神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

鵠(クグイ)と白鳥と地名


 武蔵国ないし埼玉県に、「久下」(くげ)という地名がいくつかある。大字としては、熊谷市、飯能市、加須市にあり、川越市には「久下戸」がある。「くげ」の意味は、神奈川県藤沢市の地名・鵠沼(くげぬま)という漢字表記にあるように、鵠(くぐひ)のことであろう。久下戸は鵠の飛来する所の意味になる。「戸」が付かなくても同様であろう。4つとも、大きな川に面した土地である。鵠(くぐひ)とは白鳥の古名である。

 『白鳥伝説』の著書もある谷川健一の『続 日本の地名』(岩波新書)によると、「久々江」という地名について、鵠や白鳥のことだとしている。埼玉県本庄市に久々宇(くぐう)という地名があるが、これも利根川岸であり、鵠の飛来地だったのだろう。

 「久下」も同様であり、熊谷市の久下は荒川北岸、飯能市の久下は名栗川の東北岸、どちらも河岸である。川越市の久下戸は、今の荒川本流に接してはいないが、昔の荒川ないし入間川の蛇行の跡と思われる細長い沼に接している。
 加須市の久下は、合の川という小さい川の南岸であり、大きな川とはいえない。しかし吉田東伍『大日本地名辞書』には、「沙丘あり東西十二町に渉る」とあり、古利根川クラスの大きな川(または古利根川そのもの)があったと思われる。

 その『大日本地名辞書』であるが、加須市の久下(埼玉郡)を除く三つについて「郡家址にあらずや」などという記述が見られるのである。川越市の久下戸(入間郡)については新編武蔵風土記稿の、郡家は入間川村のあたりだったろうという文を引用しながらも、久下の地を「入間の郡家址となすも不可なきごとし」などという。高麗郡の中心は古くから高麗郷と呼ばれる日高市の小盆地がありわけであり、飯能市の久下は川の蛇行が極端である。熊谷市の久下(大里郡)のそばの荒川は、江戸時代初期までは熊谷市街地の北を東へ流れて元荒川へ流れていたほどであり、洪水や流域変動にさらされる土地に、郡家を置くとは考えがたい。大里郡には郷名としては珍しい郡家郷という郷があったとされることが事の起りのようなのだが、この郡だけの特別な事情があったのだろう、日本語としては郡家と久下は音韻が異なるようだ(餓鬼と鍵が違うように)。そうではない可能性を吉田東伍は試みたのだろうが、失敗している。
 吉田東伍氏が『大日本地名辞書』という大著をまとめるにあたっては、地方の多数の協力者があり、その地方人の言説をそのまま採用した部分も多いらしいのである。熊谷市の久下あたりの人の言説を、入間郡や高麗郡の久下に当てはめているように思える。
 加須市の久下にだけ「郡家址か」という記述がないのは、この地は埼玉郡であるためか。埼玉郡の中心地については、昔からの常識がある。
 現行の『地名辞書』は草稿も含めて何でも収録してページ数を増やした増補版ということであり、著者の考えの変遷過程を読者が検証するのは大変だ。
kuge.jpg 

comments (0) trackback (0) 編集

埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の年代


『新編埼玉県史 通史編1』の稲荷山古墳の鉄剣の年代推定の部分は、実にわかりにくいものだった。
鉄剣に刻まれた「辛亥の年」が、いつを意味するかについてである。
同書406ページ(「一 金錯銘鉄剣の語るもの」)を見てみよう。

「この辛亥の年が何年にあたるかについては諸説があるが、そのなかで西暦四七一年と五三一年という説がもっとも有力なものとしてよい。」(同書、以下同じ)
 有力な説は2つである。

「それでは、両説のうち、どちらの説がより事実に即しているのだろうか」
「埼玉県の考古学者たちは、この古墳から出土した諸遺物、とくに須恵器の実年代を重視して、その築造年代を西暦五〇〇年前後とする見方をとっている。この立場を尊重すれば、築造後まもなく作られた礫槨もまた、五〇〇年前後のものと考えざるをえない。」
 ここまでは、問題はないと思ふ。

「したがって、銘文にいう辛亥年が西暦四七一年をさす可能性はきわめてつよく、現状では五三一年説はやや不利とみることができよう。」

 これで結論なのだが、このあとの文は四七一年説を前提に全てが書かれるので、ここで断定に近いことになったようだが、わかりにくい。

 考古学者は「西暦500年前後」だとする。471年と531年では、どちらが「500年」に近いか。
西暦500年との差は、471年なら29年差、531年なら31年差。その差は 2年でしかない。
29年と31年では、どちらとも決め兼ねるのではないだらうか。
「推定西暦500年」とは、西暦2000年を基準にして推定1500年前である。推定なので誤差はありうるわけだが、もし1年の誤差をみとめて推定1499年前と考へれば、西暦501年になり、471年と531年の中間となる。どちらが501年に近いかという話ではない。つまり「推定1500年前」に1年の誤差があっても、西暦四七一年説は成り立たない。1年の誤差もないのだから、「西暦500年前後」という「前後」の2文字も付けられないはずなのである。

文章にも妙なところがあり、「471年をさす可能性はきわめてつよく」と書くなら、「531年説はやや不利」ではなく「きわめて不利」と書かねばならないと思ふ。

少なくとも、同書では「471年をさす可能性はきわめてつよく」とする根拠は、全く成り立たないので、全く別の事情がからんでしまった問題なのかもしれない。
ちなみに時の天皇は、471年なら雄略天皇、531年なら欽明天皇。

あるいは、執筆者自身が異論をもっていて、自己の考えと異なることを書かざるを得ないとき、それとわかるような書き方をした可能性はどうだろうか。
【倚松帖より】

comments (0) trackback (0) 編集

邪馬台国


今日の邪馬台国のブームのきっかけとなったのは、長崎県島原市の盲目の作家・宮崎康平の著作『まぼろしの邪馬台国』(講談社 1967年1月)であるといふ。
筆者は、学習研究社の雑誌『中学一年コース』か『二年コース』で、同書の紹介記事を読んだ記憶があるので、1967年の早い時期といふことになる。
1967年は、手塚治虫の「火の鳥・黎明編」が雑誌『COM』に連載された年であり、「火の鳥」には邪馬台国や卑弥呼が登場する。最初に読んだのは6月号だった。作品に登場する騎馬姿の征服者は、無気味で奇妙に思えた。
『まぼろしの邪馬台国』は1965年から雑誌に連載されたものを単行本化したとのこと。「火の鳥・黎明編」の最初の単行本は1968年。

こうしてみると、邪馬台国ブームの初期のころから、関心をもってゐたことになる。

ブームを作ったもう1冊は、井上光貞『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』 中央公論社 1964年初版だそうで、これを読んだのは、数年後、1969年ごろだった。
そのほか、松本清張の『古代史疑』(1968)なども有名だったらしい。『清張通史』は東京新聞連載時に読んだ記憶があるが、1976年。有明海が博多湾までつながってゐたような想定があったような気がする。

井上、宮崎、手塚、松本、4人とも邪馬台国九州説である。
邪馬台国畿内説には、ベストセラーといふものがあったかどうか記憶にないが、横綱が東西に2人あるような配置が日本人に好まれるためだらうか。

このごろは、論証もなく「近年は畿内説が有力云々」と書き始める人が目立つが、いつからそんなふうになったのだらうか。それについては1つの仮説をもってゐる。
九州説が圧倒的に優勢といはれた時代は、文化人の反中央集権的な心情が裏にあったといへなくもない。一方、畿内有力説の拡散は、冷戦終結後の新自由主義イデオロギーの反映ではないかといふものである。東京都の人口増は頭打ちの傾向があったのだが、新自由主義の時代に増加に転じた。地球温暖化説も、異論が多く、新自由主義イデオロギーの虚構だったことになるかもしれず、そんな世の中の反映ではないかと思ふ。

最近は、畿内出身であるが九州説をとる森浩一氏の本、『倭人伝を読み直す』(ちくま新書 2010) を読んだ。
【倚松帖より】

comments (0) trackback (0) 編集

日本に「古代」はなかった可能性


井上章一氏が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答えたという。氏は、それもきっかけで『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)という本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から、中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まるという。
日本史で「古代」と言っているのは、単に古い時代のことであり、きちんとした定義付けがあるわけではない。わが国は「古い時代」から続いているのだという気持ちないし願望の反映でしかないような話。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏によれば世界帝国(ローマ帝国)へ向かう時代というイメージのように読める。世界に比べて極小な日本列島だが、日本がある程度統一されたのは律令制といわれたころかもしれず、「古代律令制」という言葉を使う人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるというのが、かつての日本の教科書的な見方だったように思う。

しかし律令制といえば中国では隋の時代(6世紀)ではなかろうか。6世紀といえば西洋史的には十分中世の時代であり、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたという奇妙なことになってしまう。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるそうだが、参考文献の一覧を見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことである。中国史の時代区分を論争しているのは、日本人学者だけである。中国では、古代とか中世とかの(西洋史直輸入の)時代区分は取り入れていない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那という国ないし地方があり、前方後円墳もあり、一部には倭人も住んでいたとのことである。その後、半島で百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合されたともいう。戦乱を逃れて半島から列島へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだろう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となり、新羅人として列島に渡来することもありうる。百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。さらに百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来ということになる。・・・このように理解すれば、この時代に半島からの渡来人が多いとしても合点がゆかぬことはない。ゲルマン民族の移動とは規模がだいぶ違う。

ともかくこの時代は、朝鮮半島では統一に向かい、日本列島でも同様である。しかしこれらは、世界帝国へ向かうような古代的なものなのだろうか。むしろ同じ民族の国家統一、または民族という概念の成立であり、中世的なものではないか。
「封建制度」の意味も、東洋では諸候の完全自治ということに眼目があり、西洋史のfeudalismの訳語としての「封建制度」と同じではないらしい。

日本に古代はあったのかという命題には、明確な回答はない。日本には古代はなかったかもしれない。しかし記紀万葉などを通じて、古代的な民俗や風俗を確認することはできないことはないだろう。
【倚松帖より】

comments (0) trackback (0) 編集

イザナギプレート


地球上の大陸や島々は、プレートと呼ばれるものの上に載って僅かづつ移動しているそうだが、日本列島は、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、以上4つのプレートが入り組んでいるらしい。
その昔には、イザナギプレートと呼ばれるプレートも存在したらしい。


「西田のホームページ」の「中央構造線」のページが詳しい。
http://www.nishida-s.com/main/categ3/mtl-nagano/index.htm
上記を参考に、まとめてみた。

1億8000万年前、ユーラシアプレートの東端に、細長い山脈状のものができた。これは後の日本列島の中央構造線以北の部分である。そのすぐ東には別のプレートが接し、これがイザナギプレートである。場所は今の日本海のあたり。
1億3000万年前、位置でいうと今の九州から南西諸島以南の位置に、日本列島の南側に相当する山脈状のものができた。これはイザナギプレートの西端の上であり、プレートの移動により北上してゆく。
7000万年前、プレートの移動により2つの山脈状のものがつながり、日本列島の原型ができた。このときの接合部分が、中央構造線である。日本海はできていなかった。
2500万年前、イザナギプレートはユーラシアプレートの下にもぐりこんで消滅し、太平洋プレートとフィリピン海プレートが押し寄せてきて、日本海溝と琉球海溝ができた。さらに大陸が割れて日本海ができ始める。
1450万年前、日本海が広がり、北からは北アメリカプレートが押し寄せてオホーツク海も広がり、北海道東部がくっついて、ほぼ日本列島が完成した。ただし東日本はほとんど海中だった。日本海が広がるときに、直線状の列島が弓なりになったため、列島中央にフォッサマグナが陥没した。フォッサマグナは西関東と甲信・上越地方あたりで、西端が糸魚川-静岡構造線になる。
800万年前、東日本が隆起し始める。北アメリカプレート上の千島列島が北海道に衝突して日高山脈が隆起する。
500万年前、南からフィリピン海プレート上の伊豆半島が本州に衝突して半島となる。
1万8000年前、氷河期で海面が下がり、日本列島は大陸と地続きとなる。その後、海面が上昇し、現在の日本列島となる。

以上であるが、要約に間違いがあるかもしれない。また、どの時代にどの部分が海だったか不明の部分もある。イザナギテンプレートが消滅したころ、北アメリカプレートが東日本の下へもぐりこんだようだ。

一つ、気になるのは、「イザナギプレート」という命名である。地底の国といえば、日本の神話では、根の国、黄泉の国であり、黄泉大神(よもつおほかみ)とはイザナミの命のことである。「イザナミプレート」でも良かったのかもしれない。

comments (5) - 編集

藤原宮の運河


昨日の新聞で「藤原宮に大規模な運河跡」という記事があった。ネットからも見られる。

「日本最初の都市計画に基づく都、藤原京(奈良県橿原市、694〜710)を造営するために資材を運んだとみられる運河跡が、中心部の藤原宮跡を南北に走り、総延長500メートルに及ぶ大規模なものであることがわかった。奈良文化財研究所が24日発表した。北東に延びる支線と推測できる溝も見つかった。同研究所は「運河は網の目のように張り巡らされていたのではないか」と推測している。 」
http://www.asahi.com/national/update/0924/OSK200809240116.html

記事の後半にある、近江国田上山から材木を運んだ民の歌とは、次の歌のことだろう。

安治ししわご大君、高光る日の皇子、荒栲の藤原が上に、食す国を見し給はむと、大宮は高知らさむと、神ながら思ほすなべに、天地も寄りてあれこそ、石走る淡海の国の衣手の田上山の、真木さく桧の爪手を、もののふの八十宇治川に、玉藻なす浮べ流せれ、そを取ると騒く御民も、家忘れ身もたな知らに、鴨じもの水に浮きゐて、わが作る日の御門に、知らぬ国、寄りこし路よりわが国は常世にならむ、書フミ負へるあやしき亀も新世と、泉の川に持ち越せる真木の爪手を、百足らず筏に作り、上ぼすらむ、勤はく見れば、神ながらならし(万葉集巻一 50)

宇治川から藤原宮まで運河でつながっていたということになるのだろうが、
運河については、他に思い当たる万葉歌がある。

 大君は神にしませば、赤駒のはらばふ田居を、都となしぬ(大伴御行 巻十九 4260)

詞書に壬申の乱の後の歌とあり、大君とは天武天皇のことで、都は藤原宮である。従来の解説では、赤駒は農耕馬で、田を都とするほど大君の威力は絶大なのだという意味だといわれていた。

しかし、運河の風景を詠んだ歌なのではないかと思った次第。
藤原宮に井桁のように張り巡らせた運河は、田のように見えたであろうし、運搬のために運河に馬が入ることもあったようで、水深は馬の腹まであったということになる。馬が腹這うように見えるほどの深さの田というのは、現実的ではないのではなかろうか。

ともかく、藤原宮は運河と水の都であったらしい。

 大君は神にしませば、水鳥のすだく水沼を、都となしぬ(同 4261)

★2018.8.4 補足
http://center.miggy.jp/history/question/486
大学入試センター試験のページによると、大伴御行の「赤駒」の歌は、「都の造営を詠んだ万葉歌」として大学入試験問題に出題されていることがわかった。資材運搬のための馬と見るかどうかは不明ではあるが。
以下は上記URLより引用。
都の造営
古代の都の造営を詠んだ次の万葉歌機銑靴砲弔い董じ鼎げ里ら年代順に正しく配列したものを,下から一つ選べ。
大君は神にしませば赤駒の腹ばう田居(たい)を都と成しつ
(神格化された天皇による造営事業をたたえた,大伴御行の歌)
昔こそ難波いなかと言われけめ今は都引き都びにけり
(天武朝に造られた都を,約半世紀ぶりに改修した,藤原宇合の歌)
今造る恭仁の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
(橘諸兄政権の下,この地に遷都されたことを喜ぶ,大伴家持の歌)

comments (1) - 編集

日本地図


日本地図社会科の地図帳は小学生のころからよく眺めていたものだが、最近はパソコンで見る地図が便利そうにみえる。
ところがパソコンの地図は、検索できるのは、人の住む住所や公共建物・レジャー施設ばかりで、自然の山や川などの名前を検索しようとしても、できない。
ネットのMapFanで岩手県宮古市の「とどヶ崎」を検索したら、ユーザー情報として、どなたかが登録した内容が表示されたが、これは例外のようだ。ちなみに「とどヶ崎」の「とど」は「魚へんに毛」と書く。

そういうときは、やはり地図帳が役に立つ。
画像は、国際地学協会発行の『日本地図』。巻末の索引に、山や川や島などの名前7000余りが掲載されている。ただし、例えば島の名前で、「○○島」という見出しの「○○」の読み方は載せているが、「島」の読み方は省いてある。シマ、ジマ、トウ……、どう読むのかわからないのだが、おそらく索引を作った人もわからなかったのだろう。

comments (0) - 編集

合併後の新市名


楠原佑介著『こんな市名はもういらない!』(東京堂)は、2003年4月の発行で、今回の合併ラッシュをひかえての危惧から書かれたと思われる。その内容は妥当なことばかりで、「歴史的・伝統的地名保存マニュアル」の謡い文句も誇大宣伝には思えない。実際の合併での新市名決定に際しこういった本が参考にされたこともあったとは思うが、それでも新しい地図で奇妙な地名を見ることも少なくない。

悪い新市名の代表例に「さいたま市」や「南アルプス市」があげられ、3つの点で問題ありという。

1つは、むやみな、ひらがなやカタカナの使用。(外国語は論外)

2つは、狭い地域による広い地域の地名の使用。県名としての埼玉を小地域が使用したものであり、南アルプス国立公園も3県にまたがっている。(逆に広い地域の地名に、中心部の狭い地域の地名を使用するのは普通のことなので問題ない。)

3つは、離れた全く別の地域の地名(埼玉郡、行田市埼玉)を別の市が名のること。また今の南アルプス市の中心部は富士川釜無川流域にあり、国立公園地域はまったくはずれのごく一部だけであるような例。

まったくその通りなのだろう。本の発行後にできた関東地方の新地名を見てみた。(採点を「◎、○、△」で示す)

茨城県の新市名
◎ 桜川市(岩瀬町などが合併、市内を流れる桜川は謡曲でも知られる)
○ 行方市、稲敷市(郡名、範囲に問題がなければ○)
△ 坂東市、常総市、かすみがうら市(広域を意味するはずの地名)
△ 小美玉市(三町村名から一字づつ)、つくばみらい市(不明)
栃木県
△ 下野市(旧国名)、那珂川町(茨城県へ流れる川の名)
△ さくら市(不明)
群馬県
○ 東吾妻町(東村と吾妻町が合併)
△ みどり市(不明)
埼玉県
? ふじみ野市
千葉県
◎ 香取市(佐原市ほかで合併、郡名であり香取神宮の名でもある)
○ 横芝光町(横芝町+光町、連称)、匝瑳市、山武市、いすみ市(以上郡名)
△ 南房総市(南の安房+北の上総下総で房総、その南部だから南房総?)

comments (2) trackback (0) 編集

綱引きの起源、その他


丸谷才一氏のエッセイで、今は国際的なスポーツ競技にもなっている綱引の起源にふれたものがある。柳田国男や他の学者の説を引用しながら、九州南部や南西諸島に今も伝わる藁で大きな龍神をかたどったものを大勢でかかえ上げて引きまわし、水神の恵みや豊作豊漁を祈願する祭に起源があるのだろうという。そんななかで、オスの龍とメスの龍を結合させて引きまわす地方もあることから、性的なものが豊饒のシンボルであることは多いので、それが最も古いかたちではないかと書かれる。しかし柳田国男はそこまでは言わない。柳田翁は性的な表現を避けるきらいがあると丸谷氏は述べる。

氏の別のエッセイで、おんぶや肩車の起源についての話でも、遠い昔の神事で神が現れたときの形式を伝えるものだろうという柳田翁の言葉を紹介しながら、やはり柳田翁は性的な表現までは立ち入らないのだと書かれる。その点、折口信夫はそういう表現に躊躇しないのだという。

以前、地名によくあるクラという言葉の意味を、『柳田国男集』の索引を手がかりに調べたことがあるが、説明になんとなく物足りなさを感じた。そのとき私が思ったことは、丸谷氏と同様のことだったのである。クラという言葉の場合は、磐座であるとか、神聖なものにも使われるので、ことさら表現には慎重にならざるを得なかったのだろうと思った。

けれど、ごく一般的な地名については、柳田翁も性的なことがらを述べている。
それは『地名の研究』の中の、フト(富土、布土、富戸)という地名についての部分である。
「すなはち海岸に沿うて漕ぎ廻る船から見れば、二つの丘陵の尾崎が平行して海に突出してゐるところ、あたかも二股大根などのごとく、その二丘陵の間からは必ず小川が流れ込み……」「疑ひもなくホドすなはち陰部と同じ語である」(『地名の研究』)
「そこが上代人の悠長なところ」、つまり大らかだったのだといい、「本来ホドは秀処の義」なのだという。

柳田翁の弟子にあたる学者だったと思うが、フトは二股大根の形状そのものをいい、人体のフトモモのフトも同じ語であって「太もも」と書くのは後世の当て字だという。ホドについては忌み言葉のように考えられて、古くは別の言葉だったものが、フトモモの意味のフト(ホト)で代用された言葉だろうという。となると、古代の「大らかさ」も少し差し引いて考えなければならない。やはりこちらのほうが素直な見方だと思う。「大らか」とか「秀処の義」というのは、性的な関心で読まれては困るとの考えから、やや強調され過ぎてしまったように見える。

comments (0) trackback (0) 編集

地名のアクセント


長野県の長野という地名の発音は、地元では尻上がりのアクセントでナガノ(太字は高アクセント、以下同じ)というようだ。埼玉県の行田市の埼玉(サキタマ)も、郡名の埼玉も、尻上がりアクセントの発音である。

金田一春彦氏の話によると、英語のコップ(cup)やバスケット(basket)のアクセントは語頭にあるが、日本語に移入されてから長く日常生活に馴染んで来ると、コップ、バスケットと尻上がりのアクセントに変化してゆく傾向があるという。だから今の若い人たちが「彼氏」を尻上がりアクセントで発音するのは日本語の日常語の法則に適ったものであって、日本語の乱れとは言えないという。

地名はもともと地元の生活によく馴染んできたものが大多数なので、尻上がりアクセントが多いのだろう。ところが「埼玉」などの古い村名が、郡名や県名へと"昇格"されるにつれて、語頭アクセントに変ってしまうのは、地元以外のより広い地域でも呼ばれるようになるため、地元以外の人の発音が優勢となってしまうのだろうと思う。
埼玉県の郡名の例では、入間、比企、大里、幡羅、児玉など語頭アクセントになっているものが多い。

明治22年以後の村名はどうかというと、以下に例としてとりあげる今の埼玉県熊谷市西部から深谷市にかけての旧村名の例では、語頭アクセントは少ない。そして、それらにはそれぞれの事情があるようである。その地域の語頭アクセントの地名は次の通り。

今の深谷市の、渋沢栄一の出身地の旧村名の八基(ヤモト)は、八つの小さい村が合併して明治に成立した新しい地名である。また戦後熊谷市に編入された大幡(オハタ)は、旧大里郡と旧幡羅郡の郡鏡付近のいくつかの村が合併したときに、郡名の大里と幡羅から1文字づつ取って大幡とした新地名である。新地名は語頭アクセントになる傾向があるようだ。
幡羅(タラ)は、旧幡羅郡の中心地という理由で明治時代に命名された村名で、郡名のアクセントがそのまま使われたものと思われる。
別府(ベップ)という地名はアクセントは語頭と尻上がりと二種類あるように聞えるが、もともと役所の出先機関の意味なので、役所関係の人々の語頭アクセントが優勢になったり、他の同名の地名アクセントにつられたりということかもしれない。
深谷市に編入された新会(ンガイ)、熊谷市東部の成田(リタ)については、武将の新開氏、成田氏の苗字のアクセントの影響なのだろう。
以上のように、語頭アクセントの地名は、それぞれの経緯の事情を説明できてしまうように思われる。

comments (0) trackback (0) 編集
1/2 >>