2021年の2月2日の節分

 令和3年(2021)の2月の節分は、2日である。

 平成時代は節分は毎年2月3日だったが、古い記憶によれば、昭和の末ごろ(1984年まで)は、4年に1度、閏年だけ4日だった。
 平成時代に毎年3日だったといふことは、365日間隔で閏年だけ366日間隔だったことになる。昭和の末ごろは、閏年の前年が366日間隔だったことになる。366日間隔の年は、常に4年に1回ではなく、ときどき5年に1回になるようである。

 閏年の仕組みと同じなのだらう。通常の閏年は西暦の数字が4で割り切れる年といふ原則であるが、100で割り切れる年は閏年ではない、ただし400で割り切れる年は閏年とするといふ決まりがある。1900年は閏年ではないが、2000年は閏年だった。西暦1901年から2099年までは、閏年が多めに配分される期間になるので、この期間の中では、だんだん節分の日付は、早めになってゆくのであらう。大正時代(1912年〜1926年)の暦をいくつか見たことがあるが、節分は3日か4日で、4日の年のほうが多かったような記憶がある。国立天文台の解説の図版を見ると、その記憶で間違ひない。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2021_2.html

 今後は、4年に1度は2日になるといふ循環が続き、21世紀後半には4年に2度、世紀末には4年に3度が、2月2日になるのではないかと思ふ。
(22世紀初めには、3日が3度、4日が1度くらゐだらうか。)
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即位の礼 正殿の儀

10月22日に、即位の礼 正殿の儀が執り行われ、天皇陛下は高御座(たかみくら)に登られ、即位を内外に宣明された。

 (陛下のお言葉)
 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御み心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。


その日は両陛下は午前7時に御所を出発され、饗応の儀の終了が午後11時半という報道があり、それだけで16時間半というのは、大変な長時間である。
ところで、9年前の2013年に即位したベルギーのフィリップ新国王の言葉を読んで気になっていたことがある。全文は現在はわからないが、主要部分を見つけることができた。
「ベルギーの憲法と法律を順守し、国家の独立と領土が侵害されることがないよう維持することを誓います」

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000009208.html
領土云々のところが、日本とはだいぶ違うと思った。現代の王室が法的に国防義務を課せられているとは考えにくいので、なにか昔からの名残りで引き継がれている文言なのだろうと思った。
ヨーロッパの王室の起りは、ハプスブルグ家でも13世紀、イギリス王室は17世紀であり、日本の応仁の乱が15世紀なので、日本でいえば一種の武家政権のようなものなのだろう。「貴族」という言葉の意味合いが、西洋史と日本史ではだいぶ違うので、注意が必要だ。

日本の場合は、耶馬台国時代に百余国ないし数十ヶ国が乱れたときに、1つが他を征服するのではなく、倭国連合の女王に卑弥呼が共立されることによって平和を取り戻したという話があるが、そういったお国柄だったのだろう。
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新元号「令和」

5月1日の譲位にともなう新元号は「令和」となることが発表された。
万葉集巻五、梅花の歌三十二首併せて序、「初春の令月にして気淑く風和らぎ、云々」からとのこと。
令月とは、「?@万事をなすのによい月。めでたい月。?A陰暦二月の異称」と広辞苑にある。
(この令は、せしむる、命令するという意味ではないことになる。)
もとは、後漢の張衡という人の『歸田賦』の「於是仲春令月、時和気清」という言葉を踏んでいるらしい。張衡の詩は自然を称え、自然回帰のようにもとれるもの。
張衡は令月を仲春としているが、日本では初春になっているのは、満ち足りた春に満足するのか、春の予兆を重視するかの違いだろうか。日本の「春」とは、一年を均等に四分割したうちの一つではないようだ。

令和
令の書き方は、筆記ではいくつかの書き方があり、下の部分を「マ」のようにも書く。
どの字も活字のように四角いマスをいっぱいに使おうとすると、「令」の字は小さく見えてしまうので、「令」の左右は「和」より大きく書き、「令」の先はあまり尖らせないほうが良いかもしれない。
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御飯の食べ方

江戸時代のある手引書に、御飯の食べ方などの作法について書かれていたので、読んでみた。

御飯の食べ方
○箸は三ツ折にして中を取ると心得べし。
○飯のくひやうは、右の手にて飯椀(めしわん)のふたを取り、左の手にうつして下に置き、次に汁椀(しるわん)のふたも右のごとく取りて、飯椀のふたの上にかさね置くなり。
さて、飯椀を右の手に取りあげ、左の手にうつし持ちて、二箸ほどくひて、下に置き、
次に、汁椀を右の手にて取上げ、左の手へうつし、汁をすひ、右の手にうつして下に置く。
また飯を前のごとくにくひ、また汁をすひ、今度は汁の実をくひ、
また飯をくひて、其の次に菜(さい)をくふなり。
引落しのさい、右の方に有る物を左にて引寄せ、左の方なる物を右の手にて取る事有るべからず。(一部を漢字に変更)


「箸は三ツ折にして中を」というのは、実際に折るのではなく、長さを三等分したときの中ほどを持つということだろう(指先が中ほどになる)。持つ位置は、極端に上すぎても、下すぎてもいけない。
食べるときは、飯、汁、飯、汁と実、飯、菜、の順。菜とは副食物のことだろう。汗を流して働く人の場合に汁を先にという考えもあるかもしれないが、和食では、飯が先である。飯は水分の多いものであり、雑炊や粥のときもあるが、米を重視する国民ということなのだろう。茶道の作法で茶よりも菓子が先というのも、菓子を米に見立てているのかもしれない。

○まんぢうくふてい(饅頭の食べ方
まんぢうは、左にて取り、右のひとさしゆびと大ゆびにてもち、二ツにわりて、右の方を下におきて、ひだりよりくふべし。


饅頭は半分に割って、左から食べるということ。本人からみて左が上位である。椀も飯椀が左。

○めんるい喰ふてい(麺類の食べ方
めんるいは、汁をおきながら、一はし二はしすくひ入れて、汁をとりあげてくふべし。


「汁」とだけ書いてあるが、これは汁椀のことであろう。蕎麦等を入れるときは汁椀は置いた状態でということ。
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民家の間取り

漫画のサザエさんの家の間取りの図を、とあるサイトで見た。漫画で絵の背景を多数見ながら、パズルを組立てるようにして、全体を描いたものなのだろう。
http://www.sazaesanitiba.com/madori.html
サザエさんの家は、昭和20〜30年代の首都圏のサラリーマン家庭の家だと思うが、間取りは、関東の農家の家に似ている。部屋を田の字型に区切り、東西に3部屋、南北に2部屋の計6部屋である。東の2部屋と、西の田の字の4部屋を、南北に廊下が区切る。
 北側は西から、台所、茶の間、子供部屋。
 南側は同じく、床の間、客間、若夫婦の部屋。

 東側に若者の部屋を置くのは、農家と同じ。その西の廊下の部分は、農家では土間が広めにとってあった。西の4部屋の南側に、廊下または縁側が付く。廊下の西の突き当たりが便所。茶の間は中央北側のじめじめした部屋で、日当たりの良い南の部屋は、客間として確保される。
 農家と違う点は、北西の台所、北東の玄関である。農家の玄関は、南北に続く廊下の南であり、廊下の北端に台所が続く。北西は主人夫婦の部屋。昔は子供部屋というのはなかったので、子供は親と同じ部屋に寝て、学校の宿題などは縁側でした。大きくなったら若者の部屋となる。南西の床の間は、本来の客間なので、普通は使用しないが、家族の人数に応じて使われることもある。
 昭和30年代ごろから、どの家も、洋間風の客間を設けることが広まった。和室のまま絨毯を敷いて応接家具を置く家も多かった。床の間が使われなくなり、物置状態になった家が多い。子供部屋についても、なんとかしないといけないと、親は思うようになった。

 昭和の頃の平均以上の農家では、土間の西は4部屋でなく6部屋あった、東北の1部屋が茶の間、または囲炉裏を置いた居間で、その西は壁の多い納戸である。納戸は、寝室であり貴重品をしまう部屋だったが、昭和の戦後は、タンス部屋ないし収納専用の部屋になった家が多いようだ。壁の多いこの部屋を、子供の勉強部屋にした家を見たことがある。
 明治時代以前の各部屋の意味については、あらためて書くことにしよう。
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餅なし正月とサトイモ

 「餅なし正月」とは、民俗学用語であるが、正月に餅を食べず、もっぱら里芋(さといも)を食べて祝う地方の民俗のことという。
 サトイモについて、最近知ったことは、畑の里芋と、田のサトイモ(田芋)と、2種類があるということである。吉成直樹『沖縄の成立』によると、田芋は水田で栽培され、東南アジア方面から北上して沖縄にもたらされたものだろうという。
 万葉集(3826)に次のような歌もある。長意吉麻呂(ながのおきまろ)の諧謔の歌。

 蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの 意吉麻呂が家なるものは宇毛(うも)の葉にあらし

 歌の意味は「(理想の女性とは)蓮の葉のような佇まいのものであって、そこへいくと我が家のものは、まるで芋(うも)の葉だ」となる。
 吉成氏によると、ウモはオーストロネシア語に由来する言葉なので、この歌のウモは南方から来たものであり、万葉時代以前に沖縄を経由して大和にも伝わっていたことがわかるという。文脈が少しわかりにくいのだが、イモでなくウモと呼ばれたことに着目したのだろうか。ただ、それなら、魚のことを和語でウヲともイヲともいうので、発音の転訛の可能性も考えないといけない。
 それよりも、蓮の葉と芋の葉とを、同列に比較しているという点が重要だ。似たところが多いから、同列に対比できるのだろう。どちらも水中から葉を出し、根が食用になる。誰もが知っている共通点がいくつもあるが、見栄えが違うので、洒落の効果も大きくなる。
 いづれにせよ、水田のサトイモは、万葉時代の大和でも普通に見られるものだったようである。
 芋で祝う正月とは、稲作が普及する以前からの民俗だとする説がある。一方、その分布を調べると、稲作文化圏にしか存在しないので、稲作文化の一つではないかという説もある。そこで思うのは、「稲作文化の一つ」ではなく「水田文化の一つ」なのではなかろうか。それなら両方の説が矛盾せずに成り立つ。
 水田は、稲も作れば、田芋も作る。古くからあるのは、もちろん田芋だが、田芋しか作らない田でも、良い種籾が手に入れば、水田稲作はすぐにできる状態なのだろう。
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「うどん正月」

「うどん正月」という言葉があるのかどうか知らないが、我が家の隣りの集落では、正月は主にうどんを食べるといっていた。我が家の近隣でもそういう家は多かったらしい。ただ、私の子ども時代はそういう記憶はあまりないのだが、忘れたのか、そういうことが少なかったのかだが、旧上層農民や公務員などは少なかったかもしれない。
市内F地区では、米が獲れる所ではなかったので、主食はウドンや煮ぼうとう、ツメリッコ(すいとん)などだったと、U氏が言っていた。関東地方はおおむね畑作地帯なので、そういう家が多かったのではないかと思う。
戦後に「貧乏人は麦を食え」と言われた時代もあったが、高度成長期に米食が普及していった後も、正月などのハレの日の食べ物だけは変らないというのは、一般的に多い。
米を多く食べなかった時代は貧しい時代だったのだと、人々が意識するようになれば、人はそのことを語らなくなり、記憶から消えてしまうこともある。

有名な学者の対談で、日常食として米食が定着したのは江戸後期以後ではないか、ある山村では戦時中の配給米で初めて米を口にしたという報告もあると言っていた。祭などの共食の場ではなく、隣人の私生活での食事内容については、知らないのが普通だ。普通の人々が、ふと思い出話として、つぶやくような機会にしか知ることはできない。正座して対面して質問事項を読み上げても、本当の答えは得られないだろう。江戸時代から都市部では米の消費量は多かったらしいが、地方では土地によってさまざまだったろう。定着とか普及とかいっても、その定義が曖昧なままでは意味がない。学者やインテリには上層民が多いが、そうでない人が米ばかり食べてきたわけではないことくらいは、頭に入れておかないといけない。

東京下町の地域行事で水団がふるまわれたとき、珍しい物なので、若い人も、おいしい、おいしいと言って食べていたそうだが、おいしいのは良質のカツオダシなどをふんだんに使っているからであって、終戦直後に食べたスイトンほど不味いものはなかったと言った人があった。美味か不味いかは個人の主観なので、なんともいえないが、本当に不味かったのかもしれないし、料理に時間をかけられないほど忙しく働いた時代だったのかもしれない。
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過去帳に記載の家族以外の人物

西川家過去帳 江戸の浮世絵師、鈴木春信は、今でも人気が高い絵師だが、京都の絵師の西川祐信の弟子であったことが、研究家の林美一氏によって証明されている。大きな根拠となったのが、西川家に伝わる過去帳に、鈴木春信の名前と戒名が書き入れられていることが発見されたからである(図版、林氏の著書より)。春信の命日は、明和七年六月十四日。西川祐信の優れた弟子でもあり、西川家とは家族同然の暮らしでもあった春信は、江戸で没したあと、西川家の過去帳にも記載され、月命日には他の西川家の先祖と同様に供養されたと思われる。

 さて我が家の過去帳にも、当家の者でない人の名が記載されている例が、いくつかある。古文書の本格的な整理を始めてから幾年かあとに、過去帳を見たときに気づいた名前がある。月命日は二十九日、享保六年(1721)五月に没した人の戒名の脇に「江戸蔵田源五右衛門妻」と書かれていた。(図版)
過去帳_蔵田
 蔵田源五右衛門とは、当村の領主だった旗本中野家の用人である。元禄十一年(1698)八月の検地の時の責任者であり、正徳三年(1713)の文書にも名前がある。
 過去帳には源五右衛門その人の名はなく、彼の妻が、当家の縁者であると見るべきだろう。
 元禄十一年の検地は、太閤検地以来の、江戸時代ではただ一回の大規模な検地だった。数日で完了できるものではなく、蔵田氏は長期にわたって当村に滞在したであろう。そのときに当家の娘を見初めたと考へるのが自然だらう。戒名も同じ法華宗のようである。妻の没した享保六年(1721)は、元禄十一年(1698)から23年後。20代前半で嫁いだとすれば、40代半ば、早い死であったのかもしれない。
 用人の給金は天保時代でも年五両しかなく、米代が別としても、年収では上層農民よりも低い。しかし、武士の身分であることを加味すると、対等の付き合いができる関係なのではなかろうか。

 他に、当家の過去帳の同じ二十九日には、「中田仁兵衛子」と書かれた戒名もある(図版)。他に「中田仁兵衛」「中田仁兵衛妻」が享保の頃にあり、別に「中田仁兵衛娘」もある。戒名の文字数が短いので、番頭夫婦かもしれない。苗字については、血族でないことを示すために出身の苗字を記すことはあるだらう。
 正徳の頃には「壽清院妙厚日理、江戸川崎善右衛門妻」といふ人もある。夫の「川崎善右衛門」、舅と思はれる「川崎先ノ善右衛門」、計三人の名がある。この「妻」も、当家の出身と思はれる。苗字の上に「江戸」とあるのは、先ほどの「江戸蔵田源五右衛門妻」と同じなのだが、領主の中野家には川崎氏はゐない。江戸の商家あたりかもしれない。
 前述の蔵田源五右衛門も、妻より先に没していたら、当家の過去帳に記載されたとも考えられる。
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本の持ち方

書店に並んでゐる雑誌の表紙を見ると、表紙の中央よりやや小口寄りに、爪跡のようなものがあり、裏表紙も同様の状態のときがある。立ち読みした者がつけたのだらう。
どうも、本の持ち方が間違ってゐるのではないかと思った。

そこでネットの画像検索で「読書 イラスト」を検索してみると、本を立て、本の両端を掴んでゐる子供の絵が実に多い。

立ち読みの者は、そのような持ち方(掴み方)で、大判の雑誌を開いて左右を掴み、親指は押さへたまま、四本指を中に寄せて中ほどまでを閉ぢ、片手の親指をゆるめて1枚だけ離し、反対の親指でその1枚を掴み、両手を左右に広げて新しいページを読む、というやりかたをしてゐるようだ。(文章の説明だけではわかりにくいだろうが)
ページめくりのとき、本の左右を掴んだまま中に寄せるのだが、そのとき紙は直角に近い状態に曲る。脇で見てゐると、それらの一連の動作を高速に行なって飛ばし読みをしてゐる乱暴な者もある。そのために本を傷めるのだらう。
単行本では、カバーを上にずらしたまま棚に戻してあるのがあるが、本を立てて掴み持ちしてゐるので中身が下がるからだらう。
女性の場合は、そんな乱暴なことはせず、扱ひも丁寧な人が多い。

では、正しい本の持ち方、本の持ち方の手本とは、どのようなものであるべきか。じつは恰好の手本がある。

誰でも知ってゐる二宮金次郎の像である。手本は二宮金次郎 といふわけだ。

二宮金次郎の像は、背中に薪を背負ひ、左手の手のひらを胸の下で上に向けて水平にし、その高さで、手のひらの上に開いた本を載せてゐる。本は、やや手前が低くなるが、ほぼ水平である。和本は軽いので、片手に載せるだけでじゅうぶんである。
ページをめくるときは右手の親指で、左ページの下から右へめくる。
小さい本などで、すぐに閉ぢてしまいやすい場合は、左手の親指の先で、本の表側から軽く押さへる。

最近の本は、紙が硬く、製本も接着剤で固めるだけなので、ページを開きにくいといふ問題もあるのだらう。
欧米人では、小型の本や手帳を持つときは、片手で、手のひらを顔に向けて胸の高さに立て、本の下から、親指と小指を本の表に出し、残りの指は裏側で本の背のあたりを支へるといふ人が多いようだ。この場合は、軽く挟むだけなので、本は立てたほうが安定する。
【倚松帖より】
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8月8日の陛下のお言葉

8月8日の天皇陛下のお言葉から1か月になる。
国民の反応は、非常に多くの人々が、天皇陛下にはこれまでじゅうぶんお世話になってきたので、今後は御公務の御負担を減らして差上げたい、皇太子殿下もじゅうぶん立派な後継者でいらっしゃるではないか、国民から陛下に感謝の気持ちをお伝へする方法はないものか、などなど、陛下への親しみと敬意に満ちたものであったことは、喜ばしいことだった。

陛下は、天皇としての実に多くの御仕事をされてきた。たとへば

御田植。御自身で田に入り、御田植をする行事である。国民にとって、農業や米の大切さを諭されていらっしゃるように見える。これらは豊作を祝ふ秋の新嘗祭など一連の神事と一つながりのもの。

沖縄や南方諸島を訪問され、戦没者の慰霊、そして平和の大切さ。

全国植樹祭では、両陛下による「お手植え・お手まき」行事があり、国民は緑の大切さをあらためて実感する。

被災地を御訪問され、不幸な境遇の人々には全国民が手を差し延べなければならないと国民は思ふ。

福祉施設への御訪問、そのほか・・・・。

今年の全国植樹祭では、長野市での中央式典のあと、C.W.ニコルさんの「アファンの森」を訪問された。これまで世間からはやや変人扱ひされてゐたニコルさんにも、陛下は理解を示された。そのむかしの昭和天皇と南方熊楠のことを思ひ起こした人も多からう。
昭和四年の天皇行幸のときに御言葉を賜ったときの歌。

  一枝も心して吹け、沖つ風。天皇(すめらみこと)のめでまし森ぞ 南方熊楠

昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。

  雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

キリスト教や仏教には、キリストや釈迦の時代に成立した古い時代の「教典」といったものがあるそうだが、日本の神道には、同類のものはないといふ。しかし国民それぞれの時代に、天皇陛下や皇族のお姿のことを、国民が思ふとき、教典に比すべきものは発生してゐるのである。ちょうど伊勢の神宮の建物が、どの時代でも瑞々しい存在であり続けるように。

また、陛下のお言葉の端々には、特別な暖かみのある、まさに天皇としてのお言葉使ひといふものがあるよう思ふ。古典語の世界では天皇だけに係る特別な敬語法などが研究されてきたと思ふが、現代語ではどうだったらうか。それは昭和天皇時代から今の陛下へと作り上げてこられたものとは思ふのだが。

(古典文法の世界では「自尊敬語」などと名付けられたものなどがあるようだが、自尊敬語といふ名付けのしかたは何とかならないものか)

「元首」といふ言葉があるようだが、ラテン語の語源を調べて見ても、もとは軍事指揮官の意味である。ヨーロッパの王室は、日本で言へば、源氏や平氏、足利や徳川、すなはち征夷大将軍と比較されるべき時代背景のあるものともいへ、20世紀以後は、軍事や政治権力から遠ざかり、日本の皇室へ引き寄せられてゐるかのようにも見えるわけである。
【倚松帖より】
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