神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

将軍の年賀のごあいさつ


稲垣史生著『楽しく読める江戸考証読本』全四冊(新人物往来社)は何かと参考になる本である。

以前ブログでふれた大岡越前の白子屋事件について書かれた部分もあり、親に対する罪は刑罰が格別に重かったのだというコメントもあった。
「大名と旗本編」では、江戸時代の年貢の平均的な数字も書かれ、上の田が1反につき米5斗少々、下の田は4斗少々とあった。村々に残された古文書で確認できる数字ではある。4斗とは米1俵のことだが、実際の年貢の量を書いた出版物は、なぜか極めて少ないのである。

そんなわけで全般的に良い本なのだが、「楽しく読める」というエッセイの形式で書かれている点は注意が必要だ。
「将軍様と町人編」の123ページに、元旦においての将軍の祝賀の言葉が、「女性上位の元旦のご挨拶」という見出しで紹介されている。
御台様と雛壇に並んで将軍のほうから先に言葉があるという。
「新年お目出とうござる。幾久しく」
あとから御台様が、
「新年のご祝儀めでとう申しあげます。相変りませず」
と答えるという。これについて「下々と違いまさに女性上位であった」と書かれる。

これと同様の年賀行事を、京都の天皇様と皇后様も行われていたと、どこかで読んだことがある。地方の旧家で、夫婦で囲炉裏の回りを這いながら回って後、夫から先に祝賀の言葉を述べるしきたりの話もある。これらは正月行事の「成木責め」や、遠く神代の昔に夫婦の神が天の御柱を見立てて廻って言葉を掛け合うとき、男神から先でなければならないという話にも通じるものがあると思う。これらは人間どうしの挨拶の言葉ではなく、新しい一年への予祝の言葉なのだろう。

このような民俗学的な視点は、『江戸考証読本』では欠けている。人間どうしの挨拶は下の者から先に述べるものだという視点があるにすぎない。「なあんだ、普通と逆なのか(笑)」で終るのが江戸の町の洒落本の世界なのかもしれないが、やはり近代の民俗学のちからを借りて江戸時代を生き生きと見たいものである。
しかし将軍家のこのような行事を紹介してくれる本はありがたい。
洒落本が町人文化のものだとしたら、天皇や公家や武家には、農民文化にもとづいた風習があることがわかる。

「色恋沙汰と艶ばなし編」で、女性の貞操観念についてのコメントは、弟子筋に当たる杉浦日向子氏や、あるいは田中優子氏の書くこととは、だいぶ趣きが異なる。稲垣氏は明治45年生れ、そのような時代の影響による価値観念があったのだろう。しかし全体としては、この本は為になる良い本である。

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イヌクシュク


イヌクシュクバンクーバー・オリンピックのロゴマークは、イヌイットという北米先住民が岩を積み上げて築いて道標などにした「イヌクシュク」というものをデザインしたものという。イヌクシュクの意味は、彼らの言葉で「人の代り」といったような意味だそうだ。道祖神のようなものでもあるのだろう。

イヌが「人」の意味というのは、アイヌ語の「アイヌ」が音も似ているが意味も「人」であることに共通する。大和言葉で類似の言葉を探すと、一人称ないし二人称代名詞の「うぬ」「おのれ」などがある。日本語は一人称と二人称の言葉が入れ替わることがよくある(関西方言のワレなど)。
「クシュク」は大和言葉のシャクジ(石神などの意味)に似ている。

さらに犬卒塔婆という、Y字形の木の枝を道の辻などに挿し立てたものが関東に伝わっていたが、「犬」の意味がわからないでいた。イヌクシュクと関係あるのかもしれない

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心配の種


645年の"大化の改新"については、むかし学校で習ったものだが、「公地公民制」など、意味がよくわからず、長年わだかまりをいだいていたが、石井紫郎という日本法制史の先生の説明がわかりやすかった(司馬遼太郎対談集『土地と日本人』)。
それによると、国が開墾した田を庶民に貸し与えて税金を納めさせるような感じで、つまり「公団住宅のようなもの」なのだそうだ。
大規模な制度というより、稲作の奨励程度のことのような印象である。
「農具は国が貸し出した」そうである。
もしかすると、鍬などを祀った神社の起源と関係あるかもしれない(ただし東海地方に多い鍬神は、近世初期に伊勢信仰から広まったという通説で良いのではと思う)。

そこで思い出すのは古事記の軽太子の話である。
允恭天皇の崩御の後、軽太子と穴穂皇子の争いになり、軽太子は敗れた。軽太子の矢は古い銅製であり、穴穂皇子の矢は新しい鉄製だった。それが勝負を分けた原因らしい。
新しい鉄製の道具が、何か新しい農業を象徴しているように思える。

種籾も、国が貸し出したのだろう。
大きな神社仏閣も貸し出したというが、利息を付けて返済するのが「年貢」の起源らしい。
近世に至っても、領主は種籾を貸して年貢を徴収した。種籾は農民が前年の収穫の一部を当てれば済むのかもしれず、そのへんは不明だが、少なくとも満足な収穫のない年もある。そういったときに、領主からの種籾の支給について心配した農民の文書も残っている。「心配の種」ということである。

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江戸時代の米の値段


江戸の慶安の頃の米の値段が、1両で1石7斗だったことがあったらしい。
どのくらいの値段なのかを考えてみた。

まづ、1石は10斗、1斗は10升。1升とは約1800ccのことで、これらは体積の単位である。
重さでは、米の1升は1.5kgくらいだそうである。1斗が約15kgになり、4斗で約60kg、現在は米1俵は60kgくらいなので、およそ4斗で1俵ということになる。

さて1石7斗では少々半端なので、少し高めに1両で1石6斗のときもあったろう。1両で16斗ということになり、現在の4俵ということになる。(江戸時代は1俵は一定でなく凡そ4斗弱くらいだったらしい)

現在の米の値段は、米屋では60キロ(1俵)で18000円くらいではなかろうか。その4倍の4俵分が72000円。江戸時代に4俵で1両したこともあったので、したがって江戸時代の「1両は今の約7万円」と書いてある本も多いわけである。物価の比較を米の値段だけで決めていた学者の時代が長かったせいもあるが、やはり今の米が安すぎるせいである。

江戸時代の大工さんの月収が約1両なので、最低でも1両は32万円(http://nire.main.jp/sb/log/eid103.html)、米1俵は8万円になる。10キロの米が13000円以上になるので、かなり高かったことになる。食料や衣料品は昔は高価だったわけである。
1両で4俵とすると、1両は4分なので、ちょうど1分で1俵買えることになる。凡その計算であるが、おぼえやすい数字である。ただしこれは安いときの値段のようであり、その5割増し(1俵が1分2朱)くらいが江戸中期の平均的な米価だったようだ。

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文久四年の暦


文久四年の暦木版一枚刷の古い暦が、物置から出てきた(画像クリックで拡大)。

「文久四(年)甲子」とある。
「甲子」は六十干支の始りであり、甲子年には改元されることが多く、江戸時代も1624年・寛永 1684年・貞享 1744年・延享 1804年・文化 と改元され、この年(1864年)も2月20日に元治元年と改元された。

大の月は3、5、7、8、9、11月、小の月は1、2、4、6、10、12月とある。
太陰暦なので大の月は30日、小の月は29日である。太陽暦になると大の月は31日で、小の月は必ず「二、四、六、九、十一」月になり「西向く士(さむらい)」とおぼえることになった。

さて文久4年は、大の月は7、8、9月と連続し、小の月は1、2月と連続している。たまたまこうなったということだろうか……。

太陰暦には閏月というのがある。閏月の決め方は、地球の公転軌道の1周360度を30度づつに12等分し、更に24等分したときの地点の日が二十四節気である(これは現在も同じ)。そして二十四節気の中気である春分の含まれる月は旧暦の2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月などとなる。画像では太字で書かれた月の漢数字の左に「中十六日」などとあるのが中気の日である。そして約3年に一度、12の中気が含まれない月があり、これが閏月となる。
節気は角度で決めるので、節気から節気までの期間は、地球が太陽から少し遠くなる7〜8月前後は少し長くなるが、月の一周はほぼ一定なので、一年のうちでも5月〜10月ごろが閏月がやや多くなる傾向がある。

文久四年の暦の下のほうを見ると、「初午2月11日、ひがん2月10日、社日2月17日」とある。2月17日は祈年祭の日でもある。
「八十八夜3月28日、入梅5月3日、半夏生5月29日、二百十日7月30日、冬至11月23日」、11月23日は新嘗祭だが、新嘗祭は冬至祭の要素もあるので、この年はぴったりの日である。ただし新嘗祭は11月の2回目の卯の日とされたこともある。

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境界の茶の木


新茶の季節である。
昭和30年代ごろまで関東の台地地帯ではどこでも茶の木が栽培され、家庭で茶も作られていた。茶を作るときの香りはとても芳ばしいものである。
わが家では茶の木の垣根があった。ある人は、畑の境に植えられていたと言う。垣根も境界ということだから、茶の木には境界を護って邪霊を防ぎとめる何かがあるに違いないと思って、鈴木棠三著『日本俗信辞典』を見たが、境界のことは書かれていなかった。

ネット検索をしたら、実に多くのページで書かれていた。
茶の木は、根が深いので、しっかり居付くようにと、結納に茶は欠かせない。
茶を飲むことは境界を越えることだといい、「峠の茶屋」も単なる休憩場所のことではないのだという。
茶についての慣用句の語源説明も面白いのだが、書く人によって説明が異なるようだ。あまたの茶の師匠はそれぞれ権威があるので、民俗学者はあまり立ち入らないのかもしれないが……。

1ページだけ紹介
http://www.o-cha.net/japan/japan/culture/culture16.html

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彼岸の走り


「彼岸の走り」とは、彼岸明けないし彼岸の最終日のことで、彼岸の墓参りをする日である。「はしりくち」という地方もあるらしい。

しかしネットを調べても、そのような「彼岸の走り」について書いてあるページは、あまりに少ない。春分の日が休日なので、春分の日に墓参りをするのが主流になっているのだろう。

季節の初物などを「はしり」ということはあるが、最後の日をなぜ「走り」というのだろう。広辞苑には、直接の説明はないが、こんなことが書かれてある。

 はしり【走】(3)台所のながし。
 はしり-で【走出】 門口。

「出口」の意味のように思える。

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千羽鶴


折紙5年ほど前に千羽鶴について調べたことがあるが、良い本がなかった。
平凡社世界百科によると、戦後、病気平癒の祈願を込めて普及したという現状のほかは、戦前の兵隊の無事帰還を祈った千人針との関連を指摘していた。虎は千里行って千里帰るとか、死線を越えるといった縁起が書かれてあった。戦前以前の千羽鶴については不明なのだが、吉川弘文館の日本民俗大辞典によると、折紙自体は平安時代からあったということだった。

最近ネットを調べたら、1797年(寛政9年)に伊勢国桑名の長円寺の僧による『秘伝千羽鶴折形』という本があることがわかった。千羽鶴という言葉は江戸時代からあったことになる。
この本では、1枚の紙から複数の鶴を折る「連鶴」の作り方が書かれ、多数の和歌も添えられている。和歌は艶っぽい恋歌も多いが、少女から老女までの、当時の女性の生活を意識したものになっている。
桑名市の公式HPの桑名の千羽鶴というページでは、折紙は平安時代ごろの熨斗(のし)の包み方などから発達したように書かれ、古く神事用の御幣との関連を想定している。

現代の千羽鶴については、類似の形状から、あるいは柳川や東伊豆そのほか各地の「つるし雛」との関連については興味深い。つるし雛は、繭玉飾りに似たもののように思える。

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忠臣蔵と瑶泉院


テレビ東京の正月番組『忠臣蔵・瑶泉院の陰謀』というドラマを、面白く見た。原作は湯川裕光氏の小説で『瑶泉院〜忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』(新潮文庫)とのこと。
浅野内匠頭は辞世を詠む暇がなく、ある僧に作ってもらって瑶泉院に届けられたなど、現代人が納得しやすいリアリティのある筋立ても多く、またユーモアも多く退屈させない。浅野内匠頭はかんしゃく持ちだったとの有力な説を採用しながら、品位を落とすところもない。

浅野内匠頭はその特異な人間性からも御霊となって、浪士の討入りはその鎮魂儀礼であったとか、「忠臣蔵」の上演は、太陽の王の復活のカーニバルとして庶民に受け入れられた、とかいうようなことが丸谷才一『忠臣蔵とは何か』に書かれている。同書では「御霊神のもとの形は若い男神と若い女神とが一対であった」とも書かれ、また太陽神は女神であるという庶民の信仰からすれば、瑶泉院が主役とされたこともうなづける。

大石内蔵助が江戸へ来てからの遊興の相手に、一学と名のる比丘尼(この時代は遊女のこと)がいたことは、考証家の解説本にも載っているが、ドラマでは一学は瑶泉院の妹ということになっていて、容姿はうり二つである。
これも大石内蔵助が垣見五郎兵衛に扮し、堀部安兵衛が剣術指南の長江長左衛門、神崎与五郎は小豆屋善兵衛、などなど、四十七士の全てが町人などに扮して別名を名のることと同様に、不自然とはいえないわけである。
丸谷氏の同書に「大星由良之助の向うには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだといふ、事実と虚構の二重構造」(講談社文芸文庫版112ページ)という表現が見える。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、大星由良之助は大石内蔵助になぞらえ、顔世御前は瑶泉院になぞらえた登場人物であるということだが、「まるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだ」と丸谷氏が表現した理由は、知識不足のせいか、よくわからない。高師直(吉良上野之介になぞらえる)の顔世御前への横恋慕というのが歌舞伎の虚構なので、史実の瑶泉院との「二重構造」という意味をそのように表現したのだろうか。

人気歌舞伎の要素のようなものを、丸谷氏は忠臣蔵を例に7つ指摘している。
1、社会を縦断する書き方。殿様から足軽や町人まで、奥方様から遊女までが登場
2、二つの時代の重ね合せ。南北朝時代を描きながら上演された江戸時代を描く
3、「実は……」という作劇術。上に述べた垣見五郎兵衛じつは大石など、貴種流離譚
4、儀式性。 勅使饗応に始り切腹、開城などの武家儀式への庶民の関心
5、地理、国ぼめ。 関東と関西、京の遊郭や東海道などが広範囲に描かれる
6、歳時記性。 桜の下の切腹から雪の夜の討入りまで
7、呪術性、御霊信仰 

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新年を迎える和歌


新年を迎える有名な和歌といえば、三つほどが思い浮かぶ。

一つは、元旦の初雪を吉兆としてほめたたえた大伴家持の歌で、万葉集の最後に載っている歌で、因幡の国で詠まれたという。
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/41toto02.htm

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)  大伴家持

もう一つは、古今集の最初に載る在原元方の歌で、立春が年末に来てしまったというちょっと風変わりな印象の歌。
http://nire.main.jp/sb/log/eid107.html

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

三つ目は、万葉集巻十の詠み人知らずの歌で、新年を迎えて何もかも新たなものとなったのは良いことだが、しかし人間は古い人間のほうが良いものだと詠まれる。

 物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし  万葉集

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