江戸時代の「神棚」の絵

江戸時代には、庶民生活を描いた浮世絵や、絵入りの本が多数出版されていたが、神棚を描いたものを探してみた。

1つめは『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴 作、葛飾北斎 画) 巻之二より。絵の中央上部に、それらしき棚。 
物語を少し読んでみると、戦国時代の大和国の領主 続井(筒井のもじり?)家の家臣の赤根半六は、楠の巨木を伐るとき、祟りなきよう木精を退散させるのに功績があった。先祖は、楠正勝の家来であったという。のち半六は、先に亡くなった妻の遺言により、子の十一歳の半七(半七郎)と、妻方の姪で十歳にも足らぬおさんを結婚させる。そのときの絵。

絵では、棚の下に少年の半七が座り、おさんが対面。右の台所から水仕女(みづしめ、女中のこと)によって盃が運ばれ、左には半六が控える。左奥は納戸つまり寝室であろう。「たがしの」は死んだ母の名だが、描かれた人物は母の霊であろうか。幼い二人の結婚だが、形式だけでも寝室で枕を共にするのだろう。
棚の中央には、箱状の櫃が置かれるが、こちらの 三七全伝南柯夢 では箱の上に屋根が付いている。3文字は「?五郎」とも「?宮神」とも見えなくもないが不明。その上に雲型(ハート型を逆にした形)の穴が見られるのは、位牌や神璽を納める箱の形式である。棚までの高さは六尺はなさそうだ(鴨居が描かれない)。棚の上には、右に折敷のようなものに紙を重ねて供え物のようなもの、左には油の灯だろうか。
伊勢の大神宮を祀った神棚ではないようだ。先祖、あるいは納戸の神、家の守護の神を祀ったかである。
江戸のころは、大神宮は家の縁側ないし戸口近くに男によって祀られ、家の奥には納戸の神が女によって祀られ、時代とともに位置が近づいて、現在の神棚となったと言う学者もある。


2つめは、吉原遊郭の「扇屋の新年」と呼ばれる絵(葛飾北斎)の一部。
立派な神棚が描かれている。そこには大きな宮形が安置され、その前に座しているのが楼主だという。
実際の大きさや高さは、鴨居を基準に見ると、人が半分ほどの大きさに描かれているようだ。


3つめは、歌川国貞の錦絵「江戸名所百人美女」のうち「あさぢがはら」
美女が神棚に祈る、というより、呪いをかけているところらしい。浅茅が原は、鬼婆の伝説のある地。
棚の奥に小さな掛軸が掛かり、描かれているのは仏の像であろう。神なのか仏なのかというと、両方なのだろう。
江戸時代までは神仏習合の時代であり、外を歩けば、神社や寺の境内には、神も仏もさまざまに祀ってあった。庶民の家庭内で、神と仏が明確に区別して祀られたとは、まったく考えにくい。
正月の歳神様の棚は、天井から吊す臨時の形式で高い位置に祀り、伊勢の大神宮の棚も高い位置に常設して、下をくぐることが御利益となるという考え方もあった。
しかし他の多くの神仏は、人が立って対面ないし少し見上げて祈れる高さであり、供え物や清掃のしやすい高さだったようだ。3つの絵はそのような位置に描かれる。

以上の絵は、現在のネット検索でも容易に見つけられる。「こよみの神宮館」さんのパンフレットにも掲載されている。
http://jingukan.co.jp/pdf/omiki_page.pdf


4つめ。『絵本吾妻抉』(北尾重政 画)で、芸者が休日にくつろいでいる様子の絵。
台所の鍋の上に、神を祀っている棚が見える。かまどの神、荒神さまであろう。
現代でも、伝統的な家庭では、台所に荒神様や火防せの神の御札を貼って祀っているところは多いだろう。
昭和30年代ごろまでは、井の神や厠の神、仕事場の神など、家の中にもいろんな神が祀られていた。家の外にも、屋敷神の祠のほか、家畜小屋、蚕屋、作業小屋、土蔵、外の井戸や便所などに、さまざまの神が祀られ、現代でも伝統的な家庭では、正月にはそれらの場所に釜〆などの御幣を祀っている。
神を祀る場所がだんだん少なくなって、神棚1つだけというのでは、神を身近に感じる生活にとっては不便である。道端の石ころや自然の全てに神が宿るなどと言ってみても、口だけのことになってしまう。1つしかなければ人間の宗教観も一神教的に流れてしまいやすいということでもある。
職人の家では、職種によって祀る神が決まっていて、仕事場などに必ず祀っていた。そこで現代では、書棚の空きスペースや、書棚の上などに、小さな宮形を置いて、八百万の神のうちの幾柱かを祀るのも良いのではないかと思う。神の棚は幾つあっても良いし、それらしい所ならどこにでも祀ることができる。
次の絵は、山東京伝の黄表紙『世上洒落見絵図』(黄表紙十種 GoogleBooksサンプルより)のなかの絵。箪笥の上に祀っている。
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