神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

餅なし正月とサトイモ


 「餅なし正月」とは、民俗学用語であるが、正月に餅を食べず、もっぱら里芋(さといも)を食べて祝う地方の民俗のことという。
 サトイモについて、最近知ったことは、畑の里芋と、田のサトイモ(田芋)と、2種類があるということである。吉成直樹『沖縄の成立』によると、田芋は水田で栽培され、東南アジア方面から北上して沖縄にもたらされたものだろうという。
 万葉集(3826)に次のような歌もある。長意吉麻呂(ながのおきまろ)の諧謔の歌。

 蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの 意吉麻呂が家なるものは宇毛(うも)の葉にあらし

 歌の意味は「(理想の女性とは)蓮の葉のような佇まいのものであって、そこへいくと我が家のものは、まるで芋(うも)の葉だ」となる。
 吉成氏によると、ウモはオーストロネシア語に由来する言葉なので、この歌のウモは南方から来たものであり、万葉時代以前に沖縄を経由して大和にも伝わっていたことがわかるという。文脈が少しわかりにくいのだが、イモでなくウモと呼ばれたことに着目したのだろうか。ただ、それなら、魚のことを和語でウヲともイヲともいうので、発音の転訛の可能性も考えないといけない。
 それよりも、蓮の葉と芋の葉とを、同列に比較しているという点が重要だ。似たところが多いから、同列に対比できるのだろう。どちらも水中から葉を出し、根が食用になる。誰もが知っている共通点がいくつもあるが、見栄えが違うので、洒落の効果も大きくなる。
 いづれにせよ、水田のサトイモは、万葉時代の大和でも普通に見られるものだったようである。
 芋で祝う正月とは、稲作が普及する以前からの民俗だとする説がある。一方、その分布を調べると、稲作文化圏にしか存在しないので、稲作文化の一つではないかという説もある。そこで思うのは、「稲作文化の一つ」ではなく「水田文化の一つ」なのではなかろうか。それなら両方の説が矛盾せずに成り立つ。
 水田は、稲も作れば、田芋も作る。古くからあるのは、もちろん田芋だが、田芋しか作らない田でも、良い種籾が手に入れば、水田稲作はすぐにできる状態なのだろう。

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「うどん正月」


「うどん正月」という言葉があるのかどうか知らないが、我が家の隣りの集落では、正月は主にうどんを食べるといっていた。我が家の近隣でもそういう家は多かったらしい。ただ、私の子ども時代はそういう記憶はあまりないのだが、忘れたのか、そういうことが少なかったのかだが、旧上層農民や公務員などは少なかったかもしれない。
市内F地区では、米が獲れる所ではなかったので、主食はウドンや煮ぼうとう、ツメリッコ(すいとん)などだったと、U氏が言っていた。関東地方はおおむね畑作地帯なので、そういう家が多かったのではないかと思う。
戦後に「貧乏人は麦を食え」と言われた時代もあったが、高度成長期に米食が普及していった後も、正月などのハレの日の食べ物だけは変らないというのは、一般的に多い。
米を多く食べなかった時代は貧しい時代だったのだと、人々が意識するようになれば、人はそのことを語らなくなり、記憶から消えてしまうこともある。

有名な学者の対談で、日常食として米食が定着したのは江戸後期以後ではないか、ある山村では戦時中の配給米で初めて米を口にしたという報告もあると言っていた。祭などの共食の場ではなく、隣人の私生活での食事内容については、知らないのが普通だ。普通の人々が、ふと思い出話として、つぶやくような機会にしか知ることはできない。正座して対面して質問事項を読み上げても、本当の答えは得られないだろう。江戸時代から都市部では米の消費量は多かったらしいが、地方では土地によってさまざまだったろう。定着とか普及とかいっても、その定義が曖昧なままでは意味がない。学者やインテリには上層民が多いが、そうでない人が米ばかり食べてきたわけではないことくらいは、頭に入れておかないといけない。

東京下町の地域行事で水団がふるまわれたとき、珍しい物なので、若い人も、おいしい、おいしいと言って食べていたそうだが、おいしいのは良質のカツオダシなどをふんだんに使っているからであって、終戦直後に食べたスイトンほど不味いものはなかったと言った人があった。美味か不味いかは個人の主観なので、なんともいえないが、本当に不味かったのかもしれないし、料理に時間をかけられないほど忙しく働いた時代だったのかもしれない。

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伊勢神宮の古い絵葉書


昭和初期のものと思われる、伊勢神宮の古い絵葉書。
絵ではなく写真であり、「伊勢名所 内宮御正殿」と印刷してある。

裏側の切手を貼る位置の図案が、神明造の建物を横から見た絵に、森の一部と三日月が描かれ、シンプルで微笑ましい絵になっている。

伊勢神宮絵葉書
伊勢神宮絵葉書2

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江戸時代の浮世絵に描かれる「神棚」


江戸時代の神棚の絵について、数年前にある本から画像ファイルにしておいたのがあった。

鳥文斎栄之「新年の祝」。3枚組のうちの中央の1枚とのこと。
左の1枚には、若水汲みをする男が描かれ、中央で娘二人がそれを見ている。若衆が歳神棚に灯明をそなえている。
右の1枚では、屠蘇の準備が整えられているらしい。
歳神棚は、正月だけ設けられ、農村部では棚板の角に4本の紐などを付けて天井から吊す形式が多かった。江戸のこの絵では鴨居に引っ掛けるような形式のものだろうか。松飾りも施され、棚板は顔ほどの高さである。設置場所は、その年の恵方の方角である。古くからの稔りをもたらす年神と、近世の歳徳神の習合形態なのだろう。
供えている人物は、月代を剃らず前髪の残る若衆になっているが、普通は家の当主が行なう。若水汲みも同じく当主が行なった。それらを行なう男を「年男」といった。一部には息子が行なう家もあったかもしれないが、また、絵を売るために若い人気役者の似顔絵の可能性などもなきにしもあらず。


次は、鈴木春信の「節分」の絵。
豆をまく若衆。福の神が内に入りこみ、鬼が外へ出ていくところも描かれる。鴨居に、棚が設置され、灯明が置かれている。
節分は、旧暦では12月の行事であることが多く、新年の歳神の棚が既に準備されているのだと思う。豆をまく男も「年男」と言った。
旧暦では、元日は、立春の前後の30日間のうち月が新月となる日(朔日)であり、立春の前日が節分にある。年によっては、節分が元日の後になることもあり、そのへんを面白おかしく書いた双紙類もある。地方では元日よりも正月15日の小正月を重視したので、節分が小正月の後になることはないわけである。
以上2つの絵は『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)から。


歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)の一場面を描いた歌川広貞の絵。
伊勢の大神宮様のおふだや祓串の入った箱「御祓箱」を、伯母のおみねが持ち出すところと思われ、この箱の中から100両の大金が出てくる話。
場所は、伊勢の御師の福岡孫太夫の家なので、神棚(祭壇)は大きく立派である。
左の男が、甥の貢で、福岡家に養子に入って御師となっている。

御祓箱は、白い紙に包まれ、紙の表には御祓の箱であることがわかるような文字が書かれる。
御祓箱は、年の暮に新しいものが来ると、古いものは御用済みとなり、御焚き上げされることが多い。それで、辞書には「◆碧菁新しいのが来て古いのは不用となるから、「祓い」に「払い」をかけて)雇人を解雇すること。不用品を取り捨てること。」(広辞苑)などの意味もあると書かれる。

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江戸時代の「神棚」の絵


江戸時代には、庶民生活を描いた浮世絵や、絵入りの本が多数出版されていたが、神棚を描いたものを探してみた。

1つめは『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴 作、葛飾北斎 画) 巻之二より。絵の中央上部に、それらしき棚。 
物語を少し読んでみると、戦国時代の大和国の領主 続井(筒井のもじり?)家の家臣の赤根半六は、楠の巨木を伐るとき、祟りなきよう木精を退散させるのに功績があった。先祖は、楠正勝の家来であったという。のち半六は、先に亡くなった妻の遺言により、子の十一歳の半七(半七郎)と、妻方の姪で十歳にも足らぬおさんを結婚させる。そのときの絵。

絵では、棚の下に少年の半七が座り、おさんが対面。右の台所から水仕女(みづしめ、女中のこと)によって盃が運ばれ、左には半六が控える。左奥は納戸つまり寝室であろう。「たがしの」は死んだ母の名だが、描かれた人物は母の霊であろうか。幼い二人の結婚だが、形式だけでも寝室で枕を共にするのだろう。
棚の中央には、箱状の櫃が置かれるが、こちらの 三七全伝南柯夢 では箱の上に屋根が付いている。3文字は「?五郎」とも「?宮神」とも見えなくもないが不明。その上に雲型(ハート型を逆にした形)の穴が見られるのは、位牌や神璽を納める箱の形式である。棚までの高さは六尺はなさそうだ(鴨居が描かれない)。棚の上には、右に折敷のようなものに紙を重ねて供え物のようなもの、左には油の灯だろうか。
伊勢の大神宮を祀った神棚ではないようだ。先祖、あるいは納戸の神、家の守護の神を祀ったかである。
江戸のころは、大神宮は家の縁側ないし戸口近くに男によって祀られ、家の奥には納戸の神が女によって祀られ、時代とともに位置が近づいて、現在の神棚となったと言う学者もある。


2つめは、吉原遊郭の「扇屋の新年」と呼ばれる絵(葛飾北斎)の一部。
立派な神棚が描かれている。そこには大きな宮形が安置され、その前に座しているのが楼主だという。
実際の大きさや高さは、鴨居を基準に見ると、人が半分ほどの大きさに描かれているようだ。


3つめは、歌川国貞の錦絵「江戸名所百人美女」のうち「あさぢがはら」
美女が神棚に祈る、というより、呪いをかけているところらしい。浅茅が原は、鬼婆の伝説のある地。
棚の奥に小さな掛軸が掛かり、描かれているのは仏の像であろう。神なのか仏なのかというと、両方なのだろう。
江戸時代までは神仏習合の時代であり、外を歩けば、神社や寺の境内には、神も仏もさまざまに祀ってあった。庶民の家庭内で、神と仏が明確に区別して祀られたとは、まったく考えにくい。
正月の歳神様の棚は、天井から吊す臨時の形式で高い位置に祀り、伊勢の大神宮の棚も高い位置に常設して、下をくぐることが御利益となるという考え方もあった。
しかし他の多くの神仏は、人が立って対面ないし少し見上げて祈れる高さであり、供え物や清掃のしやすい高さだったようだ。3つの絵はそのような位置に描かれる。

以上の絵は、現在のネット検索でも容易に見つけられる。「こよみの神宮館」さんのパンフレットにも掲載されている。
http://jingukan.co.jp/pdf/omiki_page.pdf


4つめ。『絵本吾妻抉』(北尾重政 画)で、芸者が休日にくつろいでいる様子の絵。
台所の鍋の上に、神を祀っている棚が見える。かまどの神、荒神さまであろう。
現代でも、伝統的な家庭では、台所に荒神様や火防せの神の御札を貼って祀っているところは多いだろう。
昭和30年代ごろまでは、井の神や厠の神、仕事場の神など、家の中にもいろんな神が祀られていた。家の外にも、屋敷神の祠のほか、家畜小屋、蚕屋、作業小屋、土蔵、外の井戸や便所などに、さまざまの神が祀られ、現代でも伝統的な家庭では、正月にはそれらの場所に釜〆などの御幣を祀っている。
神を祀る場所がだんだん少なくなって、神棚1つだけというのでは、神を身近に感じる生活にとっては不便である。道端の石ころや自然の全てに神が宿るなどと言ってみても、口だけのことになってしまう。1つしかなければ人間の宗教観も一神教的に流れてしまいやすいということでもある。
職人の家では、職種によって祀る神が決まっていて、仕事場などに必ず祀っていた。そこで現代では、書棚の空きスペースや、書棚の上などに、小さな宮形を置いて、八百万の神のうちの幾柱かを祀るのも良いのではないかと思う。神の棚は幾つあっても良いし、それらしい所ならどこにでも祀ることができる。
次の絵は、山東京伝の黄表紙『世上洒落見絵図』(黄表紙十種 GoogleBooksサンプルより)のなかの絵。箪笥の上に祀っている。

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1両は、今の30万円、それとも?


宝島社新書の『江戸の家計簿』という本をぱらぱらと見た。
江戸時代の物の値段の紹介なのだが、監修者礒田道史とある。
監修者の序文に「1両は5万円? それとも30万円?」という見出しがあり、
1両は、米の値段で換算すれば5万円、大工見習いなどの給金で換算すれば30万円となり、現代の米の値段が安くなっていると書かれる。
よく読むと、この本は5万円と30万円のどちらを採るということが書かれていない。

中身を読みはじめてみると、両単位の金額については、30万円。
職人の手当ての銀何匁という単位は、60匁が金1両なのでで、30万円。

そのあと「医者と髪結い、高収入は江戸も同じ」という見出しがあり、
医者の薬礼、13文からで、1000円から、
髪結い代の32文は、2400円だという。
さらに旅籠代、高めの宿の200文は15000円というので、換算が高過ぎるように思った。(一泊300文の例もある)
……少し考えてみると、1両=30万円を、1両=4000文で計算するとそうなるようだ。
実際は両と文は常に変動するのだが、江戸中期以後は1両は6000文以下になったことはないそうだ。
私は、1両=32万円、1両=6400文が、実際に近い数字であり、計算もしやすいと思う。
それによれば、1文はちょうど50円になる。
髪結い代は1600円になり、それほど高いとはいえない。

花魁の花代、金1分は7万5000円、これは文が単位でないので、この通りだろう。

そのあと魚の初物の値段で、鯛一尾の金1分以上は、1万5750円以上だという。
花代1分のときと、大幅に換算金額が違う。これでは1両が6万3000円になる。
この換算法は、序文の「米の値段で換算すれば5万円」とも違う。
(鯛一尾が花代と同じ7万5000円とは、初物好きの熱狂が原因であり、庶民の感覚ではないが。)

そのあと、そば一杯16文は、250円だという。これは、1両=10万円の換算。

ここまでくると、1両は、5万なのか、6万3000円なのか、10万円なのか、30万円なのか、読んでいてわからなくなる人も多かろう。
宝島社の編集部で、数人で分担執筆し、それぞれネタが違ったのが原因なのだろう。

図版が多く、日用品などの値段のことを知るには、面白い面もある本なのだが。
「1両=30〜32万円」のほか「1文=50円」を頭に入れて読むしかない。

さて、1両は今の何円かについて、山本博文氏が書かれるには、5万円でも6万円でも良いではないか、当時の日本は現代の途上国と同じであり、給料や物価が今の数分の一の安さだったのは当然、という主旨だったが、それはそれで理屈が通っているのかもしれない。
それに関連して思い当たることがある。あるとき、明治末期の1円は今の2万円くらいだろうと私が言うと、ある人がそれは高すぎるといい、その根拠に当時の西洋建築の建築費の例を上げた。べらぼうに高くなるという。これはつまり、明治のころの日本は途上国で物価が安かったが、西洋建築については欧米先進国の物価水準で先進国に支払わなければならなかったということなのだろう。今の途上国も、日本から来た土木事業者に対しては日本の物価水準で支払うことになる。それは例えば現地の巨大な橋の通行料金が日本並の料金になっていたりするので、すぐわかる(バングラデシュなど)。

とはいえ、これだけ米が安くなり、さらに政府はTPPを押し進め、さらにその先もあるというし、今後、米がさらに異常に安くなる日が目に見えている。残念ながら「米の値段に換算すれば……」というのは、もう通用しなくなってしまった。

「1両=約30万円」という1つの尺度が、20年も通用しているのは、今の経済成長が止まったおかげでもある。(昔はインフレというのがあったので、定額でなく米の値段に換算としたわけである)

江戸時代の1文は今のおよそ50円、そば一杯は800円。ちょっと高いかもしれないが、このそばは手打ちであり、原材料はすべて無農薬、輸送に排気ガスを撒き散らさないし、食器も大量生産品ではない。今それらのすべての条件を満たして800円でできるかどうか。
「食料品が高かった」ということもあろうが、物ができるまでには、さまざまな手間が幾重にもかかっていることを考えるようにすれば良いと思う。

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「幡羅郷の湧水群」など


楡影譚より
『大里郡神社誌』における湧き水の記録(7月21日)
幡羅郷の湧水群(7月14日)

これまでいくつか昔の地図を購入してきたが、ネットで比較しながら閲覧できるところがあるのがわかった。
今昔マップ on the web

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「楡影譚」というブログ


楡影譚というブログを開始。

埼玉県などローカルな話題になる予定。

渋沢、藤原(地名の話)(7月8日)
武蔵国幡羅郡の範囲と人口(7月5日)
幡羅(原)という地名(7月4日)
荒川扇状地と湧水(7月2日)
日本煉瓦製造工場と小山橋(7月1日)

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明治とは何だったかというと


10年来の近世研究もそこそこ進んだので、所謂「近世暗黒史観」の生みの親である明治時代の再評価が必要との観点から、明治維新批判の通俗的な本をときどき読むようになったのは、2〜3年前から。この分野は専門家の本はないようなので、通俗的な本となるわけだが、やはり居酒屋談義的な内容ばかりで、もの足りない。

今年は明治維新150周年だが、先日amazon の Kindleストア で「明治維新」で検索したら、会員は無料で読める本がいくつもあった。原田某氏の本など既に購入済みの本もあったので、もったいないことをしたと思った。

その昔、所謂古代史のトンデモ本を、気軽に買うこともよくあったが、明治維新の本は、時代が近いこともあって気楽には読めない。現政権への不満を過去へ投影しているだけではないかといったことの検証課題だけが山積みになってゆく。

そこで最初のテーマに立ち戻って、所謂 江戸時代暗黒史観はいかにして形成され、広まったのかという問題である。
すぐには結論は出ないので、とりあえず、各論的な分野を考えていくときなどで、この問題につながることがらが現れることを期待するというのが現状である。
たとえば、天保の饑饉について、大凶作の意味で書き記した最初の者は誰かとか、時代ごとの価値観を比較研究したものに触れてみたい。吉原への価値観の変遷については良い研究があったと思う。

そしてこの分野で最も深い洞察を感じたものは、丸谷才一文芸表論集『梨のつぶて』(晶文社)のなかの「津田左右吉に逆らって」などの評論だった。これは津田の日本文学史への批判なのだが、大かたは津田は文学がわからない人間だと取りあげられなかったことに、まともに取り組んだわけだが、意外と難儀な問題に思えた。
19世紀西洋の事象から、都合の良い表面的な部分だけ取り入れて、とにかく形だけは整った学問ができて、以後はそのときの形を頑なに変えないようなものが、通ってしまっているのはなぜか。
津田は、皇国史観とは異なる合理的な歴史解釈だったとそれだけで単純に評価された戦後の一時期もあったが、皇国史観といっても、皇室の歴史のなかの都合の良い部分だけ引き抜いて新たに作り上げたものでしかないという意味では、どっちもどっち。こうして虚無感に浸ることになってしまうわけだが、政治史から離れて取り組むのが、一番良い方法だというのが、とりあえずの結論。
『梨のつぶて』は1966年10月15日発行。翌年の「明治百年」を意識したものだと思う。
(明治百年は、100周年ではなく、改元がなければ1967年が明治百年となるので、そう呼ばれた。)

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過去帳に記載の家族以外の人物


西川家過去帳 江戸の浮世絵師、鈴木春信は、今でも人気が高い絵師だが、京都の絵師の西川祐信の弟子であったことが、研究家の林美一氏によって証明されている。大きな根拠となったのが、西川家に伝わる過去帳に、鈴木春信の名前と戒名が書き入れられていることが発見されたからである(図版、林氏の著書より)。春信の命日は、明和七年六月十四日。西川祐信の優れた弟子でもあり、西川家とは家族同然の暮らしでもあった春信は、江戸で没したあと、西川家の過去帳にも記載され、月命日には他の西川家の先祖と同様に供養されたと思われる。

 さて我が家の過去帳にも、当家の者でない人の名が記載されている例が、いくつかある。古文書の本格的な整理を始めてから幾年かあとに、過去帳を見たときに気づいた名前がある。月命日は二十九日、享保六年(1721)五月に没した人の戒名の脇に「江戸蔵田源五右衛門妻」と書かれていた。(図版)
過去帳_蔵田
 蔵田源五右衛門とは、当村の領主だった旗本中野家の用人である。元禄十一年(1698)八月の検地の時の責任者であり、正徳三年(1713)の文書にも名前がある。
 過去帳には源五右衛門その人の名はなく、彼の妻が、当家の縁者であると見るべきだろう。
 元禄十一年の検地は、太閤検地以来の、江戸時代ではただ一回の大規模な検地だった。数日で完了できるものではなく、蔵田氏は長期にわたって当村に滞在したであろう。そのときに当家の娘を見初めたと考へるのが自然だらう。戒名も同じ法華宗のようである。妻の没した享保六年(1721)は、元禄十一年(1698)から23年後。20代前半で嫁いだとすれば、40代半ば、早い死であったのかもしれない。
 用人の給金は天保時代でも年五両しかなく、米代が別としても、年収では上層農民よりも低い。しかし、武士の身分であることを加味すると、対等の付き合いができる関係なのではなかろうか。

 他に、当家の過去帳の同じ二十九日には、「中田仁兵衛子」と書かれた戒名もある(図版)。他に「中田仁兵衛」「中田仁兵衛妻」が享保の頃にあり、別に「中田仁兵衛娘」もある。戒名の文字数が短いので、番頭夫婦かもしれない。苗字については、血族でないことを示すために出身の苗字を記すことはあるだらう。
 正徳の頃には「壽清院妙厚日理、江戸川崎善右衛門妻」といふ人もある。夫の「川崎善右衛門」、舅と思はれる「川崎先ノ善右衛門」、計三人の名がある。この「妻」も、当家の出身と思はれる。苗字の上に「江戸」とあるのは、先ほどの「江戸蔵田源五右衛門妻」と同じなのだが、領主の中野家には川崎氏はゐない。江戸の商家あたりかもしれない。
 前述の蔵田源五右衛門も、妻より先に没していたら、当家の過去帳に記載されたとも考えられる。

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