節分は2月の何日?

 閏年の配分
最初に閏年の説明から。
閏年は400年に100回ではなく、97回と見て大きな支障はない。
閏年の配分は、4年に1回、西暦の年数が4で割り切れる年を基本とすると、400年に100回になるが、
そのうち100で割り切れる年(1800年、1900年など)を除外すると-4で96回。さらにそのうちから400で割り切れる年(2000年)は閏年とするので、+1で97回になる。

閏年から閏年までの間隔は、例えば1896年から1904年までは8年になり、常に均等ではない。閏年は4年間隔のときが多いが、400年で3回は8年間隔になる。
1904年から2096年までは193年間も4年間隔となり、閏年が多い期間になる。

 立春から翌節分までの間隔
立春から翌節分までを1年とすると、平年は365日だが、366日の年もあるのは、閏年と同じで、400年で97回は、366日の年がある。
しかしこの97回は均等に近い(4年または5年の)間隔で現れるのが閏年とは異なる。
366日の年は、およそ33年で8回現れる。8回のうち7回は4年毎になるが、8回目は5年の間隔になる。(稀に37年で9回のときがある)

決め方は、春分点(の瞬間)を含む1日を春分の日と決め、そこから立春の日が計算される。
春分点から翌年の春分点までの時間は、地球の公転周期のことなので、毎年秒単位でほぼ一定である。しかし「春分の日」から「春分の日」までは、日数が単位になるので、これも365日と366日のときがある。

同様に立春から翌節分までも365日と366日の年があり、366日の年は、4年間隔で7回続くと、8回目は5年間隔になる。
この366日の年は、平成時代の30年間は、たまたま閏年と一致していた。したがって節分の日は、毎年、2月3日の日付になった。平成28年(2016年)の閏年まで、そうだった。
しかし次の(8回目の)366日の年は、5年後の2021年である。閏年とはズレが生じた。
閏年の2020年の立春から翌節分までは365日になった。その年は閏年で2月29日があったため、365日後の日付は1日早くなり、立春は2月3日、節分は2月2日になった。
そして、その年(2021)の立春から翌節分までが366日となったため、翌2022年の立春は2月4日、節分は2月3日に「戻った」ようなことになった。
以後は、33年ほど先までは、「閏年の翌年の節分は2月2日」になるのだろう。

 補足
昭和の後半の約33年間は、「閏年の節分は2月4日」であった。閏年の前年の立春から翌節分までが366日になっていたからである。

昭和から令和にかけて、節分や立春の日付が早まったように見える。それは前述のように、閏年が4年に1回の時期(閏年が多目の時期)に、立春から翌節分までが366日の年は約33年で8回である(閏年のペースより少ない)からである。だんだん日付が早まる傾向は、4年毎に必ず閏年がある2096年まで継続する。

次の33年間は、節分が2月2日の年が2年続くことになる。
更に次の33年間は、2月2日の年が3年続き、2月3日は1年のみになるが、途中で2100年になると閏年が1つ少なくなるので、以後は、2月3日の年が3年、2月4日は1年、ということになるだろう。
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薮入りと初山

初山入りという正月行事は、新年に初めて山に入って薪をとり、その薪は小豆粥や、田植のときの昼飯を炊くのにも使うという。事典などによると、1月11日のほか、2日、4日、16日など地方により日は一定でないらしい。今は残っていない地方もあるだろう。

ここでいう山とは屋敷林でもじゅうぶんなので、年の最初の薪と最初の火を、山の神から授かるという意味もあるのだろう。初山は仕事始めの意義もあるらしく、2日というのは元旦の翌日、4日は3が日を休んだ翌日、16日は小正月の翌日になる。
田植のときの昼飯とは、田の神を祭る日の食事になる。田植祭は年の初めに水源地などで行なわれることも多いのだが、そこでも初山の薪が使われるのではないか。

山椒太夫』の物語で、捕われの身となった安寿と厨子王が、山に入って薪取りを命ぜられる場面があり、初山の伝承行事を背景にしたものと指摘されている。その日に、二人は山椒太夫のもとから脱出を相談し、厨子王は脱出し、安寿は折檻を受けて命を落とした日でもある。安寿姫の命日は1月16日であるという伝承が全国各地にあるので、16日の初山の日になる。

1月16日は、薮入りの日、閻魔祭の日でもある。
薮入りは、江戸時代では奉公人たちが里帰りする日とされるが、実際は奉公先から解き放たれる自由な日であり、それと同様ないしより自由な日というのが中世にもあり、厨子王が脱出できたのも、そのような日であるということが背景にあるとのことである。閻魔祭の日には地獄図絵が開帳されるので、その日に語られた安寿の物語には残酷表現が加わるのだという。安野真幸著『下人論』を読むと、そのようなことが詳細に書いてある。

同書に次のような一文がある。
「『お岩木様一代記』から『山椒太夫』への変化の中に母子神信仰・御霊信仰から氏神信仰へという世界観の大転換を見てとることがdきよう」133p

ここでいう氏神信仰とは、近世初頭の単婚小家族の成立、檀家制度、小農自作農たちによる村の形成、村鎮守の成立などと深く関連するもののことである。そうした近世とは異なるのが中世なのだろうが、著者は「母子神信仰・御霊信仰」と表現している。読者のために断っておくがこの「母子」とは近世近代的な密着型の母子のことでは勿論ない。母子神信仰とは女人救済につながるものだと思う。

中世では人口の大多数は下人の身分だったであろう。安寿と厨子王の物語は、離れ離れの親子が一緒に暮したいという目的のために生きる物語である。下人には家族同居の生活ができないことがわかる。人口の大多数がそうだったことになる。厨子王の元の家は、陸奥の領主であり、多数の下人たちと一家をなしていたはずである。厳密には親子水入らずの生活ではない。山椒太夫とは違って、善政をしいていた。
 岩城の家の没落後は、父は単身で西国へ配流となり、母と姉弟と乳母で落ち延びていた。
乳母はうわたきという名で、四人は越後で誘拐され、その直後には乳母のみが命を断った。近代的な視点から申せば、姉だけでなく乳母についての供養も省略できないと思う。

山本健吉『古典と現代文学』(「近松の周辺」)では、説経節と浄瑠璃の関係が書かれ、女人救済について述べている。

「浄瑠璃の元は説経であり、神仏の縁起を説く語り物であった。説経とは唱導であり、唱導者が布教の手段とし声明道で練った美声で節廻し面白く、経文の実例になる話を語ってきかせたのである。彼等が如何に哀愁の深い物語を声美しく語り、しかもその美貌を以て聴衆を恍惚とさせたかは……」
「説経は男の語り物であるが、説経から出た浄瑠璃は、もと女の語る物であった。(中略)瞽女が語ったもので、自分たち女の呪われた身の救いを説いた。」

「説教は男の語り物」そして「浄瑠璃は、もと女の語り物」と区別した書き方になっているが、説経も瞽女が語ったと書く研究書もある。「その美貌を以て聴衆を恍惚とさせた」というのは女性のようでもあるし、「美貌」は化粧などによるものとすれば、盲目の瞽女にどこまでできたかなどの不明な部分もあるが、説経と初期の浄瑠璃とは、区別不明の重なる部分もあるのだろう。
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鏡開き

1月11日は「鑑開き」の日といわれる。
正月の神へのお供えの餅を下げてきて、固くなっているのを割って、雑煮にして食べる。神様の魂や御利益もいただくということになる。

正月の餅は、非常に重要なものとされ、樋口一葉の小説『大つごもり』にも出てくる。貧乏な伯父夫婦は、幼い子に正月の餅を食べさせられないことを、非常な恥と思っていた。

「大道餅買ふてなり三ヶ日の雜煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし」(大つごもり

正月の餅を食べられない子は一人前の大人になれないという考えのようだ。あるいは、
武士でないのに、貧乏していても武士……といった印象をうけるので、金を無心するための誇張があるのかもしれないが、それはともかく、正月の餅が重要であることは理解できる。

国語大辞典(小学館)をみてみる。
「かがみびらき【鏡開】
(「開き」は「割り」の忌み詞)正月行事の一つ。正月に供えた鏡餅をおろし、二〇日の小豆粥(あずきがゆ)に入れて食べる。のち一一日の仕事始め(倉開き)に行なうようになった。武家時代には、男子は具足に、婦女は鏡台に供えた鏡餅を、二〇日に取り下げ、割って食べた。婦女は初鏡祝いともいう。鏡割り。」

「武家時代」とは江戸時代のことであろう。武家のしきたりの説明が長い。後に11日に変わったのは、民間行事と習合してのことなのかは不明。
鏡開きは、正月の連続する行事の「ひと区切り」の行事でもある。民間では古くは15日の小正月のほうを重視したので、それより前にお供餅を下げることはないのかもしれないが、神棚の大神宮様の餅なら、下げるかもしれない。一年の仕事始めの前には、餅を食べていないと、仕事が始まらないようにも思う。仕事始めが11日というのは「初山入り」と関係があるようで、職業によって仕事始めは異なると思われる。
元旦や小正月、さらに節分行事がからんでくると、年が改まるというのは、ある一瞬にということではなく、次第次第に改まるということなのだろう。
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花札の絵柄と和歌

花札には、1月から12月までの12種類の花と動物の組合せの絵が描かれている。動物は鳥が多い。

新潟県方面で流布されている「越後花」と呼ばれる花札のセットには、札の表に、花にちなむ和歌が添え書きされていて、興味深いものを感じた。ただし、歌は、必ずしも花と動物の両方を詠んだものは少なく、また、12種全部に和歌が書かれているわけでもない。
そこで、「国歌大観CD-ROM版」を利用して、月ごとにふさわしい歌を探して選んでみた。

花札春
1月 松に鶴
 住吉の松よりすだつ鶴の子の 千とせは今日やはじめなるらん  新葉和歌集
  ※ 松と鶴の歌は多いが、正月なので祝賀の歌が良いだろう。

2月 梅に鴬
 折りつれば袖こそにほへ 梅の花 有りとやここにうぐひすのなく  古今和歌集巻一
  ※ 古今集巻一の最初のほうに載る歌。

3月 桜に馬
 あるかぎり心をとめて過ぐるかな 花もみしらぬ駒にまかせて  和泉式部集
  ※ たんに花といえば、桜のこと。神の前の道を、通常の道のようにそのまま通過すると落馬したり事故に遭遇するという伝説が、各地にある。

花札夏
4月 藤に時鳥
 藤波の咲き行く見れば、ほととぎす、鳴くべき時に近づきにけり  万葉集巻18 田辺福麿
  ※ これは「越後花」にもある。

5月 杜若と燕
 つばくらめ つちくひはこぶ古沼の花もゆかりの姿にぞさく
 かり初めに 八橋わたす しづがやの 庭ゐにさける かきつばたかな  調鶴集122-123
  ※ 二首並びで、つばくらめと、かきつばたが詠まれる。一首で二つを詠んだ歌は見つからなかった。
杜若(かきつばた)は、花の形が燕に似ていることから、燕子花という別名があるらしい。「ゆかりの姿」に咲くとはそのことかも。

6月 牡丹に蝶
 ももとせは花にやどりて過ぐしてき この世は蝶(てふ)の夢にやあるらむ  大江匡房 和歌童蒙抄
  ※ 百年あるいは生涯をさまざまな花に宿り暮してきたが、胡蝶の夢のように人生ははかないという。牡丹の花に限定した歌ではないが、この歌が良いだろう。「蝶の魂」参照

花札秋
7月 萩に猪
 てる月に萩のもとあらもしたがれて けぎよくみゆるまだら猪のふし  夫木集
  ※ 「もとあら」は萩の根元がまばらなこと。「下枯れて」。
「けぎよく」は気清く。「ふし」は「伏し」ということなのだろう。
まばらに生えた萩の根元から枝が枯れてきて、伏している猪の姿が見えるのを、縁起の良いものとしたのだろうか。


8月 芒に雁 月
 雁鳴きて秋風さびし。尾花散るしづくの田井の夕暮の空   続草庵集(頓阿)
  ※ 尾花はススキの別名。「空」で月を連想させる。

9月 菊と盃
 行末の秋をかさねて ここのへに千代までめぐれ 菊のさかづき  新院別当典侍 続千載和歌集
  ※ 重陽の節句で菊酒をすすめて寿ぐ歌。

花札冬
10月 紅葉(楓)に鹿
 奥山に紅葉ふみわけ、なく鹿の声きく時ぞ、秋は悲しき  猿丸大夫
  ※ 百人一首の歌。

11月 雨柳と燕 そして蛙
 河風に柳みだれて一葉ちる おも影うつすつばくらめかな  松下集(正広)
 柳ちる六田のよどの岸陰に秋を時とて鳴くかはづかな   藤簍冊子(上田秋成)
  ※ 燕と蛙の歌一首づつ。11月は冬だが二首は秋の歌。六田(ろくだ)は吉野の渡し場。

12月 桐と鳳凰
 かげたかき桐の木末にすむ鳥の 声待ちいでん御代のかしこさ  新続古今和歌集
  ※ 梧桐の木に鳳凰が棲むという中国の伝説にもとづくもの。

(馬、燕、雁は、別の絵札に描かれている)
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六輝(あるいは六曜)

六輝(あるいは六曜)とは、今は普通のカレンダーにも印刷されてあるような
  先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口
の6種類の暦注のことである。
カレンダーを見ると、6つが順番にめぐってゆき、ある日突然何日分か跳ぶことがある。そのへんのところが、今の人には神秘にみえて、昔の人の智恵のようなものを感じて、ありがたがられることもあるようだ。
「それ(何日分か跳ぶこと)は、旧暦の月替りだからなんですよ」と説明しただけでは、通じない。

六輝は、旧暦の月ごとに、次のように決まっている。
  一月一日は先勝、二月一日は友引、三月一日は先負、
  四月一日は仏滅、五月一日は大安、六月一日は赤口、
  七月は一月と同じで、以後一年の後半は前半と同じ。
  閏月は前月と同じ。
6つが順番にめぐるので、一月七日と七月七日も先勝になる。三月三日と九月九日は大安である。五月五日は先負ではあるが、おおむね五節供には「良い日柄」が配置されているように見える。
八幡様の祭礼の日である旧暦八月十五日は、十五夜の日でもあるが、毎年必ず仏滅であると決まっている。そのほか全ての日が毎年同じで決まっているので、旧暦時代には面白みもなく流行らなかったようである。

旧暦八月の十五夜の日を、なぜ仏滅にしたのだろうか。
ちょうど半年前の二月十五日も仏滅である。西行法師の有名な歌がある。

  願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ

望月は満月のことなので「如月の望月」とは、二月十五日のことである。
旧暦の二月と八月は、二十四節気の中気である春分と秋分(彼岸の中日)がふくまれる月である。彼岸の中日は、旧暦では毎年の日付が大きく動くのだが、平均すると月のまんなか、二月十五日と八月十五日になる。
彼岸でもあるし、二月は西行法師の歌もある、というのが、仏滅が配置されたことと無関係ではないようにもみえるのである。
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明治3年のこよみ

旧暦時代の、明治三年のこよみを見たら、七月のところに、こうある。
  立秋 十二日
  処暑 二十七日
十二日の立秋は、「くさかりよし」とも書かれる(理由は未調査)。
十四日は戊(つちのえ)の日なので、「たねまきよし」と書かれる。どちらも「下段」のうちでも生活実感のある暦注であり、詳細に調べてみると面白いかもしれない。

二十四節気には中気と呼ばれるものが12あり、そのうちの7番めの「処暑」がふくまれる月が旧暦七月になる。
処暑が三十日のときは十五日が立秋となり、その月の一日(立秋の14日前)から七月なので、俳句では秋の句を詠まなければならないのかもしれない。今年(2021年)なら立秋の14日前は新暦7月24日にあたる。
七夕などの夜の行事では涼しさを感じられる季節である。処暑とは暑さが止むという意味らしいが、旧暦七月の半分は残暑の季節なのだろう。

十月を見ると、
  立冬 十四日
  小雪 二十九日
立冬の前後には「むぎまきよし」という日が3日ある。
この年の十月は、二十九日までの、「小の月」である。
翌月は「閏十月」、
  大雪 十五日
二十四節気のうちの「中気」がない(小雪も冬至もない)ので、閏月となる。前月と同じ「小の月」がつづくが、閏月は小の月が多いと思う。
暦注は、八日の戊(つちのえ)の日が「たねまきよし」。
二十七日の辛(かのと)の日が、「か(う?)まぬりつめとりよし)。「かま」か「うま」か判読できなかったが、カマなら辛(かのと)と関係あるかもしれない。「つめとり」は翌月の小寒の前後にも2日ほどあって干支は異なる。農耕馬の蹄の手入れのことだと思う。

十一月は、「大の月」で、
  冬至 一日
  小寒 十六日
  大寒 三十日
中気である冬至と大寒が、同じ月にある
次の十二月を見ると、「小の月」で、またも中気がない。
  立春 十五日
普通は大寒がふくまれる月が旧暦十二月なのだが、先に冬至がふくまれるので十一月なのだろう。大寒は翌月分とみなされたようなかたち。
翌月は立春だけで雨水がない。雨水があれば正月だが、中気がない。

ややこしい話になるが、
冬至を中気のない前月分と見なして前月は閏十月でなく十一月とし、大寒の月はそのまま十二月とし、立春だけの月を閏十二月とするという方法を、なぜとらなかったのだろう、という疑問がわく。
前述のように、中気のない月がひと月置いてまた現れるときは、先に現れたほうを閏月とする方式かもしれない。あるいは、間にはさまれた中気が2回の月の、2つの中期の時刻を詳細に計算して(現代なら何分何秒まで計算して)、前月または翌月に遠いほうの中気をその月の中気として優先するという方式かもしれない。

(画像の最後に「明治二年」とあるのは発行年)

旧暦十二月十五日が立春だというので、古今集の最初の歌、
「年のうちに春は来にけり」を思い出した。

参考(国会図書館) 明治三年の三島暦
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桜桃忌

作家の命日ですぐに思い浮かぶのは、太宰治の「桜桃忌」(6月19日)くらいかもしれないが、
先日、家の者が言うには、太宰治は中学校時代に体育の成績もトップクラスの優秀さだったとテレビ番組で言っていたということである。
なるほどと思った。
成功した有名人の大方は、体力的にも秀でた人ばかりだと思う。なにごとも根気良く努力することが肝心というけれど、精神的な意味での根気だけでは続かないもので、平均以上の体力が必要だと思う。
太宰の場合、自殺未遂を繰り返して、その経験をもとに小説に書いて名をなしてきたようなところがあり、からだが弱ければ最初の自殺の試みのときに死んでいたかもしれない。
とはいえ、作家はやはり良い作品を残すことで評価される。それがすべてであろう。

体力がなく胃も弱いという人は少なくないと思うが、筋力などの体力があることと、内臓などの強さについては、必ずしも一致しないこともあるだろう。筋肉の疲労は若いころから経験的に気にしないような生活になっているのが現代人だが、そういった疲労ではなく実は内臓疾患だったと後で気づくこともあるかもしれない。
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2021年の2月2日の節分

 令和3年(2021)の2月の節分は、2日である。

 平成時代は節分は毎年2月3日だったが、古い記憶によれば、昭和の末ごろ(1984年まで)は、4年に1度、閏年だけ4日だった。
 平成時代に毎年3日だったといふことは、365日間隔で閏年だけ366日間隔だったことになる。昭和の末ごろは、閏年の前年が366日間隔だったことになる。366日間隔の年は、常に4年に1回ではなく、ときどき5年に1回になるようである。

 閏年の仕組みと同じなのだらう。通常の閏年は西暦の数字が4で割り切れる年といふ原則であるが、100で割り切れる年は閏年ではない、ただし400で割り切れる年は閏年とするといふ決まりがある。1900年は閏年ではないが、2000年は閏年だった。西暦1901年から2099年までは、閏年が多めに配分される期間になるので、この期間の中では、だんだん節分の日付は、早めになってゆくのであらう。大正時代(1912年〜1926年)の暦をいくつか見たことがあるが、節分は3日か4日で、4日の年のほうが多かったような記憶がある。国立天文台の解説の図版を見ると、その記憶で間違ひない。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2021_2.html

 今後は、4年に1度は2日になるといふ循環が続き、21世紀後半には4年に2度、世紀末には4年に3度が、2月2日になるのではないかと思ふ。
(22世紀初めには、3日が3度、4日が1度くらゐだらうか。)
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即位の礼 正殿の儀

10月22日に、即位の礼 正殿の儀が執り行われ、天皇陛下は高御座(たかみくら)に登られ、即位を内外に宣明された。

 (陛下のお言葉)
 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御み心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。


その日は両陛下は午前7時に御所を出発され、饗応の儀の終了が午後11時半という報道があり、それだけで16時間半というのは、大変な長時間である。
ところで、9年前の2013年に即位したベルギーのフィリップ新国王の言葉を読んで気になっていたことがある。全文は現在はわからないが、主要部分を見つけることができた。
「ベルギーの憲法と法律を順守し、国家の独立と領土が侵害されることがないよう維持することを誓います」

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000009208.html
領土云々のところが、日本とはだいぶ違うと思った。現代の王室が法的に国防義務を課せられているとは考えにくいので、なにか昔からの名残りで引き継がれている文言なのだろうと思った。
ヨーロッパの王室の起りは、ハプスブルグ家でも13世紀、イギリス王室は17世紀であり、日本の応仁の乱が15世紀なので、日本でいえば一種の武家政権のようなものなのだろう。「貴族」という言葉の意味合いが、西洋史と日本史ではだいぶ違うので、注意が必要だ。

日本の場合は、耶馬台国時代に百余国ないし数十ヶ国が乱れたときに、1つが他を征服するのではなく、倭国連合の女王に卑弥呼が共立されることによって平和を取り戻したという話があるが、そういったお国柄だったのだろう。
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新元号「令和」

5月1日の譲位にともなう新元号は「令和」となることが発表された。
万葉集巻五、梅花の歌三十二首併せて序、「初春の令月にして気淑く風和らぎ、云々」からとのこと。
令月とは、「?@万事をなすのによい月。めでたい月。?A陰暦二月の異称」と広辞苑にある。
(この令は、せしむる、命令するという意味ではないことになる。)
もとは、後漢の張衡という人の『歸田賦』の「於是仲春令月、時和気清」という言葉を踏んでいるらしい。張衡の詩は自然を称え、自然回帰のようにもとれるもの。
張衡は令月を仲春としているが、日本では初春になっているのは、満ち足りた春に満足するのか、春の予兆を重視するかの違いだろうか。日本の「春」とは、一年を均等に四分割したうちの一つではないようだ。

令和
令の書き方は、筆記ではいくつかの書き方があり、下の部分を「マ」のようにも書く。
どの字も活字のように四角いマスをいっぱいに使おうとすると、「令」の字は小さく見えてしまうので、「令」の左右は「和」より大きく書き、「令」の先はあまり尖らせないほうが良いかもしれない。
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