縄文土器の魂

縄文時代の土器は、発掘された破片を組み合わせて復元を試みようとしても、必ずどこか欠落部分が生じるものだという。欠落部分は石膏などで補われて博物館などでよく見かける。

欠損部分のない縄文土器はほとんど見かけないことから、その土器が廃棄されたときに人の手で一部分がもぎ取られるように抜き取られたのではないかと、『古代甲斐国の謎』(新人物往来社、小野正文氏執筆部分)に述べられていた。
道具にも魂が存在し、魂を抜き取ってからでなければ廃棄はできない。その抜き取られた魂は、粉末にされて再び次の代の土器を作る粘土に混ぜられ、土器の魂も伝えられていったのではないかという。

青森県などで出土される縄文時代の土偶も、必ずどこか欠けた部分があるそうなので、これもまた魂を抜き取ることが行われたのではないかと思える。猟師が捕獲した動物の耳を切り取って山の神に捧げるというのも、山の神の霊を動物のからだから抜き取るためであるといわれる。
人が使う道具にも魂が宿っているという考えかたは、戦後の経済成長の中でほとんど失われてしまったかのように見えるが、それでも母屋普請のときには、古い柱の一部を、新築の屋根の梁や屋根裏などに使うということは今でも行われていると思う。家の建物の魂も、そうして代々伝えて行くことができるわけである。

同書によれば、古い石臼もよく砕かれて発見されるそうで、箒を燃やしてはいけないとか、民具の扱いの中にも、道具の魂を意識してきた生活がうかがえる。
ものを大事にするということは、「環境にやさしい」ということだけでなく、昔の心を大切にし受け継いで行こうということなのだとわかる。
国民慶祝のこのたびの新宮様御誕生の折りにも、皇室では幼児用玩具そのほか多くのものが代々修理して使われる習わしであることが報道されている。

さて今身のまわりのものを眺めてみると、パソコンがある。今年から使用しているA社のベアボーンなのだが、フロッピーディスクの部分はもう7、8年も使用している。DVDドライブも5、6年前からのもので、こういう使い方もまた良いのではないかと思った次第。
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鶺鴒鳴く

9月13日ごろが、七十二候の一つの鶺鴒鳴(せきれいなく)であった。

セキレイは渓流や川辺などでよく見かけるらしいが、この時分によく鳴き始めるのだという話である。
(画像のあるサイト http://okasoft.ddo.jp/bird/segurosekirei/index.html
小さな鳥のわりに尾が長く、古い和語で鶺鴒のことを「庭たたき」ともいい、いつもせわしなく尾をたたくように上下に振っていることから、
  世の中は鶺鴒の尾のひまもなし  凡兆
などという句にもよまれる。

日本書紀では、伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)の二柱の神が結婚したとき、鶺鴒の交尾の姿を見て結ばれ、大八洲(日本)の国を産むことができた。
こうした故実により、明治記念館の結婚披露宴会場の壁にも鶺鴒が描かれたり、皇室でも同様の飾り物があるらしい。「恋教鳥」という異名もある。

  行く水の目にとどまらぬ青水沫(あをみなわ) 鶺鴒の尾は触れにたりけり 白秋

この北原白秋の歌は情景が綺麗である。ある種の性的な連想が働いたとしても品を落とすことはない。
からだの一部を振るということは、たとえば手を振るという行為、これは魂を招くための古代の呪的行為なのだといわれる。別れて行く人を遠くに見て手を振るというのは、相手の魂を寄せて再会を期待してのものということになる。また遠くから近づいて来る人に手を振るのは、まちがいなく相手の魂を招き寄せるためである。万葉集で「袖を振る」というのも同様である。

  少女(をとめ)らが袖布留山の瑞垣の、久しき時ゆ思ひき。われは 柿本人麻呂

鳥が尾を振るのも、何かの魂を招き寄せる行為と見たほうが良いかもしれない。鶺鴒の場合は、新しく生まれるものの魂ということになると思う。

9月18日は七十二候の「玄鳥去(つばめさる)」で、燕はもう南へ帰るらしい。 (9/22)
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三本足の動物

その昔、犬は三本足だったという。むかし弘法大師が、「笑」という字をどうしても思い出すことができず、三年間苦行した。あるとき、籠をかぶった犬を見て、その姿からやっと思い出したという。そこで弘法大師は、犬にお礼をしなければと考え、それまで四本足だった五徳の足を一本取って、犬に与えたので、そのときから、犬は四本足になり、五徳は三本足になったという。
 (※ 五徳とは、3本脚のある輪で、火鉢や囲炉裏の中に置いて、やかんなどを載せる道具)
笑い話のようだが、「日本俗信辞典」にある。
別の話では、犬に足を与えたのは別の大神様で、犬は感謝の気持ちを忘れないので、小便をするときは大神様にもらった足を汚さないように片足を上げるのだという。
犬もまた神の使いなので、そういった特別の生い立ちの説話が必要だったのではないかと思う。神に近かったから普通の動物とは違った形をしていたという考えがあったのだろう。

ウサギの左前足も、山の神にもらったものだという。これは撃たれて左前足を失ったウサギを山の神が憐れんで与えたという話である。
猟師が兎を捕獲したとき、左前足以外の三本の足を縛って持ち帰るのは、山の神のものを尊んでのことだという。
別の話では、兎の左前足は、お月様からもらったものだともいう。

中国では太陽の中に三本足のカラスが棲むという伝説があった。これが、熊野の八咫烏(やたがらす)の話と習合してしまったようなところもあるようである。
熊野の八咫烏は、神武天皇が南から大和へ入ったときの道案内をした烏であり、熊野の午王札にも多くの烏の絵が描かれる。午王札は起請文にも使われ、もし偽りをなす者があれば熊野で烏が三羽死ぬといわれた。

動物の三本足にまつわる伝説は他にもあるかもしれない。
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疱瘡の神、源為朝

ダルマ絵関東地方の屋敷神といえば稲荷様が多いのだが、まれに八幡様や浅間様を見かけるときがある。先日見たのは、為朝大明神で、確実な由緒は不詳とのことであった。為朝とは源為朝のことで、九州や沖縄から八丈島(参考〜八丈島の為朝)などに多くの伝説を残している。私が見た為朝大明神もそうだとは断言できないが、源為朝は、江戸時代後期には疱瘡の神として信仰された歴史がある。

疱瘡は、今はほとんどなくなったが、近世までは難病の一つで、子どもにかかりやすく、疱瘡の子どもが出ると、医者を呼ぶほかに、さまざまな信心が行われた。疱瘡の子どもには赤い着物を着せ、枕や身のまわりのものも赤づくめとし、床の間には赤いダルマを飾り、ダルマ絵という赤色で刷られた御守札を祀ったという。滝沢馬琴の日記にもその様子が書かれているらしい。

上のダルマ絵には、ダルマのほか、張り子の犬、でんでん太鼓が描かれている。

 もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり

と三十一文字の呪文のようなものも書かれる。湯尾峠は福井県南部にある峠のことである。
ダルマ絵には他にミミズク、そして為朝や鍾馗様の絵が描かれているのもある。
為朝は、ダルマとミミズクと犬を家来にして、疱瘡神を征伐したといったような、桃太郎のような話もある。(画像は週刊朝日百科「歴史をよみなおす-20-村の手習塾」(高橋敏編※)から)

犬については、古くから安産や子育ての信仰もあり、子どもの守護でもあるのだろう。ダルマなどの赤色は、疱瘡にかかった皮膚の色が赤くなることから、疱瘡神も赤色と考えて、疱瘡の神を手厚く祀って、のちに退散してもらうためだろうという。ミミズクはよくわからない。為朝の意味も不明なのだが、弓の名人だったことが関係しているのだろうかという。

村はづれに大草履を置いて疱瘡からの守護とする例もある。この村にはこれほどの巨人がいるので、それを怖れて疫病神も近づかないだろうとの考えである。疫病から守ってくれるのが巨人だということなら、為朝にも巨人伝説がある。蘇民将来の伝説の須佐之男命も同様である。
その他、門口に「紀州池上紀右衛門子孫」と書いた紙を貼ったり、地域で疱瘡踊りを賑やかに踊ったところもあるという。

宮田登『江戸のはやり神』(ちくま文庫※)によると、子どもにとっての疱瘡は、成長のための避けられない試練、通過儀礼であり、病床の子どものうわごとは祖霊そのものの声と見なされたようでもあり、子どもが試練を経て成長できるのかそうでないのかは、その祖霊のまつりかた次第。そのような古い善悪未分の祖霊から、こぼれ落ちた(零落した)のが疱瘡神ではないか、といった意味のことが書かれている。
参考文献 文中※印
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蝶の魂

文部省唱歌の「蝶々」は、フランスのあの有名な思想家のルソーの作曲だそうだが、春の到来を告げる風景描写などで日本人に親しまれている。
「蝶」をチョウというのは中国の漢字の音読みで、つまり中国から来た言葉(漢語)である。大和言葉には蝶を意味する言葉はないのだろうか、またあったとしても、なぜ大和言葉で呼ばれずに、漢語だけになってしまったのだろうか、という疑問がある。

蝶の古い和語は、古語辞典には「かはひらこ」とか「ひひる」とかいう言葉が見える。今の方言でも類似の言葉が残っているらしいが、標準の日本語ではとうに消えてしまった言葉である。万葉のころから近世まで、蝶は、和歌にもあまり詠まれなかったらしい。

蝶は鳥と同様に、死者の霊を運ぶものと考えられたのは確かである。
蝶が鳥と違うのは、幼虫から蛹になり成虫へと変態する。これは蛇の脱皮よりも神秘的に見えるかもしれない。空中を不安定にさまようような飛び方も、同じ霊でも何か不幸な死に方をした者の霊のように、我々にも感じられないことはない。
昆虫類は突然大量発生し、農作物に危害を及ぼすこともあり、とくに戦死者の亡霊であるとも意識され、死後にイナゴと化した越前の斎藤実盛の伝説もある。蝶は不吉なものとされたため、中世の絵巻にも描かれることはなかったらしい。

しかし蝶は、古事記や日本書紀には登場し、また平安時代以後の調度品類の模様や家紋(丸に揚羽蝶)などには、よく使われた。
紋様などについては、もともと中国でよく使われたデザインがそのまま輸入され、荘子が夢に魂が体から抜け出て胡蝶となって百年も花と遊んだという伝説から、縁起の良い模様とされ、そのような類型のままに伝承されていったらしい。舞なども同様の意識なのだろう。次は平安時代末期の蝶を詠んだ珍しい歌。

 百とせの花にやどりて過ぐしてき。この世は蝶の夢にぞありける  大江匡房

記紀のころは、蝶は蛾との区別があまりなく、不吉な兆しを予見させたりすることもあるが、また、常世の虫とも見なされている。鳥は、人の集団を一つの方向に導くためのものとして、船の舳先などにかたどられることがあるが、蝶は、あいまいではかなくも見える常世の国と関係づけられる。常世の国は「常夜の国」でもあり、つまり常闇の死者の国でもあるという最も古い時代の考えも残っていたので、蝶もまた吉と不吉との両面から意識されていたようである。
また絹を産む蚕も、記紀の時代から珍重され信仰の対象ともなっていた(このへんのところは、小西正己著『古代の虫まつり』学生社 に詳しい)。

平安時代に蝶の紋様が好まれ出したのは、信仰ということではなく、舶来のものを好んだ都の人の趣味なのだろう。また一方では平安時代の京都では御霊や穢れなどについて過敏に反応するようになり、蝶の不吉さも強調されていった。蝶についての紋様や中国の知識と、実際の生活の中の信仰とは、ずいぶん離れたように見える。
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