谷崎夫人と丸谷夫人

丸谷才一と、谷崎潤一郎夫人、松子さんの対談(『文学ときどき酒』に収録)を読んでいたら、次のような部分が、目に入った。

「丸谷 『倚松庵の夢』という奥様の随筆集を拝見しましてね。およそあれほど初期の谷崎潤一郎の文章----つまり、主語がきちんとあって目的語があって、述語は何を受けているか、副詞はどこにかかるかがきちっとしている英文和訳みたいな文章ですよね。そういう文章と全く違う文章を、明治維新以後の日本に求めるならば、これは奥様の文体だろうと思いました。(中略)それで奥様の恋文の影響で、谷崎潤一郎は『文章読本』を書いた、というのがぼくの仮説なんです。」

それで、ピンとくるものがあったので、丸谷才一夫人、演劇評論家の根村絢子さんの文章を探して、現代演劇協会機関誌『雲』第5号(昭和39年11月)に掲載の「翻訳劇の落し穴」を読んでみた。
ある一つのセンテンスの中の、文末というか、句点(。)の直前を書き出してみよう。

  結構だと思う。
  のはどういうわけだろう。
  ような気がするのです。
  なのじゃないかしら。
  どうして後廻しにされているのか。
  を否定するのはいい。
  のはずです。
  ではないでしょう。

ますです調と、である(言切り)調に、口語的な「かしら」が混ざり、丸谷さんのエッセイに良く似ていますね。言切りはあっても「である」がないのは、女性らしい柔らかい感じ。
末尾の2文字が同じものは「です」が2つあるだけで、3文字まで見れば、同じものは一つもない。
探して見つけた文章は、予想通りの文章ではあったのだが……?
kumo
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「老い」について

「老い」についての短い随筆を集めた本があったので、拾い読みしてみた。
(作品社『日本の名随筆 34 老』)

作家そのほか沢山の人のエッセイなどが収録されているが、どれから読むべきか。やはり今までに好感をもって読んだことのある著者のものということになる。

吉行淳之介「年齢について」
七十幾歳の男女の恋愛の実例の話が出てくる。著者の知人の七十幾歳の女性から聞いた話で、逢引きの様子などを、微笑ましく綴っている。このように人は老いても変らない情熱を持ち続けることができるのだから、実際にそういう行動をとるかは別に、一般的に、老いを悲観することはないということらしい。そんな噂話に熱中する年配女性についても微笑ましく描いている。

山本健吉「ちかごろの感想」
シリアスな話だった。
「老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。」という書き出しで、重い話が続く。
確かにそういう面はあると思う。そういう「心の錯乱」は、常に抑えられ鎮められているのだろう。そして心はどのように対応したら良いのかという、実利的な結論を期待してしまったのだが、途中から万葉歌人の山上憶良の話になる。「老い」をテーマに書いたというのではなく、憶良についての解説を依頼されて執筆された小文の冒頭が、上記のようになったということだろう。

團伊玖磨「義歯」
 総入れ歯を飲み込んでしまった老人の話。すぐに医者に駆け込むと、医者は平然として、日数はかかるが一週間か十日で出てくるでしょう、心配はいらないという。その通りになったらしい。慌てず騒がずが良いのだろう。 ちなみに小さな差し歯なら、一日か二日で出てくると思う。

次に読もうと思ったのは石川淳だが、永井荷風の死にあたっての追悼の文章のようで、荷風についての文学論が主題と思われ、いったん本を閉ぢた。
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「坊ちゃん」の実母、そして丸谷才一

昨年秋、丸谷才一の『星のあひびき』といふエッセイ集(文庫判)を読んだら、「『坊ちゃん』のこと」といふ4ページのエッセイがあり、何かにつけ坊ちゃんを可愛がり援助しようとする清(きよ)といふ女中は、坊ちゃんの実母であらうといふ。
「やっぱりそうか」といふ思ひ。この「やっぱり」とは、かねて自分がさう思ってゐたわけではないのだが、「やっぱり」と表現するしかないやうな、どこかでさうなるべくして到達した認識に違ひないといふ感覚である。

丸谷氏は、清が実母であることを証明する手間は簡単に済ませ、なぜ今までこのことに気づかなかったのだらうと、その原因について筆を進めてゆく。

父と清の間に生れた坊ちゃんは、家の体面を重んじて母の戸籍上の実子として育てられたわけだが、昔はありそうなことである。

大塚英志『捨て子たちの民俗学』によると、柳田国男や小泉八雲にも、自分は一種の「捨て子」だといふ意識があり、それが学問の大きな動機になってゐたといふ。折口信夫も然りであらう。
沢山美果子『江戸の捨て子たち』は、江戸時代の捨て子をケアする村のしくみなどについて、実証的に研究した本である。
他にもいくつか同類の本を読んでゐた。

私自身は、江戸中期以後の村々の人口が固定していった時代の二男三男たちは、一種の「捨て子」となって、都市の町人文化を成立させたのだと思ってゐた。「二男以下の者たちが皆非人になった」といふ司馬遼太郎の言葉も、意識から離れない。明治時代の徴兵制では、親の扶養義務のある長男は金納によって兵役を免れたが、二男以下は徴兵に取られ、戦死する者もあった。靖国神社は、長男が二男以下を祀るかたちで国民に定着していったのではないか。鎮魂によって二男以下は故郷にもどり、長男は意識の上で故郷を捨てるのだろう。これらは全て一連の「捨て子」たちであり、神話時代の須佐之男命以来の、さすらふ文学のことであり、日本文化のことでもあるのだらう、そんなことを考へてゐた。

丸谷氏のエッセイに書かれてゐた三浦雅士『出生の秘密』を読み始めてみたが、文芸評論の本に不慣れで、分厚い本だといふこともあり、途中で読むのをやめてしまったが、その本でふれられてゐた『樹影譚』といふ丸谷才一の小説を読んだ。これは、ある小説家の前にある日突然謎の老女が現はれ、私はあなたの実母なのだと名のり出る話。

河出書房『文芸別冊・丸谷才一』の三浦雅士氏によると、
丸谷氏がいふには「折口信夫を一言でいへば、……自分の本当の父親は違ふんぢゃないか、本当の母親は違ふんぢゃないかといふ幻想が膨らんだ、それであれだけ書いた人」、といふことらしい。通俗的な一面をとらへて何か核心をついてゐるやうな指摘が丸谷氏らしいのだらう。

丸谷氏の小説『横しぐれ』も読んでみた。
産婦人科医の父の、生前唯一の長期旅行だった四国道後温泉の旅で出会った男は、種田山頭火ではないか、それを推理してゆくストーリーである。結局単純な年代の思ひ違ひが原因で、その説は否定されるのだが、最後に父のそのときの旅の理由が明らかにされる。父は過去の愛人であった女性の堕胎手術に失敗してその女性を死なせて事件となり、その沈鬱な心理状態を救はうと父の友人が誘った旅であった。堕胎手術の10年前に父と愛人との関係は解消してゐた。事件当時、主人公は中学一年生なので13歳。愛人との交際が4年以上だったとすると、主人公が生れた時期に愛人関係だったことになり、まさか主人公はこの愛人の子ではあるまいか、などと思った。そこで最後の何ページかを再読することになる。
事件当時、母が自殺するのではないかと周囲が心配した。愛人の発覚がそれほどショックなら、愛人の存在を知ったのはそのときが初めてであり、夫の愛人の子を戸籍上の実子として育てたとは認めがたい。しかし周囲が心配しただけで実際の母の行動は明らかではない。
女性は愛人関係だったころ既に若い未亡人だった。実母であるなら、小説ではやはりどこかで実子のことを気づかったり意識してゐることを匂はす描写があると思ふので、それがないところをみると、物語の上では、やはり愛人は実母ではないのだらう。
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『大岡仁政録』を読む

江戸時代の『大岡仁政録』(白子屋庄三郎一件)の古い写本があったので読んでみると、罪と罰についての考え方の時代による変遷の一端が垣間見えて興味深い。

「白子屋庄三郎一件」の話はこうである。
江戸でも中規模の店を構える白子屋の庄三郎は大変な働き者だった。しかし妻のお常は、派手好きで享楽にばかりふける不道徳者だった。お常は先代の娘で庄三郎は婿である。娘のお熊には又七という聟をとったが、聟の持参金を遊興に使おうという母お常の思惑からであった。母は髪結いの男を間男にしていたが、娘も店の手代とできていて、母娘で道楽三昧であった。
やがてお常は遊ぶ金がなくなると、日頃世話になっている店の旦那に借金の相談に行ったが、お常の遊び癖は既に知られており、説教されて、店は聟夫婦に任せてお常夫婦は隠居するように意見された。
だがお常は逆に聟は追い出そうと計略をはかり、毒殺を試みたりもした。さらに、婿の持参金を返さずに離縁する方策として、下女をだましてカミソリを持たせて聟を襲わせ、婿と下女の不貞による心中未遂をでっちあげようとした。だが失敗して御用となる。

 大岡越前守の裁定はこうである。
 娘お熊 密夫 殺人共謀などにより 引廻し・獄門
 手代  密通と五百両の盗みなどにより 引廻し・獄門(髪結も同じ)
 下女  主人への殺人未遂により 死罪
 お常  養子への殺人教唆により 遠島
 当主庄三郎 監督不行届きにより 江戸追放

なかなか重い罰であるが、当時は罰則については厳しいものがあった。現代では罰則は軽く、特に役人による不正に対する罪があまりに軽すぎると思うがそれは余談である。

さて、気になるのは重い罰が多い中に、お常の罪が比較的軽いという点である。元はといえばこの女が一番悪いような気もする。
しかしよく考えてmると、おそらくこういうことだろう。つまり、お常は仮にも被害者の養母だからということである。
すなわち、処罰するということは、被害者から見れば報復なり仇討ちのようなものであって、それを公権力が代行するにも等しいのだというような意識が、当時は強かった。お常が死罪となれば、養子が養母を殺すに等しいということになり、「親殺し」になるので、それは避けたいという意識なのだろう。とくに処罰する側の武士の、親や主君に対する意識では、そうなるのである。
そそのかされたにすぎない下女が死罪となるのは、「主君への謀反」のようなものだからであろう。

お常、お熊のように、代々娘が婿をとるのは、江戸時代の商家では普通のことである。庄三郎は元は先代の番頭だった。
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高橋泥舟

高橋泥舟「幕末の三舟」とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟のことだが、高橋泥舟はあまり表立ったことは好まなかったらしい。
事典で見た肖像は二枚目役者のような優しい面立ちだったが、終生武道(槍術)を愛し、書にも力強いものがある。
画像の書には、

 法眼看軽薄 (法眼は軽薄を看)
 虚情任屈伸 (虚情は屈伸に任す)

と書かれてある。
「法眼」とは仏教用語でもあるが、ここでは成熟してある領域に達した知識といった意味だろうと思う。法眼は軽薄を看破するという。そうだろう。
「屈伸」とはたぶん、ペコペコ頭を下げたり、ふんぞりかえったりするような「屈伸」のことで、「虚情」とはそんなことしかできないのだという。その通りだろう。
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『別冊太陽・宮本常一』

先月発売の『別冊太陽』は、「宮本常一 生誕100年記念」ということだった。
むかし古書店で手に入れた平凡社の『風土記日本』(宮本常一編集)というシリーズは、よく読んだもので、ホームページの「歌語り風土記」でもよく参考にした。
青森県のの話や、飛騨の匠の話、そして広島県の能地の浮き鯛のページの最後の1行は『風土記日本』を参考にした。(どれも叙述内容が短かすぎて物足りないのは、300ページの印刷物に押しこめる予定で書き上げたせいである。)

その最後の1行には、船を家として生活していた漁民たちのことにふれてある。彼らが「平家の落人」だというのは後世の付会だろうが、そんな説明を加えなくても、「船上生活」の人たちは日本中にたくさんいたようで、昭和30年代のNHKテレビの少年ドラマ(題名はポンポン大将だったか)でも、東京の下町で船を家として生活する家族が描かれていた。それほど古い時代のことではない。

日本人の住宅が、床の高い構造をしているのは、もともと船の上で生活していた長い歴史の名残りではないかと、宮本常一氏はいう。そうなのかもしれない。氏の出身は山口県の瀬戸内の周防大島で、瀬戸内での生活実感からの言葉でもあるのだろう。

船の家というのも、懐かしい風景である。
日本の八百万の神さまは、それぞれのお社に御神体をお持ちだが、御神体を納める器のようなものを「御船代(みふなしろ)」という場合がある。「船の代り」でもあるが、船の形をしているものもあるらしい。神々の住まいであることは、人の遠い先祖の住まいだったのかもしれない。

 いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無し小舟   高市黒人

有名な万葉歌だが、「棚無し小舟」の解釈が通説では合理的すぎるような気がしている。

さて「能地の浮き鯛」といえば、広島大学の生物学者、長沼毅氏のことが思い出されるが、最近NHKテレビの「プロフェッショナル」という番組の特集に登場され、25日の再放送を見ることができた。「生物学界のインディ・ジョーンズ」とも言われているらしく、注目の人であることは間違いない。
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日本地図

日本地図社会科の地図帳は小学生のころからよく眺めていたものだが、最近はパソコンで見る地図が便利そうにみえる。
ところがパソコンの地図は、検索できるのは、人の住む住所や公共建物・レジャー施設ばかりで、自然の山や川などの名前を検索しようとしても、できない。
ネットのMapFanで岩手県宮古市の「とどヶ崎」を検索したら、ユーザー情報として、どなたかが登録した内容が表示されたが、これは例外のようだ。ちなみに「とどヶ崎」の「とど」は「魚へんに毛」と書く。

そういうときは、やはり地図帳が役に立つ。
画像は、国際地学協会発行の『日本地図』。巻末の索引に、山や川や島などの名前7000余りが掲載されている。ただし、例えば島の名前で、「○○島」という見出しの「○○」の読み方は載せているが、「島」の読み方は省いてある。シマ、ジマ、トウ……、どう読むのかわからないのだが、おそらく索引を作った人もわからなかったのだろう。
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『ツクヨミ・秘された神』

ツクヨミ・秘された神日本の月や星の神様のことはこのブログでもとりあげてきたが、古事記などに登場する月の神さまのツクヨミノミコト(月読命)は、一種謎にみちた神であり、現代人の関心をさそう神である。

戸矢学著『ツクヨミ・秘された神』(河出書房新社)は3月の発行だが、興味をわかせる記述も多い本である。
古事記において三貴子と呼ばれる、天照大御神、月読命、須佐之男命の三柱の神は、それぞれ対等の姉弟のようでもあるが、なぜか月読命だけが事跡や物語を多く持っていない。一方で三種の神器に数えられる鏡・勾玉・草薙剣のうち、鏡は天照大御神に、剣は須佐之男命に縁のあるものだが、勾玉が不明である。勾玉と月読命の関係をめぐって、話が進んでいくわけである。
アマゾン ツクヨミ・秘された神

ところで江戸時代の国学者・平田篤胤は月読命は須佐之男命と同一神だとしたのだが、幕末の地方の知識層には平田国学の影響がかなり大きかったらしく、それ以前の月読命の存在が須佐之男命の名のもとに習合されてしまった可能性のことを考えてみたいと思ったことはあるのだが、なかなか難しいものである。
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消費儀礼について

対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』の中の歴史学者の網野義彦氏の発言についての若干の疑問について。
近世の農民の割合が8割以上だというのはウソ、というのはその通りなのだろう。牧畜や養蚕は農業ではない。果樹栽培も農業ではないという。しかし藁の加工品も作らず全く田畑だけで働く人だけとなると、純農民というのはほとんどいなくなってしまうのではないだろうか。よくわからないが、米で年貢を納めた人は農民なのだろうか。
行政的に村という呼称でも実際は都市であることも多い、というのもその通りだろう。

国民の主食として米があまねく行き渡ったのは戦後のことだという。確かに昭和10年以前生まれの畑作地帯の人の実際の話を聞くと、それに近い話を聞く。米は主食としては重要ではなかったという。江戸時代は長屋の住人でも米を食べたというのは、都市民だからだなのだという。(以上『歴史の中で語られてこなかったこと』の話)

しかしここで疑問が湧いてしまう。実際の農民はそれほど数は多くなく、都市民が多かったというなら、米を主食にしていたのは都市民だけにすぎなかった(少なかった)、というのでは理屈に合わない。都市民的な人が多ければ米の消費も多くなるはずである。
実際にどうだったかはよくわからない。確かなことは、江戸時代に日本で生産された米はほとんどすべて日本で消費された。そして大金持ちの商人だからといって胃袋が特別に大きいわけではない、ということである。米はハレの食物だというが、庶民生活では月待ちやら先祖の月命日やらでハレの日はいくらでも有り得たのではないだろうか。

日本では、稲の生産過程でさまざまな神事が行われた。豊作を祈り、人々や地域の安寧を願っての神祭りである。しかしこれらは単に生産に関するだけの祭だといって良いのだろうか。少なくとも新穀感謝の祭は、消費の始りの儀礼に間違いない。さらに生産儀礼のなかにも消費儀礼の要素を見てゆければ良いと思う。

というのは、平成以後のさまざまな社会問題の原因について、現代人は生まれながらの消費者としてこの世に現れるからだという指摘が多いからである。
ある商品を買うという行為においては、子どもも大人も金持もすべてが平等であり、それが子どもや若い人にとっては限りない解放感になり、全てを消費者の目でしか見えなくなってしまう。そういう意味で今の若者はお金にこだわるのであって拝金主義ということではないのだと内田樹氏は言う。消費者は生まれながらの「お客さま」であり、お客さまとして待遇されるべき権利があり、それが少しでも損われたと感じたときに現代人のトラブルが発生するのだと森真一氏は言う。
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寺請制度の直前

わが家にある最も古い位牌は、元禄年間の夫婦2柱で、柱の部分の観音開きを開いてみると、金箔の上の戒名が読めないことはない。お寺は数キロ離れた日蓮宗の寺によるものである。
その寺の僧が文化年間に前書を書いた過去帳には、月命日ごとに多数の戒名と没年が書かれるが、元禄以前の別の寺が関った戒名の脇には寺の名が記入される。室町時代の男子には、20キロほど離れた別の日蓮宗の寺が続き、同じ時代の女子の記録はない。江戸時代初期は、女子は全て近くの臨済宗の寺で、男子の一人も同じ寺だが、他の男子は日蓮宗の戒名と思われるが、室町時代からの寺のものと類似した命名である。室町時代初期の男子1名は臨済宗の寺である。

複雑に書いてしまったが、元禄以前はおおむね、男子と女子の寺が異なっていたような時代が長かった。大正時代の当主の書き残したものによると、室町時代に20キロ遠方から来た婿がそのように改宗したのではないかという。しかし室町時代に寺請制度があるわけではなく、男子と女子の寺が異なるのは、当時の時代には普通のことだったのではないかと、以前にある郷土史の小雑誌の投稿原稿の中にちらと書いたことがあったのだが、その内容が老母に不評だったのは、大正時代からの言い伝えなのでやむをえないのかもしれない。

宮田登氏が圭室文雄氏の研究を紹介しながら書いてあるものを読んでいたら、江戸時代初期の宗門人別帳は、お寺は個人ごとに別だった、家単位で一つの寺になったのは江戸中期以後だと書かれていた。江戸中期以後とは元禄以後のことだろう。「戸別帳」でなく人別帳というくらいなのだから、個人別という意味だったのだろうか。個人別といっても、その時代にはわが家では寺は2つだけでもあり、全くの個人ばらばらということでもなかったろうと思える。圭室・宮田両氏の共著『庶民信仰の幻想』は読んだことはあるが、この問題よりもキリシタンや日蓮宗不受不施派などのことが詳しく書いてあった(※)。

なぜ宗門人別帳が個人毎だったのかは、江戸初期といえども室町時代の続きなのだからだろうが、それ以上は不勉強である。寺請制度(檀家制度)の確立までは、政治の意向もあり一筋縄では行かなかったことは確かなのだろう。

(※蛇足 日蓮宗不受不施派の本拠地は岡山県にあったという。「神奈備にようこそ」の管理人さんが岡山県の江戸時代の資料で「神捨て場」のことが書かれていたといい、ある神社由緒資料で「淫祠」という語を検索したときも山陽地方が多かったのと、関係があるかもしれない。)
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