桜桃忌

作家の命日ですぐに思い浮かぶのは、太宰治の「桜桃忌」(6月19日)くらいかもしれないが、
先日、家の者が言うには、太宰治は中学校時代に体育の成績もトップクラスの優秀さだったとテレビ番組で言っていたということである。
なるほどと思った。
成功した有名人の大方は、体力的にも秀でた人ばかりだと思う。なにごとも根気良く努力することが肝心というけれど、精神的な意味での根気だけでは続かないもので、平均以上の体力が必要だと思う。
太宰の場合、自殺未遂を繰り返して、その経験をもとに小説に書いて名をなしてきたようなところがあり、からだが弱ければ最初の自殺の試みのときに死んでいたかもしれない。
とはいえ、作家はやはり良い作品を残すことで評価される。それがすべてであろう。

体力がなく胃も弱いという人は少なくないと思うが、筋力などの体力があることと、内臓などの強さについては、必ずしも一致しないこともあるだろう。筋肉の疲労は若いころから経験的に気にしないような生活になっているのが現代人だが、そういった疲労ではなく実は内臓疾患だったと後で気づくこともあるかもしれない。
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小さなわらぶき屋根の家

小型の鉄道模型用の「わらぶき屋根の家」なるものは、どこか違和感があるものだが、特に、狭い敷地に大きな母屋。現在各地で保存されているこういう建物は、旧上層農民の大きな家ばかりで、それを参考にしたからなのだろう。また、模型では土地の広さが一反(25m×40m)もないような狭い場所に、線路の他あれもこれもと配置しがちである。
柳田國男アルバム 原郷
もっと小ぢんまりした家が良いと思うのだが、良いモデルはないかと思って、すぐに思い浮かぶのが「柳田国男の生家」である。
兵庫県の柳田国男記念館のそばに保存されているのを見たとき、本当に小ぢんまりした家だと思った。非農家の小家族なら、大きな母屋は不要なのだろう。

記念館発行の冊子を、取り出して見た。
『柳田國男アルバム 原郷』という題名。生家の写真がいくつか載り、『故郷七十年』という柳田の著書からの引用が添えられている。

「私の家の小ささは日本一だといつたが、それもきつちりした形の小ささで、数字でいふと座敷が四畳半、間に唐紙があって隣が四畳半の納戸、横に三畳づつの二間があり、片方の入口の三畳を玄関といひ、他の三畳の台所を茶の間と呼んでゐた。」

 日本一小さいというのは、ユーモアをまじえた誇張なのだろうが……、
つまり、東側の土間を除くと、小さな部屋が4つ、田の字形にあり、南西が座敷で、四畳半だが床の間もあるのだろう。その北側が、唐紙を貼った襖をはさんで、四畳半の納戸(寝室)である。南東の三畳は、玄関、つまり南の縁側から来客があがる客間である(一般的には重要な客は縁側から直接に座敷へ上がる)。その北の三畳が茶の間で、「台所」というのは板の間の意味かもしれない。火を使う炊事場は、土間にあると思う。
土間は、建物の写真を見ると、四畳半2つほどの広さで、南に通用口がある(玄関ではない)。ほかに納戸の西に半間ほどの押入れなどがあると思われる。
以上の構成が、瓦葺を除いた、わらぶき部分の母屋であり、間口(桁行)4間半、奥行(梁行)3間である。13坪半。
柳田國男生家
その他に、瓦葺の部分として、南の縁側、東の低い屋根の部分がある。
縁側は、一般に、古くは神祭のための仮の物だったのだが、だんだん幅も広く固定化され、簡単な板の庇(ひさし)だったのが、瓦葺になっていったものらしい。
東の部分は。屋根が低いので土間と思われ、通用口からの土間と一続きかもしれないが、古くに母屋と別に小さい小屋を建てることのあった、炊事場、風呂や洗濯場、炭や薪の小屋などを、建物の強度などの合理的な考えによって一つにまとめたものなのかもしれない。間口、奥行きとも、母屋部分の土間と同じ広さがあるように見えるが、内部の配置は不明。
全体は間口6間、奥行3間半、21坪。

ある模型の母屋は、原寸に換算すると50坪弱の広さだったが、上層農民の大家族の家のようで、そういう母屋は、土蔵や納屋や家畜小屋や長屋門などとセットでないとおかしい。
小さな情景模型の1棟のわらぶき屋根なら、13〜20坪くらいがちょうど良いと思う。
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