怒れる猪(イノシシ)

猪猪(ゐのしし)は、古代から最も日本人の食肉に供された動物であるという。縄文時代以前の狩猟の時代からそうらしい。

古事記の物語では、猪は山の主としてたびたび登場し、怒れる猪の姿であることが多い。
大国主命の時代には、伯耆国の山に赤猪がいた。
倭建命が東征を終えて美濃国の伊吹山に着いたころ、山の神が白猪となって現れ、命は深い傷を負い、伊勢国へ至ったところで絶命する。
息長帯日売命(神功皇后)の時代には、反逆した忍熊王の兄の香坂王は、大きな怒猪(いかりゐ)に食い殺された。
雄略天皇も葛城山の猪を射たときに、傷ついて怒れる猪に出会っている。天皇は猪を怖れて榛の木に登って難を逃れたという。
  やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪(やみしし)の 唸(うた)き畏み 
  我が逃げ登りし 在丘の 榛の木の枝 (古事記)

他方では、猪は、縄文時代から人間が飼育することもあったという(森浩一『倭人伝の世界』(小学館))。それはもっぱら山の神の祭の贄とするために幼い猪を捕獲して飼育したのではなかろうかという。死んだ幼児を軒先に埋めるように、猪の子を埋めた痕跡が見られることから、人の母親がわが子のように飼育したのではないかと森氏は言い、「イノシシに母乳を与えた縄文女性」と書かれる。
日本人と家畜との関係は、そのようなものだったろうとは、近代の東北地方の家畜牛と子どもたちの思い出話からも想像できると思う。

古代の動物を飼育する役割の部民には、猪飼部、鳥飼部、馬飼部などがあり、前二者は贄のためのものだろうという。埴輪に作られた代表的な動物も、猪、鳥、馬が多いらしい。

埼玉県秩父郡荒川村白久の熊野神社では、伊弉諾尊、伊弉冊尊、さらに猪鼻王子という神を祀る。猪鼻王子は紀州の熊野の神ということだが(神奈備にようこそ http://www.kamnavi.jp/kumano/nhj/inohana.htm)、同じ荒川村贄川の猪狩神社(伊弉諾尊 伊弉冉尊)、同村の三峯神社(祭神同じ)などと同様に、土地の狩猟民の神としての性格も色濃いのだろう。

その熊野神社の甘酒祭りの由来は、倭建命が東国平定の帰途、甲斐国から雁坂峠を越えて当地に至り、村人を苦しめていた大猪を退治したとき、村人は濁酒(どぶろく)を造って献上してお祝いをした。それが後に甘酒となり、甘酒をかけ合って疫病除けとする行事になったという。
大猪が倒されたときは巨岩に押し倒され、その岩の形が猪の鼻に似ていたことから、「猪の鼻」の地名にもなったという。「〜鼻」という地名は岡や崖などの突出したあたりに多い。
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Yahooサーチと使用サーバー

雑記です。
神話の森のホームページとブログは、ロリポップ社のサーバーを借りて運営していますが、昨年8月下旬以降、Yahooサーチから検索されにくい状況になっています。「Yahoo ロリポップ」と検索エンジンから検索すれば、当サイト以外でも同様の状況が多いことがわかります。ロリポップ社から早い段階で改善がなされたと「お知らせ」があったので、4か月ほど様子を見てきたのですが、こちらのアクセス解析によれば、Yahooからの検索結果は減ったままの状態にあります。

どの程度減ったかというと、検索大手のGoogle社とYahoo社のそれぞれが検索対象として認識している当サイト内のページ数を調べて比較すれば、おおむねわかります。「site:ドメイン」(site:nire.main.jp)をキーワードに検索してみれば良いわけです。
その結果は、Google 1020件、Yahoo 93件で、YahooがGoogleの1/10以下です。

たまたま同じサーバーで運営の2つのサイトについても調べてみると
Gサイト Google:3290 Yahoo:2590
Kサイト Google:2410 Yahoo:2510
意外にもKサイトはYahooが多く、GサイトもYahooが2割減程度です。同じ会社のサーバーでも問題のないサイトもあることがわかりました。

そこで原因について考えたことは、
同じ会社のサーバー内でも、物理的に異なる場所にあるサイトでは影響が異なるかもしれないということ。もしそうなら対処のしようはありません。
その他、対策になるかもしれない2つのことを実施してみました。
1、Yahooカテゴリー(神話、民話と民俗学)への登録申請
  Gサイト、Kサイトとも登録済みですので。
2、他サーバー(nifty)のサイトのアクセス解析をこちらでしていたのを中止
 こちらのサーバーに負荷をかけると優良サイトとはいえないのではないかということ。

さて、どういう結果になりましょうか。
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『辞世千人一首』

wogifu.jpg『辞世千人一首』(荻生待也著・柏書房)という本は、日本の歴史上の人物の辞世の和歌、または辞世とされる和歌を千人(千首)集めたもので、専門の学者でない人が一人でよくそれだけ集めたと思う。

しかし若干の物足りなさが感じられるのは、参考文献が不十分だったからに違いない。一例を述べると、義経記に載る義経・弁慶の二人の歌が漏れている。

  六道の道のちまたに待てよ君、後れ先立つならひありとて  弁慶
  後の世もまた後の世もめぐりあへ、染む紫の雲の上まで   義経

他にも有名な歌が漏れているような気がする。歌語り風土記などはこの種の歌が多いと思うが、別の『歌語り日本史』もふくめ、インターネットを使えば良かったのにと思った次第。中世の説話文学や軍記物なども有用な資料になると思う。

しかしそのぶん無名に近い人の歌も少なからず収められているのは一つの味わいだろう。
江戸初期に武士のあいだで殉死の制度があったころの、島津藩で殉死した家臣の歌が数首。
明治の戊辰戦争のときの会津藩では、二百三十余名の婦女子が自刃したというが、同書にも載る次の二人の歌が特に心をうつものがある。「歌語り日本史」には載せたが、ネットの「歌語り風土記」にはない

  なよ竹の風にまかする身ながらも、たわまぬ節はありとこそ聞け 西郷千恵子
  もののふの猛き心にくらぶれば、数にも入らぬわが身ながらも  中島竹子

『辞世千人一首』には他の数人の女性の歌もある。白虎隊の少年たちの歌はないようだが、歌は年齢的な素養がないと詠めないのだと思う。
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忠臣蔵と瑶泉院

テレビ東京の正月番組『忠臣蔵・瑶泉院の陰謀』というドラマを、面白く見た。原作は湯川裕光氏の小説で『瑶泉院〜忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』(新潮文庫)とのこと。
浅野内匠頭は辞世を詠む暇がなく、ある僧に作ってもらって瑶泉院に届けられたなど、現代人が納得しやすいリアリティのある筋立ても多く、またユーモアも多く退屈させない。浅野内匠頭はかんしゃく持ちだったとの有力な説を採用しながら、品位を落とすところもない。

浅野内匠頭はその特異な人間性からも御霊となって、浪士の討入りはその鎮魂儀礼であったとか、「忠臣蔵」の上演は、太陽の王の復活のカーニバルとして庶民に受け入れられた、とかいうようなことが丸谷才一『忠臣蔵とは何か』に書かれている。同書では「御霊神のもとの形は若い男神と若い女神とが一対であった」とも書かれ、また太陽神は女神であるという庶民の信仰からすれば、瑶泉院が主役とされたこともうなづける。

大石内蔵助が江戸へ来てからの遊興の相手に、一学と名のる比丘尼(この時代は遊女のこと)がいたことは、考証家の解説本にも載っているが、ドラマでは一学は瑶泉院の妹ということになっていて、容姿はうり二つである。
これも大石内蔵助が垣見五郎兵衛に扮し、堀部安兵衛が剣術指南の長江長左衛門、神崎与五郎は小豆屋善兵衛、などなど、四十七士の全てが町人などに扮して別名を名のることと同様に、不自然とはいえないわけである。
丸谷氏の同書に「大星由良之助の向うには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだといふ、事実と虚構の二重構造」(講談社文芸文庫版112ページ)という表現が見える。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、大星由良之助は大石内蔵助になぞらえ、顔世御前は瑶泉院になぞらえた登場人物であるということだが、「まるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだ」と丸谷氏が表現した理由は、知識不足のせいか、よくわからない。高師直(吉良上野之介になぞらえる)の顔世御前への横恋慕というのが歌舞伎の虚構なので、史実の瑶泉院との「二重構造」という意味をそのように表現したのだろうか。

人気歌舞伎の要素のようなものを、丸谷氏は忠臣蔵を例に7つ指摘している。
1、社会を縦断する書き方。殿様から足軽や町人まで、奥方様から遊女までが登場
2、二つの時代の重ね合せ。南北朝時代を描きながら上演された江戸時代を描く
3、「実は……」という作劇術。上に述べた垣見五郎兵衛じつは大石など、貴種流離譚
4、儀式性。 勅使饗応に始り切腹、開城などの武家儀式への庶民の関心
5、地理、国ぼめ。 関東と関西、京の遊郭や東海道などが広範囲に描かれる
6、歳時記性。 桜の下の切腹から雪の夜の討入りまで
7、呪術性、御霊信仰 
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新年を迎える和歌

新年を迎える有名な和歌といえば、三つほどが思い浮かぶ。

一つは、元旦の初雪を吉兆としてほめたたえた大伴家持の歌で、万葉集の最後に載っている歌で、因幡の国で詠まれたという。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/41toto02.htm

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)  大伴家持

もう一つは、古今集の最初に載る在原元方の歌で、立春が年末に来てしまったというちょっと風変わりな印象の歌。
http://nire.main.jp/sb/log/eid107.html

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

三つ目は、万葉集巻十の詠み人知らずの歌で、新年を迎えて何もかも新たなものとなったのは良いことだが、しかし人間は古い人間のほうが良いものだと詠まれる。

 物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし  万葉集
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