神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

江戸時代の飢饉は本当にあったか?


だいぶ前にどこかで読んだのだが、天保の飢饉といわれているものは都市部における単なる風評被害にすぎないものであると。たしか福島県あたりのどこかの村で若干の凶作があり、その話に尾ヒレがついて江戸に広まり、米の買い占めや売り惜しみに走るものがまたたくまに増えて米価が高騰し、江戸以外の都市部まで広がって、一部では米を買えない町人による打毀し事件まで起こったという話である。

地元の村の古文書で当時のことに関連する文書が一つだけあり、それは幕府からの村々への通達文書の写しである。同じものが埼玉県史資料編にも載っていた。内容は、村々に対して、米は当面必要な量だけを残しておいて残りは市場に出して売るように協力せよ、隠し持っていてはならぬ、ということである。都市部での売り惜しみに対しても同様の通達があったに違いない。それでも効果がなかったので、村々に通達したのだろう。このことからわかることは、村々には米がじゅうぶんあったということである。あるいは都市部の風評を聞いて、年貢米以外の自由売買予定の米を売り惜しんで溜めこんでいた農民もあったということである。
各地の膨大な村々の文書から天保の飢饉なるものが実際にあったことを証明することは困難であると書いた本も読んだことがあるが、書名は忘れた。

さて昨年末、石川英輔氏のNHKラジオ講座のテキスト(「世直し大江戸学」)を読んでみたら、岩手県で、天明のころの古文書等を再調査する過程で、南部藩における天明の飢饉は虚構であったことが証明されそうである。天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
大石大二郎氏によると、江戸時代というのは、それぞれの藩は独立国家のようなもので、幕府がその上に乗る連邦国家であった。したがって、南部藩のこの行いは、外交上の策略であって、組織内で上層部に虚偽の報告をするのとはわけが違い、必ずしも避難されるべきものでもないわけである。それは南部藩に限らない。無論ばれた場合はどうなったかはわからない。しかし、江戸時代を通じて、否、現代までも南部藩にはだまされ続けてしまったわけである。最近読んだちくま新書の本(民俗学の冒険シリーズ)で、山折哲雄氏の小論があり、南部藩における「天明の飢饉」での悲惨さが語られていたが、山折氏までだましてしまったのである。

規模は小さい話になるが、村々においても、上からの要請を断ったり負担の軽減を望むときは、「困窮至極の村にて」などといった決まり文句をよく使う。助郷免除願いの文書で「困窮至極」と書き、免除の代償として数10両もの大金を用意していたりする。要するに労役は村人がイヤがるので金納にしてくれということなのだが、どういうわけか「訴え」という性質の文書には「困窮至極」という言葉が決まり文句なのである。

小学館だったか最近の通史ものの本で、18世紀(江戸中期)は天災と飢饉の連続だったと書いてあった。しかし江戸中期といえば、内乱もなく、歴史上最も平和で安定した時代であり、人々もそこそこ豊かだった時代である。

最も平和でそこそこ豊かだった時代にだけ、「飢饉」が多発したことになっているのは何故か。
少なくともこの時期の「飢饉」については一つ一つ事実の裏づけを確かめる必要がありそうだ。

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