神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

海幸彦と山幸彦


農村向けの雑誌『家の光』の付録に『こども家の光』という小さい冊子が毎月付いていたころがあり、昭和31年6月号に、古事記の神話物語「海幸彦山幸彦の物語」が載ってゐた。浜田広介の執筆。画像は4ページのうちの2ページ。
海彦山彦

古事記の物語と大きく異なる部分がある。
ここでの海幸彦山幸彦は高天原に住んでゐることになってゐるが、古事記では日向国である。意図は不明。

釣道具と弓矢の交換を提案したのは、古事記では弟の山幸彦である。山幸彦は自分で言ひ出して兄の釣り針を紛失したが、それで最後に兄を懲らしめるのでは、少々正義から遠くなるといふ理解なのかもしれない。

3ページ目以後の話では、綿津見宮の井戸で水を汲んでゐたのは、古事記では豊玉姫ではなくその従婢である。しかしこの場面は他の多くの作家による再話でも、豊玉姫と山幸彦の直接の出会ひに脚色されてゐる。そのほうがラブロマンスとしてドラマチックなのだらう。しかし子供向けなのでロマンスは省略されてゐる。

古事記では、山幸彦は綿津見宮で三年もの間、接待を受けて、釣り針のことを忘れてゐたのだが、この再話では釣り針はすぐに見つかる。全体の話を短くまとめるためだらうか。
海彦山彦2

「こども家の光」には、日本の古い話が多く掲載されてゐたかといふと、そうでもなく、毎月、世界の童話などが少しづつ遍ねく紹介され、そのうちの一つといふこと。(2017.08.10)

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『火山で読み解く古事記の謎』


『火山で読み解く古事記の謎』蒲池明弘 著(文春新書 2017)。
古事記の物語の背景には、火山活動の記憶やその反映などが見え隠れするのではないかという本であり、興味深い。国文学者の益田勝美や物理学者の寺田寅彦、ロシアのワノフスキーらの先行する研究をふまえたものである。

 八俣のオロチが、赤い目をして八つの尾根と谷にまたがり、腹から血を吹き出していたという話。八俣のオロチを退治したことは、火山活動が鎮まったことの反映なのだろうと、最初に本の題名だけ見て思ったわけだが、読み始めると、その通りで、さらに多くのことが取り上げられている。

 天照大神の天の岩戸隠れの話は、日食などは関係ない。日食は数分で元に戻るものである。古事記に書かれるように、山から木を抜いて運んだり、鍛冶屋が銅鏡を鋳造するほどのひまはない。須佐之男命が大暴れしたのは、噴煙が長期間、天を覆い尽くすほどの火山の大噴火のことであるという。海の神でもある須佐之男は、海底火山の大噴火を意味し、実際に縄文時代には九州の南の鬼界カルデアが大噴火したことは考古学ないし地質学的にも証明されている。岩戸隠れで世界が闇夜となったのは、この大噴火の反映ではないかと。
 伊邪那美神が去った黄泉国でも、火山活動が活発らしい。黄泉とは、硫黄成分を含む温泉の意味であろうともいう。そのほか、多くの事例が書かれている。
 そして火山を鎮めるちからのある者が、この国を治めることになる。

 保立道久『歴史のなかの大地動乱』からの引用があり、奈良時代の天平6年、近畿地方の大地震の3か月後の聖武天皇の詔勅が紹介される。

 「このころ天すこぶる異を見せ地はあまた震動す。しばらく朕の訓導の明らかならざるによるか。民の多く罪に入るは、その責め予一人にあり」

 「地震は自分の「訓導」がよくなかったために起きたことであり、責任はすべて自分一人にあるというのである。」
 今の時代の陛下の被災地慰問等は、そうした古代的なことの現代的表現ではないかと、著者の蒲池氏はいう。内田樹氏も同じ見方をしているとのことである。なるほどと思う。

 聖武天皇の詔勅には、地震の結果、「民の多く罪に入る」と書かれる。罪とは何か、自然に起った災いのことも、古代では罪といった。穢れについても同様である。とすると、「罪・穢れを祓い清める」とは、地震や火山活動を鎮める意味にもなる。罪や穢れ、また禊ぎや祓いについても、自然災害や火山活動の視点から再考する必要があるのではないかと思えるのだが、これは今後の課題。

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旅館で見た版画絵と釈迢空の歌を探す


昨年の9月に出かけた信州方面への団体旅行、宿泊先のホテルの壁面に掲げられた大きな版画絵を見た。
大浴場の少し先の通路の壁面のその版画絵は、縦横1メートル以上の大きさ。
祭礼で踊る人が描かれ、和歌が書き添へてあった。その歌は、有名な歌で、

 遠き世ゆ、山に伝へし、神怒り。この声を われ聞くことなかりき

伊那地方の新野の祭りを詠んだ、釈迢空の歌だった。
写真に撮らせてもらっても良かったが、あいにくカメラを持たず、出発の際に別のことに忙殺され、同行者に撮ってもらうこともしなかった。

その後、風邪をこじらしたり多忙な時期があり、落ち着いてからネットで調べて見たのである。
長野県出身の版画を調べると、森獏郎といふ人があり、小林一茶の句をまじえた版画などもあり、絵柄もこの人で間違ひない。
『森獏郎板画集』(郷土出版社)も取り寄せてみた。
森獏郎
画集の中の1つを紹介すると、この1枚は「杏の里のわらべうた」とあり、民俗行事の「成木責め」の文句を取り入れた、わらべうたを題材にした作品なのだらう。
釈迢空の歌の絵は、収録されてゐなかった。
もう1度そのホテルを訪ねるしか方法はないのかもしれない。
場所は、おそらく昼神温泉ホテル吉弥様ではないかと思ふ。
【倚松帖より】

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海幸彦山幸彦の物語


農村向けの雑誌『家の光』の付録に『こども家の光』という小さい冊子が毎月付いていたころがあり、昭和31年6月号に、古事記の神話物語「海幸彦山幸彦の物語」が載ってゐた。浜田広介の執筆。画像は4ページのうちの2ページ。
海幸彦山幸彦
古事記の物語と大きく異なる部分がある。
つづきはこちらhttp://nire.main.jp/sb/log/eid233.html
【倚松帖より】

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『日本お伽集』などの挿絵


平凡社 東洋文庫の『日本お伽集』は、大正9†10年に刊行された『日本神話』『日本伝説』『日本童話』を収録したもので、執筆は、森鴎外(林太郎)、鈴木三重吉などである。

挿絵も多数掲載され、画家は、久米修二、木村晴三、浜田如洗、南枝知一の四人の名があるが、どの絵がどの画家のものか、明記されてないので、想像してみた。

上に載せたのは、日本神話の冒頭の絵であるが、浜田如洗の絵と思はれる。右下に「如?」と署名が見える。この画家のものは、最近の歴史雑誌などに再掲載されたものを見たことがあるような気がする。

久米修二の絵は、「修二」と署名されてゐる絵があるので、それだらう。込み入った線の筆使いの絵である。

木村晴三の絵は、○に「キ」などと署名された絵がある。絵柄は日本画風で風景描写が良い絵であるが、この本の「日本神話」の部分には、この画家の絵はなかったかもしれない。

南枝知一(なんしともかず)は、その他の署名のない絵ということになる。美少年や美少女の絵が印象的な、現代風の絵柄。次の海彦山彦の部分の絵は、南枝知一と想像。


さて次に
菊池寛『日本建国童話集』は昭和2年、文藝春秋社刊で、古事記全三巻の話をまとめたもの。扉絵の画家はは野田九浦。
挿絵には伊藤孝をはじめ6人の名があるが、巻頭の伊邪那伎・伊邪那美の絵(下の画像右)は、伊藤孝ではないかと想像する。絵の隅に「たか」と読める署名がある。雑誌『コドモノクニ』などでは子供向けの絵が多数ある人で、伊藤孝之とも書く。


日本児童文庫『日本歴史物語(上)』は昭和3年。神話時代の文量は少ない。
挿絵は日本画家の小村雪岱だが、簡略な絵であり、絵の点数も少ない。

【倚松帖より】

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洪水伝説


『失われた文明』(ゴルボフスキー著、講談社現代新書1972) によると、
世界各地の神話物語に共通して見られるのは、鳥=太陽、蛇=闇と洪水、という対立の図式であるという。そして、
「日本の神話のなかでは、へびをくわえている神聖な鳥・ベング(おおとり?)という形で表現されている。」(71p)
と書かれるのだが、「おおとり?」は訳者の注釈かもしれないが、ベングが何のことかよくわからない。また、
「仏教の伝説によれば、インド、日本、中国でもまた大水すなわち洪水のシンボルであるへびのナーガもまた湖に住み、人々が聖木に近づくのを防いでいる。」(100p)
古い日本語に蛇を意味するナギという言葉があるらしいが、ナーガはよくわからない。ここでいう「聖木」とは、「シンボルとしての智恵の木」のことで「日本でこの役割を演じているのはみかんの木、中国においてがカシヤ(肉桂)の木、……である。」(98p)
みかんは橘のことかもしれないが、橘は生命の木、桜は智恵の木ともいうようだが、これは外来思想だろう。
・・・というわけで、この本についての評価は難しい。

ここからが本文である。
世界中の神話伝説に見られる洪水伝説が、日本にないのは不思議だとは、他の人の本でも読んだことがあるが、古事記にはないこともない。

1つは、海を知らす須佐之男命、須佐之男命の犯した天津罪のいくつかは、洪水被害のようにも解釈できる。畦を破壊し、用水の溝を埋め、水を引く樋を破壊し、田の標の串を流した。須佐之男命は、洪水のシンボルのようにも見える。この海の神は、それ以前には、泣いてばかりいた。涙と海水の関係を示唆しているのかもしれない。

2つめは、山彦の海神宮訪問。海神宮を訪れた山彦は、しばらく海中で暮らした後、潮満珠と潮干珠を海神から授かった。そして潮満珠で洪水をおこし、海彦を溺れさせて従わせた。
あるいは、山彦はその名の通り山であるなら、移動せずとも、海面が上がったために海中生活をした時期があったとの解釈もできなくはない。

2つとも、小規模な洪水であり、洪水を起こす神は、一神教のような絶対神ではない。一神教のような破滅的な大洪水ではないだけの話である。
【倚松帖より】

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黄泉つ伊邪那美 いろはうた


日本語についてのエッセイなどのアンソロジー「日本語で生きる」といふシリーズは、福武書店から刊行され、その1『この素晴しい国語』は、"大野晋 編"とある。
同書のなかの、塚本邦雄「いろはうた」に、いろは四十七文字を使った「うた」が多数引用されてゐた。有名な「あめつち」と「いろは」、そして近世中期以降の作などである。

近世の作は、仮名遣ひが恣意的でいけない。ただし本居宣長以外は。本居宣長は、こんなもの(?)にも関心を示すのが面白い。

 

明治以後は、新聞社の募集の作などであり、内容は、個人の感情やメッセージを込めたもの、地名・苗字などの無作為の羅列で、面白みがないものが多い。地名の羅列は、昔の歌の伝統もあったと思ふが、たとへば、鉄道の1つの路線の駅名を、多少の通過駅があっても、出発から順番に辿るのでなければ面白みがない。

 

30年ほど前の自作の歌は、内容の面白みはそこそこだが、「遅悪子(おそわろこ)」といふ造語を使ってしまったのが難点。
遅悪子とは、最後に生れた悪い子のことで、古事記では、伊邪那美命が最後に生んだ火の神・迦具土神のことである。

 

ちはやふる 黄泉(よも)つ伊邪那美
おそわろ子 在らせ終へ得
めのほとに 受けし傷ゆゑ
隠れ居て ねむり給ひぬ


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折口信夫の特集番組


中沢新一氏のテレビ講話「私のこだわり人物伝・折口信夫」の第2回「まれびと」を2日のNHK(再放送)でやっていたのが、面白かった。

中沢氏は、古代の神の姿について、柳田国男と折口信夫の見方を比較して語る。
柳田国男は、「神は共同体をまとめる存在」であり、共同体と共通のものをもった内部的なもの、すなわち祖霊であり、祖霊こそが神の原型であると考えたという。
折口信夫は、神は共同体の「外側からやって来て共同体をゆさぶるもの」だと考えたという。どこから来るかというと、常世、あの世というところで、そこは魂の原郷であり、その「あの世とこの世の通路を開く存在」が神だと考えたいう。

常世やあの世に住んでいるのが祖霊、と考えれば、それほど違いはないように思えるが、「ゆさぶる」とはどんなことだろうか。
「共同体をまとめる」とするなら、日常ではまとまっていない人々を前提にしているようで、近代の話のようでもあり、それだけでは確かに不十分のように思えるが、柳田国男がそうだとはわからない。話をわかりやすくするための誇張とは思う。

中沢氏の話に戻ると、「なぞなぞ」の話が出る。たとえば「目はあっても見えないものは何?」、答えは「ジャガイモ」。目と芽という同音の言葉が結びついて、喜びと笑いがこみあげる。こうしたなぞなぞが「最も古い文芸」であり、この考え方を宗教に適用したのが、折口の見方だという。
つまり、異質なジャガイモが現れて「ゆさぶられ」、しかし異質なものどうしが結び付けられることによって、新たな感情が起こる。こうした異質な体験は、外から来たもので、その力が「まれびと」なのだという。

なるほどと思う。外来のものを有難がりすぎる日本人の悪い面もここから来るのかと思ったが、それはともかく、最も古い文芸に「笑い」があったとは、数十年来の私の疑問にヒントを与えてくれそうだと思った。
人々と祖霊とが異質になってしまった状況を考えれば、柳田と折口の違いも大きなものではないと思う。

中沢氏の話のまとめは「死とのふれあいを遮断しようとする社会」が宗教的な感情を遠ざけているということ。
どうしたら近づけるだろうか悩んでみたが、「老いる」ことで少しは近づけるだろうという簡単な答えが一つ出た。若者文化の持ち上げすぎといったことを見直すことも必要かと思う。

●中沢氏の書くものには管理人は関心は抱いてこなかったのですが、専門分野が重なる有名人のようで、この人だけを取り上げるのは、誤解を招くかもしれませんが、この記事で折口信夫を取り上げてみたかったわけです

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朝日新聞の「神社分類」


2月22日の朝日新聞文化面に「神社分類」という記事があり、国学院大学の岡田荘司教授らによる神社の系統別の分類や分布研究の報告が紹介されていた。「天満宮」や「北野神社」は名前は違うが菅原道真を祀る同系統の神社ととらえるという方法で、全国7万9000の法人格のある神社を対象としている。
それによると全国で多い神社は「八幡さま7817、お伊勢さん4425、天神さま3953」と新聞に紹介されている。

日本で一番多い神社は八幡さまか稲荷さまかという議論は昔からあったが、ここでは4番目に「稲荷さま2970」とあり、八幡さまは大差をつけている。これは対象となった神社が、ある程度以上の規模(鎮守様)をもった神社に限られているからである。鎮守様の境内に祀られる小さな末社など、規模の小さいものを含めると逆転するかもしれないのである。
新聞には「お伊勢さん」という見出しで書かれるが、代表的な神社名は「神明社」であり、普通は「神明さま」と呼ばれ、地域の神社を「お伊勢さん」と呼ぶことはほとんどないと思う。それらは地域の鎮守さまとしての神明社であって、神明社だから伊勢神宮と直接の結びつきがあるということではない。

神明社の系統は東日本にやや多いという特徴がある。これは南北朝時代以後に独立した運営のために、荘園のような所領をもつ必要が生じ、比較的未開の地の多かった東日本に伊勢の御師らの活動の重点があったためであろう。
中世の運営形態から生じた分布のかたよりにすぎないものであって、また地方の神明社の数が1位でなくても、伊勢の神宮が「国家総鎮守」であることには変わりはなかろう。

4番までは前述の通りだが、5番目から10番目は「熊野、諏訪、祇園、白山、日吉、山神」だそうである。

ちなみに純粋に祭神ごとの全国順位は次のページにある。元の資料は神社本庁の「平成祭データ」なので、同一のものといえるかもしれない。
http://nire.main.jp/sb/log/eid35.html
このような祭神別とすれば、大国主神や迦具土神(火の神)もかなり多いことがわかる。

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疱瘡の神、源為朝


ダルマ絵関東地方の屋敷神といえば稲荷様が多いのだが、まれに八幡様や浅間様を見かけるときがある。先日見たのは、為朝大明神で、確実な由緒は不詳とのことであった。為朝とは源為朝のことで、九州や沖縄から八丈島(参考〜八丈島の為朝)などに多くの伝説を残している。私が見た為朝大明神もそうだとは断言できないが、源為朝は、江戸時代後期には疱瘡の神として信仰された歴史がある。

疱瘡は、今はほとんどなくなったが、近世までは難病の一つで、子どもにかかりやすく、疱瘡の子どもが出ると、医者を呼ぶほかに、さまざまな信心が行われた。疱瘡の子どもには赤い着物を着せ、枕や身のまわりのものも赤づくめとし、床の間には赤いダルマを飾り、ダルマ絵という赤色で刷られた御守札を祀ったという。滝沢馬琴の日記にもその様子が書かれているらしい。

上のダルマ絵には、ダルマのほか、張り子の犬、でんでん太鼓が描かれている。

 もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり

と三十一文字の呪文のようなものも書かれる。湯尾峠は福井県南部にある峠のことである。
ダルマ絵には他にミミズク、そして為朝や鍾馗様の絵が描かれているのもある。
為朝は、ダルマとミミズクと犬を家来にして、疱瘡神を征伐したといったような、桃太郎のような話もある。(画像は週刊朝日百科「歴史をよみなおす-20-村の手習塾」(高橋敏編※)から)

犬については、古くから安産や子育ての信仰もあり、子どもの守護でもあるのだろう。ダルマなどの赤色は、疱瘡にかかった皮膚の色が赤くなることから、疱瘡神も赤色と考えて、疱瘡の神を手厚く祀って、のちに退散してもらうためだろうという。ミミズクはよくわからない。為朝の意味も不明なのだが、弓の名人だったことが関係しているのだろうかという。

村はづれに大草履を置いて疱瘡からの守護とする例もある。この村にはこれほどの巨人がいるので、それを怖れて疫病神も近づかないだろうとの考えである。疫病から守ってくれるのが巨人だということなら、為朝にも巨人伝説がある。蘇民将来の伝説の須佐之男命も同様である。
その他、門口に「紀州池上紀右衛門子孫」と書いた紙を貼ったり、地域で疱瘡踊りを賑やかに踊ったところもあるという。

宮田登『江戸のはやり神』(ちくま文庫※)によると、子どもにとっての疱瘡は、成長のための避けられない試練、通過儀礼であり、病床の子どものうわごとは祖霊そのものの声と見なされたようでもあり、子どもが試練を経て成長できるのかそうでないのかは、その祖霊のまつりかた次第。そのような古い善悪未分の祖霊から、こぼれ落ちた(零落した)のが疱瘡神ではないか、といった意味のことが書かれている。
参考文献 文中※印

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