青春の回顧

 20歳のころ、石油ショックという事件があったころなのだが、そのころ、懐メロ歌謡曲を聴くようになり、2年後からは民謡も聴いた。日本の民謡には替歌のようにどんどん新しい歌詞が付いて歌はれることがあり、当時デビューしたての民謡歌手・金沢明子の歌で聴いた歌詞が、今でも記憶に残ってゐる。
 その唄は、山形県の新民謡「花笠踊り」(別名:花笠音頭)といふ唄で、「めでためでたの若松さまよ、枝も栄えて葉も繁る」といふ歌詞がよく知られてゐる。他に、次のような歌詞があった。

 「娘ざかりを、なじょして暮らす。雪に埋もれて針仕事」

 雪国の娘たちの歌である。
 平凡の中の清らかさと「かなしみ」にも聞えるが、あっといふまに過ぎてしまふ青春のはかなさといふか、回顧されることによってしか癒されない抒情ともいふべきもののことであらう。だがこれは、近代の文人の手になる詩と思ったので、なかなか詩才のある人が山形県の民謡関係者にはゐるものだと思った。
 しかし数年後、新潟県の新民謡「十日町小唄」(永井白湄の作詞)の歌詞の一部に、ほぼ同じものがあることがわかった。

「娘ざかりを、なじょして暮らす。雪に埋もれて機仕事、花の咲く間ぢゃ小半年」

 機仕事を針仕事に替へただけの流用なのだらう。
「娘ざかりを、なじょして暮らす」と問い掛けて、「雪に埋もれて機仕事」と応へる。さらに「花の咲く間ぢゃ小半年」と付ける。
 連句のようでもあるが、「なぞかけ」のようでもある。(中略)
 あるいは3句めは、民謡ではお囃子の言葉のようでもある。
「小半年」(三か月?)が過ぎればといはれても、言ひ訳のようで、現実に引き戻されるようで、やはり……、二行で切れば、イメージが広がって、年長者には懐古の趣きにもなる。それで良かったと思ふ。

 これに似た、より古い、北原白秋の短歌を見つけた。白秋の若き日の処女歌集『桐の花』から。

 「わかき日は紅き胡椒の実の如くかなしや雪にうづもれにけり」

「かなし」は古語では「愛しい」といふ意味もある。
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新年の雪の歌

万葉集20巻の末尾、4516首目の大伴家持の歌。

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)

元日の朝に雪が降り、その雪が頻りに積もるように、この年に吉事よ、多くあれ。
といった意味だろう。
正月の雪が、縁起の良いものと考えられていたことがわかる。
万葉集20巻を結ぶにあたって、未来への予祝をこめた歌でもあるのだろう。

続いて、古今集の最初の歌。
    
 年の内に 春は来にけり 一とせを 昨年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん (在原元方)

年内に立春が来た。さてこの一年を振り返るのに、新しい春からみて「昨年」というべきか、まだ12月なので「今年」というべきか。

新暦しか知らないと、正月のことをなぜ「新春」というのですかという質問が出るわけだが、立春に近い朔日(月齢1)を、1月の最初とするのが旧暦なので、1月から3月を春と呼ぶ。立春は1月1日の前後の約30日間のどれかの日になる。12月中に立春が来る確率は約50%なので日常的にはよくあることになる。
「昨年」というべきか「今年」というべきかというのは、挨拶言葉をどう言ったら良いかということにもつながる。
古今集3番めの歌。

 春霞 たてるやいづこ みよしのゝ 吉野の山に 雪はふりつゝ {読人不知}

春が来たなら霞が立つはずだがいづこに見えるのか、吉野の山は雪が降っている。
この「いづこ」というのは否定的な意味ではなく、それならどこに春のきざしがあるか、探してみようという意味にもとれる。
そして6番めの歌。

 春たてば 花とや見らん 白雪の かゝれる枝に うぐひすのなく (素性法師)

雪を花に見立てれば良いではないか、というのも一つの挨拶の方法なのだろう。
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小野小町 花の色はうつりにけりな

 花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに 小野小町
(百人一首の九番目。古今和歌集)

 百人一首の歌の解釈の中で、通説に大きな疑問をいだいてきたのが、この一首である。
 通説とは、すなはち美貌を誇った小野小町が、年齢をかさねて容色の衰へを嘆いた歌だとする説である。20世紀の先進国の映画女優でもあるまいし、と思ふ。
 そのように我が身を歎く同類の歌が、平安時代に何人もの女性によって詠まれたといふのなら話はわかるが、この歌一首だけのようでもある。後の時代でも、女性が公開の場で、そのような言葉を述べるものだらうか。

小野小町 小野小町と同時代の在原業平がモデルといはれる「伊勢物語」は、色好みの文学ともいはれる。色とは、恋愛、恋心のことであり、色好みは恋の儚さを熟知してゐることでもあるといふ。
 その伊勢物語に「うつろふ色」を詠んだ歌がある。

 伊勢物語の二十段の話に、
 春の弥生のころ、京の男が、大和の女に会って求愛した。男は京へ戻る途中に、春といふのに紅葉色した楓を見つけ、珍しく思ひ、歌を添へて楓の枝を女に送った。
  君がため手折れる枝は 春ながら かくこそ秋のもみぢしにけれ
 真赤な楓の色を、自分の恋心にたとへたつもりだったが、あとから届いた返事の歌。
  いつのまにうつろふ色のつきぬらむ。君が里には春無かるらし

「秋」を「飽き」とかさね、男が心変はりしたと受け取られたようだが、春の出会ひの直後に、秋のイメージしかない紅葉した楓の枝を送ってくるセンスの無さが、一番の問題なのだらう。紅葉した葉には、これまで実に多くの人たちが詠んできた秋の歌が、こびりついて離れない。それを知らないのは、歌を知らないのだらうし、色好みとはいへない。「うつろふ色」は、文字の上では相手の心変りを意味するのだが、実際は女のほうがさめてしまったのだといふほかはない。

 「花の色は、うつりにけりな」も、恋心が失せた、心変りした、といふ意味にとるのが自然ではないかと思ふ。
 誰の恋心かといへば、「花の色」なので女だらう。小町自身の恋心とすれば、この歌は男に対する「断り」の歌になる。長雨のときの物思ひで、よくよく考へたら、さめてしまったといふ。(あるいは「ながめ」は、眺めてゐるだけで、その後何もアプローチしてこない男に愛想が尽きたといふ意味かもしれない)
 男の求愛を断る女性の歌なら、この時代にも山ほどある。百人一首では清少納言の歌も同様で、「世をこめて鳥のそら音ははかるとも」の歌では、漢詩の知識をひけらかして男を驚かせるといふ特徴がある。小町の歌にも、伝弘法大師作といふ「いろは歌」のような世の無常を述べるような知識があるのではないか。
 また、小野小町といへば、深草少将の求愛(百夜通ひ)を百回も断ったといふ伝説のある人である。まさに「断る女」のイメージなのである。

 河出書房の『別冊文芸読本・百人一首』によると、小野小町の「花の色」については、論が分れてゐるようである。冷泉持為など15世紀(室町時代)の解釈では、言葉の背後に容貌の意味があるとされ、一方、近世の賀茂真淵以後の国学者は、桜花の意味だけにとればよいとしてきたらしい、近代になってぼちぼち15世紀風の解釈も復活したが小数派であるといふ(片桐洋一氏)。
しかし戦後の一般むけの解説本では、決して「小数派」ではないような印象がある。

角川文庫『百人一首』の島津忠夫氏によると、藤原定家の『八代抄』で、小町の歌は式子内親王の次の歌と並べて評されてゐるので、容色の衰への意味もあるだらうとする。
 はかなくて過ぎにし方を数ふれば 花にものおもふ春ぞへにける 式子内親王・新古今和歌集

 しかしこの歌は、過去を懐かしく回想する趣であり、容色の衰へに結び付くだらうか。人生がはかなく過ぎてゆくことは、不可避のことであり、それを安らかな気持ちで受け入れてゐる風情の歌である。「容色の衰へ」説の補完にはなってゐないような気がする。

新潮文庫『百人一首』の安東次男氏も「容色の衰へ」のことを書いてゐるが、定家の『八代抄』のほか、『百人秀歌』で、喜撰法師の歌と並べて評されてゐることを指摘する。百人一首では小町の歌の直前にある歌である。
 わが庵は都の辰巳 しかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり 喜撰法師

 都の辰巳の庵に住んで、毎日澄んだ心でゐる。それを知らぬ都の人は、私がただ世間を憂しといふだけで隠れ住んでゐると思ってゐるらしい。この歌には、いろは歌の後半の「うゐの奥山今日越えて、浅き夢みし酔ひもせす」の趣がある。小町の歌は、前半の「色は匂へど散りぬるを、わが世誰そ常無らむ」に重なるように思ふ。
 しかし「容色の衰へ」の説明にはちからが入ってないように思へる。

室町時代の人のいふ、小町の容色の衰へ云々は、小町が老いてから乞食の姿でさまよひ歩いたといふ「卒塔婆小町」の説話を人々に連想させて、世の無常を説いたものなのだらうと思ふ。
一方、江戸時代の国学者は、説話のなかの仏教色を嫌っただけのように思ふ。
それぞれの立場で、それぞれに正しいのかもしれない。
とはいへ「卒塔婆小町」の伝説に沿った解釈があるのだから、「百夜通ひ」の伝説に沿った解釈があっても良いだろうと思ふ。

蛇足ながら、間違った解釈があるとすれば、次のようなものである。女性に仏教の無常観がわかるはずがないので、自分の容色の衰へを嘆いた歌だ、これは100%間違ひ。
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百人一首 2 持統天皇

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山 持統天皇


この歌は、初夏の歌ではなく、早春の歌だという説があり、誰の説か忘れていたのだが、
数年前に中西進の講話CD集『万葉秀歌を旅する』を聞いて、中西氏の説とわかり、捨てておいてはまづいと思った。講談社文庫の中西氏の万葉集は、よくひもといていた時期もある。
最初にこの説を聞いたのはテレビ番組のような記憶もある。

さてその解釈とは、
早春のまだ寒い日の早朝をイメージすると良い。
いくつかの春の行事も終えたが、まだ寒い季節。天皇が朝お目覚めになり、窓を開けると、あたりは一面の雪景色。遠く天の香具山も雪に覆われ、美しい輝きに満ちていた。ところが女官たちは、寒い寒いと言ってまだ誰も起きて来ない。そこで天皇は歌をお詠みになった。
いつまでも寝ているから、春も過ぎて、夏が来てしまっていますよ。御覧なさい、もう夏の白い衣を干しているではありませんか、天の香具山では。
こんなイメージである。

中西氏によると、催馬楽に類似の歌詞があるらしく、こう解釈するしかないような話。
そもそも、神聖な天の香具山に洗濯物を干すはずがなく、洗濯物が王朝人の歌の題材になるはずがない。
初春に山の湧き水の前で行われる田植祭は、初夏の田植行事を予祝するものである。季節といい、どこか持統天皇の御歌とも重なっている。「1」の天智天皇の歌は、稲作の後半の秋から冬にかけての歌だった。2つはセットのようでもあり、2つで1年が繰り返して行く。
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百人一首 1 天智天皇

秋の田の 仮廬の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ 天智天皇


天智天皇が、稲刈りに従事する農民の労苦をいたわる歌という解説が多い。
確かに天皇とはそういう存在であることは間違いないが、歌の意味はそれだけだろうか。

秋の田の稲を刈るときに仮設の小屋を建て、その小屋は苫が粗く隙間があるので、夜露で袖が濡れたという。
夜露で濡れるのは、隙間が真上の屋根にあったからと考えるのが自然である。
そこで思い起すのは、古事記のウガヤフキアヘズの命の出生のときの話である。

母の豊玉姫が、海辺の渚に産屋を建てて籠るとき、屋根の萱を葺くのに、葺き終えないうちに、つまり「葺き合へず」という状態で生れたのが、ウガヤフキアヘズの命(鵜葺草葺不合命)である。たまたま急なお産となったように書かれてあるが、解説によると、実は産屋の屋根は全部葺かずに隙間を開けておくもので、その隙間を通って新しい命の霊魂が降りてくるからだという民俗についての解説があった。ここでは霊は母の故郷である海の彼方からやってきたことになる。
四国の漁村では、海で魚の群れが陸のほうへ向かうのを見たときは、子供が生れるときだという話もある。

田を刈るときに隠る仮屋の屋根の隙間も、何かの霊が降りてくるためのものではないかとも思える。
稲刈とは、稲が植物としての生命を終え、初穂(稲穂)に付いた籾を残すことであり、籾や米の誕生のことである。米の誕生に際しては、穀霊と呼ばれるものがどこかの段階で宿るはずである。穀霊は刈る前にすでに宿っているのかもしれないが、ともかく、人がその誕生の介添役にふさわしい力を得るために、秋の田の仮廬に一晩隠ることがあったのではなかろうか。歌は、誕生する稲の霊への祝福であり、収穫される米への祝福だと読めるのである。

米は一粒の種籾から、数百粒の米に増えるそうである。品種改良以前の古い時代には多少は少なかったかもしれないが、それでも、百粒ほどには成ったのではないか。
天皇の御製は、じゅうぶんに成熟した百粒の歌への祝福でもあるように考えられなくもない。それがここにえらばれた百首の歌なのだろう。
・・・・こんな風に解釈できないこともないのではないか。
また、一夜の宿りで袖を濡らすというのは、やはり、恋歌を連想するものである。
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螢の歌、3つ

ホタルについての歌、というより、最初のは都々逸だが・・・

 恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ螢が身をこがす

江戸時代のものだろうか。
恋のつらさにもいろいろあるが、蝉のように誰にもわかるように泣いて訴えることができるような恋なら、まだいい。螢のように、夜にひっそりと声も出さずに惑い耐え忍ぶ恋のほうが、悲しみも深くつらいものだ……
蛍の光に着目し、螢が自分の火でやけどをするかもしれない、という洒落やユーモアもある。

次に、平安時代の有名な歌。

 もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る 和泉式部

宵の闇の中をさまようように浮遊する螢。それは、恋に憧れて、我が身から飛び出ていった魂の姿に違いない。だから、行き場もなく飛び迷い、我が心は無心でもあり、空っぽで虚しくもある……
鳥は山の霊であるとか、死んだ人の霊であるとかの信仰があったが、虫も同様に人の霊などに見られることがある。蝶が眠っている人から出た魂に見られることもあったが、螢もそれに近いものがある。

以上の二つは、歌のプロによる技巧の歌という感があるが、次の近代の歌は、素朴な民俗をふまえたもの。

 その子らに捕へられんと母が魂、螢となりて夜を来るらし  窪田空穂

幼な子を残して死んだ母のことを歌ったものだろう。
夏の御魂祭りの季節に現われる螢は、人魂に近いものに感じられていたようだ。

(蛇足 「螢」は昔の字体のほうが螢らしい)
エッセイ風にもう少し長く書こうと思ったが、箇条書風になった。
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『辞世千人一首』

wogifu.jpg『辞世千人一首』(荻生待也著・柏書房)という本は、日本の歴史上の人物の辞世の和歌、または辞世とされる和歌を千人(千首)集めたもので、専門の学者でない人が一人でよくそれだけ集めたと思う。

しかし若干の物足りなさが感じられるのは、参考文献が不十分だったからに違いない。一例を述べると、義経記に載る義経・弁慶の二人の歌が漏れている。

  六道の道のちまたに待てよ君、後れ先立つならひありとて  弁慶
  後の世もまた後の世もめぐりあへ、染む紫の雲の上まで   義経

他にも有名な歌が漏れているような気がする。歌語り風土記などはこの種の歌が多いと思うが、別の『歌語り日本史』もふくめ、インターネットを使えば良かったのにと思った次第。中世の説話文学や軍記物なども有用な資料になると思う。

しかしそのぶん無名に近い人の歌も少なからず収められているのは一つの味わいだろう。
江戸初期に武士のあいだで殉死の制度があったころの、島津藩で殉死した家臣の歌が数首。
明治の戊辰戦争のときの会津藩では、二百三十余名の婦女子が自刃したというが、同書にも載る次の二人の歌が特に心をうつものがある。「歌語り日本史」には載せたが、ネットの「歌語り風土記」にはない

  なよ竹の風にまかする身ながらも、たわまぬ節はありとこそ聞け 西郷千恵子
  もののふの猛き心にくらぶれば、数にも入らぬわが身ながらも  中島竹子

『辞世千人一首』には他の数人の女性の歌もある。白虎隊の少年たちの歌はないようだが、歌は年齢的な素養がないと詠めないのだと思う。
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叙情と判官贔屓

山折哲雄著『「歌」の精神史』(中公叢書)という新刊本を見かけ、帯に書いてある
「伝統的詩歌と歌謡に底流する生命の昂揚感と無常観。その叙情をわれわれ日本人はもはや喪失してしまったのか」という言葉にひかれて、読んでみた。
この20年前後の間に、日本人は今までになく大きなものを喪失してしまったのではないか、日本人そのものが大きく変ってしまったのではないかと、感じている人は少なくないだろう。社会科学方面から問題にするのは大変困難を極めることなので、こういう本なら読みやすいと思った。
そこそこ面白く読めるのだが、しかしここ20年ほどの「現在」を問題にしている部分は少ない。「叙情」をキーワードに短歌や文学が戦後捨ててしまった叙情が大衆歌謡で継承されていたという指摘は良いのかもしれないが、歌謡論になってくると、日本の近代文芸評論のような個人の評伝中心の記述となり、歌謡曲は贔屓がからんでくるので退屈する部分がある。
1986年の『サラダ記念日』は文学に親しんで来た人にとっては、伝統的で新しくもある短歌に見えたのだが、コピーライトの時代のコピー短歌という評価もあったとのこと。大人も子どもも歌える歌謡曲というのが消えてしまって、誰でも知ってて歌えるのはCMソングだけになった時代でもある。総合雑誌というのが消えてしまったのは広告会社の主導で雑誌が作られるようになってしまったからという論をどこかで読んだことがあるが、商品広告が大衆文化を席巻してしまったということなのだろうか。小泉前首相のワンフレーズ・ポリティクスもこの時代に続くものなのだろう。

日本的な叙情というのも、ある程度のところまで行くとわかりにくくなってしまっていけないのだが、日本人らしさのもう一つのキーワード「判官贔屓」が失われつつあるかのようなある論評も見たことがある。それは昨年の小泉選挙で「勝馬に乗る」という選挙行動が強く見られ、そういう大衆心理が各方面で広まりつつあるのだという。そうなのかもしれない。しかし判官贔屓そのものが無くなったと断定するのは早すぎるだろう。須佐之男命や倭建命の古事記の時代から引き継がれて来たものが無くなったというのでは未来がなくなってしまうに等しいことである。現代に残る判官贔屓の現象を探してみるのも良いだろうと思う。
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歌枕の「森」

暑くなったら森林浴も良いと思い、歌枕などから「○○の森」という呼び名を拾い出してみた。歌もじっくり味わってみたいものである。

古古比の森・子恋(ここひ)の森  静岡県熱海市 伊豆山神社
  ココヒは歌垣の意味のカガヒの転という。
 五月闇、ここひの森のほととぎす。人知れずのみ啼きいたるかな  兼房朝臣

木枯の森 静岡県 藁科川と安倍川の合流付近
 消えわびぬ。うつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露  藤原定家

入らずの森 石川県羽咋市 気多大社の森

阿波手の森  愛知県海部郡甚目寺町
 嘆きのみ繁くなりゆく我が身かな。君にあはでの森にやあるらん 相模

風の森  三重県伊賀町倉部 八風大権現 歌垣の伝説あり
 さくら花障らぬ時津風の森   柳童

誰其(たれそ)の森  三重県上野市市部 誰其明神 これも歌垣の伝説あり
 さ夜ふけて、たれその森のほととぎす。名のりかけても過ぎぬなるかな 藤原経家

老蘇(おいそ)の森  滋賀県蒲生郡安土町 奥石(おいそ)神社
 忘れにし人をぞ、さらにあふみなる老蘇の森と思ひ出でつる 古今六帖

万木(ゆるぎ)の森  滋賀県安曇川町 与呂伎神社
 高島や、ゆるぎの森の鷺すらもひとりは寝じと争ふものを 古今六帖

大荒木の森  京都府 淀水垂町付近?
   アラキはなきがらを安置する場所の意とも。
 人につくたよりだになし。大荒木の森の下なる草の身なれば 凡河内躬恒

衣手の森  京都 松尾大社摂社の衣手社
 もみぢ葉を着てみる人のあまたあれば、主も定めぬ衣手の森 源俊頼

糺(ただす)の森  京都 賀茂川と高野川が合流する地。その北に下鴨神社

はづかしの森  京都 伏見区 羽束師坐高御産霊日神社
 忘られて思ふ歎きのしげるをや身をはづかしの森といふらん 後撰集

鷺の森  京都 修学院 鷺森神社
 比叡の山は冬こそいとど寂しけれ。雪の色なる鷺の森より 慈円

柞の森  京都府 精華町 祝園神社
 はぐくみしこずゑ寂しくなりぬなり。柞の森の散り行く見れば 源俊頼

磐瀬の森  奈良県龍田地方。車瀬の森?。
 神奈備の石瀬の杜のほととぎす。毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ 志貴皇子

浮田の森  奈良県五條市 荒木神社
 かくしてや、なほもまもらむ。大荒木の浮田の森の標(しめ)にあらなくに 万葉集

信太の森  大阪府和泉市 葛葉稲荷神社の森
 恋しくば、たづね来てみよ。和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

生田の森  兵庫県 生田神社の森

さくさめの森  松江市 八重垣神社
 神の代の昔をかくる色なれや、白ゆふ花のさくさめの森    水無瀬氏成

宇那堤の森  岡山県津山市 高野神社
 都出でて幾日といふに、真鳥住むうなでの森に今宵来ぬらん 藤原公実

御笠の森  福岡県大野城市
 うき世にもつゆかかるべきわが身かは。御笠の森の陰に隠れて 藤原良経

気色(けしき)の森  鹿児島県国分市 天降(あもり)川河岸
 うらみにし思ひえざりき。音に聞くけしきの森を見たる人とは 源経信

嘆きの森  鹿児島県隼人町 蛭子神社
 ねぎ事をさのみ聞きけむ。社こそ、はてはなげきの杜となるらめ  讃岐

風の森  鹿児島県
 恨みじな。風の森なるさくら花。さこそ仇なる色に咲くらめ 夫木抄
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竹取の翁

竹の子がすくすく伸びる季節である。
万葉集(3791)の長歌に竹取の翁の話がある。

 昔、竹取の翁といふ者があり、春の日に丘に登って、遠くの景色を眺めてゐた。すると、野辺で羹(あつもの)を煮る九人の乙女を見つけた。娘たちはどの娘も甲乙つけがたい美しさだった。娘たちは、「翁、いらっしゃい。この燭の火を吹いてくださいまし」と言ふものだから、翁は「はい、はい」と言ひながら、ゆっくり歩いて、筵に座り、娘たちと膝を交へることになった。しばらくして、娘たちはくすくす笑ひながらお互ひをつつきあひ、「誰がこの翁を呼んだの」と言ひ出した。そこで翁は、「思ひがけなく美しい仙女たちに出会ったので、いけないこととは思ったが、つい心の引かれるままに中に入ってしまった。馴れ馴れしくした罪は、どれ、歌を以って償ふこととしよう」と言って歌を詠んだ

 私が緑子の若様だったころは、たらちねの母に抱かれ、
 そして髪を紐で結んで這ふころには、木綿の肩衣に総裏を縫ひつけて着て、
 髪がうなじに届く童のころは、絞り染めの袖の衣を着てゐた。

 美しいあなたたちと同じ年頃には、
 蜷の腸のやうに黒い髪を、真櫛で長く垂らして、束ねて上げて巻いて、
 たまには解いて童児髪(うなゐ)にして、
 丹色を差した懐かしい紫の綾織の衣、しかも住吉の遠里の小野の真榛で染めた衣に、
 高麗錦を紐に縫ひ付けて差したり重ねたりして、幾重にも重ねて着て、
 うつその麻績(をみ)の子や、ありぎぬの宝の子が、何日もかかって織った布、
 それと日曝しの麻の手作りの布を、重ね裳のやうに着けた。

 結婚のために稲置の宿に隠る乙女が、私に贈ってよこした彼方の二綾の沓下をはき、
 飛ぶ鳥の飛鳥をとこ(男)、つまり私が、長雨に隠って縫った黒沓をはいて、
 乙女の家の庭に立たずむと、かの親は「そこに立つな」と諌める。

 乙女が、私の来たことを聞いてこっそり贈ってくれた水縹色の絹の帯を、
 引帯のやうに韓帯に着けて、海神宮の甍に飛び翔ける蜂のやうな腰細に装ひ、
 真澄鏡を並べて置いて、それに映る自分の顔を振り返って見て、
 春に野辺を歩けば、私を面白く思ってか、野の鳥も来鳴き翔けらひ、
 秋に山辺を行けば、私を懐かしく思ってか、天雲も流れ棚引く。
 その帰り道で、打ち日さす宮女、刺す竹の舎人壮士(をとこ)が、
 さりげなく私を振り返って見て、「いったいどこのお方だらう」と思はれてゐた。

 こんなふうに華やかにして来た私だから、
 今日も娘たちに「いったいどこの翁」と思はれてゐる。
 こんなふうに賢かった古の人も、後の世の形見にしようと、
 翁を送った車を持ち帰って来たものだ(万3791)
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