神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

折口信夫の特集番組


中沢新一氏のテレビ講話「私のこだわり人物伝・折口信夫」の第2回「まれびと」を2日のNHK(再放送)でやっていたのが、面白かった。

中沢氏は、古代の神の姿について、柳田国男と折口信夫の見方を比較して語る。
柳田国男は、「神は共同体をまとめる存在」であり、共同体と共通のものをもった内部的なもの、すなわち祖霊であり、祖霊こそが神の原型であると考えたという。
折口信夫は、神は共同体の「外側からやって来て共同体をゆさぶるもの」だと考えたという。どこから来るかというと、常世、あの世というところで、そこは魂の原郷であり、その「あの世とこの世の通路を開く存在」が神だと考えたいう。

常世やあの世に住んでいるのが祖霊、と考えれば、それほど違いはないように思えるが、「ゆさぶる」とはどんなことだろうか。
「共同体をまとめる」とするなら、日常ではまとまっていない人々を前提にしているようで、近代の話のようでもあり、それだけでは確かに不十分のように思えるが、柳田国男がそうだとはわからない。話をわかりやすくするための誇張とは思う。

中沢氏の話に戻ると、「なぞなぞ」の話が出る。たとえば「目はあっても見えないものは何?」、答えは「ジャガイモ」。目と芽という同音の言葉が結びついて、喜びと笑いがこみあげる。こうしたなぞなぞが「最も古い文芸」であり、この考え方を宗教に適用したのが、折口の見方だという。
つまり、異質なジャガイモが現れて「ゆさぶられ」、しかし異質なものどうしが結び付けられることによって、新たな感情が起こる。こうした異質な体験は、外から来たもので、その力が「まれびと」なのだという。

なるほどと思う。外来のものを有難がりすぎる日本人の悪い面もここから来るのかと思ったが、それはともかく、最も古い文芸に「笑い」があったとは、数十年来の私の疑問にヒントを与えてくれそうだと思った。
人々と祖霊とが異質になってしまった状況を考えれば、柳田と折口の違いも大きなものではないと思う。

中沢氏の話のまとめは「死とのふれあいを遮断しようとする社会」が宗教的な感情を遠ざけているということ。
どうしたら近づけるだろうか悩んでみたが、「老いる」ことで少しは近づけるだろうという簡単な答えが一つ出た。若者文化の持ち上げすぎといったことを見直すことも必要かと思う。

●中沢氏の書くものには管理人は関心は抱いてこなかったのですが、専門分野が重なる有名人のようで、この人だけを取り上げるのは、誤解を招くかもしれませんが、この記事で折口信夫を取り上げてみたかったわけです

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朝日新聞の「神社分類」


2月22日の朝日新聞文化面に「神社分類」という記事があり、国学院大学の岡田荘司教授らによる神社の系統別の分類や分布研究の報告が紹介されていた。「天満宮」や「北野神社」は名前は違うが菅原道真を祀る同系統の神社ととらえるという方法で、全国7万9000の法人格のある神社を対象としている。
それによると全国で多い神社は「八幡さま7817、お伊勢さん4425、天神さま3953」と新聞に紹介されている。

日本で一番多い神社は八幡さまか稲荷さまかという議論は昔からあったが、ここでは4番目に「稲荷さま2970」とあり、八幡さまは大差をつけている。これは対象となった神社が、ある程度以上の規模(鎮守様)をもった神社に限られているからである。鎮守様の境内に祀られる小さな末社など、規模の小さいものを含めると逆転するかもしれないのである。
新聞には「お伊勢さん」という見出しで書かれるが、代表的な神社名は「神明社」であり、普通は「神明さま」と呼ばれ、地域の神社を「お伊勢さん」と呼ぶことはほとんどないと思う。それらは地域の鎮守さまとしての神明社であって、神明社だから伊勢神宮と直接の結びつきがあるということではない。

神明社の系統は東日本にやや多いという特徴がある。これは南北朝時代以後に独立した運営のために、荘園のような所領をもつ必要が生じ、比較的未開の地の多かった東日本に伊勢の御師らの活動の重点があったためであろう。
中世の運営形態から生じた分布のかたよりにすぎないものであって、また地方の神明社の数が1位でなくても、伊勢の神宮が「国家総鎮守」であることには変わりはなかろう。

4番までは前述の通りだが、5番目から10番目は「熊野、諏訪、祇園、白山、日吉、山神」だそうである。

ちなみに純粋に祭神ごとの全国順位は次のページにある。元の資料は神社本庁の「平成祭データ」なので、同一のものといえるかもしれない。
http://nire.main.jp/sb/log/eid35.html
このような祭神別とすれば、大国主神や迦具土神(火の神)もかなり多いことがわかる。

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疱瘡の神、源為朝


ダルマ絵関東地方の屋敷神といえば稲荷様が多いのだが、まれに八幡様や浅間様を見かけるときがある。先日見たのは、為朝大明神で、確実な由緒は不詳とのことであった。為朝とは源為朝のことで、九州や沖縄から八丈島(参考〜八丈島の為朝)などに多くの伝説を残している。私が見た為朝大明神もそうだとは断言できないが、源為朝は、江戸時代後期には疱瘡の神として信仰された歴史がある。

疱瘡は、今はほとんどなくなったが、近世までは難病の一つで、子どもにかかりやすく、疱瘡の子どもが出ると、医者を呼ぶほかに、さまざまな信心が行われた。疱瘡の子どもには赤い着物を着せ、枕や身のまわりのものも赤づくめとし、床の間には赤いダルマを飾り、ダルマ絵という赤色で刷られた御守札を祀ったという。滝沢馬琴の日記にもその様子が書かれているらしい。

上のダルマ絵には、ダルマのほか、張り子の犬、でんでん太鼓が描かれている。

 もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり

と三十一文字の呪文のようなものも書かれる。湯尾峠は福井県南部にある峠のことである。
ダルマ絵には他にミミズク、そして為朝や鍾馗様の絵が描かれているのもある。
為朝は、ダルマとミミズクと犬を家来にして、疱瘡神を征伐したといったような、桃太郎のような話もある。(画像は週刊朝日百科「歴史をよみなおす-20-村の手習塾」(高橋敏編※)から)

犬については、古くから安産や子育ての信仰もあり、子どもの守護でもあるのだろう。ダルマなどの赤色は、疱瘡にかかった皮膚の色が赤くなることから、疱瘡神も赤色と考えて、疱瘡の神を手厚く祀って、のちに退散してもらうためだろうという。ミミズクはよくわからない。為朝の意味も不明なのだが、弓の名人だったことが関係しているのだろうかという。

村はづれに大草履を置いて疱瘡からの守護とする例もある。この村にはこれほどの巨人がいるので、それを怖れて疫病神も近づかないだろうとの考えである。疫病から守ってくれるのが巨人だということなら、為朝にも巨人伝説がある。蘇民将来の伝説の須佐之男命も同様である。
その他、門口に「紀州池上紀右衛門子孫」と書いた紙を貼ったり、地域で疱瘡踊りを賑やかに踊ったところもあるという。

宮田登『江戸のはやり神』(ちくま文庫※)によると、子どもにとっての疱瘡は、成長のための避けられない試練、通過儀礼であり、病床の子どものうわごとは祖霊そのものの声と見なされたようでもあり、子どもが試練を経て成長できるのかそうでないのかは、その祖霊のまつりかた次第。そのような古い善悪未分の祖霊から、こぼれ落ちた(零落した)のが疱瘡神ではないか、といった意味のことが書かれている。
参考文献 文中※印

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叶福助


叶福助福を呼ぶという縁起物の福助人形の起源は、はっきりしないようだが、いくつかの資料を総合すれば、享和年間(1800-04)から文化元年(1804)までには、江戸で最初に売られ始めたらしい。
小柄で頭の大きな風貌のモデルは、摂津国の百姓の子であるとも、京都の呉服屋・大文字屋の主人であるともいうが、宮田登氏のよると(「庶民信仰の幻想」)、江戸吉原の娼家の大文字屋の主人だったともいう。

土の焼き物、または張り子で作られた福助人形は、小さな座布団の上に置かれ、大黒様のように棚や祠に祀られ、福を呼ぶ神として流行したという。

  今年よりよい事ばかりかさなりて、心のままに叶福助

という落首もある。「叶(かのう)」が福助の苗字なのだろう。

一部では女のお多福人形と並べて祀られたこともあったらしいが、福助そのものは子どものようでもあり、フクは火を吹くにも通じるのかもしれない。大きな頭は知恵の象徴のような気もしないではないが、当時はそういうイメージはなかったようだ。

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木を植える神(植樹祭の季節に)


植樹祭の季節になる。
戦後の焼け跡に多くの家が建ち、学制改革によって全国に新制中学校が建てられ、多数の木々が伐採された。そのころから、天皇皇后両陛下をお招きしての植樹祭が始まった。「全国植樹祭」の名称は昭和45年からという。木を植えることは、緑や自然環境を保つということ以上に、人間らしい安らぎを得られるようにも思う。
全国植樹祭での昭和天皇の御製。
  美しく森を守らば、この国の禍(まが)も避けえむ。代々(よよ)を重ねて

日本の「木の神」については、古事記の最初の部分に見える久久能智神(くくのちのかみ)がある。日本書紀では木の種を持って父の素盞嗚尊(すさのをのみこと)とともに天下った五十猛神(いたけるのかみ)がある。五十猛神は別名を大屋毘古神(おほやびこのかみ)ともいい、妹の大屋津姫命(おほやつひめのみこと)と爪津姫命(つまつひめのみこと)とともに、全国に木々の種を蒔き、のちに紀伊国に留まった神だという。

「いたける」の語義については、「神奈備にようこそ」で詳細な検証がされている。
その一部に柳田国男説なども紹介され、柳田翁によれば、イタとは、東北地方の民間の巫女であるイタコのイタと同様であり、語りごと、すなわち神語りの意味だという。語りごとによって子の神として親神を祭る立場の神という名前の意味になる。
ところで同じ柳田翁の『野鳥雑記』によれば、雀のことを方言でイタクラと言う地方があり、紀伊国西牟婁郡 大和国十津川地方、阿波国祖谷地方などでそう呼ぶらしい。単にクラとだけ呼ぶ地方も沖縄など少なくない。クラは小鳥の総称の意味にも使われ、燕のことをツバクラまたはツバクラメというときのクラのことだろう。するとイタクラとは、「語りごとをする小鳥」の意味になる。

ところで、各地を飛び回って木の種を蒔くこと自体が、鳥の役割なのではないかと思う。私見ではあるが、イタという言葉に既に「種を蒔く鳥」のような意味があって、その鳥(イタ)の鳴き声を、神の語りごととして聞いたために、「語りごと」の意味になったのではないかと思えなくもないのである。

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大国主命の父母と乳母


まもなく立冬、冬の更衣えのことは重陽の節句のところでも書きましたが、この季節に「玄松子の記憶」というサイトを見ていたら石川県輪島市の重蔵神社の記事に、
  天之冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
という名の神が祭られているとありました。
重蔵神社は今は「じゅうぞう」と読みますが、もとは「へくら」だったともいい、能登半島の真北50kmほどのところにある舳蔵島(へくらじま)の神との関係が言われているようです。重蔵神社の主祭神は、天之冬衣命と大国主命になっています。

古事記によれば、天之冬衣命は須佐之男命の五世の孫にあたり、大国主命の父になります。本居宣長以来、出雲の日御崎神社にまつられる天之葺根命(あめのふきねのみこと)と同一神とされ、草薙の剣を天照大神に届けた神といわれます。大国主命の母は、刺国大神の娘の刺国若姫(さしくにわかひめ)。刺国の意味は不明。ちなみに北海道の江差(えさし)の言われはアイヌ語の岬の意味のようです。

大国主命の別名が大穴牟遅神(おほなもちのかみ)です。
若き大穴牟遅神が八十神たちに迫害されたとき、八十神たちは大木の幹を裂いてその中に大穴牟遅神のからだを挟み、大穴牟遅神は圧死してしまったのですが、そこへ御祖命(みおやのみこと)が駆けつけ、大穴牟遅神を救いだして生き返らせ、紀伊国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所へ逃れさせたという話があります。参照木の下の神話 この御祖の命が、母神の刺国若姫のことだろうといわれます。

それより前にも大穴牟遅神は、八十神たちに真っ赤に焼かれた猪の形の大石を突き落とされ、焼け死んでしまったのですが、御祖命と高天原の神御産巣日之命(かみむすひのみこと)のはからいで、蚶貝姫(きさがひひめ)と蛤貝姫(うむがひひめ)が遣わされ、生き返ることができたのでした。そのとき蛤貝姫は、母の乳汁を大穴牟遅神のからだに塗って蘇生させたということです。
ウムガヒヒメのウムとはウバと通じ、二人の姫は大穴牟遅神の乳母だったようです。岡山県阿哲郡大佐町永富の湯児神社(ゆこじんじゃ)の境内社・乳母神社(ちぼじんじゃ)に、支佐加比比売命(きさかひひめ)宇武岐姫命(うむきひめ)の名で祭られています。

鳥取県日野郡日野町根雨の根雨神社(ねうじんじゃ)の境内社・十二所権現には、以上の四柱の神がそろって祭られています。ある史料では次のような順に書かれています(カッコ内は筆者)。
 蚶貝比売神  (3 叔母?)
 天之冬衣神  (1 父)
 刺国若比売命 (2 母)
 蛤貝比売神  (4 叔母?)
おそらく実際の神座の向かって右から順番に縦書きで記録したものと思います。中心に近い向かって右の位置が一番の上座で父神、次に母神の順です。神話や古代の物語では、乳母は実母の妹であることが多いので、蚶貝比売神と蛤貝比売神は、刺国若姫の妹たちだったのだろうと想像できます。
蚶貝姫と蛤貝姫画像は青木繁(1882-1911)の「大穴牟知命」。蚶貝姫と蛤貝姫も描かれる。


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月読命(ツクヨミノミコト)


古事記や日本書紀に出てくる月の神を、月読命(つくよみのみこと)という。天照大神、須佐之男命と三柱で「三貴子」と呼ばれるが、月読命に関する物語は他の二神とくらべてずっと少ない。

古事記では「夜の食国(をすくに)」を支配する神という。
また、日本書紀の一書で、海原を支配するというのは、潮の満ち引きを支配するという意味なのだろう。海の水を支配し、万葉集に「月よみの持てる変若水(をちみづ)」と歌われたように、若返りの水をももたらす神である。

読(よみ)とは、「数える」という意味の言葉で、日を数えることを日読(かよみ)といい、暦(こよみ)と転じたという。月の満ち欠けを順に数えて月日の移りを認識したのだろう。農耕の時期を知らせる神でもある。
新月から次の新月までの期間は約29.5日という半端な日数なので、暦法の未発達のころは月が出てみないと新しい月になったかどうかはわからなかったと思う。古い時代には、一日の始りは、月の出、ないしは日没だったという。神が現れて祭りが行なわれるのも古くはこの宵の口からで、夜明けの鶏の鳴き声とともに神は帰った。
明るい夜の照明に慣れた近代人が抱くような闇夜への恐怖感はぐっと少なかったのだろうと思う。
日本書紀で「月弓尊」と書くのは、三日月や半月の形から「弓」と書いたのだろうが、ギリシャ神話でも月の神アルテミスは狩りの神であり、こういうのは世界共通の観念なのだろう。
記紀では月読命は女神だとも男神だとも記さない。

月読命をまつる神社は、伊勢の別宮の月夜見宮や、出羽三山の月山神社など、多数ある。東北関東では月山と関係の深い神社も多い。

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山田の案山子、クエビコ


今でも日本の田畑では案山子(かかし)を見かけることがある。最近では古くなったマネキン人形などが案山子代わりに立ててあるのを見て驚くこともある。作物をねらう鳥たちもこれを見てさぞ驚くことだろうと思う。

この案山子が古事記にも登場する神々の一員であることは、古事記を読むまで気づかなかった。
古事記では、大国主神が美保の岬にいたとき、遠くから近づいてくる神があった。その神の名は誰も知らなかったが、谷蟆(たにぐく、"ひきがえる"の意)が言うには、クエビコなら知っているだろうという。そこでクエビコに聞いてみると、少彦名神だという。
このクエビコ(久延毘古)は、山田のソホドともいい、「足は行かねど、ことごとに天の下の事を知れる神なり」という。歩くことはできないが、あらゆる知恵の能力を備えた神だというわけである。

案山子は田の守り神でもある。古くはカガシと濁って発音し、カガシとは臭いのことで、動物の死骸を焼いたときの臭気で悪神を退散させるのだという。関東や信州などでは、10月10日に十日夜(とおかんや)という行事があるところがあり、案山子に大根などが供えられて祭られ、カカシアゲという。田の神としての役割が終って山に帰るときのお見送りの行事であるらしい。

クエビコを祀った神社もある。石川県中能登町の比古神社(くてひこじんじゃ、""の字は実際は"低"の旁部分)は、由緒も古く規模も大きい神社である。ほかには小さい祠だったものが鎮守様に合祀されて末社になったようなものが多い。
ソホドはソホヅともいう。

あしひきの山田に立てるそほづこそ、おのがたのみを人にかくなれ 古今六帖

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伊邪那美命(いざなみのみこと)


伊邪那美命伊邪那美命(いざなみのみこと)は、夫の神の伊邪那岐命(いざなきのみこと)とともに、国土やさまざまの自然の神々を産み、万物を産んだ神である。
最後に産んだのが、それら万物を焼き尽くすかのような火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)であるが、そのために身を焼かれて死者の国である黄泉国(よみのくに)へ去り、以後は黄泉大神(よもつおほかみ)とも呼ばれた。日本の神話抄1
万物を産み、また死と再生をもつかさどる神だといえる。

延喜式鎮火祭祝詞によると、地上に残してきた火の神の災いを防ぐための方法を教えた神でもある。火の神との関係のエピソードが多く、火の神の母神である。
夫の伊邪那岐命は黄泉国を訪れたが、じゅうぶんな再会をはたすことかできず、死の国の穢れを清めるために、禊(みそぎ)をすることになる。

原初の生産をなした母神として、多くの神社で祭られている。生産と豊穣をもたらす神であるといえる。とりわけ熊野神社などでは再生のイメージが強いかもしれない。火の神の母神という点ではアイヌのハルニレヒメと似ていなくもない。

以下は、いろは47文字を使用した歌のようなもの。須佐之男命の詩のページにもいろはうたを載せた。
 ちはやぶる 黄泉ついざなみ 
 遅悪子(おそわろこ) 在らせ終へ得
 めのほとに 受けし傷ゆゑ 
 隠れ居て 眠りたまひぬ

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木地師の祖神、惟喬親王


平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)は、母は紀氏でしたが、即位することはありませんでした。清和天皇が九歳で即位され、外祖父の藤原良房が人臣初の摂政となった時代です。
親王は太宰帥などの地方官を歴任し、貞観十四年(782)、二十八歳で出家して、比叡山の麓の小野の里に住んだといいます。

  桜花、散らば散らなむ。散らずとて、ふる里びとの来ても見なくに  惟喬親王

伝説では、親王は近江国の君ケ畑などに住み、老木からお椀などを作ることを考案され、轆轤挽(ろくろびき)の方法を考案しました。その技法は木地師に受け継がれ、そこから木地師は全国にちらばって木地製品を広めたのだといいます。親王は木地師たちに祖神として崇められ、掛け物にも描かれます。

お椀のほか、こま、盆、こけしなども、木地師が木を回転させながら削って作ったものです。
木地玩具

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