神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

新ブログ「倚松帖」


本年(2016)8月22日より
倚松帖 といふブログを始めました。 http://wishyou.nire.main.jp/


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螢の歌、3つ


ホタルについての歌、というより、最初のは都々逸だが・・・

 恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ螢が身をこがす

江戸時代のものだろうか。
恋のつらさにもいろいろあるが、蝉のように誰にもわかるように泣いて訴えることができるような恋なら、まだいい。螢のように、夜にひっそりと声も出さずに惑い耐え忍ぶ恋のほうが、悲しみも深くつらいものだ……
蛍の光に着目し、螢が自分の火でやけどをするかもしれない、という洒落やユーモアもある。

次に、平安時代の有名な歌。

 もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る 和泉式部

宵の闇の中をさまようように浮遊する螢。それは、恋に憧れて、我が身から飛び出ていった魂の姿に違いない。だから、行き場もなく飛び迷い、我が心は無心でもあり、空っぽで虚しくもある……
鳥は山の霊であるとか、死んだ人の霊であるとかの信仰があったが、虫も同様に人の霊などに見られることがある。蝶が眠っている人から出た魂に見られることもあったが、螢もそれに近いものがある。

以上の二つは、歌のプロによる技巧の歌という感があるが、次の近代の歌は、素朴な民俗をふまえたもの。

 その子らに捕へられんと母が魂、螢となりて夜を来るらし  窪田空穂

幼な子を残して死んだ母のことを歌ったものだろう。
夏の御魂祭りの季節に現われる螢は、人魂に近いものに感じられていたようだ。

(蛇足 「螢」は昔の字体のほうが螢らしい)
エッセイ風にもう少し長く書こうと思ったが、箇条書風になった。

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「坊ちゃん」の実母、そして丸谷才一


昨年秋、丸谷才一の『星のあひびき』といふエッセイ集(文庫判)を読んだら、「『坊ちゃん』のこと」といふ4ページのエッセイがあり、何かにつけ坊ちゃんを可愛がり援助しようとする清(きよ)といふ女中は、坊ちゃんの実母であらうといふ。
「やっぱりそうか」といふ思ひ。この「やっぱり」とは、かねて自分がさう思ってゐたわけではないのだが、「やっぱり」と表現するしかないやうな、どこかでさうなるべくして到達した認識に違ひないといふ感覚である。

丸谷氏は、清が実母であることを証明する手間は簡単に済ませ、なぜ今までこのことに気づかなかったのだらうと、その原因について筆を進めてゆく。

父と清の間に生れた坊ちゃんは、家の体面を重んじて母の実子として育てられたわけだが、昔はありそうなことである。

大塚英志『捨て子たちの民俗学』によると、柳田国男や小泉八雲にも、自分は一種の「捨て子」だといふ意識があり、それが学問の大きな動機になってゐたといふ。折口信夫も然りであらう。
沢山美果子『江戸の捨て子たち』は、江戸時代の捨て子をケアする村のしくみなどについて、実証的に研究した本である。
他にもいくつか同類の本を読んでゐた。

私自身は、江戸中期以後の村々の人口が固定していった時代の二男三男たちは、一種の「捨て子」となって、都市の町人文化を成立させたのだと思ってゐた。「二男以下の者たちが皆非人になった」といふ司馬遼太郎の言葉も、意識から離れない。明治時代の徴兵制では、親の扶養義務のある長男は金納によって兵役を免れたが、二男以下は徴兵に取られ、戦死する者もあった。靖国神社は、長男が二男以下を祀るかたちで国民に定着していったのではないか。鎮魂によって二男以下は故郷にもどり、長男は意識の上で故郷を捨てるのだろう。これらは全て一連の「捨て子」たちであり、神話時代の須佐之男命以来の、さすらふ文学のことであり、日本文化のことでもあるのだらう、そんなことを考へてゐた。

丸谷氏のエッセイに書かれてゐた三浦雅士『出生の秘密』を読み始めてみたが、文芸評論の本に不慣れで、分厚い本だといふこともあり、読むのをやめてしまったが、その本でふれられてゐた『樹影譚』といふ丸谷才一の小説を読んだ。これは、ある小説家の前にある日突然謎の老女が現はれ、私はあなたの実母なのだと名のり出る話。

河出書房『文芸別冊・丸谷才一』の三浦雅士氏によると、
丸谷氏がいふには「折口信夫を一言でいへば、……自分の本当の父親は違ふんぢゃないか、本当の母親は違ふんぢゃないかといふ幻想が膨らんだ、それであれだけ書いた人」、といふことらしい。通俗的な一面をとらへて何か核心をついてゐるやうな指摘が丸谷氏らしいのだらう。

丸谷氏の小説『横しぐれ』も読んでみた。
産婦人科医の父の、生前唯一の長期旅行だった四国道後温泉の旅で出会った男は、種田山頭火ではないか、それを推理してゆくストーリーである。結局単純な年代の思ひ違ひが原因で、その説は否定されるのだが、最後に父のそのときの旅の理由が明らかにされる。父は過去の愛人であった女性の堕胎手術に失敗してその女性を死なせて事件となり、その沈鬱な心理状態を救はうと父の友人が誘った旅であった。愛人とは10年前に別れてゐた。事件当時、主人公は中学一年生なので13歳。愛人との交際が4年以上だったとすると、主人公が生れた時期に愛人関係だったことになり、まさか主人公はこの愛人の子ではあるまいか、などと思った。そこで最後の何ページかを再読することになる。
事件当時、母が自殺するのではないかと周囲が心配した。愛人の発覚がそれほどショックなら、愛人の存在を知ったのはそのときが初めてであり、夫の愛人の子を実子として育てたとは認めがたい。しかし周囲が心配しただけで実際の母の行動は明らかではない。
女性は愛人関係だったころ既に若い未亡人だった。実母であるなら、小説ではやはりどこかで実子のことを気づかったり意識してゐることを匂はす描写があると思ふので、それがないところをみると、物語の上では、やはり愛人は実母ではないのだらう。

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「私本管理Plus」という蔵書管理ソフト


「私本管理Plus」というフリーの蔵書管理ソフトを使ってみたのは、6年以上前の2006年8月ごろだが、そのとき3000有余を登録。今年2013年になって、バーコードリーダーを使用して、続きをやってみた。
現在、一般書が5900冊。ほかに漫画関係で1500冊、伝来物和本200冊、他に処分予定の本から新しめの本でバーコードで簡単に登録できるもの200冊。合計7800冊。切りの良い1万まで登録してみたい気もする。残りは、郷土史物、自費出版物・紀要類、漫画、トンデモ古代史系、実存主義マルクス主義哲学、雑誌などがある。

「私本管理Plus」というソフトは、若干使いにくい部分もあるが、個人の蔵書はそれほど際限なく数があるわけではないので、不便を感じながらも、登録は終ってしまう。

ただしデータベースとして長く使い続けるためには、改善を望みたい部分もある。
このソフトの良いところは、Amazonのサイトから本の内容説明のテキストを取り入れることができ、そのテキストには目次のリストが含まれている場合もあり、それらのテキストに対してソフトから検索することができることである。
Amazonの「内容説明」は全ての本にあるわけではないが、日々追加されているようでもある。増補もあるようだ。6年前には「内容説明」が欠けていたものが、今は追加されている場合がある。表紙画像もなかったものが付いている。それらの新しいデータは、一件一件このソフトの「登録画面」を開いてISBNの横をクリックしなければ取得できない。そのときクリックしても必ずしも追加データがあるとは限らない。これらの新しいデータを、どう取得するかが問題になる。
今回は、全てのISBNを再登録することにした。方法は、「データ整列」でカテゴリ基準に並べ替えて保存。そのcsvファイルからISBNだけ取り出して新規フォルダに一括登録する。カテゴリ順に保存したのは、カテゴリの再登録が不可避なので、それをやりやすくするためである。

「内容説明」には手動で全集の目次などを貼り付けておくと便利である。目次をテキストにして個人ブログに載せている人がいる。柳田国男集、折口信夫全集、日本の民話(未来社)などの目次をそれらのサイトから拝借した。三田村鳶魚全集はWikipediaに目次があった。

次の画像は、キーワード「猫」で検索したときの67冊のリストの一部。こういう使い方ができるのがよい。
私本管理Plus

私本管理Plusで、さらに欲しい機能は、右側の「プレビュー」エリアは、画面上のボタン1つで開閉できると良い。このエリア内の不要な表示項目は表示しない選択ができるようにし、ヒットしたキーワードがすぐにわかるように色表示にするとか。
(こういう画面はMSの Media Player に似ているかもしれない。電子書籍を登録して、ここからビュ−ワを起動できるとか。星5つまでの評価欄もほしい)

入力についての改善策としては、古い本のISBNを取得するための検索で「タイトル」「作者」「発行所」の3項目の入力欄があるが、その検索で見つからないときは、手動登録になるが、新たに「新規登録」画面を開いて、同じ3項目を再入力しなければならない。最初に入力した3項が生かされたまま、「新規登録」画面を開いたとき該当する3項目に既に入力された状態になっていると便利。
逆にISBNのない手動登録データの(データ修正のための)「登録画面」の内の3項目から、ISBN取得のための「ISBN検索」へ飛べるようにすれば、新規にISBNが付与されたケースではそれを取得できる。
更に登録データの「検索画面」で3項を入力して検索してみたが、未登録とわかり(登録忘れ)、新規に登録したいときは、この3項入力を保持したまま「検索画面」から「ISBN検索」へ切り替わると便利。

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伊勢参宮道中記 9冊 その2


伊勢道中記についての収集本が、またたまってしまった。

伊勢道中記6
 「伊勢参宮日記考」三冊(川崎吉男著、茨城県・筑波書林・昭和62)
上巻と中巻が資料編。7種類の道中記を翻刻掲載。おおむね常陸国からの出立と思う。当時の街道筋の道標をスケッチした絵が載っていた。
下巻は随想編で、解説である。

伊勢道中記5
 「秩父坂東湯殿山紀行・伊勢太々講道中記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集33、平成21)
太々講道中記の文量が多い。天保14年、茅ヶ崎辺りからの出立。狂句、狂歌が面白い。

 「伊勢参宮紀行・道中日記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集28、平成16)
文政11年の藤沢周辺から道中記2点、翻刻で収録。

 「青梅市史史料集第五十二号」(青梅市教育委員会、平成16)
嘉永2年の女性による道中記を翻刻収録。道中記以外の日記等もあって厚い本。

伊勢道中記4
 「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社、平成3)
文政5年、板鼻の宿場の人の道中記で、長崎まで行っている。大量の写真画像と翻刻文の併載。

 「善兵衛さんの道中記」(宮本勉編、静岡・羽衣出版、平成4)
「駿河国安倍郡水見色村の庄屋」佐藤善兵衛の元禄6年の旅というから、かなり古いもの。水見色村は安倍川上流の山間の村。写真画像と翻刻文の併載。

 「政えんどんの旅日記」(静岡古文書研究会、平成11)
安政4年瀬名村から出立。道中記は写真画像と併載だが、文量は少ない。解説が多い。

以上で9冊。次の2点は古い道中記の全文掲載のないもの。

伊勢道中記7
 「社寺参詣と代参講」(世田谷区立郷土資料館、平成4)
資料館の企画展示のためのパンフレット。伊勢講・富士講・御嶽講などの資料。道中記の翻刻はない。
 「復刻版 宝来講道中細見記」(奈良大学鎌田研究室、平成4・平成6増補)
道中記の収録はない。現代の道中体験記と歴史研究。

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なるほど知図帳日本


カテゴリ「伊勢参宮」を新設した。

なるほど知図帳日本
伊勢参宮特集が少々載っている「 なるほど知図帳日本2012」(昭文社)。
同書に掲載の「道中手形」は、当ブログの、2007年11月23日のものが大きくて見やすいと思う(カテゴリ「伊勢参宮」をクリックすると良いだろう)。
市町村合併も一段落したあとの地図なので、中古で求めても面白いかもしれない。

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WXGの2011年問題


 ダウングレードの時代
3・11以後の哲学的な問題は別に考へていかねばならないが、実際生活の問題としては、エネルギーの浪費を戒めることが重要になってくるのだらう。
さういへば、3年前に、パソコンをダウングレードした。ペンティアム4の2GHz超から、1.6GHzのAtomとし(マザーボードはmini-ITX)、初のダウングレードだった。

 WXGの辞書が壊れる?
IMEは長年WXG(Ver.4)を使用して来たが、古いためか、WindowsXPでは調子がいまいちなので、先月来、辞書の再整備を始めたところ、新たな問題につきあたってしまった。辞書の最適化がまったくできなくなってゐた。必ず「辞書が壊れています」のエラーが出る。原因は不明だが、もしかして古いPCでなら問題ないのではないかと思ひ、Windows98時代のノートPCで同じ処理をしてみたら、問題なくできた。このノートPCはWXGの辞書管理専用機として長く使ひ続けることになるのだらうと思った。ある日、このノートPCで作成した辞書の日付が2010年9月になってゐたことに気づき、長く使はずにゐたPCだったので時計が狂ってゐたわけだが、時計の日付を修正した。翌日、このPCでも、辞書最適化のエラーが出るやうになった。辞書ツールが使へないのは日付が原因かと思ひ、PCの時計を意図的に1年前に戻すと、エラーは出なくなった。WXGは、2010年までの使用しか想定してゐない疑ひが濃厚になった。

 バイナリエディタでファイル修正して修復
ネット検索で調べてみると、某掲示板で同様の指摘があった。
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/software/1170889754/
上のページの1月6日、No844の書き込みによると、WXGDLIB.DLLを書き替へると正常になるといふ。
> 2000/01/27 221,184 00:00 Wxgdlib.dll
> 0000CEB5 DA 97
> 0000CEB6 07 08

2000-01-27 00:00 の日付の WXGDLIB.DLL、ファイルサイズ221,184バイト。ファイル先頭から 0000CEB5〜6 の位置の "DA 07" といふデータを "97 08"に書き替へると、2199年まで使用できるといふ。

PC内を探すと、C:\Windows\System32 といふフォルダに、WXGDLIB.DLLがあった。しかし日付は1998-12-28 00:00、ファイルサイズ 220,672 バイト。細かいバージョンの違ひがあるやうだ。
バイナリエディタ(Stirling)をダウンロードしてこのファイルを調べると、"DA 07"といふデータは2ヶ所あった。
 00000A26〜7
 0000CE66〜7
このうち2つめのデータが掲示板での指摘位置に近いので、これを書き替へることにした。System32フォルダのWXGDLIB.DLLを別フォルダにコピーし、コピーしたファイルを改めてエディタに読み込み、とりあへず一ヶ所、0000CE66番地のDAをFFに書き替へる(0000CE67はそのまま)。これで2047年まで使へることになる。
上書保存してエディタを終了。書替済のファイルはそのままSystemフォルダへ上書コピーはできない(IME使用中)ので、コントロールパネルから「既定の言語」をMS-IMEあたりに変更して再起動後、書き替へたWXGDLIB.DLLをSystem32フォルダ内へ上書コピーした。(コピー完了後「規定の言語」をWXGに戻す)
 そして辞書の最適化を試みると、エラーは出なくなった。

 さて現在進めてゐる辞書の整備は、歴史的仮名遣変換辞書であるので、この文も歴史的仮名遣で書いた。

※ "DA 07" は16ビットでは 07DA、これは16進数表記であり、10進数なら2010の意味。
※ バイナリエディタはc.mos氏に敬意を表してBZを試みたが、16進数での検索方法がわからない。これでは新規ユーザーはつきにくいのではないか。

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将軍の年賀のごあいさつ


稲垣史生著『楽しく読める江戸考証読本』全四冊(新人物往来社)は何かと参考になる本である。

以前ブログでふれた大岡越前の白子屋事件について書かれた部分もあり、親に対する罪は刑罰が格別に重かったのだというコメントもあった。
「大名と旗本編」では、江戸時代の年貢の平均的な数字も書かれ、上の田が1反につき米5斗少々、下の田は4斗少々とあった。村々に残された古文書で確認できる数字ではある。4斗とは米1俵のことだが、実際の年貢の量を書いた出版物は、なぜか極めて少ないのである。

そんなわけで全般的に良い本なのだが、「楽しく読める」というエッセイの形式で書かれている点は注意が必要だ。
「将軍様と町人編」の123ページに、元旦においての将軍の祝賀の言葉が、「女性上位の元旦のご挨拶」という見出しで紹介されている。
御台様と雛壇に並んで将軍のほうから先に言葉があるという。
「新年お目出とうござる。幾久しく」
あとから御台様が、
「新年のご祝儀めでとう申しあげます。相変りませず」
と答えるという。これについて「下々と違いまさに女性上位であった」と書かれる。

これと同様の年賀行事を、京都の天皇様と皇后様も行われていたと、どこかで読んだことがある。地方の旧家で、夫婦で囲炉裏の回りを這いながら回って後、夫から先に祝賀の言葉を述べるしきたりの話もある。これらは正月行事の「成木責め」や、遠く神代の昔に夫婦の神が天の御柱を見立てて廻って言葉を掛け合うとき、男神から先でなければならないという話にも通じるものがあると思う。これらは人間どうしの挨拶の言葉ではなく、新しい一年への予祝の言葉なのだろう。

このような民俗学的な視点は、『江戸考証読本』では欠けている。人間どうしの挨拶は下の者から先に述べるものだという視点があるにすぎない。「なあんだ、普通と逆なのか(笑)」で終るのが江戸の町の洒落本の世界なのかもしれないが、やはり近代の民俗学のちからを借りて江戸時代を生き生きと見たいものである。
しかし将軍家のこのような行事を紹介してくれる本はありがたい。
洒落本が町人文化のものだとしたら、天皇や公家や武家には、農民文化にもとづいた風習があることがわかる。

「色恋沙汰と艶ばなし編」で、女性の貞操観念についてのコメントは、弟子筋に当たる杉浦日向子氏や、あるいは田中優子氏の書くこととは、だいぶ趣きが異なる。稲垣氏は明治45年生れ、そのような時代の影響による価値観念があったのだろう。しかし全体としては、この本は為になる良い本である。

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伊勢参宮道中記 9冊


伊勢道中記についての収集本より。全て読了しているわけではない。

伊勢道中記

 「お伊勢参り 附・文政の道中記」沢内勇三著(岩手県・宮古郷土史研究会・昭和47)
解説本としては最も充実した内容で、江戸時代の古文書を多数引用しながら、伊勢講組織に始まり、出立前後の当人たちや村人たちの儀礼、道中や旅籠について、伊勢での様子や、帰郷後の様々のお祝い、伊勢の遷宮儀式や、抜け参りなどの特殊な参拝に、若者の筆下ろしに至るまで、詳細に書かれている。文政13年の道中記が付されている。昔懐かしい和文タイプの版下。

 「伊勢参宮道中記」(福島県・いわき地域学会・平成5)
天明6年の道中記と小遣帳。小遣帳が詳細で、道中の洗濯代や髪結代まで書かれる。

 「道中記」(山形県・自費・平成18)
明治8年、酒田を出立。道中記としては取上げた中で最も長文である。史跡やそれにまつわる歌句の覚書が多い。

 「伊勢参宮道中記」石原博著(MBC21・平成12)
明治13年、神奈川県横浜から。原本の画像と活字の翻刻文を並べて掲載しているので、古文書の勉強にもなる。本人はかなり趣味人のようで、道中の出来事が面白おかしく書かれ、自作の川柳も多く詠まれている。

伊勢道中記2

 「伊勢道中記史料」(東京都世田谷区教育委員会、昭和59)
文化4年から明治14年までの、区内で発見された道中記15点を集成したもの。古書店などでの入手は難しくない。

 「伊勢参宮道中記 附・資料注釈」(福岡県・平成元年)
明治18年、福岡を出立。道中記以外に、当時の案内地図など多数の図版が収録されるが、印刷状態は良くない。初版は伊勢の神宮文庫にも寄贈されたという。

 「伊勢道中日記・旅する大工棟梁」西和夫編(平凡社・1999年)
天保12年、相模国を出立。大工らしく、参詣した寺社の建造物について詳しい。翻刻文と解説。解説は建築関連、御師、道中のことなど。

伊勢道中記3

 「お伊勢参り道中記」(宮城県古文書を読む会テキスト)
寛政6年、仙台に近い村からの旅。翻刻ではなく、古文書をコピー機で複写したものをそのまま版下にして(写真でなく白黒2値)、軽印刷にしたようで、文字がかすれて読みにくい。

 「伊勢道中日記史料」(茨城県・土浦市史編纂委員会・昭和63)
文化4年の農民たちの旅と、弘化2年の地元の文人の旅日記の2つ。前者では、宿場町や路傍のことに比較的関心が高いように思えた。
(自費出版的なものは著者名を略す)

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江戸時代の飢饉は本当にあったか?


だいぶ前にどこかで読んだのだが、天保の飢饉といわれているものは都市部における単なる風評被害にすぎないものであると。たしか福島県あたりのどこかの村で若干の凶作があり、その話に尾ヒレがついて江戸に広まり、米の買い占めや売り惜しみに走るものがまたたくまに増えて米価が高騰し、江戸以外の都市部まで広がって、一部では米を買えない町人による打毀し事件まで起こったという話である。

地元の村の古文書で当時のことに関連する文書が一つだけあり、それは幕府からの村々への通達文書の写しである。同じものが埼玉県史資料編にも載っていた。内容は、村々に対して、米は当面必要な量だけを残しておいて残りは市場に出して売るように協力せよ、隠し持っていてはならぬ、ということである。都市部での売り惜しみに対しても同様の通達があったに違いない。それでも効果がなかったので、村々に通達したのだろう。このことからわかることは、村々には米がじゅうぶんあったということである。あるいは都市部の風評を聞いて、年貢米以外の自由売買予定の米を売り惜しんで溜めこんでいた農民もあったということである。
各地の膨大な村々の文書から天保の飢饉なるものが実際にあったことを証明することは困難であると書いた本も読んだことがあるが、書名は忘れた。

さて昨年末、石川英輔氏のNHKラジオ講座のテキスト(「世直し大江戸学」)を読んでみたら、岩手県で、天明のころの古文書等を再調査する過程で、南部藩における天明の飢饉は虚構であったことが証明されそうである。天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
大石大二郎氏によると、江戸時代というのは、それぞれの藩は独立国家のようなもので、幕府がその上に乗る連邦国家であった。したがって、南部藩のこの行いは、外交上の策略であって、組織内で上層部に虚偽の報告をするのとはわけが違い、必ずしも避難されるべきものでもないわけである。それは南部藩に限らない。無論ばれた場合はどうなったかはわからない。しかし、江戸時代を通じて、否、現代までも南部藩にはだまされ続けてしまったわけである。最近読んだちくま新書の本(民俗学の冒険シリーズ)で、山折哲雄氏の小論があり、南部藩における「天明の飢饉」での悲惨さが語られていたが、山折氏までだましてしまったのである。

規模は小さい話になるが、村々においても、上からの要請を断ったり負担の軽減を望むときは、「困窮至極の村にて」などといった決まり文句をよく使う。助郷免除願いの文書で「困窮至極」と書き、免除の代償として数10両もの大金を用意していたりする。要するに労役は村人がイヤがるので金納にしてくれということなのだが、どういうわけか「訴え」という性質の文書には「困窮至極」という言葉が決まり文句なのである。

小学館だったか最近の通史ものの本で、18世紀(江戸中期)は天災と飢饉の連続だったと書いてあった。しかし江戸中期といえば、内乱もなく、歴史上最も平和で安定した時代であり、人々もそこそこ豊かだった時代である。

最も平和でそこそこ豊かだった時代にだけ、「飢饉」が多発したことになっているのは何故か。
少なくともこの時期の「飢饉」については一つ一つ事実の裏づけを確かめる必要がありそうだ。

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