神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

『大岡仁政録』を読む


江戸時代の『大岡仁政録』(白子屋庄三郎一件)の古い写本があったので読んでみると、罪と罰についての考え方の時代による変遷の一端が垣間見えて興味深い。

「白子屋庄三郎一件」の話はこうである。
江戸でも中規模の店を構える白子屋の庄三郎は大変な働き者だった。しかし妻のお常は、派手好きで享楽にばかりふける不道徳者だった。お常は先代の娘で庄三郎は婿である。娘のお熊には又七という聟をとったが、聟の持参金を遊興に使おうという母お常の思惑からであった。母は髪結いの男を間男にしていたが、娘も店の手代とできていて、母娘で道楽三昧であった。
やがてお常は遊ぶ金がなくなると、日頃世話になっている店の旦那に借金の相談に行ったが、お常の遊び癖は既に知られており、説教されて、店は聟夫婦に任せてお常夫婦は隠居するように意見された。
だがお常は逆に聟は追い出そうと計略をはかり、毒殺を試みたりもした。さらに、婿の持参金を返さずに離縁する方策として、下女をだましてカミソリを持たせて聟を襲わせ、婿と下女の不貞による心中未遂をでっちあげようとした。だが失敗して御用となる。

 大岡越前守の裁定はこうである。
 娘お熊 密夫 殺人共謀などにより 引廻し・獄門
 手代  密通と五百両の盗みなどにより 引廻し・獄門(髪結も同じ)
 下女  主人への殺人未遂により 死罪
 お常  養子への殺人教唆により 遠島
 当主庄三郎 監督不行届きにより 江戸追放

なかなか重い罰であるが、当時は罰則については厳しいものがあった。現代では罰則は軽く、特に役人による不正に対する罪があまりに軽すぎると思うがそれは余談である。

さて、気になるのは重い罰が多い中に、お常の罪が比較的軽いという点である。元はといえばこの女が一番悪いような気もする。
しかしよく考えてmると、おそらくこういうことだろう。つまり、お常は仮にも被害者の養母だからということである。
すなわち、処罰するということは、被害者から見れば報復なり仇討ちのようなものであって、それを公権力が代行するにも等しいのだというような意識が、当時は強かった。お常が死罪となれば、養子が養母を殺すに等しいということになり、「親殺し」になるので、それは避けたいという意識なのだろう。とくに処罰する側の武士の、親や主君に対する意識では、そうなるのである。
そそのかされたにすぎない下女が死罪となるのは、「主君への謀反」のようなものだからであろう。

お常、お熊のように、代々娘が婿をとるのは、江戸時代の商家では普通のことである。庄三郎は元は先代の番頭だった。

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近世古文書の世界


神話の森のホームページ内に、新しく、江戸時代の村の古文書についてのコンテンツを開設する予定です。(4月の予定)
最近は江戸時代への関心が高まっているらしく、一般に知られた著名な研究家といえば故杉浦日向子氏など、江戸時代の庶民の生き生きとした生活ぶりが、現代の世知辛い世の中と対比されて紹介され、見直されています。
ところがそういったことは、江戸など一部の都会の町民たちの間の話であって、国民の圧倒的多数を占めた地方の農民たちの生活については、伝統的な信仰生活についてはよく語られますが、それらを除けば、経済的な貧しさであるとか、支配者の言いなりだったとか、そんなことばかりが強調されてきたようなところがあります。
我々の先祖について、無能で支配者の言いなりだったという見方には、「有能な現代社会の自分」という考えが前提になっています。現代人はそれほど有能でしょうか。
ま、そういった反省も大事かと思います。

アーカイブやカテゴリのページの表示が遅いときがありました。
もしやと思い、一年分のアクセス解析のログをサーバーから削除して様子をみます。一年分の量が73メガバイトもありました。もっと少なく済むものに変えたいところです。

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高橋泥舟


高橋泥舟「幕末の三舟」とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のことだが、高橋泥舟はあまり表立ったことは好まなかったらしい。
事典で見た肖像は二枚目役者のような優しい面立ちだったが、終生武道(槍術)を愛し、書にも力強いものがある。
画像の書には、

 法眼看軽薄 (法眼は軽薄を看)
 虚情任屈伸 (虚情は屈伸に任す)

と書かれてある。
「法眼」とは仏教用語でもあるが、ここでは成熟してある領域に達した知識といった意味だろうと思う。法眼は軽薄を看破するという。そうだろう。
「屈伸」とはたぶん、ペコペコ頭を下げたり、ふんぞりかえったりするような「屈伸」のことで、「虚情」とはそんなことしかできないのだという。その通りだろう。

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『別冊太陽・宮本常一』


先月発売の『別冊太陽』は、「宮本常一 生誕100年記念」ということだった。
むかし古書店で手に入れた平凡社の『風土記日本』(宮本常一編集)というシリーズは、よく読んだもので、ホームページの「歌語り風土記」でもよく参考にした。
青森県のの話や、飛騨の匠の話、そして広島県の能地の浮き鯛のページの最後の1行は『風土記日本』を参考にした。(どれも叙述内容が短かすぎて物足りないのは、300ページの印刷物に押しこめる予定で書き上げたせいである。)

その最後の1行には、船を家として生活していた漁民たちのことにふれてある。彼らが「平家の落人」だというのは後世の付会だろうが、そんな説明を加えなくても、「船上生活」の人たちは日本中にたくさんいたようで、昭和30年代のNHKテレビの少年ドラマ(題名はポンポン大将だったか)でも、東京の下町で船を家として生活する家族が描かれていた。それほど古い時代のことではない。

日本人の住宅が、床の高い構造をしているのは、もともと船の上で生活していた長い歴史の名残りではないかと、宮本常一氏はいう。そうなのかもしれない。氏の出身は山口県の瀬戸内の周防大島で、瀬戸内での生活実感からの言葉でもあるのだろう。

船の家というのも、懐かしい風景である。
日本の八百万の神さまは、それぞれのお社に御神体をお持ちだが、御神体を納める器のようなものを「御船代(みふなしろ)」という場合がある。「船の代り」でもあるが、船の形をしているものもあるらしい。神々の住まいであることは、人の遠い先祖の住まいだったのかもしれない。

 いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟   高市黒人

有名な万葉歌だが、「棚無し小舟」の解釈が通説では合理的すぎるような気がしている。

さて「能地の浮き鯛」といえば、広島大学の生物学者、長沼毅氏のことが思い出されるが、最近NHKテレビの「プロフェッショナル」という番組の特集に登場され、25日の再放送を見ることができた。「生物学界のインディ・ジョーンズ」とも言われているらしく、注目の人であることは間違いない。

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『ツクヨミ・秘された神』


ツクヨミ・秘された神日本の月や星の神様のことはこのブログでもとりあげてきたが、古事記などに登場する月の神さまのツクヨミノミコト(月読命)は、一種謎にみちた神であり、現代人の関心をさそう神である。

戸矢学著『ツクヨミ・秘された神』(河出書房新社)は3月の発行だが、興味をわかせる記述も多い本である。
古事記において三貴子と呼ばれる、天照大御神、月読命、須佐之男命の三柱の神は、それぞれ対等の姉弟のようでもあるが、なぜか月読命だけが事跡や物語を多く持っていない。一方で三種の神器に数えられる鏡・勾玉・草薙剣のうち、鏡は天照大御神に、剣は須佐之男命に縁のあるものだが、勾玉が不明である。勾玉と月読命の関係をめぐって、話が進んでいくわけである。
アマゾン ツクヨミ・秘された神

ところで江戸時代の国学者・平田篤胤は月読命は須佐之男命と同一神だとしたのだが、幕末の地方の知識層には平田国学の影響がかなり大きかったらしく、それ以前の月読命の存在が須佐之男命の名のもとに習合されてしまった可能性のことを考えてみたいと思ったことはあるのだが、なかなか難しいものである。

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消費儀礼について


対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』の中の歴史学者の網野義彦氏の発言についての若干の疑問について。
近世の農民の割合が8割以上だというのはウソ、というのはその通りなのだろう。牧畜や養蚕は農業ではない。果樹栽培も農業ではないという。しかし藁の加工品も作らず全く田畑だけで働く人だけとなると、純農民というのはほとんどいなくなってしまうのではないだろうか。よくわからないが、米で年貢を納めた人は農民なのだろうか。
行政的に村という呼称でも実際は都市であることも多い、というのもその通りだろう。

国民の主食として米があまねく行き渡ったのは戦後のことだという。確かに昭和10年以前生まれの畑作地帯の人の実際の話を聞くと、それに近い話を聞く。米は主食としては重要ではなかったという。江戸時代は長屋の住人でも米を食べたというのは、都市民だからだなのだという。(以上『歴史の中で語られてこなかったこと』の話)

しかしここで疑問が湧いてしまう。実際の農民はそれほど数は多くなく、都市民が多かったというなら、米を主食にしていたのは都市民だけにすぎなかった(少なかった)、というのでは理屈に合わない。都市民的な人が多ければ米の消費も多くなるはずである。
実際にどうだったかはよくわからない。確かなことは、江戸時代に日本で生産された米はほとんどすべて日本で消費された。そして大金持ちの商人だからといって胃袋が特別に大きいわけではない、ということである。米はハレの食物だというが、庶民生活では月待ちやら先祖の月命日やらでハレの日はいくらでも有り得たのではないだろうか。

日本では、稲の生産過程でさまざまな神事が行われた。豊作を祈り、人々や地域の安寧を願っての神祭りである。しかしこれらは単に生産に関するだけの祭だといって良いのだろうか。少なくとも新穀感謝の祭は、消費の始りの儀礼に間違いない。さらに生産儀礼のなかにも消費儀礼の要素を見てゆければ良いと思う。

というのは、平成以後のさまざまな社会問題の原因について、現代人は生まれながらの消費者としてこの世に現れるからだという指摘が多いからである。
ある商品を買うという行為においては、子どもも大人も金持もすべてが平等であり、それが子どもや若い人にとっては限りない解放感になり、全てを消費者の目でしか見えなくなってしまう。そういう意味で今の若者はお金にこだわるのであって拝金主義ということではないのだと内田樹氏は言う。消費者は生まれながらの「お客さま」であり、お客さまとして待遇されるべき権利があり、それが少しでも損われたと感じたときに現代人のトラブルが発生するのだと森真一氏は言う。

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寺請制度の直前


わが家にある最も古い位牌は、元禄年間の夫婦2柱で、柱の部分の観音開きを開いてみると、金箔の上の戒名が読めないことはない。お寺は数キロ離れた日蓮宗の寺によるものである。
その寺の僧が文化年間に前書を書いた過去帳には、月命日ごとに多数の戒名と没年が書かれるが、元禄以前の別の寺が関った戒名の脇には寺の名が記入される。室町時代の男子には、20キロほど離れた別の日蓮宗の寺が続き、同じ時代の女子の記録はない。江戸時代初期は、女子は全て近くの臨済宗の寺で、男子の一人も同じ寺だが、他の男子は日蓮宗の戒名と思われるが、室町時代からの寺のものと類似した命名である。室町時代初期の男子1名は臨済宗の寺である。

複雑に書いてしまったが、元禄以前はおおむね、男子と女子の寺が異なっていたような時代が長かった。大正時代の当主の書き残したものによると、室町時代に20キロ遠方から来た婿がそのように改宗したのではないかという。しかし室町時代に寺請制度があるわけではなく、男子と女子の寺が異なるのは、当時の時代には普通のことだったのではないかと、以前にある郷土史の小雑誌の投稿原稿の中にちらと書いたことがあったのだが、その内容が老母に不評だったのは、大正時代からの言い伝えなのでやむをえないのかもしれない。

宮田登氏が圭室文雄氏の研究を紹介しながら書いてあるものを読んでいたら、江戸時代初期の宗門人別帳は、お寺は個人ごとに別だった、家単位で一つの寺になったのは江戸中期以後だと書かれていた。江戸中期以後とは元禄以後のことだろう。「戸別帳」でなく人別帳というくらいなのだから、個人別という意味だったのだろうか。個人別といっても、その時代にはわが家では寺は2つだけでもあり、全くの個人ばらばらということでもなかったろうと思える。圭室・宮田両氏の共著『庶民信仰の幻想』は読んだことはあるが、この問題よりもキリシタンや日蓮宗不受不施派などのことが詳しく書いてあった(※)。

なぜ宗門人別帳が個人毎だったのかは、江戸初期といえども室町時代の続きなのだからだろうが、それ以上は不勉強である。寺請制度(檀家制度)の確立までは、政治の意向もあり一筋縄では行かなかったことは確かなのだろう。

(※蛇足 日蓮宗不受不施派の本拠地は岡山県にあったという。「神奈備にようこそ」の管理人さんが岡山県の江戸時代の資料で「神捨て場」のことが書かれていたといい、ある神社由緒資料で「淫祠」という語を検索したときも山陽地方が多かったのと、関係があるかもしれない。)

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「こだま」と「ひかり」


昭和39(1964)年の東海道新幹線の開業のときの列車名は、「ひかり」と「こだま」だった。「こだま」とは音速の意味でもあり、秒速340メートルとまではいかないまでも速いもののことだったのだろう。新幹線以前の最速特急列車の名前をそのままひきついだものである。「こだま」より速い「ひかり」は、光速の秒速30万キロメートル、大げさではあるが、高度成長時代の景気付けだったのかもしれない。

バブル崩壊後の1992年に更に速い新幹線「のぞみ」が誕生した。「のぞみ」は、いかにも不況の時代を示すような名前であり、人々が精神の内面の世界をさまようようになってしまった時代の象徴だろうと、堀井憲一郎という人が書いている(『若者殺しの時代』)。
それに付け加えるならば、「ひかり」や「こだま」は必ず反射して帰ってくるものだが、人々の「のぞみ」には見返りがあるとは限らないということである。人々の一方的な無数の「のぞみ」が衝突しあう時代になってしまったからだろうか。「のぞみ」以前の昭和50年代(1975〜1984)には、実際に、若者たちが地方に帰って就職先を求めた「Uターン現象」が注目された時代もあったのである。

「こだま」以前の国鉄最速特急の名前は「つばめ」だったと思う。つばめも秋には南方へ去って春には帰ってくる。周期の期間こそ違うが、「こだま」も同様の命名法によるものだった。虎は千里行って千里帰る、だから出征兵士に千人針の布を持たせた時代もあった。片道とか片便りといった「片」のつくものを日本人は嫌い、二つ揃ったものを縁起の良いものとしてきた。紅白まんじゅうや、相撲の横綱も東と西の二人は対等であるし、手紙の便箋も2枚にするために白紙を添えた。そのような日本人的な感性でもあった。

しかし「ひかり」が反射して帰ってくるものだというのは、理科の知識としてはその通りだが、日常感覚としてはどうだろうか。否、それよりも、宇宙には光速よりも速いものは存在しないという知識がありながら、次世代のことは考えずに、単なる一世代に過ぎない者たちが、この世の最速を名乗ってしまったのは、なぜだろうか。

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「神話の森」更新の計画


なかなか進まないサイト更新について、かねてからの計画を書いてみる。

「神話の森のブログ」は、記事ごとにテーマを吟味したコラムの形式で来たが、更新が少なくなってしまった。「日本を学ぶ」という一般的な主題で、読書記録など、なんでも書き留めておいたものを載せるもの良いと思う。

「歌語り風土記」は、いつか九州の百合若大臣の伝説の和歌を何かの本で見たのだが、メモするのを忘れてしまった。記事を増やすためにネット検索を利用することはないと思う。画像の追加として、本やパンフレットの表紙を簡単な紹介とともに載せる案がある。

「歌語り歳時記」は、このブログの一部分になってしまっているが、独立させたい。

「日本の神話」 一部の難解な用語の部分をのぞいた古事記の口語訳はかなりできあがっている。しかし一部の語の説明法を検討し始めたら、一筋縄でいかないこととわかって、停滞中。

以前印刷した「歌語り日本史」を利用して、「千人一首」のようなコンテンツも良いと思っている。難易度は低いので、こんなものから着手するのも良いかもしれない。

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翁の知恵


数ヶ月前から「翁の知恵」ということを考えていた。
人間五十を過ぎれば「翁」であろう。
巷では「おばあちゃんの知恵」と称して、家事に関しての古くからの知恵が、意外に理にかなったものであり、人の心も豊かにするような、そんな伝承の価値が再認識されている。それに対しての翁の知恵のことである。
そういうのが高齢化社会の新しい文化になったら良いのではないかと思った。

『老人力』という十年以上前のベストセラーをもう一度開けばヒントになるかと思ったが、たまたまコンビニで売っていた『中央公論』の新年号の、山崎正和氏の言葉が面白かった。
簡単にまとめてみると、もともと江戸時代の文化は、大田蜀山人をはじめ中高年が文化の担い手であったという。若者はもっぱら肉体労働に従事し、文化の作り手は中年以上の旦那衆や御隠居衆だった。吉原も若者が行く場所ではなかった。
江戸時代以前は世界中がそうであり、明治以後の日本だけが若者文化中心になりすぎているらしい。芥川賞も青春文学ばかり。
日本の古典の教養よりも、西洋文化の聞きかじりが優位にまかり通ってしまった時代、教養が省みられず、単なる技術的な知識だけが蔓延してしまった時代、ということになる。

そんなことをヒントに考えて行けたら良いと思う。すぐに役に立ちそうに見えない教養というものは、しかし中高年になって初めてボディーブローのように効いていることがわかってくるものである。

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