享保の新田開発
江戸時代中期の享保年間の検地帳が2冊出てきたので、内容を吟味してみた。
八代将軍吉宗のころ、地方の新しい産業を興すことが奨励され、草加せんべいなどこの頃からの名産品も全国に多いと聞くが、国民の総生産が増えれば税収も増えるというわけで、農村に対しては新田開発が奨励された。そのとき新たに開墾された田畑の目録が、この検地帳である。
一冊は享保十四年九月、もう一冊は享保十八年三月の日付である。
最初の享保十四年の新田開発は大がかりなもので、検地帳には、約70筆のこまごまとした畑と数筆の田の、所在地や開墾者の名が登録されている。全ての村人が関ったと思われる。
所在地については最も多いのが「屋敷添」で49筆、面積は平均2〜3畝で(1畝は30坪)狭いのだが、この屋敷添以外はほとんど1畝ないしそれ以下なので、面積でいえば屋敷添の土地が全新田のうちの9割近くになると思われる。
屋敷添とは、村人の住居のそばの土地のことで、武蔵国北部の当地は、冬には上州からの空っ風にさらされ、屋敷の西部と北部に防風林(屋敷林ともいう)をもつ家が多かったのだが、その林の一部を開墾して畑にしたようである。
この新田開発にあたっては、上からの割当や目標が示されたようなのである。関東の平地の村々では既に開墾すべき土地はほとんど残っていないのが実情である。目標をクリアするために屋敷林を畑にするしかない。当時村の名主を交替で勤めた2軒の家は平均をだいぶ上まわる1反(300坪)前後の屋敷添の土地を畑にしたのだが、これは、開墾を渋る一般農民を説得するため、見本を示さなければならなかったということだろう。指導者というのはつらいものである。
屋敷添の他の土地では「あみたとう(阿弥陀堂)」に2畝余。阿弥陀堂という小さな祠の裏の林のことだろう。
その他については、1畝前後かそれ以下の極めて狭い土地ばかりである。所在地として字名などが記入されているが、そのなかに「山から」と記入されたものがあり、字名としては聞いたことがない。しかしこれらの土地が何であったかを推定するのは、当地では簡単なことである。当地では市内唯一の古墳群があり、今はその数は少なくなってしまったが昔は非常に多くの数の古墳が連なっていたと伝えられている。屋敷林や阿弥陀堂の裏まで開墾するくらいだから、古墳も開墾されたのであろう。
以前「享保の改革」に関連して、上田秋成の次のような歌をどこかで引用したことがある。
しめ延へし苗代小田にかげ見えて、年ふる塚の花も咲きけり (上田秋成)
出典は忘れてしまったのだが、古墳が削られて田畑に成り変ることを惜しんで詠んだ歌であるといわれる。これは大きな古墳が削られて小さくなってしまったのだが、もともと小さな名もない古墳は、かげさえ残せずに消えてしまったようである。
さて享保十八年の2度目の新田開発は、わづか九筆で平均1畝未満の小規模なものであった。所在地は2種類の字名が記入されているが、この字名は、村鎮守2社の裏手に当る字名である。開墾できる土地はがなくなり、鎮守の森に手を付けてみたのだが、ほんのわづかしか手を付けられるものではなかったのである。そして3度目はなかった。
当地ではどの家にも広い屋敷林があり、古墳群もあった。しかしそのようなもののない村々では、どのような土地を開墾したのであろうか。おそらく1度目から鎮守の森を開墾した村もあったことだろう。江戸時代の村高のわりに境内の狭い鎮守社しかない地域というのをときどき見かけることがある。当地の鎮守社は、比較的広い境内を保有したまま明治維新を迎えることができた。それには古墳群が犠牲になったからという経緯もあるのである。
田中圭一氏の著作によると、下総国のある村では、享保の新田開発のときに、集落から離れた小さい山の上に平らな部分があったので、そこを開墾して畑にしたという。しかしその畑を耕作するために村人が通うにはあまりに遠距離だったので、いつしか元の林に戻ってしまったという。
八代将軍吉宗のころ、地方の新しい産業を興すことが奨励され、草加せんべいなどこの頃からの名産品も全国に多いと聞くが、国民の総生産が増えれば税収も増えるというわけで、農村に対しては新田開発が奨励された。そのとき新たに開墾された田畑の目録が、この検地帳である。
一冊は享保十四年九月、もう一冊は享保十八年三月の日付である。
最初の享保十四年の新田開発は大がかりなもので、検地帳には、約70筆のこまごまとした畑と数筆の田の、所在地や開墾者の名が登録されている。全ての村人が関ったと思われる。
所在地については最も多いのが「屋敷添」で49筆、面積は平均2〜3畝で(1畝は30坪)狭いのだが、この屋敷添以外はほとんど1畝ないしそれ以下なので、面積でいえば屋敷添の土地が全新田のうちの9割近くになると思われる。
屋敷添とは、村人の住居のそばの土地のことで、武蔵国北部の当地は、冬には上州からの空っ風にさらされ、屋敷の西部と北部に防風林(屋敷林ともいう)をもつ家が多かったのだが、その林の一部を開墾して畑にしたようである。
この新田開発にあたっては、上からの割当や目標が示されたようなのである。関東の平地の村々では既に開墾すべき土地はほとんど残っていないのが実情である。目標をクリアするために屋敷林を畑にするしかない。当時村の名主を交替で勤めた2軒の家は平均をだいぶ上まわる1反(300坪)前後の屋敷添の土地を畑にしたのだが、これは、開墾を渋る一般農民を説得するため、見本を示さなければならなかったということだろう。指導者というのはつらいものである。
屋敷添の他の土地では「あみたとう(阿弥陀堂)」に2畝余。阿弥陀堂という小さな祠の裏の林のことだろう。
その他については、1畝前後かそれ以下の極めて狭い土地ばかりである。所在地として字名などが記入されているが、そのなかに「山から」と記入されたものがあり、字名としては聞いたことがない。しかしこれらの土地が何であったかを推定するのは、当地では簡単なことである。当地では市内唯一の古墳群があり、今はその数は少なくなってしまったが昔は非常に多くの数の古墳が連なっていたと伝えられている。屋敷林や阿弥陀堂の裏まで開墾するくらいだから、古墳も開墾されたのであろう。
以前「享保の改革」に関連して、上田秋成の次のような歌をどこかで引用したことがある。
しめ延へし苗代小田にかげ見えて、年ふる塚の花も咲きけり (上田秋成)
出典は忘れてしまったのだが、古墳が削られて田畑に成り変ることを惜しんで詠んだ歌であるといわれる。これは大きな古墳が削られて小さくなってしまったのだが、もともと小さな名もない古墳は、かげさえ残せずに消えてしまったようである。
さて享保十八年の2度目の新田開発は、わづか九筆で平均1畝未満の小規模なものであった。所在地は2種類の字名が記入されているが、この字名は、村鎮守2社の裏手に当る字名である。開墾できる土地はがなくなり、鎮守の森に手を付けてみたのだが、ほんのわづかしか手を付けられるものではなかったのである。そして3度目はなかった。
当地ではどの家にも広い屋敷林があり、古墳群もあった。しかしそのようなもののない村々では、どのような土地を開墾したのであろうか。おそらく1度目から鎮守の森を開墾した村もあったことだろう。江戸時代の村高のわりに境内の狭い鎮守社しかない地域というのをときどき見かけることがある。当地の鎮守社は、比較的広い境内を保有したまま明治維新を迎えることができた。それには古墳群が犠牲になったからという経緯もあるのである。
田中圭一氏の著作によると、下総国のある村では、享保の新田開発のときに、集落から離れた小さい山の上に平らな部分があったので、そこを開墾して畑にしたという。しかしその畑を耕作するために村人が通うにはあまりに遠距離だったので、いつしか元の林に戻ってしまったという。