年貢の話 (四公六民の謎?)

 加賀百万石、岡崎五万石など、江戸時代には国や城下の生産高を表現するのに石高が使われた。
 日本の村々の平均的な石高は、五百石ほどで、平均戸数は五十軒ほどという。一軒の石高は十石くらいになる。十石とは、田畑に換算すると十反(一町)。一町歩の田畑があれば、家族が働き、平均的な生活水準を維持できた。
 ところで量の単位では1石は10斗である。米4斗が1俵なので、1石は米2俵半。1反の田から米1石(2俵半)の収穫を想定して、これが一人が1年間生活するための米の必要量であるとされた。現代人はそんなには食べないが。

 「四公六民」という年貢の計算方法があるらしいが、四公すなわち4割が年貢だとすると、年貢は田1反につきちょうど米1俵である。江戸時代の村の文書にも、一反につき平均ほぼ一俵の記載がある。しかし実際の一反の田からの収穫は、米2俵半ということはない。災害さえなければ5〜6俵以上だろう。これだけでも田の年貢は、実際の米の収穫の2割以下になる。裏作の麦の収穫を考慮すれば、田の年貢は1割ちょっとにすぎない。
 年貢は土地にかけられる固定資産税のようなもので、米2俵半とは固定資産税の評価額のようなものである。評価額が実際の市場価格と異なるように、米2俵半は実際の収穫とはかけ離れた数字である。

 さて畑の年貢については、当地では1反で永90文余りで、これは普通の銭では4倍の360〜380文になるので、ほぼ1朱である。米1俵の平均的な価格を1分2朱とすると、畑6反で米1俵分の年貢である。畑の年貢は田の6分の1ということになる。畑からの収穫量は、江戸時代初期は同じ面積の田の米の収穫よりずっと低かったと思われるが、江戸中期以降は商品作物の栽培も増え、田の収穫を上まわるケースもあったようである。それでも畑の年貢はあまり上がっていない。

 田と畑を5反づつ所有している家では、年貢は収穫の1割をだいぶ下まわる。ただし街道筋の村では、助郷と称する運輸労働の奉仕が月1〜2回程度あるので、このぶんを金銭に換算すると、1割程度といったところであろう。
 むろん間接税もなく、現代からみれば非常に安い税金だったのだが、これは今でいう「小さな政府」のためであり、生活の多くは村の自治に依存していたためである。「地方税」ともいうべき村の費用の負担は、別に納めなければならない。
 とはいえ農民が「四公六民」の重税に苦しんだというのは誤りである。

 江戸時代を通じて、年貢は書類の上ではほとんど値上げされなかった。しかしそれでは農民の収入ばかり増えて、物価は上がっても武士の収入は増えない。次第に年貢先納や臨時の上納金などが増えることになるが、それらについても武士は体面を重んじて、農民に対して借用書を書いている。最低限の利息で暮の年貢の際に清算するという内容である。しかし借金が1年ぶんの年貢額を上まわり、清算しきれないで溜まった借金がある程度まで増えると、「借切」と称して、借金がなかったことにしたようである。その額はおそらく農民の収入増に比例した程度のものだったろう。しかしその負債分を一部の村役人のみが負うことになると、幕末のころには新手の商売に手を出す農民も増えてくるわけである。
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