音楽の「楽」とは

「音楽は楽の字がつくのだからタノシクなければならない」というコメントを見たので、そうではないだろうということで、「楽」の意味から考えてみる。

 広辞苑に
  き-ど【喜怒】 喜びと怒り。「‥哀楽」
とあるが「喜怒哀楽」の項が、(使用の版に)ないのは何故だろう。
 小学館国語大辞典では、
  きどあいらく【喜怒哀楽】喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。さまざまな人間の感情。
これだけではよくわからない。
 タノシミとは「喜び」とどう違うのか、喜怒哀楽の4つのうち2つが似ているのは単なる数合わせのためなのか、若いころそんなことを思っていた。あるとき、
 「楽」とは「安楽」のこと、「やすらぎ」のことではないかと気づいた。他の3つよりも次元が高いような感情である。特に老齢をむかえた人にとっては、理想的な感情であろう。

 音楽は神に捧げるものとして生れた。神を慰めるためともいう。「なぐさめ」の「なぐ」とは、凪ぎ、和むなどと同源であろう。反対語は「荒れる、荒ぶ」など。荒魂(あらみたま)に対して和魂(にぎみたま)という言葉が、古事記などにも出てくるが、「にぎ」というのも「なぐ」と同源であろう。荒魂を鎮めるためのものが音楽であるなら、現代人のそれぞれの私的な楽しみなどとは様相を異にしてくるであろう。

 大衆歌謡に目を転じてみると、記紀時代の童謡(わざうた)がある。意味不明の歌が多く、あまり研究は進んでいないのかもしれない。
 日本人は曖昧な表現を好んで、あとは感受性を共有する人に察してもらえばじゅうぶんだと思っているのかもしれない。
 西条八十以来の象徴的な表現は、日本人には受け入れやすいと思う。

 戦後のヒット曲「テネシーワルツ」の日本語の歌詞(思い出なつかしあのテネシーワルツ……)は、オリジナルとは全く別物らしい。オリジナルは、恋人を親しい友に奪われた女の絶望を歌ったものという。欧米の歌謡には絶望を直接うったえるものも多いかもしれない。高石ともやとナターシャセブンが紹介したカントリーソングにも多い。「柳の木の下に」という失恋と自殺をうたった曲(編曲は陽気な)は、岩井宏の「かみしばい」というノスタルジックな歌詞のものと、ほとんど同じ曲に聞こえる。
 やりばのない不幸の感情をうったえる歌は、『アメリカを歌で知る』 (ウェルズ恵子著、祥伝社新書) によれば、ごく普通のフォークソングである。

 シャンソンでも同様なのだろう。当時、多くの訳詞をてがけた、なかにし礼、安井かずみなど、 どんなふうに訳したのだろう。既存の平凡な抒情だけの歌詞には、いらだちをおぼえてはいなかったろうか。平凡なものばかり見せられれば、第二芸術論とか短歌的抒情の否定などという言葉にひかれる一般人がいたのもうなづけようというもの。
 森田童子の作詞も、こういう流れの中にあるのだろう。

 古い日本の歌謡では、大正〜昭和初期の、『金色夜叉』『燃ゆる御神火』などは、第三者が物語のように悲劇を語る形式である。
 一人称の悲劇の歌謡というのは、歌劇などの伝統のある欧米なら、日常的な歌の形式なのだろう。
 日本の江戸時代の芝居では、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん、私を薄情な女とお思いか、人の落目を見捨てるを、廓の恥辱とするわいなあ」 (『お俊伝兵衛、近頃河原達引』)などという心中物の名文句もあるそうだが、どうだったろうか。

以上は森田童子についての2つめの文である。
3つめは、「時」の理解について、抒情の問題とからめ、森田童子の発言から考えてみようと思う。2020年1月に新設したブログカテゴリ「時間の話」のカテゴリになる。
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笑いとパロディ

 笑いやユーモアとは何か、というテーマに興味を持ったのは十代のころで、新書判の解説本などをいくつか買い求めたことがあった。あまり満足のいく本はなかったように思うが、当時の本は、社会諷刺による笑いが最もランクが高いような書き方のものが多かった。1970年前後のことなので、政治的な批評を重視した時代の風潮のためなのだろう。その後も、古書店などで、目に入った本などを買い足している。本当に面白いと思った本にはまだ出会っていないが、いつか、笑いについて何か書かねばならないと思い続けてきた。
 私のテーマは、喜劇などで、なぜこの場面が笑いをさそうのだろうということにつきる。内省的な分析、そして脚本上の技術的な効果の問題などもある。
 最近、柳田國男の『不幸なる芸術・笑の本願』などを拾い読みしたところ、笑いと笑みは違うという話はもっともだが、笑いをふくむ芸能の歴史に主眼があり、笑いも学問の対象になるのだという力説はもっともだが、関心の方向が違うのかもしれない。

 1990年代に、NHKテレビで「お江戸でござる」という番組があり、その舞台でくりひろげられる笑いに、懐かしい質の笑いを感じたので、そのへんの所から書きはじめるのが良いかもしれないと思ったこともある。それからさらに20年以上も経過した。

「お江戸でござる」で今でも記憶にある笑いは、3人が相互に借金の約束をするという話で、たしか江戸時代の戯作か何かに元ネタがあったと思う。
 その話は、ある商人の男(A)が、取引先から入金の予定が1日遅れると連絡があったが、そのお金はどうしても明日の内に入り用なので、困ってしまった。そこで友人(B)に1日だけ金子を借りられれば明後日には必ず返済できるのだがと相談したところ、友人は江戸っ子らしく二つ返事で自分が何とかすると引き受けた。
 とはいえ友人も手元にお金があるわけではなく、馴染みの花魁(C)にそのことを話すと、花魁は身請けが決まっていて、明日身請金が入る予定なので、1日だけならそのお金を融通しようと言う。友人(B)は大喜びで商人(A)の男に報告。
 さて何が問題なのかというと、花魁を身請けする男とは、その商人の男(A)のことで、どうしてもその日に入用の金とは、身請け金のことだったのである。3人はそれぞれお金を用立てる約束をしたが、当てにしている入金はそれぞれ3人のうちの別の相手であり、それではぐるぐる回りになって、そのお金はどこにも存在していないという可笑しさ。借りる側としてはお金を催促するのも遠慮がちの涙ぐましい笑いもあり、観客はことの一部始終を見て全てを知っているので、可笑しくてたまらないわけである。

落語によくある笑い、「失敗による笑い」に分類できるかもしれない。また、気を使いすぎたときの笑いというのもあると思う。

「失敗の笑い」については、本人にとっては顔から火が出るほど恥かしいものでもあるが、場合によっては自虐ネタにすることもある。
 言葉使いをうっかり間違ったとき、みんなで笑ったときの楽しさが記憶に残り、わざと間違った言い方を繰返しているうちに、だんだんとおかしみが薄れ、違和感まで消えて、普通の言い方の一つとして定着することもあるのではないか。古語から現代語へと変化してきた途中のどこかには、そんな間違いがきっかけになったこともないとはいえまい。となると失敗や笑いが歴史を動かしたのである。

 気を使いすぎて遠回しに言ったことを勘違いするようなギャグは、昭和初期のアメリカ映画にも多かったと思う。故郷の異なる開拓民が集まって一つの町に住んだアメリカ人も、互に気を使ったことだろう。江戸の笑いにも似たところがある。
 そうした見知らぬどうしが気を遣うのは、都市文化だけだろうか。
 日本人は、内と外の区別意識が強いといわれる。家族以外は「外」の領域であり、村の中でも気を使うことが多かった。夫婦でさえ気をつかうこともある。

 ここで、美術史に関する本で、小林忠『江戸の画家たち』という本を読んでいたら、鈴木春信の見立絵について論じている部分が目に入った。

「四周を海に囲まれた列島の内で、かつて単一の民族が濃密な文化伝統を共有してきた我が国では、たがいのコミュニケーションが至極容易に成り立ち得る便宜がある。一を聞いて十を悟るといった、相手の心に寄りそっての親密な理解が、往々身分や階級の枠をもこえて可能となるような、恵まれた環境が古来用意されていたのである。」

 そうした対象への推量や想像の共有があるから、俳句や短歌などの短詩型の文学も繁栄したのだろうという。

「あえて直接的な表現を避け、比喩、暗喩の機智が楽しまれる傾向が強いのも、相手の思いやり深い推察を期待する「甘え」の心理が働いているのであろう。」

ここでいう「単一民族が濃密な文化伝統を共有」とは、笑いについてではなく、著者がのちに述べようとする和歌の本歌取りや見立絵についての「序」のような部分である。ここでは、濃密な関係でなくても、「直接的な表現を避け」遠回しな言い方をする例は山ほどあることを確認したい。

 ものごとを遠回しに言うために、誤解もおこりやすい。そこに笑いも生れる。

 昔読んだ笑い研究の本では、失敗による笑いを「嘲笑」の笑いに分類して、嘲笑の心理は価値が低い、社会諷刺の笑いのほうが上位であるという本が多かった。しかし誤解による笑いは、嘲笑だけなのだろうか。
 落語の「てんしき」では、医者の言う「てんしき」という言葉を、僧は推察して「呑酒器」と解釈した。酒を呑む器、盃のことだろうという。聞くは一時の恥という訓を怠って、知ったかぶりをするという点では、嘲笑の要素もあるだろうが、言葉の語呂合せのようなおかしさが大きいと思う。よくぞそこまで推察したという努力も、おかしいと思う。

 先の小林忠氏の本では、読み手の推察や想像を期待して、和歌では「本歌取り」という技法が成立したという話になり、本歌取りに相応する絵の技法が、見立絵ということになる。
 鈴木春信の「見立て菊慈童」という絵は、岸辺に咲く菊の花の前に、美人がひざまづいているだけで、美人画の一種でもある。菊慈童とは、中国の故事にある、皇帝に寵愛された小姓の名だが、その小姓に見立てた絵ということになる。したがって一種のユーモアも感じられる絵であるが、中国の故事では悲劇の童でもある。重層的な想像の世界が広がって、絵をみたときの感慨に厚みを増してゆく。
 さまざまな見立絵のなかには、笑いがメインになっているようなのも多い。パロディづくめの絵もある。パロディという言葉は、日本語ではないが、しかし日本にパロディの文芸などがなかったわけでもなく、江戸の戯作などはパロディばかりである。
 たとえば江戸時代には、百人一首のパロディ本が何十種類……何百かもしれないが、大量に書かれ、出版されている。その数については、コレクターがいるだろうから、聞いてみてもよいかもしれない。そのほか、平家物語や源氏物語、さまざまの古典をパロディ化して庶民を楽しませた。古典といっても義経や弁慶の話など、子供でもよく知っている話が多いのである。日本では口承文芸といわれる多くの物語があり、歴史物語も混在して、多くの国民の共有知識になっていた。西洋では共有の物語は聖書の話が多いので、笑いの対象にはなりにくかったのかもしれない。

 笑いについては、パロディを中心に考察してゆくのが良いのではないかと思う。パロディは、さまざまな知識の共有が前提になる笑いであるので、知的な笑いのように分類され、庶民の笑いではないように考えられてきたかもしれない。しかしパロディは必ずしも高度で知的な笑いというわけでもない。
 たとえば、童話や昔話には、よく「繰返し」のパターンがある。「花咲爺」でいえば、正直爺さんの行動を、隣りの爺がそっくり真似ようとする場面がある。これを行動のパロディとみることもできる。新しい童話(小沢正のものなど)を読むと、繰返しの場面は必ず笑いがともなうので、昔話でも同様だったと考えて良いと思う(ここが重要)。そうした物語の繰返しや、人真似をする場面などは、それ自体を一種のパロディとみなしうるのである。こうした類のパロディをふくめて考察してゆけば、パロディとは必ずしも広範な古典の教養を必須とするものではないことも明らかになるだろう。

以上のことを書いてきて、十代のころに課題とした一つのテーマについて、半世紀を経て、ようやくその糸口が見えてきたような気がする。
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森田童子と『血の歌』

9784620327198.jpg 『血の歌』は、作詞家でもある なかにし礼の小説で、没後に発表された。
薄い本なので、2度読んだが、2度めは森田童子のカセットテープ(筆者自作ベスト盤、mp3化したもの)を聴きながら読んだ。森田童子は、なかにしより少し早く亡くなったらしい。
 小説には森田童子と思われる謎の歌手のことも書かれ、なかにし礼の兄の娘であるという。謎の歌手といっても、少しは実像がわかったほうが良いこともあるだろう。

 その父というのは、満州で成功した実業家の息子で、アコーディオンでタンゴを奏でたり、東京の大学生としてはダンスホールで遊びなれたお坊ちゃんだったが、大戦末期に軍にとられて飛行機乗りとなり、1年で終戦を迎え、父を亡くしてからは事業は失敗の連続だったらしい。彼の指は自己流でピアノも奏で、そこから聞えてくるタンゴの甘く切ないメロディーは女性たちをとりこにするものであったらしく、死ぬまで夢を追い続けた借金王でもあったのだろう。
 日本に入ったタンゴはヨーロッパ経由のものが多いが、弟のなかにし礼は、学生時代にシャンソンの訳詞などをしていて、1965年に「知りたくないの」という歌の訳詞で大ヒットとなり、売れっ子作詞家となった人である。なかにし礼が売れっ子になったころ、広い屋敷を建て兄弟2家族同居の時代があったらしい。森田童子が中学生から高校生のころと思われる。森田童子のデビューの前年の1974年も兄弟は毎日顔を合わせていたと小説にあるが、それと矛盾する表現もある(1974年は兄弟で芸能プロをを始めたころなので矛盾ではない。巳年生れなど年次はかなり正確)。

 森田童子の歌に出てくる、男の「弱虫」、「ダメになった僕」の原型は父のことでもあったようなのだ。でなければ、あれだけのいたわりややさしさを表現できないだろうし、同時に父への惜別の意味もあるのだろう。
 歌詞はよく聞くと、男子どうしの友情のようなものを歌ったものが多い。センチメンタルな内容とあいまってBLのハシリにも見えてしまうが、それはともかく、聞く側は、森田童子という芸名が性別不明であるように、性別のない愛の歌として聴いたはずだし、声は女声なので男女の愛の歌を翻案した歌として聞いたろう。今後も同様だろう。「ぼく」とは女のことかもしれない。あるいは女性の視線から、男子の弱いホンネをいたわりをこめてダイレクトな言葉で表現したようにも聞えた。男子にはここまで自分の弱さをさらすことはできない。

 森田童子がデビューした1970年代の後半は、ラジオの深夜放送などでよく聴くことがあった。歌が聞え始めると、手を止めて聞き入ってしまう。終ったあとも、静寂につつまれたまま、しばらく頭が空っぽになるような歌だった。当時松任谷由実氏も番組を持っていて、曲を流したあと2〜3秒無言で、溜め息まじりに「いい歌ですね」と短くコメントして次の話を進めていたような記憶がある。

 前述のベスト盤は、80年代の中ごろ、廉価盤で再発売されたアルバムのLP3枚を買えるようになったので(それ以前の私は輸入盤のシャンソンやタンゴのほうが重要だった、森田より年少だが)、その3枚からカセットで作ったものである。アルバムカバーのデザインは、あまり良いものはない。ダイレクトな歌詞のその一部だけ切り出した言葉なら、全体の歌詞を負い続けるが、その単語だけ切り放してデザイナーの私的イメージに任せすぎたのだろうか(崩れ落ちる十字架や、一羽の鳩の絵だとか)。欲しくなるようなデザインのものが一つもない。あるいは映像化を拒む歌なのかもしれないが。
 ベスト盤の中に、「雨のクロール」という曲があり、これは森田童子が好んだというつげ義春の漫画「海辺の叙景」をヒントに作られた歌だということを思い出した。ネットで森田童子を調べると、筆者が知らないでもない劇画家二人や劇画雑誌元編集長の記事などが検索上位に出る。今後の再発売の際は、CDカバーのデザインに、つげ義春の絵を使ってはどうだろうか。

 自作ベスト盤の最初の3曲は、「僕たちの失敗」「僕と観光バスに乗ってみませんか」「早春にて」。気になる曲として選んだのだと思う。

 「早春にて」はワルツテンポの曲だが、曲の最後のほうにジェット機の音が入っていた。軍隊で練習機を墜落させてしまった森田の父を連想してしまった。親友が故郷へ帰る歌詞なので、飛行機で帰ったと解釈したアレンジなのだろうけれど。

 「僕と観光バスに」は、「雨のクロール」と同様の8分の6拍子の弾むような曲で、(君と今夜が最後なら……)「Do you wanna ダンスで昔みたいに浮かれてみたい」という歌詞が気になっていたのかもしれない。弾むような曲は、ラテンのダンス音楽に近く、タンゴのイメージなのかもしれない。
 「雨のクロール」もそうだが、二人は今日別れるという歌が多い(なかにし礼にも「今日でお別れ」があるが?)。あるいは別の歌で、やがて時が癒してくれるだろうと歌うことも多いような気もする。普通の抒情歌は、全てを過去の美しい思い出に昇華して歌うのだが、森田童子の歌は、常に青春まっただ中に身を置いて、見えない未来に語りかけているようなのだ。

 「僕たちの失敗」は、「さよなら僕の友だち」とともに代表曲のように知られている。4拍子のリズムだが、3拍子に変えて口ずさんでみると、ダンス音楽になる。3拍子にすると、少し似ている曲を思い出した。シャンソンの「聞かせてよ愛の言葉を」である。「さよなら僕の友だち」も同様のリズムであり、これらをふくめると、ほとんどの曲が3拍子か8分の6拍子になる。
 古いシャンソンには、発売禁止(自殺幇助のような理由で)になった「暗い日曜日」という、暗い歌もある。日本人の心性に虚無への衝動があるというのは本当かもしれない。
 音楽史における森田童子の系譜上の位置が垣間見えたとしたら、この小説のおかげだろう。

★これを書いた二日後に、BS放送で近松門左衛門原作の心中物の映画『鑓の権三』(岩下志麻主演)を見たが、ななかなの映像美であり、昔から日本人の好む心中物というのがあることを痛感した。映画では言い訳のようなセリフは少なくして映像美で見せるのが良いようである。森田童子も新しい音楽というより綺麗なメロディと声が重要なのだろう。
★古いタンゴには劇中歌のような歌詞が多いと聞いたが、古いシャンソンも同様で、大衆歌謡とは、近代的個人の自己表現ではなく、劇中歌の形式が始りであろう。森田の歌詞はその要素を残していて、劇画漫画関係者でファンが多いというのは、物語のセリフの言葉に近いものがあるためであろう。映画演劇のセリフは演者の肉声と不可分になってしまうが、劇画漫画はそうではないところがあるだろう。
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誰袖草

誰袖草
久しぶりに小説を読んだ。中里恒子の『誰袖草(たがそでそう)』。
「読んでみたいと思っていた小説の条件」を、いくつか満たしていた。

条件の1つは、古典の本歌取りのようなところ。
誰袖草とは、古今集の「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」という歌にちなむ名前の植物らしい。匂い袋のことを誰袖ともいうとのこと。
そして、中将姫伝説を追いかけるような物語になっていて、折口信夫の『死者の書』の話も出てくる。

2つめには、明治大正時代の人たちの生活慣習の一部にリアリティがあったこと。大店の女性たちの生活の一部に限ってのことではあるが。

3つめには、夫が愛人を妊娠させ、生れてくる子を妻の実子として全てをとりつくろうというトリッキーな計画があり、どのように運ぶのだろうと詳細を注目して読んだ。しかし流産やら関東大震災の直撃やらで、偽装する必要はなくなるのであるが。

突然の大震災の話には、読んでいて困惑。人物たちは日を追って立ち直ってゆくのだが、読み手にはまだ30分程度しか経過せず、読むのを中断して、続きは明日読もうということになった。

同じ本に、『置き文』という中編も収録。
こちらは舞台は隠岐で、隠岐へ流された後鳥羽上皇の話や、御製歌などが多く出てくる。
隠岐へ嫁いで、娘を設けた女性が、20年後に娘へ宛てた置き文を残して家出をする。
母の名はアキ(飽き?)で、娘の名はユキ。
島を訪れた植物学者の男に、娘は初恋ともいえない憧れを抱いていたが、母は年下のその男と逃げたのである。
男はキノコなどを研究する学者。20年に一度だけこの世のどこかに発生するキノコがあるという。それは毒キノコなのかどうかはわからないが、20年後の母の恋にもかさなる。
本の一作目が誰袖草という植物の名前なので、この小説の題名もキノコの名前にしたらどうだろうと思ったが、毒々しくてもいけないのかもしれない。
母が島を脱出するときは、周囲に気づかれないトリッキーな方法で行なっている。この方法なら自然に成功するのだろうと思えたが、前作のような自分が生んでいない子を生んだことにするようなこと……というのは江戸時代なら周囲が事情を察してその件は口を閉ざせばよいだけの話かもしれないが、明治大正期では、「誰袖草」で途中まで試みられたようなこともあったのであろう。
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谷崎夫人と丸谷夫人

丸谷才一と、谷崎潤一郎夫人、松子さんの対談(『文学ときどき酒』に収録)を読んでいたら、次のような部分が、目に入った。

「丸谷 『倚松庵の夢』という奥様の随筆集を拝見しましてね。およそあれほど初期の谷崎潤一郎の文章----つまり、主語がきちんとあって目的語があって、述語は何を受けているか、副詞はどこにかかるかがきちっとしている英文和訳みたいな文章ですよね。そういう文章と全く違う文章を、明治維新以後の日本に求めるならば、これは奥様の文体だろうと思いました。(中略)それで奥様の恋文の影響で、谷崎潤一郎は『文章読本』を書いた、というのがぼくの仮説なんです。」

それで、ピンとくるものがあったので、丸谷才一夫人、演劇評論家の根村絢子さんの文章を探して、現代演劇協会機関誌『雲』第5号(昭和39年11月)に掲載の「翻訳劇の落し穴」を読んでみた。
ある一つのセンテンスの中の、文末というか、句点(。)の直前を書き出してみよう。

  結構だと思う。
  のはどういうわけだろう。
  ような気がするのです。
  なのじゃないかしら。
  どうして後廻しにされているのか。
  を否定するのはいい。
  のはずです。
  ではないでしょう。

ますです調と、である(言切り)調に、口語的な「かしら」が混ざり、丸谷さんのエッセイに良く似ていますね。言切りはあっても「である」がないのは、女性らしい柔らかい感じ。
末尾の2文字が同じものは「です」が2つあるだけで、3文字まで見れば、同じものは一つもない。
探して見つけた文章は、予想通りの文章ではあったのだが……?
kumo
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「老い」について

「老い」についての短い随筆を集めた本があったので、拾い読みしてみた。
(作品社『日本の名随筆 34 老』)

作家そのほか沢山の人のエッセイなどが収録されているが、どれから読むべきか。やはり今までに好感をもって読んだことのある著者のものということになる。

吉行淳之介「年齢について」
七十幾歳の男女の恋愛の実例の話が出てくる。著者の知人の七十幾歳の女性から聞いた話で、逢引きの様子などを、微笑ましく綴っている。このように人は老いても変らない情熱を持ち続けることができるのだから、実際にそういう行動をとるかは別に、一般的に、老いを悲観することはないということらしい。そんな噂話に熱中する年配女性についても微笑ましく描いている。

山本健吉「ちかごろの感想」
シリアスな話だった。
「老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。」という書き出しで、重い話が続く。
確かにそういう面はあると思う。そういう「心の錯乱」は、常に抑えられ鎮められているのだろう。そして心はどのように対応したら良いのかという、実利的な結論を期待してしまったのだが、途中から万葉歌人の山上憶良の話になる。「老い」をテーマに書いたというのではなく、憶良についての解説を依頼されて執筆された小文の冒頭が、上記のようになったということだろう。

團伊玖磨「義歯」
 総入れ歯を飲み込んでしまった老人の話。すぐに医者に駆け込むと、医者は平然として、日数はかかるが一週間か十日で出てくるでしょう、心配はいらないという。その通りになったらしい。慌てず騒がずが良いのだろう。 ちなみに小さな差し歯なら、一日か二日で出てくると思う。

次に読もうと思ったのは石川淳だが、永井荷風の死にあたっての追悼の文章のようで、荷風についての文学論が主題と思われ、いったん本を閉ぢた。
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「坊ちゃん」の実母、そして丸谷才一

昨年秋、丸谷才一の『星のあひびき』といふエッセイ集(文庫判)を読んだら、「『坊ちゃん』のこと」といふ4ページのエッセイがあり、何かにつけ坊ちゃんを可愛がり援助しようとする清(きよ)といふ女中は、坊ちゃんの実母であらうといふ。
「やっぱりそうか」といふ思ひ。この「やっぱり」とは、かねて自分がさう思ってゐたわけではないのだが、「やっぱり」と表現するしかないやうな、どこかでさうなるべくして到達した認識に違ひないといふ感覚である。

丸谷氏は、清が実母であることを証明する手間は簡単に済ませ、なぜ今までこのことに気づかなかったのだらうと、その原因について筆を進めてゆく。

父と清の間に生れた坊ちゃんは、家の体面を重んじて母の戸籍上の実子として育てられたわけだが、昔はありそうなことである。

大塚英志『捨て子たちの民俗学』によると、柳田国男や小泉八雲にも、自分は一種の「捨て子」だといふ意識があり、それが学問の大きな動機になってゐたといふ。折口信夫も然りであらう。
沢山美果子『江戸の捨て子たち』は、江戸時代の捨て子をケアする村のしくみなどについて、実証的に研究した本である。
他にもいくつか同類の本を読んでゐた。

私自身は、江戸中期以後の村々の人口が固定していった時代の二男三男たちは、一種の「捨て子」となって、都市の町人文化を成立させたのだと思ってゐた。「二男以下の者たちが皆非人になった」といふ司馬遼太郎の言葉も、意識から離れない。明治時代の徴兵制では、親の扶養義務のある長男は金納によって兵役を免れたが、二男以下は徴兵に取られ、戦死する者もあった。靖国神社は、長男が二男以下を祀るかたちで国民に定着していったのではないか。鎮魂によって二男以下は故郷にもどり、長男は意識の上で故郷を捨てるのだろう。これらは全て一連の「捨て子」たちであり、神話時代の須佐之男命以来の、さすらふ文学のことであり、日本文化のことでもあるのだらう、そんなことを考へてゐた。

丸谷氏のエッセイに書かれてゐた三浦雅士『出生の秘密』を読み始めてみたが、文芸評論の本に不慣れで、分厚い本だといふこともあり、途中で読むのをやめてしまったが、その本でふれられてゐた『樹影譚』といふ丸谷才一の小説を読んだ。これは、ある小説家の前にある日突然謎の老女が現はれ、私はあなたの実母なのだと名のり出る話。

河出書房『文芸別冊・丸谷才一』の三浦雅士氏によると、
丸谷氏がいふには「折口信夫を一言でいへば、……自分の本当の父親は違ふんぢゃないか、本当の母親は違ふんぢゃないかといふ幻想が膨らんだ、それであれだけ書いた人」、といふことらしい。通俗的な一面をとらへて何か核心をついてゐるやうな指摘が丸谷氏らしいのだらう。

丸谷氏の小説『横しぐれ』も読んでみた。
産婦人科医の父の、生前唯一の長期旅行だった四国道後温泉の旅で出会った男は、種田山頭火ではないか、それを推理してゆくストーリーである。結局単純な年代の思ひ違ひが原因で、その説は否定されるのだが、最後に父のそのときの旅の理由が明らかにされる。父は過去の愛人であった女性の堕胎手術に失敗してその女性を死なせて事件となり、その沈鬱な心理状態を救はうと父の友人が誘った旅であった。堕胎手術の10年前に父と愛人との関係は解消してゐた。事件当時、主人公は中学一年生なので13歳。愛人との交際が4年以上だったとすると、主人公が生れた時期に愛人関係だったことになり、まさか主人公はこの愛人の子ではあるまいか、などと思った。そこで最後の何ページかを再読することになる。
事件当時、母が自殺するのではないかと周囲が心配した。愛人の発覚がそれほどショックなら、愛人の存在を知ったのはそのときが初めてであり、夫の愛人の子を戸籍上の実子として育てたとは認めがたい。しかし周囲が心配しただけで実際の母の行動は明らかではない。
女性は愛人関係だったころ既に若い未亡人だった。実母であるなら、小説ではやはりどこかで実子のことを気づかったり意識してゐることを匂はす描写があると思ふので、それがないところをみると、物語の上では、やはり愛人は実母ではないのだらう。
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高橋泥舟

高橋泥舟「幕末の三舟」とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のことだが、高橋泥舟はあまり表立ったことは好まなかったらしい。
事典で見た肖像は二枚目役者のような優しい面立ちだったが、終生武道(槍術)を愛し、書にも力強いものがある。
画像の書には、

 法眼看軽薄 (法眼は軽薄を看)
 虚情任屈伸 (虚情は屈伸に任す)

と書かれてある。
「法眼」とは仏教用語でもあるが、ここでは成熟してある領域に達した知識といった意味だろうと思う。法眼は軽薄を看破するという。そうだろう。
「屈伸」とはたぶん、ペコペコ頭を下げたり、ふんぞりかえったりするような「屈伸」のことで、「虚情」とはそんなことしかできないのだという。その通りだろう。
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『別冊太陽・宮本常一』

先月発売の『別冊太陽』は、「宮本常一 生誕100年記念」ということだった。
むかし古書店で手に入れた平凡社の『風土記日本』(宮本常一編集)というシリーズは、よく読んだもので、ホームページの「歌語り風土記」でもよく参考にした。
青森県のの話や、飛騨の匠の話、そして広島県の能地の浮き鯛のページの最後の1行は『風土記日本』を参考にした。(どれも叙述内容が短かすぎて物足りないのは、300ページの印刷物に押しこめる予定で書き上げたせいである。)

その最後の1行には、船を家として生活していた漁民たちのことにふれてある。彼らが「平家の落人」だというのは後世の付会だろうが、そんな説明を加えなくても、「船上生活」の人たちは日本中にたくさんいたようで、昭和30年代のNHKテレビの少年ドラマ(題名はポンポン大将だったか)でも、東京の下町で船を家として生活する家族が描かれていた。それほど古い時代のことではない。

日本人の住宅が、床の高い構造をしているのは、もともと船の上で生活していた長い歴史の名残りではないかと、宮本常一氏はいう。そうなのかもしれない。氏の出身は山口県の瀬戸内の周防大島で、瀬戸内での生活実感からの言葉でもあるのだろう。

船の家というのも、懐かしい風景である。
日本の八百万の神さまは、それぞれのお社に御神体をお持ちだが、御神体を納める器のようなものを「御船代(みふなしろ)」という場合がある。「船の代り」でもあるが、船の形をしているものもあるらしい。神々の住まいであることは、人の遠い先祖の住まいだったのかもしれない。

 いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟   高市黒人

有名な万葉歌だが、「棚無し小舟」の解釈が通説では合理的すぎるような気がしている。

さて「能地の浮き鯛」といえば、広島大学の生物学者、長沼毅氏のことが思い出されるが、最近NHKテレビの「プロフェッショナル」という番組の特集に登場され、25日の再放送を見ることができた。「生物学界のインディ・ジョーンズ」とも言われているらしく、注目の人であることは間違いない。
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日本地図

日本地図社会科の地図帳は小学生のころからよく眺めていたものだが、最近はパソコンで見る地図が便利そうにみえる。
ところがパソコンの地図は、検索できるのは、人の住む住所や公共建物・レジャー施設ばかりで、自然の山や川などの名前を検索しようとしても、できない。
ネットのMapFanで岩手県宮古市の「とどヶ崎」を検索したら、ユーザー情報として、どなたかが登録した内容が表示されたが、これは例外のようだ。ちなみに「とどヶ崎」の「とど」は「魚へんに毛」と書く。

そういうときは、やはり地図帳が役に立つ。
画像は、国際地学協会発行の『日本地図』。巻末の索引に、山や川や島などの名前7000余りが掲載されている。ただし、例えば島の名前で、「○○島」という見出しの「○○」の読み方は載せているが、「島」の読み方は省いてある。シマ、ジマ、トウ……、どう読むのかわからないのだが、おそらく索引を作った人もわからなかったのだろう。
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