過去帳に記載の家族以外の人物

西川家過去帳 江戸の浮世絵師、鈴木春信は、今でも人気が高い絵師だが、京都の絵師の西川祐信の弟子であったことが、研究家の林美一氏によって証明されている。大きな根拠となったのが、西川家に伝わる過去帳に、鈴木春信の名前と戒名が書き入れられていることが発見されたからである(図版、林氏の著書より)。春信の命日は、明和七年六月十四日。西川祐信の優れた弟子でもあり、西川家とは家族同然の暮らしでもあった春信は、江戸で没したあと、西川家の過去帳にも記載され、月命日には他の西川家の先祖と同様に供養されたと思われる。

 さて我が家の過去帳にも、当家の者でない人の名が記載されている例が、いくつかある。古文書の本格的な整理を始めてから幾年かあとに、過去帳を見たときに気づいた名前がある。月命日は二十九日、享保六年(1721)五月に没した人の戒名の脇に「江戸蔵田源五右衛門妻」と書かれていた。(図版)
過去帳_蔵田
 蔵田源五右衛門とは、当村の領主だった旗本中野家の用人である。元禄十一年(1698)八月の検地の時の責任者であり、正徳三年(1713)の文書にも名前がある。
 過去帳には源五右衛門その人の名はなく、彼の妻が、当家の縁者であると見るべきだろう。
 元禄十一年の検地は、太閤検地以来の、江戸時代ではただ一回の大規模な検地だった。数日で完了できるものではなく、蔵田氏は長期にわたって当村に滞在したであろう。そのときに当家の娘を見初めたと考へるのが自然だらう。戒名も同じ法華宗のようである。妻の没した享保六年(1721)は、元禄十一年(1698)から23年後。20代前半で嫁いだとすれば、40代半ば、早い死であったのかもしれない。
 用人の給金は天保時代でも年五両しかなく、米代が別としても、年収では上層農民よりも低い。しかし、武士の身分であることを加味すると、対等の付き合いができる関係なのではなかろうか。

 他に、当家の過去帳の同じ二十九日には、「中田仁兵衛子」と書かれた戒名もある(図版)。他に「中田仁兵衛」「中田仁兵衛妻」が享保の頃にあり、別に「中田仁兵衛娘」もある。戒名の文字数が短いので、番頭夫婦かもしれない。苗字については、血族でないことを示すために出身の苗字を記すことはあるだらう。
 正徳の頃には「壽清院妙厚日理、江戸川崎善右衛門妻」といふ人もある。夫の「川崎善右衛門」、舅と思はれる「川崎先ノ善右衛門」、計三人の名がある。この「妻」も、当家の出身と思はれる。苗字の上に「江戸」とあるのは、先ほどの「江戸蔵田源五右衛門妻」と同じなのだが、領主の中野家には川崎氏はゐない。江戸の商家あたりかもしれない。
 前述の蔵田源五右衛門も、妻より先に没していたら、当家の過去帳に記載されたとも考えられる。
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