文部省唱歌の「蝶々」は、フランスのあの有名な思想家のルソーの作曲だそうだが、春の到来を告げる風景描写などで日本人に親しまれている。
「蝶」をチョウというのは中国の漢字の音読みで、つまり中国から来た言葉(漢語)である。大和言葉には蝶を意味する言葉はないのだろうか、またあったとしても、なぜ大和言葉で呼ばれずに、漢語だけになってしまったのだろうか、という疑問がある。
蝶の古い和語は、古語辞典には「かはひらこ」とか「ひひる」とかいう言葉が見える。今の方言でも類似の言葉が残っているらしいが、標準の日本語ではとうに消えてしまった言葉である。万葉のころから近世まで、蝶は、和歌にもあまり詠まれなかったらしい。
蝶は鳥と同様に、死者の霊を運ぶものと考えられたのは確かである。
蝶が鳥と違うのは、幼虫から蛹になり成虫へと変態する。これは蛇の脱皮よりも神秘的に見えるかもしれない。空中を不安定にさまようような飛び方も、同じ霊でも何か不幸な死に方をした者の霊のように、我々にも感じられないことはない。
昆虫類は突然大量発生し、農作物に危害を及ぼすこともあり、とくに戦死者の亡霊であるとも意識され、死後にイナゴと化した越前の
斎藤実盛の伝説もある。蝶は不吉なものとされたため、中世の絵巻にも描かれることはなかったらしい。
しかし蝶は、古事記や日本書紀には登場し、また平安時代以後の調度品類の模様や家紋(丸に揚羽蝶)などには、よく使われた。
紋様などについては、もともと中国でよく使われたデザインがそのまま輸入され、荘子が夢に魂が体から抜け出て胡蝶となって百年も花と遊んだという伝説から、縁起の良い模様とされ、そのような類型のままに伝承されていったらしい。舞なども同様の意識なのだろう。次は平安時代末期の蝶を詠んだ珍しい歌。
百とせの花にやどりて過ぐしてき。この世は蝶の夢にぞありける 大江匡房
記紀のころは、蝶は蛾との区別があまりなく、不吉な兆しを予見させたりすることもあるが、また、常世の虫とも見なされている。鳥は、人の集団を一つの方向に導くためのものとして、船の舳先などにかたどられることがあるが、蝶は、あいまいではかなくも見える常世の国と関係づけられる。常世の国は「常夜の国」でもあり、つまり常闇の死者の国でもあるという最も古い時代の考えも残っていたので、蝶もまた吉と不吉との両面から意識されていたようである。
また絹を産む蚕も、記紀の時代から珍重され信仰の対象ともなっていた(このへんのところは、小西正己著『古代の虫まつり』学生社 に詳しい)。
平安時代に蝶の紋様が好まれ出したのは、信仰ということではなく、舶来のものを好んだ都の人の趣味なのだろう。また一方では平安時代の京都では御霊や穢れなどについて過敏に反応するようになり、蝶の不吉さも強調されていった。蝶についての紋様や中国の知識と、実際の生活の中の信仰とは、ずいぶん離れたように見える。