蝦夷と東国武士

NHKテレビの歴史番組を途中から見たのだが、
上古以前から朝廷による東北地方の蝦夷の平定があり、一定数の蝦夷が関東以西に移住し、移住した蝦夷と新しく勃興した武士団との関係の話だった。
蝦夷の移住先は関東が多かったのだが、源氏や平氏などの「王臣子孫」たちも関東に移住し、警察軍事に蝦夷を組み込んで、関東を平定し、さらに力をつけていったという。関東武士の「強さ」は蝦夷の馬上からの弓術などの戦術を受け継いだことが大きいという。

中公新書の高橋崇『蝦夷』を読んだとき、蝦夷はアテルイの前後の時代から、関東以西に移住したが、史書には「俘囚」などと差別的な表現で表記されていて、東北での蝦夷の力を削ぐための強制移住のように受けとめられていた。しかし移住先では税の優遇などがあった記録があり、朝廷の何かの目的のための移住のようにも思えた。
所謂渡来系の新羅人などの移住の記録では、差別用語は使われないが、差別用語の理由は、中華思想(周辺の野蛮人までが理想的な王を理解・尊敬し支配を受け恩恵も受けるという)を無理に列島内に当てはめたためなので、それを捨象すると、どの移住もみな同じと理解すべきと思っていた。記録では、蝦夷にもみな姓?ないし苗字がある(そのときにできたのかもしれないが)。

NHKで解説したのはおもに河合敦氏で、新書判など多量の著作があり歴史雑学的な印象なのだが、奇を衒うような自説を押し付ける本ではなく、最新の学説の紹介も多いので、青春新書『最新の日本史』などを見てみると(55p)、桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)からの紹介があった。
「【貴姓の王臣子孫 × 卑姓の伝統的現地豪族 × 準貴姓の伝統的武人排出氏族(か蝦夷)] の融合が、主に婚姻関係に媒介されて果たされた成果だ」(桃崎)という。(桃崎氏もNHKで少し解説あり)

桃崎氏の本は注文したばかりで未着。
蝦夷の馬術の起源について考えると、軍事なら蝦夷内の争いも多かったことになり、狩猟なら鹿などの足の速い獣が多かったことになる。蝦夷自身も足が速かったかもしれない。八束脛のような男たちが加われば武士団も強くなるであろう。蝦夷は一方的な従属ではないはずだが、現実的な取り引きのほかに、伝統的な宗教観などにもよるとしたら、それは何であろうか。花嫁が馬に乗るのは、養蚕の神が馬に乗っていたからだろうが、なぜ養蚕と馬が結びつくのか、などなど、疑問はふくらむ。

「貴姓と卑姓のむすびつき」については、この島国の独自のもののようであり、生活の隅々にまで染み込んでいるもののような気がする。
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原宿という地名

筒井功『東京の地名』(河出書房新社 2014)
という本で、渋谷区の「原宿」という地名の解説があった(34p)。

従来の説では、宿駅や宿場のあったところだろうというのが多かったらしいが、「渋谷区の原宿に宿駅があったことを示す何らの裏づけもない」とのこと。宿駅なら文献の1つや2つに出てこなければおかしい。

原宿という地名は関東に多いのだが、「宿」のつく地名が、ある場所では5〜6kmの範囲で12か所、別の所では8か所もあるところがあるそうで、狭い範囲にそれほどの数の宿駅が存在したことはありえないことになる。
そこで関東のシュクという地名は、西日本に多いサコ(迫、佐古)、東北に多いサクに当る可能性も考えなければならないと、著者はいう。
サコやサクは、「丘や台地と平坦地との境を指しているようである」という。

なるほどと思った。
とするなら、サコやサクも段丘地形の一つになる。
渋谷区の原宿の地形もたぶん同様なのだろう(本書には書かれてなかったが)。

シュク(宿)の意味はそれで良いと思うが、
ハラ(原)という地名の古い意味は、段丘のような地形と泉(湧き水)を意味し、中国の漢字「原」も、字義は「厂(崖)+泉」であって同様であり、(漢字の原とハラは)意味が非常に近いとする研究が進んでいるので、原宿の「原」の意味も同様だった可能性がある。ハラとシュクとは、意味の似た類義語だということになる。

原の意味は、泉の周辺の集落の意味から、段丘上の平坦地の意味へ広がって、元の意味がわからなくなってしまったために、シュク(台地と低地の境)を付け加えた可能性もなきにしもあらず。
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民俗地名語彙事典

民俗地名語彙事典 民俗地名語彙事典 松本美吉、ちくま文庫
三一書房の大型本上下2冊を少々省いて文庫化したもの。大きな2冊の本は家にあるのだが、重くて手にとらぬまま、文庫判を注文。780ページの厚さだが、手軽に扱える本である。

「原」の項目を見る。
九州などでは、何々原の原は、何々村の村と意味が近いのだということだけが、長々と書いてある。
しかし、だとするなら、同じ九州に多いフレ(何々触)にも似ていることになる。このフレは行政用語なのであって、隣国に似た言葉があっても行政用語として採用されただけなので、それをもって人の移住があったとすることはできないとは、都丸十九一氏が書いていた。都丸氏のほうが国語学的なのである。
「崩壊地名」の小川豊氏は、複数の古語辞典などからの引用も多くて、国語学的であり、説得力がある。

「山」のところを見る。
平地の山林のことを山という例の説明が長くある。
それだけでなく、猟師の猟場のことをヤマというとか、ヤマは仕事場の意味に広がって、畑のことをヤマという例もあるとか。海の漁師は良い漁場のことをヤマというなど。こういった説明は、「民俗地名語彙」の名にふさわしく、多くはこのパターンで書かれているので、評価も高い本なのであろう。先程の「原」のような説明は例外的ということ。しかし国語学的な説明はもう一つ足りない気がする。

やはり、地名研究者には国語学的でない人が多いのかもしれない。柳田国男が地名研究から撤退したときも、国語学の不得手を理由にしたという話を思い出した。
だが、ここで、柳田国男の撤退については、本当の理由というのが、わかったように思った。それはすなわち、地方の地名研究者たちの多くは民間語源説から抜け出ていないところへ、柳田翁が介入して国語学などを材料にして審判を下すわけにはいかなかったのだろうということ。論争する地方人たちの一方を否定して一方を肯定するのでは、地方に痼が残り、他の分野の研究を進めるにあたって好ましいことではない。柳田本人は国語学が苦手だということもあるまい。いわば大人の判断で介入を避けたということではなかろうか。
その結果、国語学から遠い地名研究者は減らなかったのかもしれない。
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遷都と宮城

初代橿原宮から50代桓武天皇の平安京までのリスト。表記はおもに日本書紀により、〔〕は古事記による。
初代 神武天皇橿原宮〔畝火の白梼原宮〕 玉襷畝傍の山の橿原
2代 綏靖天皇葛城高丘宮〔葛城の高岡宮〕
3代 安寧天皇片塩浮孔宮〔片塩の浮穴宮〕
4代 懿徳天皇軽曲峡宮〔軽の境岡宮〕
5代 孝昭天皇掖上池心宮〔葛城の掖上宮〕
6代 孝安天皇室秋津島宮〔葛城の室の秋津島宮〕
7代 孝霊天皇黒田廬戸宮〔黒田の廬戸宮〕
8代 孝元天皇軽境原宮〔軽の堺原宮〕
9代 開化天皇春日率川宮〔春日の伊邪河宮〕
10代 崇神天皇磯城瑞籬宮〔師木の水垣宮〕
11代 垂仁天皇纒向珠城宮〔師木の玉垣宮〕
12代 景行天皇纒向日代宮〔纏向の日代宮〕
13代 成務天皇志賀高穴穂宮〔近淡海の志賀の高穴穂の宮〕
14代 仲哀天皇穴門豊浦宮、筑紫橿日宮〔穴門の豊浦の宮、筑紫の訶志比の宮〕
15代 応神天皇軽島豊明宮、大隅宮〔軽島の明宮〕
16代 仁徳天皇難波高津宮〔難波の高津宮〕
17代 履中天皇磐余稚桜宮〔伊波礼の若桜宮〕
18代 反正天皇丹比柴籬宮〔多治比の柴垣宮〕
19代 允恭天皇遠飛鳥宮〔遠飛鳥宮〕
20代 安康天皇石上穴穂宮〔石上の穴穂宮〕
21代 雄略天皇泊瀬朝倉宮〔長谷の朝倉宮〕
22代 清寧天皇磐余甕栗宮〔伊波礼の甕栗宮〕
23代 顕宗天皇近飛鳥八釣宮〔近飛鳥宮〕
24代 仁賢天皇石上広高宮〔石上の広高宮〕
25代 武烈天皇泊瀬列城宮〔長谷の列木宮〕
26代 継体天皇樟葉宮 筒城宮 弟国宮 磐余玉穂宮〔伊波礼の玉穂宮〕
27代 安閑天皇勾金橋宮〔勾の金箸宮〕
28代 宣化天皇檜隈廬入野宮〔檜隈の廬入野宮〕
29代 欽明天皇磯城島金刺宮〔師木島の大宮〕
30代 敏達天皇百済大井宮、訳語田幸玉宮〔他田宮〕
31代 用明天皇磐余池辺雙槻宮〔池辺宮〕
32代 崇峻天皇倉梯柴垣宮〔倉椅の柴垣宮〕
33代 推古天皇豊浦宮、小墾田宮〔小治田宮〕
34代 舒明天皇飛鳥岡本宮
35代 皇極天皇飛鳥板蓋宮
36代 考徳天皇難波宮 績麻なす長柄の宮 御食向ふ味原の宮 おし照る難波の宮 あり通ふ難波の宮
37代 斉明天皇飛鳥板蓋宮 飛鳥川原宮 飛鳥後岡本宮 飛鳥田中宮 朝倉橘広庭宮
38代 天智天皇近江大津宮 石走る淡海の国の、漣の大津の宮
39代 弘文天皇近江大津宮
40代 天武天皇飛鳥浄御原宮
41代 持統天皇飛鳥浄御原宮、藤原宮
42代 文武天皇藤原京 荒栲の藤原
43代 元明天皇藤原京、平城京 作らしし香具山の宮
44代 元正天皇平城京
45代 聖武天皇平城京(恭仁京、近江紫香楽宮、難波京) 甕の原 恭仁の都
46代 考謙天皇平城京
47代 淳仁天皇平城京
48代 称徳天皇平城京
49代 光仁天皇平城京
50代 桓武天皇平城京、長岡京、平安京
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明治とは何だったかというと

10年来の近世研究もそこそこ進んだので、所謂「近世暗黒史観」の生みの親である明治時代の再評価が必要との観点から、明治維新批判の通俗的な本をときどき読むようになったのは、2〜3年前から。この分野は専門家の本はないようなので、通俗的な本となるわけだが、やはり居酒屋談義的な内容ばかりで、もの足りない。

今年は明治維新150周年だが、先日amazon の Kindleストア で「明治維新」で検索したら、会員は無料で読める本がいくつもあった。原田某氏の本など既に購入済みの本もあったので、もったいないことをしたと思った。

その昔、所謂古代史のトンデモ本を、気軽に買うこともよくあったが、明治維新の本は、時代が近いこともあって気楽には読めない。現政権への不満を過去へ投影しているだけではないかといったことの検証課題だけが山積みになってゆく。

そこで最初のテーマに立ち戻って、所謂 江戸時代暗黒史観はいかにして形成され、広まったのかという問題である。
すぐには結論は出ないので、とりあえず、各論的な分野を考えていくときなどで、この問題につながることがらが現れることを期待するというのが現状である。
たとえば、天保の饑饉について、大凶作の意味で書き記した最初の者は誰かとか、時代ごとの価値観を比較研究したものに触れてみたい。吉原への価値観の変遷については良い研究があったと思う。

そしてこの分野で最も深い洞察を感じたものは、丸谷才一文芸表論集『梨のつぶて』(晶文社)のなかの「津田左右吉に逆らって」などの評論だった。これは津田の日本文学史への批判なのだが、大かたは津田は文学がわからない人間だと取りあげられなかったことに、まともに取り組んだわけだが、意外と難儀な問題に思えた。
19世紀西洋の事象から、都合の良い表面的な部分だけ取り入れて、とにかく形だけは整った学問ができて、以後はそのときの形を頑なに変えないようなものが、通ってしまっているのはなぜか。
津田は、皇国史観とは異なる合理的な歴史解釈だったとそれだけで単純に評価された戦後の一時期もあったが、皇国史観といっても、皇室の歴史のなかの都合の良い部分だけ引き抜いて新たに作り上げたものでしかないという意味では、どっちもどっち。こうして虚無感に浸ることになってしまうわけだが、政治史から離れて取り組むのが、一番良い方法だというのが、とりあえずの結論。
『梨のつぶて』は1966年10月15日発行。翌年の「明治百年」を意識したものだと思う。
(明治百年は、100周年ではなく、改元がなければ1967年が明治百年となるので、そう呼ばれた。)
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戊辰戦争150年

150年前の慶応4年1月3日、新暦に換算すると1月27日に、鳥羽・伏見の戦いが始まった。翌年の函館戦争までを、戊辰戦争と呼ぶことになっている。
Wikipediaを見ると「戊辰戦争」のページに、「新政府軍が用いた錦旗(錦の御旗)の模写図」が載っている。政治利用の極致というか、あのような旗を掲げられたらたまらない。

別のブログに『折口信夫伝』(岡野弘彦著)について書いたとき、折口信夫という人は昭和20年の敗戦の意味を最も深く受けとめた一人だという意味のことを書き、慶応4年(〜明治2年)の敗戦のときは、誰がいたろうと書いた。

慶応の頃になると、村の名主たちも先行きが不安に思えたのか、情報交換を行なっていたようで、著名な大名が書いた書状の写しなどを、読んで書き写していた。
慶応3年10月の大政奉還のころの写しには、「上様無余儀 征夷大将軍御退役の儀 被仰付候処、御所より過る十六日御返口に相成、平大名同様に相成候由、左候へば普し鎌倉北条代の通り執兼職相立可申候」などと書かれてある。
しかしそのような期待も虚しく、その後の変化は、非常に急速なものとなった。
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鵠(クグイ)と白鳥と地名

 武蔵国ないし埼玉県に、「久下」(くげ)という地名がいくつかある。大字としては、熊谷市、飯能市、加須市にあり、川越市には「久下戸」がある。「くげ」の意味は、神奈川県藤沢市の地名・鵠沼(くげぬま)という漢字表記にあるように、鵠(くぐひ)のことであろう。久下戸は鵠の飛来する所の意味になる。「戸」が付かなくても同様であろう。4つとも、大きな川に面した土地である。鵠(くぐひ)とは白鳥の古名である。

 『白鳥伝説』の著書もある谷川健一の『続 日本の地名』(岩波新書)によると、「久々江」という地名について、鵠や白鳥のことだとしている。埼玉県本庄市に久々宇(くぐう)という地名があるが、これも利根川岸であり、鵠の飛来地だったのだろう。

 「久下」も同様であり、熊谷市の久下は荒川北岸、飯能市の久下は名栗川の東北岸、どちらも河岸である。川越市の久下戸は、今の荒川本流に接してはいないが、昔の荒川ないし入間川の蛇行の跡と思われる細長い沼に接している。
 加須市の久下は、合の川という小さい川の南岸であり、大きな川とはいえない。しかし吉田東伍『大日本地名辞書』には、「沙丘あり東西十二町に渉る」とあり、古利根川クラスの大きな川(または古利根川そのもの)があったと思われる。

 その『大日本地名辞書』であるが、加須市の久下(埼玉郡)を除く三つについて「郡家址にあらずや」などという記述が見られるのである。川越市の久下戸(入間郡)については新編武蔵風土記稿の、郡家は入間川村のあたりだったろうという文を引用しながらも、久下の地を「入間の郡家址となすも不可なきごとし」などという。高麗郡の中心は古くから高麗郷と呼ばれる日高市の小盆地がありわけであり、飯能市の久下は川の蛇行が極端である。熊谷市の久下(大里郡)のそばの荒川は、江戸時代初期までは熊谷市街地の北を東へ流れて元荒川へ流れていたほどであり、洪水や流域変動にさらされる土地に、郡家を置くとは考えがたい。大里郡には郷名としては珍しい郡家郷という郷があったとされることが事の起りのようなのだが、この郡だけの特別な事情があったのだろう、日本語としては郡家と久下は音韻が異なるようだ(餓鬼と鍵が違うように)。そうではない可能性を吉田東伍は試みたのだろうが、失敗している。
 吉田東伍氏が『大日本地名辞書』という大著をまとめるにあたっては、地方の多数の協力者があり、その地方人の言説をそのまま採用した部分も多いらしいのである。熊谷市の久下あたりの人の言説を、入間郡や高麗郡の久下に当てはめているように思える。
 加須市の久下にだけ「郡家址か」という記述がないのは、この地は埼玉郡であるためか。埼玉郡の中心地については、昔からの常識がある。
 現行の『地名辞書』は草稿も含めて何でも収録してページ数を増やした増補版ということであり、著者の考えの変遷過程を読者が検証するのは大変だ。
kuge.jpg 
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埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の年代

『新編埼玉県史 通史編1』の稲荷山古墳の鉄剣の年代推定の部分は、実にわかりにくいものだった。
鉄剣に刻まれた「辛亥の年」が、いつを意味するかについてである。
同書406ページ(「一 金錯銘鉄剣の語るもの」)を見てみよう。

「この辛亥の年が何年にあたるかについては諸説があるが、そのなかで西暦四七一年と五三一年という説がもっとも有力なものとしてよい。」(同書、以下同じ)
 有力な説は2つである。

「それでは、両説のうち、どちらの説がより事実に即しているのだろうか」
「埼玉県の考古学者たちは、この古墳から出土した諸遺物、とくに須恵器の実年代を重視して、その築造年代を西暦五〇〇年前後とする見方をとっている。この立場を尊重すれば、築造後まもなく作られた礫槨もまた、五〇〇年前後のものと考えざるをえない。」
 ここまでは、問題はないと思ふ。

「したがって、銘文にいう辛亥年が西暦四七一年をさす可能性はきわめてつよく、現状では五三一年説はやや不利とみることができよう。」

 これで結論なのだが、このあとの文は四七一年説を前提に全てが書かれるので、ここで断定に近いことになったようだが、わかりにくい。

 考古学者は「西暦500年前後」だとする。471年と531年では、どちらが「500年」に近いか。
西暦500年との差は、471年なら29年差、531年なら31年差。その差は 2年でしかない。
29年と31年では、どちらとも決め兼ねるのではないだらうか。
「推定西暦500年」とは、西暦2000年を基準にして推定1500年前である。推定なので誤差はありうるわけだが、もし1年の誤差をみとめて推定1499年前と考へれば、西暦501年になり、471年と531年の中間となる。どちらが501年に近いかという話ではない。つまり「推定1500年前」に1年の誤差があっても、西暦四七一年説は成り立たない。1年の誤差もないのだから、「西暦500年前後」という「前後」の2文字も付けられないはずなのである。

文章にも妙なところがあり、「471年をさす可能性はきわめてつよく」と書くなら、「531年説はやや不利」ではなく「きわめて不利」と書かねばならないと思ふ。

少なくとも、同書では「471年をさす可能性はきわめてつよく」とする根拠は、全く成り立たないので、全く別の事情がからんでしまった問題なのかもしれない。
ちなみに時の天皇は、471年なら雄略天皇、531年なら欽明天皇。

あるいは、執筆者自身が異論をもっていて、自己の考えと異なることを書かざるを得ないとき、それとわかるような書き方をした可能性はどうだろうか。
【倚松帖より】
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邪馬台国

今日の邪馬台国のブームのきっかけとなったのは、長崎県島原市の盲目の作家・宮崎康平の著作『まぼろしの邪馬台国』(講談社 1967年1月)であるといふ。
筆者は、学習研究社の雑誌『中学一年コース』か『二年コース』で、同書の紹介記事を読んだ記憶があるので、1967年の早い時期といふことになる。
1967年は、手塚治虫の「火の鳥・黎明編」が雑誌『COM』に連載された年であり、「火の鳥」には邪馬台国や卑弥呼が登場する。最初に読んだのは6月号だった。作品に登場する騎馬姿の征服者は、無気味で奇妙に思えた。
『まぼろしの邪馬台国』は1965年から雑誌に連載されたものを単行本化したとのこと。「火の鳥・黎明編」の最初の単行本は1968年。

こうしてみると、邪馬台国ブームの初期のころから、関心をもってゐたことになる。

ブームを作ったもう1冊は、井上光貞『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』 中央公論社 1964年初版だそうで、これを読んだのは、数年後、1969年ごろだった。
そのほか、松本清張の『古代史疑』(1968)なども有名だったらしい。『清張通史』は東京新聞連載時に読んだ記憶があるが、1976年。有明海が博多湾までつながってゐたような想定があったような気がする。

井上、宮崎、手塚、松本、4人とも邪馬台国九州説である。
邪馬台国畿内説には、ベストセラーといふものがあったかどうか記憶にないが、横綱が東西に2人あるような配置が日本人に好まれるためだらうか。

このごろは、論証もなく「近年は畿内説が有力云々」と書き始める人が目立つが、いつからそんなふうになったのだらうか。それについては1つの仮説をもってゐる。
九州説が圧倒的に優勢といはれた時代は、文化人の反中央集権的な心情が裏にあったといへなくもない。一方、畿内有力説の拡散は、冷戦終結後の新自由主義イデオロギーの反映ではないかといふものである。東京都の人口増は頭打ちの傾向があったのだが、新自由主義の時代に増加に転じた。地球温暖化説も、異論が多く、新自由主義イデオロギーの虚構だったことになるかもしれず、そんな世の中の反映ではないかと思ふ。

最近は、畿内出身であるが九州説をとる森浩一氏の本、『倭人伝を読み直す』(ちくま新書 2010) を読んだ。
【倚松帖より】
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日本に「古代」はなかった可能性

井上章一氏が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答えたという。氏は、それもきっかけで『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)という本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から、中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まるという。
日本史で「古代」と言っているのは、単に古い時代のことであり、きちんとした定義付けがあるわけではない。わが国は「古い時代」から続いているのだという気持ちないし願望の反映でしかないような話。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏によれば世界帝国(ローマ帝国)へ向かう時代というイメージのように読める。世界に比べて極小な日本列島だが、日本がある程度統一されたのは律令制といわれたころかもしれず、「古代律令制」という言葉を使う人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるというのが、かつての日本の教科書的な見方だったように思う。

しかし律令制といえば中国では隋の時代(6世紀)ではなかろうか。6世紀といえば西洋史的には十分中世の時代であり、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたという奇妙なことになってしまう。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるそうだが、参考文献の一覧を見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことである。中国史の時代区分を論争しているのは、日本人学者だけである。中国では、古代とか中世とかの(西洋史直輸入の)時代区分は取り入れていない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那という国ないし地方があり、前方後円墳もあり、一部には倭人も住んでいたとのことである。その後、半島で百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合されたともいう。戦乱を逃れて半島から列島へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだろう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となり、新羅人として列島に渡来することもありうる。百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。さらに百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来ということになる。・・・このように理解すれば、この時代に半島からの渡来人が多いとしても合点がゆかぬことはない。ゲルマン民族の移動とは規模がだいぶ違う。

ともかくこの時代は、朝鮮半島では統一に向かい、日本列島でも同様である。しかしこれらは、世界帝国へ向かうような古代的なものなのだろうか。むしろ同じ民族の国家統一、または民族という概念の成立であり、中世的なものではないか。
「封建制度」の意味も、東洋では諸候の完全自治ということに眼目があり、西洋史のfeudalismの訳語としての「封建制度」と同じではないらしい。

日本に古代はあったのかという命題には、明確な回答はない。日本には古代はなかったかもしれない。しかし記紀万葉などを通じて、古代的な民俗や風俗を確認することはできないことはないだろう。
【倚松帖より】
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