言ひけばかもよ 我が酔ひにけむ
 (尊い神の酒を飲めと勧められたから、私は酔ってしまったのだらう)

 神の社の付近には、卜氏が住んでゐる。東に鹿島灘、西に霞ケ浦を臨むこの広い台地の森や谷に囲まれて、ところどころに集落が連なってゐる。野山の草木をそのまま垣根にして家を建て、朝夕には泉や谷川の流れに水を汲む。岡の裾野に家を構へ、松と竹で門を守り、谷の腰に井戸を掘り、その上に蔦蔓を敷く。春にその村を通れば、どの草も美しく花を咲かせ、秋に山道を行けば、どの木々も鮮やかに色づいた葉を飾す。神仙の幽居する境、霊異の化誕する地といふべきである。その美しさ、見事さは、なかなかうまく説明できるものではない。
 社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。翁のいふには、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるといふ。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。
 郡家の東二、三里のところに高松の浜がある。むかし東の大海から流れくる砂や貝が積もって、小高い丘ができた。やがて松の林が繁り、椎や柴も入り混じって、今ではもうすっかり山野のやうである。東南の側の松の下には、周囲八、九歩ばかりの泉が湧き出で、清き水をたたへてゐる。慶雲元年(文武朝)に国司の采女朝臣鍛は、佐備の大麻呂らを伴って、若松の浜で砂鉄を採り、剣を作った。ここから南の軽野の里の若松の浜までの三十里あまり一帯に、松の山がつづき、マツホド、ネアルマツホドなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の国堺の安是の湊の近くである。剣を作るのに砂鉄を使ふのはよいが、香島の神山なので、みだりに入りこんで松を伐ったり砂を掘ったりすることはできない。
 郡家の南二十里に、浜の里がある。その東の松の山のなかに寒田といふ四、五里ほどの大きな沼があり、鯉や鮒が棲んでゐる。之万や軽野の二里にある田は少し水が多い。むかし軽野の東の大海の浜辺に流れ着いた大船は、長さ十五丈、幅一丈あまりで、朽ちて砂に埋まりながら、今も残ってゐる。(近江(天智天皇)の御世に奥羽視察のために陸奥の国の磐城の船造りに造らせた大船が、この浜に打ち上げて壊れたのだといふ。)

  ○童子女の松原
 軽野の南に童子女の松原がある。むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。ともにみめ麗しく、村を越えて聞こえてくる評判に、いつしか二人はひそかな思ひを抱くやうになった。年月が立ち、歌垣の集ひで二人は偶然出会ふ。そのときいらつこが歌ふに、

 いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
 (安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞ひながら、私に向かって振ってゐるのが見える。安是の小島の……。)

 いらつめの答への歌に、

 潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
 (潮が島から寄せる浜辺に立ってゐようと言ってゐたのに、あなたは、八十島に隠れてゐる小島を見つけて、走り寄ってくる。)

 ともに相語らんと、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ、押さへてゐた思ひを口にすると、これまで思ひ悩んだことも消え、ほほゑみの鮮かな感動がよみがへる。玉の露の宿る梢に、爽やかな秋風が吹き抜け、そのかなたに望月が輝いてゐる。そこに聞こえる松風の歌。鳴く鶴の浮州に帰るやうに、渡る雁の山に帰るやうに。静かな山の岩陰に清水は湧き出で、静かな夜に霧はたちこめる。近くの山の紅葉はすでに色づき始め、遠い海にはただ青き波の激しく磯によせる音が聞こえるだけだ。今宵の楽しみにまさるものはない。ただ語らひの甘きにおぼれ、夜の更け行くのも忘れる。突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝焼けの中から日が差し込めてゐた。二人は、なすすべを知らず、人に見られることを恥ぢて、松の木となり果てたといふ。いらつこの松を奈美松といひ、いらつめの松を古津松といふ。その昔からのこの名は、今も同じである。

  ○白鳥の里
 郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、
  白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
 かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(以下略)

 その南に広がる広野を、角折の浜といふ。由来は、昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。(以下略)

◆ 九、那賀郡    

   ……くれふし山の蛇など(中部、那珂川流域、郡家=水戸市南西)

 (前略)平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がゐて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって(くじって)食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。(以下略)

  ○くれふし山の蛇
 茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
 この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
 蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
 ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
 別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。
 (茨城の里=友部町付近、)

 郡家より東北の粟川{那珂川}の両岸に、駅家が置かれた。駅家の周りを河がめぐってゐたので、「河内の駅家」の名がついた。駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井といひ、付近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って、日に曝して乾す。{今の水戸市内}

◆ 十、久慈の郡

   (北部、久慈川流域 郡家=水府村付近)

 昔、郡家の南近くに、小さな丘があり、そのかたちが鯨に似てゐたことから、倭武の天皇が、久慈と名付けられた。
 近江の大津の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天智天皇)の御世に、藤原の内大臣の領民を視察するために派遣された軽直里麻呂(かるのあたひさとまろ)が、堤を築いて池を作った。この池の北の地を、谷合山といふ。山の絶壁は岩のやうに見えるが、黄土の崖で、穴を掘ることができる。穴には猿が群らがって住み、食ふ。
 郡家の西北二十里のところに、河内の里がある。もとは古々の村といった。(「ここ」は猿の鳴声からきたといふ。)里の東の山に石の鏡があり、昔、鬼が集まって鏡をもて遊んでゐるうちに、鬼は消えてしまった。「恐ろしい鬼も鏡を覗けばおのれを滅ぼす」といふ。そこの土は、青い色をしてゐて、良質の絵具として使へる。「あをに」とも「かきつに」ともいふ。朝廷の仰せで、都に献上しゐる。この里は、久慈河の源にあたる。
 郡家の西十里のところに、静織の里がある。ここで初めて倭文を織る機が使はれたことから、名付けられた。北の小川には、青色の瑪瑙がとれ、良い火打石になる。よって玉川と名付けられた。
 郡家の北二里のところに、山田の里がある。新しい田が多いことから、名がついた。里の清き河は、北の山から流れ出て、近くの郡家の南を通って、久慈の河にそそいでゐる。人の腕ほどの大きさの鮎がとれる。河の岸を石門といふ。どこまでもつづく林の中から流れ出る清き泉がここにそそいでゐる。日差しをさへぎる深い青葉の下を風が舞ひ、川底の白砂の上を波が踊る。夏には、あちこちの村里から、暑さをのがれて、足並みを揃へ、手をとりあってここに来て、筑波の歌垣の歌を歌ひ、久慈の美酒を飲む。人の世のちっぽけな悩みなどみんな忘れてしまふ。この里の大伴の村の河の崖には、鳥が群らがり飛んで来ては、黄色の土をついばんで、食べてゐる。
 郡家の東七里のところの、太田の郷に、長幡部の社がある。むかし、すめみまの命が天降ったときに、衣を織るために、ともに降ってきた綺日女(かむはたひめ)の命は、最初に筑紫の日向の二上の峯に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。後のみまきの天皇の御世に、長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。この織物は、裁つことも縫ふこともなく、そのまま着ることができ、全服(うつはた)といふ。別の伝へでは、太絹を織るのに、人目を隠れ家の戸を閉ざし、暗いところで織ったから、烏織といふとも。力自慢の軍人の剣でも、これを裁ち切ることはできない。今でも毎年の良い織物を選んで、長幡部の社に奉納してゐる。
 この郷の北に、薩都の里がある。昔、つちくもといふ名の国栖がゐて、兎上の命の軍に滅ぼされたときに、「幸なるかも」と言ったことから、佐都と名付けた。北の山の白土は、絵具になる。
 この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。
 薩都河といふ小川があり、源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。

 高市といふ所
 これより東北へ二里の所に、密筑(みつき)の里がある。この村に、大井といふ泉があり、水は夏は冷たく、冬温かい。流れて近くの川にそそいでゐる。夏には遠近の里から、多くの男女が訪れ、酒肴などで遊び楽しむ。
 ここから東と南は海で、鮑、毛海胆、魚介類の宝庫である。西と北は山で、椎、いちひ、榧、栗が多く、鹿や猪が住み、山海の珍味については枚挙に暇が無い。
 ここから東北へ三十里のところに助川の駅がある。以前は遇鹿(あひか)といったのは、むかし倭建の天皇が、ここに出かけられたとき、皇后様と行き逢ふことができたので、その名がついた。国宰(くにのみこともち)久米大夫のころに、鮭を採ったので、助川といふやうになった。(俗に鮭の祖を「すけ」といふ)

◆ 十一、多珂郡 「薦枕、多珂の国」

   (北東部、日立市以北、 郡家=高萩市付近)

 昔、志賀の高穴穂宮に大八洲知ろし食しし天皇(成務天皇)の御世に、建御狭日命が多珂の国造として赴任した。建御狭日命は、国を巡り見て、山が険しく高いので、多珂国と名づけた。建御狭日命は出雲臣と同族である。諺に「薦枕、多珂の国」といふ。
 このとき、郡の境界を定め、南(道前)は久慈郡の境の助川、北(道後)は陸奥国石城郡苦麻之村までとした。のち難波の長柄の豊前宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の癸丑の年に、多珂の国造・石城直美夜部、石城の評造部・志許赤らが、惣領の高向大夫に申し出て、この郡は範囲が広すぎて行き来に不便なので、多珂と石城の二つの郡に分割された。石城郡は今は陸奥国に属す。
 南(道前)の里に、飽田の村がある。むかし倭建の天皇が東国を巡られたときに、この野で宿をとられた。ここの村人がいふには、野には無数の鹿が群れ、その角は枯れた葦の原のやうで、息は朝霧の立つやうだ。海には八尺の鰒がゐて、その他の珍味や、鯉もゐるといふ。そこで天皇は野に出て、また橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競ふことになった。天皇の野での狩りには何も獲れなかったが、皇后の海では大漁だった。天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といはれたので、後に飽田村と名づけられた。
 国宰の川原宿禰黒麻呂のとき、海辺の岩壁に観世音菩薩の像を作った。それにより仏浜といふ。
 郡家の南へ三十里のところに、藻嶋の駅がある。東南の浜に玉のやうな碁石がある。常陸の国では最も美しい石である。むかし倭建の天皇が船で島の磯廻をされたとき、「種々の海藻が多いところだ」といはれたので、藻嶋の名が付いた。

◆ 十二、補遺  

     (風土記逸文などから)

(多珂郡、信太郡)
 黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国といふ。
(新治郡)
 新治郡の駅の名を大神(おかみ)といふのは、大蛇(おかみ)が多かったためである。

常陸国風土記 終