よく使われる異体字など

神名地名難読漢字・ユニコード対照表
http://nire.main.jp/rouman/dic/hsgaiji.htm
のページは比較的多いアクセスをいただいていますが、今回1文字のユニコードを追加し、ページ内容も全面改訂となりました。協力いただいたかたのサイトへのリンクはそのページ内にあります。

改定により余計な説明を省きすっきり見やすくなったと思います。WindowsXP以前では「MS明朝」のフォントをアップグレードしないと表示されない文字ばかりかもしれません。

この漢字リストの中には、28宿の一つでもある「氐」という字があります。「𣑥」は万葉集で「白𣑥の(しろたへの)」などとよく使われます。「嬥」(かがひ)も万葉集でときどき見かけます。

また、そのリストの中で、江戸時代から明治時代にかけての一般文書でよく見かける漢字でいえば、人名などに多い「杦」(すぎ)があります。さらに、「㕝」(こと)は「事」の異体字ですが、かなりよく使われました。「霊」の異体字の「灵(れい)」もよく見かけます。
(この記事中の一部の漢字はMSのフォントをアップグレードしないと表示されないかもしれません)
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名主が小作をする証文 など

江戸時代の農村では、よほどの例外でもない限り、身分ないし専業職としての「小作人」というのは確認できないと思う。西洋史を無理やりに当てはめて日本の農村に大地主がいて、土地を持たない大勢の小作人が働くということを吹聴するのは大きな誤りであるというほかはない。
当地では小作人はもちろん存在しなかった。
司馬遼太郎の対談集での発言によると、彼の故郷の大阪近郊では、よっぽどのわけありの家が一軒だけ「小作人」としてあっただけだったという。それは昭和初期の話であるというが、明治以後の地主が増えていった時代でさえそうなのである。また西日本のほうが東日本より子供の出生率がやや高く人口も過剰ぎみであるにもかかわらずである。

さて『百姓の江戸時代』(筑摩書房)の著者田中圭一氏によると、越後地方にはいくらかの「小作人」がいたような書き方である。小作だけなら年貢もないし、休みたいときに休めるので気楽であり、そのほうが良いと考える人もあるということである。こうした人に他に職があるのかどうか詳細は不明だが、いづれにせよこれもごく小数ということだろう。

北武蔵の当地に、江戸中期から後期の「小作證文」が数通残っているが、小作すなわち他人の土地を期間を定めて借りて耕作していたのは、比較的裕福な家ばかりで、名主や組頭クラスの人たちばかりである。
江戸時代は庶民の家はどこも子供が少なかったのだが、裕福な家なら4〜5人以上の子供があり、男子も2人以上あった例が多い。そうでなく子供が少ない家では、男の子のない家が3割近くあり、そういう家では娘に婿をとるのだが、婿を供給するのが上層農民ということになる。上層農民の家では二男以下の男子が成長してくると、労働力が過剰になる。そこで逆に働き手の少ない家の土地を借りて耕作したということだろう。それで小作をするは上層農民ばかりだということになる。

同じ一軒の家でも、ある時代には三代の夫婦が十分働けるときもあれば、一組の夫婦しか働き手がいない時期もある。こうした労働力の過剰と不足を、村内の人々で補い合うのが小作なのだと思われる。

名主が他村の名主から小作をするという證文が存在するのだが、これは少々変っていて、小作料が先払いになっている。小作に借りる土地というのが、もとはこちらの名主の名義だった土地で、その土地を他村の名主に質入れして借金をして金銭を得、さらにその土地を小作することによって小作料を先払いで得たことになる。何かの金策のための便宜かもしれない。あるいはその土地も元は名主のものではなく、質として預ったものが流れたために、貸したお金が戻らず、そのための金策かもしれない。

ところで明治の初めには、土地を売る農民が増え、土地を売って金を得て、同じ土地を小作して毎年の小作料を得るようなことがブームになったらしい。そのほうが当面の収入は増えるのである。しかし長期的に見ればマイナスになることはもちろんである。けれどそれが新しい時代の生活スタイルであるかのようにもてはやされたようである。
これと似たようなことが、1990年代ごろからのフリーターのブームとしておこったことは記憶に新しい。正規社員よりも派遣社員やフリーターのほうが、当面の年収は確かに多かった。
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「おやけのとと」と組頭

佐藤常雄(著)『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)が近世史の最良の入門書だと思うが、この本は冒頭から、日本では江戸時代初期まで夫婦が同居する慣習がなかったことから始まっていたと思う。
核家族と直系の祖父母が同居する家族形態は、江戸時代の最初の百年くらいのうちに徐々に定着していった。それが可能となったのは、時代とともに近代的な意識に近づいていったのが大きいのだろうと思う。
秀吉の時代に行なわれた検地は、田畑を耕す者の耕作権と所有権を保証するものであったが、当時は、同じ苗字のリーダー格の者が数町歩を所有することが多かったようで、江戸時代になると家族はそれぞれ独立・分家して小規模経営の農業が主体となっていった。こうして農業では「中間搾取」のようなものはほぼ皆無になったことになる。

寺請制度なども、家族生活の保証と引き替えに、庶民の側で受け入れることになったのだと思う。それ以前は家族の成員ごとにお寺が違うのが当たり前であったのだが、それは、住んでいる場所が違ったからお寺も違ったのだともいえる。

分家というのはほとんど江戸時代の初期か明治以降に成立した家のことである。
「同じ苗字のリーダー格の者」とは、越後方言でいえば「おやけのとと」のことであり、後に分家する「をぢ」たちとともに江戸時代初期までは共同で暮らしていたようだ。歴史学者は、おやけのととのことを名主(みょうしゅ)と言い、をぢのことを名子(なご)と言っている。
名主(みょうしゅ)とは、江戸時代の村の名主(なぬし)とは違うものである。ややこしいので、名主(みょうしゅ)でなく「おやけのとと」の用語を使うことにする。

おやけのととの中には、村の名主になった者もいたが、最初は名主の下の村役である組頭(くみがしら)というものになった。分家が成立したとき、1軒の家が平均すると5軒になったので、そのグループの呼び名を、北武蔵あたりでは苗字で「○○一家(いっけ)」と呼んだが、苗字の使用は禁止されたので幕府のいう「五人組」という言葉を村でも使うことになった。この「五人組」の頭(かしら)が「組頭」である。すべての組頭が集まって村の代表の名主を互選し、村は名主を含めた組頭たちの合議制で運営されていくわけだが、時代が進むと同苗一家のリーダーがよりふさわしい別の家に交替することも多く、新しいリーダーが組頭になるわけである。
名主・組頭・百姓代といった村の三役が整備されると、百姓代になった「おやけのとと」もある。
すべての同苗一家が同じ戸数ではないので、五人組の中に違う苗字の者が入ることもあり、家々の様々な盛衰によって組合せも変化する。
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