筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原

 藤原といふ地名がある。
 藤原とは、淵原(ふちはら)のことであり、水源地の意味であると、折口信夫『水の女』でいふ。清らかな水があり、禊ぎをする人があり、その介添の女がある。天皇の禊ぎを担当するのが、藤原の氏族の女であり、皇后にもなるのだともいふ。民間では、産湯を使ふ取り上げ姥から、三途の河のほとりで衣を奪ひ取る婆まで、女性の力に頼る人生になってゐるのも、このためであらう。

 万葉集に、葛飾の真間の井の伝説があり、手児奈といふ美しい娘が、複数の男に求婚されて入水したといふ悲話である。高橋虫麻呂の歌がある。

 葛飾の真間の井見れば、立ち平し、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ

「水汲ましけむ」とあるので、同系の女であることがわかる。真間の井とは清らかな水のある場所であったらう。

『地名の研究』で柳田國男は、「土の崩れる崖をママといふ」「上総・信濃でも土堤のことをママといふ。その説明には崩れるといふことはないが、高地の側面をママといふことだけは前説と通じてゐる。『地名辞書』にも、相模足柄上郡福沢村大字壗下(まました)に関して、崖のはずれをママといふと記してある。」(柳田国男『地名の研究』)

 葛飾の真間の下流には、欠儘(かけまま)といふ地名もあり、カケも崖のことである。
ママは「高地の側面」といふのは、崖の側面、斜面のことであり、湧き水のよく出る地形である。手児奈が水を汲んだ場所は、本来はそのような泉のほとりだったであらう。
藤原の「原」も、実は同類の段丘地形のことだといふことは、後に明らかになるであらう。

 源といふ姓も、意味は水源地のことである

 平(ひら)とは、広辞苑に「セ鈎罎砲△訌蠹広い緩斜面」とある通り、平らな地形ではなく、傾斜地をいひ、古事記の黄泉つ比良坂のヒラがこれに当たる。沖縄では、傾斜地の上の台地を、高ヒラの意味でタヒラといふのだと説明される。姓の「平」も、その意味は、傾斜地や水源地と関係するものと想定できる。

 ここまできて、橘(立花)といふ地名も、同様ではないかと思った。タチは、東北に多い館(タテ、タチ)のことであらう。
 「東北に往って聞いてみても、岡の尾崎をタテとはいふが館迹とは言はない。畑とか林とかの場処をさしてただタテと呼ぶのである。もし強いて細かく説明するならば、奥羽でタテといふのは低地に臨んだ丘陵の端で、通例は昔武人が城砦を構へてゐたと伝へられる場処である。」(『地名の研究』)
 タチを「丘陵の端」とするなら、ハナはさらにその先端になる。
 武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の郡家跡らしき場所も、地図で見ると川崎市の多摩丘陵の端の、少し先に多摩川の見える地であった。
 群馬県前橋市郊外の橘山は、同様であり、赤城山麓の端の利根川近くにある小山である。近くには、水分神社がある。

 ところで、源平藤橘といへば、日本を代表する四大氏姓である。高貴な姓ともされる四つの氏姓には、その意味に共通するものがあるようだ。もっとも太古の昔に人々の集団が定住するにふさはしい場所とは、湧き水の豊富な場所のことであり、その場所や地名を尊ぶのは当然と言へば当然である。

 橘とか原とかいふ言葉から思ひ起こされるのは、古事記で、黄泉国から帰ってきた伊邪那岐命が「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはきはら)」で禊ぎをした話である。筑紫……以下について、その意味ゐ考へてみよう。

 筑紫は九州のこと、日向は日向国のことで、異論はなからう。
 橘は、本居宣長の『古事記伝』には、地名のことだらうとしか書かれてなかったが、既に見たように「丘陵の端」の「ハナ」といったような地形の場所であらう。
 小戸とは、尾処(ヲド)の意味で、更にその先のことであらうか。

 阿波岐原は、日本書紀では「檍原」と書かれる。檍は、広辞苑には「かし・もちのきの古名、梓の類などというが、未詳。〈神代紀上訓注〉」とあるが、アハキはアヲキ(青木)のことかと古事記伝にあり、昔からいはれてゐたことらしい。
 しかしその先がわからない。ここまでで、アハキハラの探求は、終るかと思はれた。しばらくして『川を考える地名』(小川豊:著)といふ本を見たら、興味深い記述があった。

 「青木地名の大方は、樹木が繁ったというより、微小扇状地といった地形で、全国的にアオギで分布、オーギは兵庫県芦屋くらいであろう。降水のあったときだけ川になるというのもある。とにかく旧河道(谷地形の)の土砂堆積地であろうと思われる」(『川を考える地名』)

 同書では、別の項目で、アバ、アワの地名について、古語の「発く」からきたもので、土地の表面が剥がれたり、崩れたりした場所であり、川の近くなら川崖のあるところだといふ。
 小川氏は、もと建設省の技士で、全国の工事に関り、土地の地質と地名とが密接な関係にあることが多いことに気づいて、その研究を発表された人である。
 小戸が狭い場所のことなので、 阿波岐原も、広い場所ではなからう。阿波岐原は、河原の「微小扇状地」か、川崖のあるところか、どちらかだらうが、禊ぎの場所であるから、脇から清らかな湧き水があるような水源地でもある河岸のあたりといふことになる。

※ 小川氏の崩壊地名の本については、「地名でわかる危険地帯」のように宣伝されることもあり、部分的にはその通りなのだらう。しかし日本列島は、どこへ行っても断層だらけでで地震と津波の国であり、避けられないことである。
また他方では、別の見方をすれば、日本の地名は、土地を客観的な不変の形状として認識するのではなく、生き物のように形を変化させてきたものとして捉らへてきたところがある。島根半島は、遠くの島に綱を引っ掛けて引っ張って来たものと考へたくらゐである。丘の形を見て、欠けたところがあるように見えれば、事実はともかく、昔に欠けたと想像してガケと呼ぶこともあらう。
 いづれにせよ、段丘や崖や斜面についての呼び名や地名が、実に多量にあるのが日本の地名の特徴である。
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大嘗祭について

令和の大嘗祭が、11月14、15日に執り行われた。
大嘗祭とは小学館国語大辞典に次のようにある。

「天皇が即位の後、初めて行う新嘗(にいなめ)の祭。その年に新たに収穫された穀物を、天皇みずから、天照大神をはじめ天地の諸神にさし上げる一代一度の大礼。
祭に用いられる新穀は、あらかじめ卜定された悠紀(ゆき)、主基(すき)の国から奉られ、祭の日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿で、これを神に供え、みずからも喫する。(中略)季・冬(季語は冬)」(小学館国語大辞典)

補足すれば、穀物以外の収穫物も各地から献納される。悠紀国の「国」とは明治の廃藩置県以前の国(武蔵国など)のことで、現在は県を卜定して悠紀地方、主基地方という。

「新嘗祭」とは、毎年の収穫やそれを加工したもの(酒など)を神前に供え、その年の収穫を報告・感謝し、神前から下げたものを、祭の参加者がいただく(直会や宴の形式になることもある)というもの。収穫感謝の儀礼は世界のどの民族でも伝統的に行なってきたものだが、日本では新嘗祭という形式で発展してきたもので、宮中をはじめ日本中の村々や町(の神社)でも行なわれ、あるいは別名で「秋祭」などと言っているところもある。
その年の感謝の祭なのだが、明くる年の収穫を祈る祭でもある。新しい穀物などを食することによって、感謝とともに、次の年のちからになるからであろう。

日本では穀物や食物に関する儀礼の中心に天皇があり、その天皇が代替りされることから、その役割を継承され、日本中の村々の新嘗祭を統合する形式で、新しい御代の収穫や災害のない世を祈られるということになる。
天皇が国民統合の象徴であるように、大嘗祭は国民の祈りの統合の象徴というべきだろうか。
天皇は日本の象徴ともいわれるが、それだけでなく日本の歴史の象徴でもあり、未来の象徴としても新しい天皇は即位されるのだろう。

『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』(高森明勅)では、多数の国民が具体的に多様な奉仕によって大嘗祭に関ることの意義が語られていたと思う。律令制とともに定着したということなのだが、本は読了していない。大嘗祭が稲作を普及させることにもなったといえるかもしれない。

『日本人とは何か』(中西進 1997)で大嘗祭について少し書かれた部分が気になっているのだが、その本が見つからず、引用できない。

折口信夫の『大嘗祭の本義』は基本文献である。伊勢の神嘗祭との違いについてや、村々の祭については当時の現場を見知っていた折口の描写と語りはリアルで深いものがあり、民と天皇のつながりを見抜いたものでもあったろう。
悠紀殿や主基殿の中の設備のことを、「或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。」(大嘗祭の本義)という。「共寝」の話が出てくるわけではない。
「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾と申して居る」という。
高天原の天照大神の田の稲種を授かって、瓊瓊杵尊が降臨して葦原中国に伝えたという神話が、再現されるという、そういった神をたたえる文学の国民的共有は、あっても良いものだろう。
それは日本の文学や芸術の統合の象徴である、といえば、象徴という言葉を便利に使いすぎかもしれないが。
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大国主神の5つの名

古事記によると大国主神には5つの名があるという。

「大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り」

これらの5つの名については、古事記の物語の場面によって、使い分けられているような印象があったので、あらためて確認してみることにした。

以下は、古事記の話の概要を知っていることが前提で、余計な説明は付けないので、知らない人にはわかりにくいかもしれない。〈〉内は現代の本で章や節に分けたときの見出し名。

(1)大国主神(おほくにぬしのかみ)  系譜、国作り、国譲り 
 いわば「公的」な場面での名といえる。
 〈系譜〉〈国譲り〉の話では、この大国主神の表記のみである。〈国作り〉でも多い。
 〈稲葉の白兎〉の冒頭で、兄弟に八十神ありという系譜的な表現。
 〈大国主神の末裔〉は系譜そのもの。
 〈少彦名と国作り〉 基本は大国主神だが、例外あり。
 〈天菩日・天若日子〉は、系譜の部分(大国主神の女下照姫)もあるが、次の〈事代主神・建御名方神〉〈国譲り〉に続く前段でもある。

 〈根の国訪問〉で須佐之男命の言葉に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」とあるのは、国作りへの期待の表現か。
 〈須勢理毘売の嫉妬〉で歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とあるのは、「神」が付かず「吾が」がつき、親しみの表現か。「大国主神」とは違う。

(2)大穴牟遅神(おほなむちのかみ)  薬用、試練など。
 兄弟、叔母、妻、舅が登場する「私的」な場面での名。
 〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、大穴牟遅神。兄弟と叔母が登場。
 2つの話に共通するのは、試練と薬用による健康の回復の話であるということ。
〈根の国訪問〉も試練の話なので、基本は大穴牟遅神。最後は妻と舅の関係。
〈少彦名と国作り〉で、「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき」とある。二神は「兄弟」。

(3)葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)  根国、または高天原からみた呼び名
 〈根国訪問〉 根国の須佐之男命が「こは葦原色許男ぞ」と確認。
 〈国作り〉 高天原の神産巣日神が、少彦名に「葦原色許男と兄弟となりて」と命ず。
 根国、高天原から、別空間である「葦原(の中つ国)」をみている。

(4)八千矛神(やちほこのかみ) 求婚の場面
 〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉の場面のみ、八千矛神となる。
 矛にせくしゃるな意味もあるのかもしれない。

(5)宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
 〈根国訪問〉 国作りの神の美称的表現か。(1)を参照。

物語の順序に従って、次に整理してみる。

 冒頭は、「大国主神」。
〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、「大穴牟遅神」。
〈根の国訪問〉も、「大穴牟遅神」。
  須佐之男命は「こは葦原色許男ぞ」と確認。
  脱出のとき須佐之男命に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」と言われるのは、国作りへの期待のためか。

〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉では、「八千矛神」。
  須勢理毘売の歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とある。「日子遅の神」というのもあるが5つに含まれない。

〈大国主の末裔〉は、系図の記述で、「大国主神」。
〈少彦名と国作り〉では、基本は「大国主神」。2つ例外あり。
  神御産巣日神の言葉に、少名毘古那神と「葦原色許男命と兄弟となりて」とある。
  ほかに「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばしてこの国を作り堅め」とある。
〈天菩比〉〈天若日子〉では、「大国主神」。
〈事代主神 建御名方神の服従〉〈大国主神の国譲り〉では、「大国主神」。

※ 日本書紀も確認してみたほうが良いかもしれない。
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伊勢神宮の古い絵葉書

昭和初期のものと思われる、伊勢神宮の古い絵葉書。
絵ではなく写真であり、「伊勢名所 内宮御正殿」と印刷してある。

裏側の切手を貼る位置の図案が、神明造の建物を横から見た絵に、森の一部と三日月が描かれ、シンプルで微笑ましい絵になっている。

伊勢神宮絵葉書
伊勢神宮絵葉書2
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江戸時代の浮世絵に描かれる「神棚」

江戸時代の神棚の絵について、数年前にある本から画像ファイルにしておいたのがあった。

鳥文斎栄之「新年の祝」。3枚組のうちの中央の1枚とのこと。
左の1枚には、若水汲みをする男が描かれる。
中央の絵で、娘二人が、それを見ている。また若衆が歳神棚に灯明をそなえている。
右の1枚では、屠蘇の準備が整えられているらしい。

歳神棚は、正月だけ設けられ、農村部では棚板の角に4本の紐を付けて天井から吊す形式が多かった。江戸のこの絵では鴨居に引っ掛けるような形式のものだろうか。松飾りも施され、棚板は顔ほどの高さである。設置場所は、その年の歳徳神のすまう恵方の方角である。古くからの年の稔りをもたらす年神と、近世の歳徳神との習合形態なのだろう。
絵では、供えている人物は、前髪の残る若衆になっているが、普通は家の当主が行なう。若水汲みも同じく当主が行なった。それらを行なう男を「年男」といった。一部には息子が行なう家もあったかもしれないが、また、絵を売るために若い人気役者の似顔絵になっている可能性などもなきにしもあらず(そのため若衆の絵になる)。


次は、鈴木春信の「節分」の絵。
豆をまく若衆。福の神が内に入り込み、鬼が外へ出て行くところも描かれる。鴨居に、棚が設置され、灯明が置かれている。
節分は、旧暦では12月の行事であることが多く、新年の歳神の棚が既に準備されているのだと思う。豆をまく男も「年男」と言った。
旧暦では、元日は、立春の前後の30日間のうち月が新月となる日(朔日)であり、立春の前日が節分である。年によっては、節分が元日の後になることもあり、そのへんを面白おかしく書いた草紙類もある。節分は新年の始めになることもあるが、たてまえとしては旧年の行事である。
地方では元日よりも正月15日の小正月を重視したので、節分が小正月より後になることはない。
以上2つの絵は『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)から。


歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)の一場面を描いた歌川広貞の絵。
伊勢の大神宮様のおふだ(または祓串)の入った箱を「御祓箱」といったが、その御祓箱を伯母のおみねが持ち出すところの絵と思われる。この箱の中から100両の大金が出てくる話である。
場所は、伊勢の御師の福岡孫太夫の家なので、神棚(祭壇)は大きく立派である。
左の男が、甥の貢で、福岡家に養子に入って御師となっている。

御祓箱は、白い紙に包まれ、紙の表には御祓の箱であることがわかるような文字が書かれる。
御祓箱は、年の暮に新しいものが来ると、古いものは御用済みとなり、御焚き上げされることが多い。それで、辞書の「御祓箱」の項には、「?A(毎年新しいのが来て古いのは不用となるから、「祓い」に「払い」をかけて)雇人を解雇すること。不用品を取り捨てること。」(広辞苑)などの意味もあると書かれる。
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江戸時代の「神棚」の絵

江戸時代には、庶民生活を描いた浮世絵や、絵入りの本が多数出版されていたが、神棚を描いたものを探してみた。

1つめは『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴 作、葛飾北斎 画) 巻之二より。絵の中央上部に、それらしき棚。 
物語を少し読んでみると、戦国時代の大和国の領主 続井(筒井のもじり?)家の家臣の赤根半六は、楠の巨木を伐るとき、祟りなきよう木精を退散させるのに功績があった。先祖は、楠正勝の家来であったという。のち半六は、先に亡くなった妻の遺言により、子の十一歳の半七(半七郎)と、妻方の姪で十歳にも足らぬおさんを結婚させる。そのときの絵。

絵では、棚の下に少年の半七が座り、おさんが対面。右の台所から水仕女(みづしめ、女中のこと)によって盃が運ばれ、左には半六が控える。左奥は納戸つまり寝室であろう。「たがしの」は死んだ母の名だが、描かれた人物は母の霊であろうか。幼い二人の結婚だが、形式だけでも寝室で枕を共にするのだろう。
棚の中央には、箱状の櫃が置かれるが、こちらの 三七全伝南柯夢 では箱の上に屋根が付いている。3文字は「?五郎」とも「?宮神」とも見えなくもないが不明。その上に雲型(ハート型を逆にした形)の穴が見られるのは、位牌や神璽を納める箱の形式である。棚までの高さは六尺はなさそうだ(鴨居が描かれない)。棚の上には、右に折敷のようなものに紙を重ねて供え物のようなもの、左には油の灯だろうか。
伊勢の大神宮を祀った神棚ではないようだ。先祖、あるいは納戸の神、家の守護の神を祀ったかである。
江戸のころは、大神宮は家の縁側ないし戸口近くに男によって祀られ、家の奥には納戸の神が女によって祀られ、時代とともに位置が近づいて、現在の神棚となったと言う学者もある。


2つめは、吉原遊郭の「扇屋の新年」と呼ばれる絵(葛飾北斎)の一部。
立派な神棚が描かれている。そこには大きな宮形が安置され、その前に座しているのが楼主だという。
実際の大きさや高さは、鴨居を基準に見ると、人が半分ほどの大きさに描かれているようだ。


3つめは、歌川国貞の錦絵「江戸名所百人美女」のうち「あさぢがはら」
美女が神棚に祈る、というより、呪いをかけているところらしい。浅茅が原は、鬼婆の伝説のある地。
棚の奥に小さな掛軸が掛かり、描かれているのは仏の像であろう。神なのか仏なのかというと、両方なのだろう。
江戸時代までは神仏習合の時代であり、外を歩けば、神社や寺の境内には、神も仏もさまざまに祀ってあった。庶民の家庭内で、神と仏が明確に区別して祀られたとは、まったく考えにくい。
正月の歳神様の棚は、天井から吊す臨時の形式で高い位置に祀り、伊勢の大神宮の棚も高い位置に常設して、下をくぐることが御利益となるという考え方もあった。
しかし他の多くの神仏は、人が立って対面ないし少し見上げて祈れる高さであり、供え物や清掃のしやすい高さだったようだ。3つの絵はそのような位置に描かれる。

以上の絵は、現在のネット検索でも容易に見つけられる。「こよみの神宮館」さんのパンフレットにも掲載されている。
http://jingukan.co.jp/pdf/omiki_page.pdf


4つめ。『絵本吾妻抉』(北尾重政 画)で、芸者が休日にくつろいでいる様子の絵。
台所の鍋の上に、神を祀っている棚が見える。かまどの神、荒神さまであろう。
現代でも、伝統的な家庭では、台所に荒神様や火防せの神の御札を貼って祀っているところは多いだろう。
昭和30年代ごろまでは、井の神や厠の神、仕事場の神など、家の中にもいろんな神が祀られていた。家の外にも、屋敷神の祠のほか、家畜小屋、蚕屋、作業小屋、土蔵、外の井戸や便所などに、さまざまの神が祀られ、現代でも伝統的な家庭では、正月にはそれらの場所に釜〆などの御幣を祀っている。
神を祀る場所がだんだん少なくなって、神棚1つだけというのでは、神を身近に感じる生活にとっては不便である。道端の石ころや自然の全てに神が宿るなどと言ってみても、口だけのことになってしまう。1つしかなければ人間の宗教観も一神教的に流れてしまいやすいということでもある。
職人の家では、職種によって祀る神が決まっていて、仕事場などに必ず祀っていた。そこで現代では、書棚の空きスペースや、書棚の上などに、小さな宮形を置いて、八百万の神のうちの幾柱かを祀るのも良いのではないかと思う。神の棚は幾つあっても良いし、それらしい所ならどこにでも祀ることができる。
次の絵は、山東京伝の黄表紙『世上洒落見絵図』(黄表紙十種 GoogleBooksサンプルより)のなかの絵。箪笥の上に祀っている。
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海幸彦と山幸彦

農村向けの雑誌『家の光』の付録に『こども家の光』という小さい冊子が毎月付いていたころがあり、昭和31年6月号に、古事記の神話物語「海幸彦山幸彦の物語」が載ってゐた。浜田広介の執筆。画像は4ページのうちの2ページ。
海彦山彦

古事記の物語と大きく異なる部分がある。
ここでの海幸彦山幸彦は高天原に住んでゐることになってゐるが、古事記では日向国である。意図は不明。

釣道具と弓矢の交換を提案したのは、古事記では弟の山幸彦である。山幸彦は自分で言ひ出して兄の釣り針を紛失したが、それで最後に兄を懲らしめるのでは、少々正義から遠くなるといふ理解なのかもしれない。

3ページ目以後の話では、綿津見宮の井戸で水を汲んでゐたのは、古事記では豊玉姫ではなくその従婢である。しかしこの場面は他の多くの作家による再話でも、豊玉姫と山幸彦の直接の出会ひに脚色されてゐる。そのほうがラブロマンスとしてドラマチックなのだらう。しかし子供向けなのでロマンスは省略されてゐる。

古事記では、山幸彦は綿津見宮で三年もの間、接待を受けて、釣り針のことを忘れてゐたのだが、この再話では釣り針はすぐに見つかる。全体の話を短くまとめるためだらうか。
海彦山彦2

「こども家の光」には、日本の古い話が多く掲載されてゐたかといふと、そうでもなく、毎月、世界の童話などが少しづつ遍ねく紹介され、そのうちの一つといふこと。(2017.08.10)
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『火山で読み解く古事記の謎』

『火山で読み解く古事記の謎』蒲池明弘 著(文春新書 2017)。
古事記の物語の背景には、火山活動の記憶やその反映などが見え隠れするのではないかという本であり、興味深い。国文学者の益田勝美や物理学者の寺田寅彦、ロシアのワノフスキーらの先行する研究をふまえたものである。

 八俣のオロチが、赤い目をして八つの尾根と谷にまたがり、腹から血を吹き出していたという話。八俣のオロチを退治したことは、火山活動が鎮まったことの反映なのだろうと、最初に本の題名だけ見て思ったわけだが、読み始めると、その通りで、さらに多くのことが取り上げられている。

 天照大神の天の岩戸隠れの話は、日食などは関係ない。日食は数分で元に戻るものである。古事記に書かれるように、山から木を抜いて運んだり、鍛冶屋が銅鏡を鋳造するほどのひまはない。須佐之男命が大暴れしたのは、噴煙が長期間、天を覆い尽くすほどの火山の大噴火のことであるという。海の神でもある須佐之男は、海底火山の大噴火を意味し、実際に縄文時代には九州の南の鬼界カルデアが大噴火したことは考古学ないし地質学的にも証明されている。岩戸隠れで世界が闇夜となったのは、この大噴火の反映ではないかと。
 伊邪那美神が去った黄泉国でも、火山活動が活発らしい。黄泉とは、硫黄成分を含む温泉の意味であろうともいう。そのほか、多くの事例が書かれている。
 そして火山を鎮めるちからのある者が、この国を治めることになる。

 保立道久『歴史のなかの大地動乱』からの引用があり、奈良時代の天平6年、近畿地方の大地震の3か月後の聖武天皇の詔勅が紹介される。

 「このころ天すこぶる異を見せ地はあまた震動す。しばらく朕の訓導の明らかならざるによるか。民の多く罪に入るは、その責め予一人にあり」

 「地震は自分の「訓導」がよくなかったために起きたことであり、責任はすべて自分一人にあるというのである。」
 今の時代の陛下の被災地慰問等は、そうした古代的なことの現代的表現ではないかと、著者の蒲池氏はいう。内田樹氏も同じ見方をしているとのことである。なるほどと思う。

 聖武天皇の詔勅には、地震の結果、「民の多く罪に入る」と書かれる。罪とは何か、自然に起った災いのことも、古代では罪といった。穢れについても同様である。とすると、「罪・穢れを祓い清める」とは、地震や火山活動を鎮める意味にもなる。罪や穢れ、また禊ぎや祓いについても、自然災害や火山活動の視点から再考する必要があるのではないかと思えるのだが、これは今後の課題。
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旅館で見た版画絵と釈迢空の歌を探す

昨年の9月に出かけた信州方面への団体旅行、宿泊先のホテルの壁面に掲げられた大きな版画絵を見た。
大浴場の少し先の通路の壁面のその版画絵は、縦横1メートル以上の大きさ。
祭礼で踊る人が描かれ、和歌が書き添へてあった。その歌は、有名な歌で、

 遠き世ゆ、山に伝へし、神怒り。この声を われ聞くことなかりき

伊那地方の新野の祭りを詠んだ、釈迢空の歌だった。
写真に撮らせてもらっても良かったが、あいにくカメラを持たず、出発の際に別のことに忙殺され、同行者に撮ってもらうこともしなかった。

その後、風邪をこじらしたり多忙な時期があり、落ち着いてからネットで調べて見たのである。
長野県出身の版画を調べると、森獏郎といふ人があり、小林一茶の句をまじえた版画などもあり、絵柄もこの人で間違ひない。
『森獏郎板画集』(郷土出版社)も取り寄せてみた。
森獏郎
画集の中の1つを紹介すると、この1枚は「杏の里のわらべうた」とあり、民俗行事の「成木責め」の文句を取り入れた、わらべうたを題材にした作品なのだらう。
釈迢空の歌の絵は、収録されてゐなかった。
もう1度そのホテルを訪ねるしか方法はないのかもしれない。
場所は、おそらく昼神温泉ホテル吉弥様ではないかと思ふ。
【倚松帖より】
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海幸彦山幸彦の物語

農村向けの雑誌『家の光』の付録に『こども家の光』という小さい冊子が毎月付いていたころがあり、昭和31年6月号に、古事記の神話物語「海幸彦山幸彦の物語」が載ってゐた。浜田広介の執筆。画像は4ページのうちの2ページ。
海幸彦山幸彦
古事記の物語と大きく異なる部分がある。
つづきはこちらhttp://nire.main.jp/sb/log/eid233.html
【倚松帖より】
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