薮入りと初山

初山入りという正月行事は、新年に初めて山に入って薪をとり、その薪は小豆粥や、田植のときの昼飯を炊くのにも使うという。事典などによると、1月11日のほか、2日、4日、16日など地方により日は一定でないらしい。今は残っていない地方もあるだろう。

ここでいう山とは屋敷林でもじゅうぶんなので、年の最初の薪と最初の火を、山の神から授かるという意味もあるのだろう。初山は仕事始めの意義もあるらしく、2日というのは元旦の翌日、4日は3が日を休んだ翌日、16日は小正月の翌日になる。
田植のときの昼飯とは、田の神を祭る日の食事になる。田植祭は年の初めに水源地などで行なわれることも多いのだが、そこでも初山の薪が使われるのではないか。

山椒太夫』の物語で、捕われの身となった安寿と厨子王が、山に入って薪取りを命ぜられる場面があり、初山の伝承行事を背景にしたものと指摘されている。その日に、二人は山椒太夫のもとから脱出を相談し、厨子王は脱出し、安寿は折檻を受けて命を落とした日でもある。安寿姫の命日は1月16日であるという伝承が全国各地にあるので、16日の初山の日になる。

1月16日は、薮入りの日、閻魔祭の日でもある。
薮入りは、江戸時代では奉公人たちが里帰りする日とされるが、実際は奉公先から解き放たれる自由な日であり、それと同様ないしより自由な日というのが中世にもあり、厨子王が脱出できたのも、そのような日であるということが背景にあるとのことである。閻魔祭の日には地獄図絵が開帳されるので、その日に語られた安寿の物語には残酷表現が加わるのだという。安野真幸著『下人論』を読むと、そのようなことが詳細に書いてある。

同書に次のような一文がある。
「『お岩木様一代記』から『山椒太夫』への変化の中に母子神信仰・御霊信仰から氏神信仰へという世界観の大転換を見てとることがdきよう」133p

ここでいう氏神信仰とは、近世初頭の単婚小家族の成立、檀家制度、小農自作農たちによる村の形成、村鎮守の成立などと深く関連するもののことである。そうした近世とは異なるのが中世なのだろうが、著者は「母子神信仰・御霊信仰」と表現している。読者のために断っておくがこの「母子」とは近世近代的な密着型の母子のことでは勿論ない。母子神信仰とは女人救済につながるものだと思う。

中世では人口の大多数は下人の身分だったであろう。安寿と厨子王の物語は、離れ離れの親子が一緒に暮したいという目的のために生きる物語である。下人には家族同居の生活ができないことがわかる。人口の大多数がそうだったことになる。厨子王の元の家は、陸奥の領主であり、多数の下人たちと一家をなしていたはずである。厳密には親子水入らずの生活ではない。山椒太夫とは違って、善政をしいていた。
 岩城の家の没落後は、父は単身で西国へ配流となり、母と姉弟と乳母で落ち延びていた。
乳母はうわたきという名で、四人は越後で誘拐され、その直後には乳母のみが命を断った。近代的な視点から申せば、姉だけでなく乳母についての供養も省略できないと思う。

山本健吉『古典と現代文学』(「近松の周辺」)では、説経節と浄瑠璃の関係が書かれ、女人救済について述べている。

「浄瑠璃の元は説経であり、神仏の縁起を説く語り物であった。説経とは唱導であり、唱導者が布教の手段とし声明道で練った美声で節廻し面白く、経文の実例になる話を語ってきかせたのである。彼等が如何に哀愁の深い物語を声美しく語り、しかもその美貌を以て聴衆を恍惚とさせたかは……」
「説経は男の語り物であるが、説経から出た浄瑠璃は、もと女の語る物であった。(中略)瞽女が語ったもので、自分たち女の呪われた身の救いを説いた。」

「説教は男の語り物」そして「浄瑠璃は、もと女の語り物」と区別した書き方になっているが、説経も瞽女が語ったと書く研究書もある。「その美貌を以て聴衆を恍惚とさせた」というのは女性のようでもあるし、「美貌」は化粧などによるものとすれば、盲目の瞽女にどこまでできたかなどの不明な部分もあるが、説経と初期の浄瑠璃とは、区別不明の重なる部分もあるのだろう。
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鏡開き

1月11日は「鑑開き」の日といわれる。
正月の神へのお供えの餅を下げてきて、固くなっているのを割って、雑煮にして食べる。神様の魂や御利益もいただくということになる。

正月の餅は、非常に重要なものとされ、樋口一葉の小説『大つごもり』にも出てくる。貧乏な伯父夫婦は、幼い子に正月の餅を食べさせられないことを、非常な恥と思っていた。

「大道餅買ふてなり三ヶ日の雜煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし」(大つごもり

正月の餅を食べられない子は一人前の大人になれないという考えのようだ。あるいは、
武士でないのに、貧乏していても武士……といった印象をうけるので、金を無心するための誇張があるのかもしれないが、それはともかく、正月の餅が重要であることは理解できる。

国語大辞典(小学館)をみてみる。
「かがみびらき【鏡開】
(「開き」は「割り」の忌み詞)正月行事の一つ。正月に供えた鏡餅をおろし、二〇日の小豆粥(あずきがゆ)に入れて食べる。のち一一日の仕事始め(倉開き)に行なうようになった。武家時代には、男子は具足に、婦女は鏡台に供えた鏡餅を、二〇日に取り下げ、割って食べた。婦女は初鏡祝いともいう。鏡割り。」

「武家時代」とは江戸時代のことであろう。武家のしきたりの説明が長い。後に11日に変わったのは、民間行事と習合してのことなのかは不明。
鏡開きは、正月の連続する行事の「ひと区切り」の行事でもある。民間では古くは15日の小正月のほうを重視したので、それより前にお供餅を下げることはないのかもしれないが、神棚の大神宮様の餅なら、下げるかもしれない。一年の仕事始めの前には、餅を食べていないと、仕事が始まらないようにも思う。仕事始めが11日というのは「初山入り」と関係があるようで、職業によって仕事始めは異なると思われる。
元旦や小正月、さらに節分行事がからんでくると、年が改まるというのは、ある一瞬にということではなく、次第次第に改まるということなのだろう。
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新年の雪の歌

万葉集20巻の末尾、4516首目の大伴家持の歌。

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)

元日の朝に雪が降り、その雪が頻りに積もるように、この年に吉事よ、多くあれ。
といった意味だろう。
正月の雪が、縁起の良いものと考えられていたことがわかる。
万葉集20巻を結ぶにあたって、未来への予祝をこめた歌でもあるのだろう。

続いて、古今集の最初の歌。
    
 年の内に 春は来にけり 一とせを 昨年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん (在原元方)

年内に立春が来た。さてこの一年を振り返るのに、新しい春からみて「昨年」というべきか、まだ12月なので「今年」というべきか。

新暦しか知らないと、正月のことをなぜ「新春」というのですかという質問が出るわけだが、立春に近い朔日(月齢1)を、1月の最初とするのが旧暦なので、1月から3月を春と呼ぶ。立春は1月1日の前後の約30日間のどれかの日になる。12月中に立春が来る確率は約50%なので日常的にはよくあることになる。
「昨年」というべきか「今年」というべきかというのは、挨拶言葉をどう言ったら良いかということにもつながる。
古今集3番めの歌。

 春霞 たてるやいづこ みよしのゝ 吉野の山に 雪はふりつゝ {読人不知}

春が来たなら霞が立つはずだがいづこに見えるのか、吉野の山は雪が降っている。
この「いづこ」というのは否定的な意味ではなく、それならどこに春のきざしがあるか、探してみようという意味にもとれる。
そして6番めの歌。

 春たてば 花とや見らん 白雪の かゝれる枝に うぐひすのなく (素性法師)

雪を花に見立てれば良いではないか、というのも一つの挨拶の方法なのだろう。
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