神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

御飯の食べ方


江戸時代のある手引書に、御飯の食べ方などの作法について書かれていたので、読んでみた。

御飯の食べ方
○箸は三ツ折にして中を取ると心得べし。
○飯のくひやうは、右の手にて飯椀(めしわん)のふたを取り、左の手にうつして下に置き、次に汁椀(しるわん)のふたも右のごとく取りて、飯椀のふたの上にかさね置くなり。
さて、飯椀を右の手に取りあげ、左の手にうつし持ちて、二箸ほどくひて、下に置き、
次に、汁椀を右の手にて取上げ、左の手へうつし、汁をすひ、右の手にうつして下に置く。
また飯を前のごとくにくひ、また汁をすひ、今度は汁の実をくひ、
また飯をくひて、其の次に菜(さい)をくふなり。
引落しのさい、右の方に有る物を左にて引寄せ、左の方なる物を右の手にて取る事有るべからず。(一部を漢字に変更)


「箸は三ツ折にして中を」というのは、実際に折るのではなく、長さを三等分したときの中ほどを持つということだろう(指先が中ほどになる)。持つ位置は、極端に上すぎても、下すぎてもいけない。
食べるときは、飯、汁、飯、汁と実、飯、菜、の順。菜とは副食物のことだろう。汗を流して働く人の場合に汁を先にという考えもあるかもしれないが、和食では、飯が先である。飯は水分の多いものであり、雑炊や粥のときもあるが、米を重視する国民ということなのだろう。茶道の作法で茶よりも菓子が先というのも、菓子を米に見立てているのかもしれない。

○まんぢうくふてい(饅頭の食べ方
まんぢうは、左にて取り、右のひとさしゆびと大ゆびにてもち、二ツにわりて、右の方を下におきて、ひだりよりくふべし。


饅頭は半分に割って、左から食べるということ。左手で良いのかどうか……?

○めんるい喰ふてい(麺類の食べ方
めんるいは、汁をおきながら、一はし二はしすくひ入れて、汁をとりあげてくふべし。


「汁」とは付け汁の汁椀のことで、蕎麦等を入れるときは汁椀は置いた状態でということ。

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民家の間取り



漫画のサザエさんの家の間取りの図を、とあるサイトで見た。漫画で絵の背景を多数見ながら、パズルを組立てるようにして、全体を描いたものなのだろう。
http://www.sazaesanitiba.com/madori.html
サザエさんの家は、昭和20〜30年代の首都圏のサラリーマン家庭の家だと思うが、間取りは、関東の農家の家に似ている。部屋を田の字型に区切り、東西に3部屋、南北に2部屋の計6部屋である。東の2部屋と、西の田の字の4部屋を、南北に廊下が区切る。
 北側は西から、台所、茶の間、子供部屋。
 南側は同じく、床の間、客間、若夫婦の部屋。

 東側に若者の部屋を置くのは、農家と同じ。その西の廊下の部分は、農家では土間が広めにとってあった。西の4部屋の南側に、廊下または縁側が付く。廊下の西の突き当たりが便所。茶の間は中央北側のじめじめした部屋で、日当たりの良い南の部屋は、客間として確保される。
 農家と違う点は、北西の台所、北東の玄関である。農家の玄関は、南北に続く廊下の南であり、廊下の北端に台所が続く。北西は主人夫婦の部屋。昔は子供部屋というのはなかったので、子供は親と同じ部屋に寝て、学校の宿題などは縁側でした。大きくなったら若者の部屋となる。南西の床の間は、本来の客間なので、普通は使用しないが、家族の人数に応じて使われることもある。
 昭和30年代ごろから、どの家も、洋間風の客間を設けることが広まった。和室のまま絨毯を敷いて応接家具を置く家も多かった。床の間が使われなくなり、物置状態になった家が多い。子供部屋についても、なんとかしないといけないと、親は思うようになった。

 昭和の頃の平均以上の農家では、土間の西は4部屋でなく6部屋あった、東北の1部屋が茶の間、または囲炉裏を置いた居間で、その西は壁の多い納戸である。納戸は、寝室であり貴重品をしまう部屋だったが、昭和の戦後は、タンス部屋ないし収納専用の部屋になった家が多いようだ。壁の多いこの部屋を、子供の勉強部屋にした家を見たことがある。
 明治時代以前の各部屋の意味については、あらためて書くことにしよう。

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大国主神の5つの名


古事記によると大国主神には5つの名があるという。

「大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り」

これらの5つの名については、古事記の物語の場面によって、使い分けられているような印象があったので、あらためて確認してみることにした。

以下は、古事記の話の概要を知っていることが前提で、余計な説明は付けないので、知らない人にはわかりにくいかもしれない。〈〉内は現代の本で章や節に分けたときの見出し名。

(1)大国主神(おほくにぬしのかみ)  系譜、国作り、国譲り 
 いわば「公的」な場面での名といえる。
 〈系譜〉〈国譲り〉の話では、この大国主神の表記のみである。〈国作り〉でも多い。
 〈稲葉の白兎〉の冒頭で、兄弟に八十神ありという系譜的な表現。
 〈大国主神の末裔〉は系譜そのもの。
 〈少彦名と国作り〉 基本は大国主神だが、例外あり。
 〈天菩日・天若日子〉は、系譜の部分(大国主神の女下照姫)もあるが、次の〈事代主神・建御名方神〉〈国譲り〉に続く前段でもある。

 〈根の国訪問〉で須佐之男命の言葉に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」とあるのは、国作りへの期待の表現か。
 〈須勢理毘売の嫉妬〉で歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とあるのは、「神」が付かず「吾が」がつき、親しみの表現か。「大国主神」とは違う。

(2)大穴牟遅神(おほなむちのかみ)  薬用、試練など。
 兄弟、叔母、妻、舅が登場する「私的」な場面での名。
 〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、大穴牟遅神。兄弟と叔母が登場。
 2つの話に共通するのは、試練と薬用による健康の回復の話であるということ。
〈根の国訪問〉も試練の話なので、基本は大穴牟遅神。最後は妻と舅の関係。
〈少彦名と国作り〉で、「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき」とある。二神は「兄弟」。

(3)葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)  根国、または高天原からみた呼び名
 〈根国訪問〉 根国の須佐之男命が「こは葦原色許男ぞ」と確認。
 〈国作り〉 高天原の神産巣日神が、少彦名に「葦原色許男と兄弟となりて」と命ず。
 根国、高天原から、別空間である「葦原(の中つ国)」をみている。

(4)八千矛神(やちほこのかみ) 求婚の場面
 〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉の場面のみ、八千矛神となる。
 矛にせくしゃるな意味もあるのかもしれない。

(5)宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
 〈根国訪問〉 国作りの神の美称的表現か。(1)を参照。

物語の順序に従って、次に整理してみる。

 冒頭  大国主神
〈稲葉の白兎〉〈八十神の迫害〉では、大穴牟遅神。
〈根の国訪問〉も、大穴牟遅神。
須佐之男命は「こは葦原色許男ぞ」と確認。
脱出のとき須佐之男命に「おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となり」と言われる(国作りへの期待)
〈沼河比売求婚〉〈須勢理毘売の嫉妬〉では、八千矛神。
須勢理毘売の歌に「八千矛の神の命や 吾が大国主」とある。
「日子遅の神」というのもあるが5つに含まれない。
〈大国主の末裔〉では、大国主神。
〈少彦名と国作り〉では、基本は大国主神。
神御産巣日神の言葉に、少名毘古那神と「葦原色許男命と兄弟となりて」
通常の叙述で「大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばしてこの国を作り堅め」とある。
〈天菩比〉〈天若日子〉では、大国主神。
〈事代主神 建御名方神の服従〉
〈大国主神の国譲り〉では、大国主神。

※ 日本書紀も確認してみたほうが良いかもしれない。

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「老い」について


「老い」についての短い随筆を集めた本があったので、拾い読みしてみた。
(作品社『日本の名随筆 34 老』)

作家そのほか沢山の人のエッセイなどが収録されているが、どれから読むべきか。やはり今までに充実した読書経験のある著者のものということになる。

吉行淳之介「年齢について」
七十幾歳の男女の恋愛の実例の話が出てくる。著者の知人の七十幾歳の女性から聞いた話で、逢引きの様子などを、微笑ましく綴っている。このように人は老いても変らない情熱を持ち続けることができるのだから、老いを悲観することはないということだろうか。そんな噂話に熱中する年配女性についても微笑ましく描いている。

山本健吉「ちかごろの感想」
シリアスな話だった。
「老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。」という書き出しで、重い話が続く。
確かにそういう面はあると思う。そういう「心の錯乱」は、常に抑えられ鎮められているのだろう。そして心はどのように対応したら良いのかという、ハウツー物のような結論を期待してしまったのだが、途中から万葉歌人の山上憶良の話になる。憶良についての解説を依頼されて執筆された小文なのだろう。

團伊玖磨「義歯」
 総入れ歯を飲み込んでしまった老人の話。すぐに医者に駆け込むと、医者は平然として、日数はかかるが一週間か十日で出てくるでしょう、心配はいらないという。その通りになった。ちなみに小さな差し歯なら、一日か二日で出てくると思う。

次に読もうと思ったのは石川淳だが、永井荷風の死にあたっての追悼の文章のようで、荷風についての文学論が主題と思われ、いったん本を閉ぢた。

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餅なし正月とサトイモ


 「餅なし正月」とは、民俗学用語であるが、正月に餅を食べず、もっぱら里芋(さといも)を食べて祝う地方の民俗のことという。
 サトイモについて、最近知ったことは、畑の里芋と、田のサトイモ(田芋)と、2種類があるということである。吉成直樹『沖縄の成立』によると、田芋は水田で栽培され、東南アジア方面から北上して沖縄にもたらされたものだろうという。
 万葉集(3826)に次のような歌もある。長意吉麻呂(ながのおきまろ)の諧謔の歌。

 蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの 意吉麻呂が家なるものは宇毛(うも)の葉にあらし

 歌の意味は「(理想の女性とは)蓮の葉のような佇まいのものであって、そこへいくと我が家のものは、まるで芋(うも)の葉だ」となる。
 吉成氏によると、ウモはオーストロネシア語に由来する言葉なので、この歌のウモは南方から来たものであり、万葉時代以前に沖縄を経由して大和にも伝わっていたことがわかるという。文脈が少しわかりにくいのだが、イモでなくウモと呼ばれたことに着目したのだろうか。ただ、それなら、魚のことを和語でウヲともイヲともいうので、発音の転訛の可能性も考えないといけない。
 それよりも、蓮の葉と芋の葉とを、同列に比較しているという点が重要だ。似たところが多いから、同列に対比できるのだろう。どちらも水中から葉を出し、根が食用になる。誰もが知っている共通点がいくつもあるが、見栄えが違うので、洒落の効果も大きくなる。
 いづれにせよ、水田のサトイモは、万葉時代の大和でも普通に見られるものだったようである。
 芋で祝う正月とは、稲作が普及する以前からの民俗だとする説がある。一方、その分布を調べると、稲作文化圏にしか存在しないので、稲作文化の一つではないかという説もある。そこで思うのは、「稲作文化の一つ」ではなく「水田文化の一つ」なのではなかろうか。それなら両方の説が矛盾せずに成り立つ。
 水田は、稲も作れば、田芋も作る。古くからあるのは、もちろん田芋だが、田芋しか作らない田でも、良い種籾が手に入れば、水田稲作はすぐにできる状態なのだろう。

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「うどん正月」


「うどん正月」という言葉があるのかどうか知らないが、我が家の隣りの集落では、正月は主にうどんを食べるといっていた。我が家の近隣でもそういう家は多かったらしい。ただ、私の子ども時代はそういう記憶はあまりないのだが、忘れたのか、そういうことが少なかったのかだが、旧上層農民や公務員などは少なかったかもしれない。
市内F地区では、米が獲れる所ではなかったので、主食はウドンや煮ぼうとう、ツメリッコ(すいとん)などだったと、U氏が言っていた。関東地方はおおむね畑作地帯なので、そういう家が多かったのではないかと思う。
戦後に「貧乏人は麦を食え」と言われた時代もあったが、高度成長期に米食が普及していった後も、正月などのハレの日の食べ物だけは変らないというのは、一般的に多い。
米を多く食べなかった時代は貧しい時代だったのだと、人々が意識するようになれば、人はそのことを語らなくなり、記憶から消えてしまうこともある。

有名な学者の対談で、日常食として米食が定着したのは江戸後期以後ではないか、ある山村では戦時中の配給米で初めて米を口にしたという報告もあると言っていた。祭などの共食の場ではなく、隣人の私生活での食事内容については、知らないのが普通だ。普通の人々が、ふと思い出話として、つぶやくような機会にしか知ることはできない。正座して対面して質問事項を読み上げても、本当の答えは得られないだろう。江戸時代から都市部では米の消費量は多かったらしいが、地方では土地によってさまざまだったろう。定着とか普及とかいっても、その定義が曖昧なままでは意味がない。学者やインテリには上層民が多いが、そうでない人が米ばかり食べてきたわけではないことくらいは、頭に入れておかないといけない。

東京下町の地域行事で水団がふるまわれたとき、珍しい物なので、若い人も、おいしい、おいしいと言って食べていたそうだが、おいしいのは良質のカツオダシなどをふんだんに使っているからであって、終戦直後に食べたスイトンほど不味いものはなかったと言った人があった。美味か不味いかは個人の主観なので、なんともいえないが、本当に不味かったのかもしれないし、料理に時間をかけられないほど忙しく働いた時代だったのかもしれない。

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伊勢神宮の古い絵葉書


昭和初期のものと思われる、伊勢神宮の古い絵葉書。
絵ではなく写真であり、「伊勢名所 内宮御正殿」と印刷してある。

裏側の切手を貼る位置の図案が、神明造の建物を横から見た絵に、森の一部と三日月が描かれ、シンプルで微笑ましい絵になっている。

伊勢神宮絵葉書
伊勢神宮絵葉書2

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江戸時代の浮世絵に描かれる「神棚」


江戸時代の神棚の絵について、数年前にある本から画像ファイルにしておいたのがあった。

鳥文斎栄之「新年の祝」。3枚組のうちの中央の1枚とのこと。
左の1枚には、若水汲みをする男が描かれ、中央で娘二人がそれを見ている。若衆が歳神棚に灯明をそなえている。
右の1枚では、屠蘇の準備が整えられているらしい。
歳神棚は、正月だけ設けられ、農村部では棚板の角に4本の紐などを付けて天井から吊す形式が多かった。江戸のこの絵では鴨居に引っ掛けるような形式のものだろうか。松飾りも施され、棚板は顔ほどの高さである。設置場所は、その年の恵方の方角である。古くからの稔りをもたらす年神と、近世の歳徳神の習合形態なのだろう。
供えている人物は、月代を剃らず前髪の残る若衆になっているが、普通は家の当主が行なう。若水汲みも同じく当主が行なった。それらを行なう男を「年男」といった。一部には息子が行なう家もあったかもしれないが、また、絵を売るために若い人気役者の似顔絵の可能性などもなきにしもあらず。


次は、鈴木春信の「節分」の絵。
豆をまく若衆。福の神が内に入りこみ、鬼が外へ出ていくところも描かれる。鴨居に、棚が設置され、灯明が置かれている。
節分は、旧暦では12月の行事であることが多く、新年の歳神の棚が既に準備されているのだと思う。豆をまく男も「年男」と言った。
旧暦では、元日は、立春の前後の30日間のうち月が新月となる日(朔日)であり、立春の前日が節分にある。年によっては、節分が元日の後になることもあり、そのへんを面白おかしく書いた双紙類もある。地方では元日よりも正月15日の小正月を重視したので、節分が小正月の後になることはないわけである。
以上2つの絵は『原色浮世絵大百科事典』(大修館書店)から。


歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)の一場面を描いた歌川広貞の絵。
伊勢の大神宮様のおふだや祓串の入った箱「御祓箱」を、伯母のおみねが持ち出すところと思われ、この箱の中から100両の大金が出てくる話。
場所は、伊勢の御師の福岡孫太夫の家なので、神棚(祭壇)は大きく立派である。
左の男が、甥の貢で、福岡家に養子に入って御師となっている。

御祓箱は、白い紙に包まれ、紙の表には御祓の箱であることがわかるような文字が書かれる。
御祓箱は、年の暮に新しいものが来ると、古いものは御用済みとなり、御焚き上げされることが多い。それで、辞書には「◆碧菁新しいのが来て古いのは不用となるから、「祓い」に「払い」をかけて)雇人を解雇すること。不用品を取り捨てること。」(広辞苑)などの意味もあると書かれる。

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江戸時代の「神棚」の絵


江戸時代には、庶民生活を描いた浮世絵や、絵入りの本が多数出版されていたが、神棚を描いたものを探してみた。

1つめは『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴 作、葛飾北斎 画) 巻之二より。絵の中央上部に、それらしき棚。 
物語を少し読んでみると、戦国時代の大和国の領主 続井(筒井のもじり?)家の家臣の赤根半六は、楠の巨木を伐るとき、祟りなきよう木精を退散させるのに功績があった。先祖は、楠正勝の家来であったという。のち半六は、先に亡くなった妻の遺言により、子の十一歳の半七(半七郎)と、妻方の姪で十歳にも足らぬおさんを結婚させる。そのときの絵。

絵では、棚の下に少年の半七が座り、おさんが対面。右の台所から水仕女(みづしめ、女中のこと)によって盃が運ばれ、左には半六が控える。左奥は納戸つまり寝室であろう。「たがしの」は死んだ母の名だが、描かれた人物は母の霊であろうか。幼い二人の結婚だが、形式だけでも寝室で枕を共にするのだろう。
棚の中央には、箱状の櫃が置かれるが、こちらの 三七全伝南柯夢 では箱の上に屋根が付いている。3文字は「?五郎」とも「?宮神」とも見えなくもないが不明。その上に雲型(ハート型を逆にした形)の穴が見られるのは、位牌や神璽を納める箱の形式である。棚までの高さは六尺はなさそうだ(鴨居が描かれない)。棚の上には、右に折敷のようなものに紙を重ねて供え物のようなもの、左には油の灯だろうか。
伊勢の大神宮を祀った神棚ではないようだ。先祖、あるいは納戸の神、家の守護の神を祀ったかである。
江戸のころは、大神宮は家の縁側ないし戸口近くに男によって祀られ、家の奥には納戸の神が女によって祀られ、時代とともに位置が近づいて、現在の神棚となったと言う学者もある。


2つめは、吉原遊郭の「扇屋の新年」と呼ばれる絵(葛飾北斎)の一部。
立派な神棚が描かれている。そこには大きな宮形が安置され、その前に座しているのが楼主だという。
実際の大きさや高さは、鴨居を基準に見ると、人が半分ほどの大きさに描かれているようだ。


3つめは、歌川国貞の錦絵「江戸名所百人美女」のうち「あさぢがはら」
美女が神棚に祈る、というより、呪いをかけているところらしい。浅茅が原は、鬼婆の伝説のある地。
棚の奥に小さな掛軸が掛かり、描かれているのは仏の像であろう。神なのか仏なのかというと、両方なのだろう。
江戸時代までは神仏習合の時代であり、外を歩けば、神社や寺の境内には、神も仏もさまざまに祀ってあった。庶民の家庭内で、神と仏が明確に区別して祀られたとは、まったく考えにくい。
正月の歳神様の棚は、天井から吊す臨時の形式で高い位置に祀り、伊勢の大神宮の棚も高い位置に常設して、下をくぐることが御利益となるという考え方もあった。
しかし他の多くの神仏は、人が立って対面ないし少し見上げて祈れる高さであり、供え物や清掃のしやすい高さだったようだ。3つの絵はそのような位置に描かれる。

以上の絵は、現在のネット検索でも容易に見つけられる。「こよみの神宮館」さんのパンフレットにも掲載されている。
http://jingukan.co.jp/pdf/omiki_page.pdf


4つめ。『絵本吾妻抉』(北尾重政 画)で、芸者が休日にくつろいでいる様子の絵。
台所の鍋の上に、神を祀っている棚が見える。かまどの神、荒神さまであろう。
現代でも、伝統的な家庭では、台所に荒神様や火防せの神の御札を貼って祀っているところは多いだろう。
昭和30年代ごろまでは、井の神や厠の神、仕事場の神など、家の中にもいろんな神が祀られていた。家の外にも、屋敷神の祠のほか、家畜小屋、蚕屋、作業小屋、土蔵、外の井戸や便所などに、さまざまの神が祀られ、現代でも伝統的な家庭では、正月にはそれらの場所に釜〆などの御幣を祀っている。
神を祀る場所がだんだん少なくなって、神棚1つだけというのでは、神を身近に感じる生活にとっては不便である。道端の石ころや自然の全てに神が宿るなどと言ってみても、口だけのことになってしまう。1つしかなければ人間の宗教観も一神教的に流れてしまいやすいということでもある。
職人の家では、職種によって祀る神が決まっていて、仕事場などに必ず祀っていた。そこで現代では、書棚の空きスペースや、書棚の上などに、小さな宮形を置いて、八百万の神のうちの幾柱かを祀るのも良いのではないかと思う。神の棚は幾つあっても良いし、それらしい所ならどこにでも祀ることができる。
次の絵は、山東京伝の黄表紙『世上洒落見絵図』(黄表紙十種 GoogleBooksサンプルより)のなかの絵。箪笥の上に祀っている。

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1両は、今の30万円、それとも?


宝島社新書の『江戸の家計簿』という本をぱらぱらと見た。
江戸時代の物の値段の紹介なのだが、監修者礒田道史とある。
監修者の序文に「1両は5万円? それとも30万円?」という見出しがあり、
1両は、米の値段で換算すれば5万円、大工見習いなどの給金で換算すれば30万円となり、現代の米の値段が安くなっていると書かれる。
よく読むと、この本は5万円と30万円のどちらを採るということが書かれていない。

中身を読みはじめてみると、両単位の金額については、30万円。
職人の手当ての銀何匁という単位は、60匁が金1両なのでで、30万円。

そのあと「医者と髪結い、高収入は江戸も同じ」という見出しがあり、
医者の薬礼、13文からで、1000円から、
髪結い代の32文は、2400円だという。
さらに旅籠代、高めの宿の200文は15000円というので、換算が高過ぎるように思った。(一泊300文の例もある)
……少し考えてみると、1両=30万円を、1両=4000文で計算するとそうなるようだ。
実際は両と文は常に変動するのだが、江戸中期以後は1両は6000文以下になったことはないそうだ。
私は、1両=32万円、1両=6400文が、実際に近い数字であり、計算もしやすいと思う。
それによれば、1文はちょうど50円になる。
髪結い代は1600円になり、それほど高いとはいえない。

花魁の花代、金1分は7万5000円、これは文が単位でないので、この通りだろう。

そのあと魚の初物の値段で、鯛一尾の金1分以上は、1万5750円以上だという。
花代1分のときと、大幅に換算金額が違う。これでは1両が6万3000円になる。
この換算法は、序文の「米の値段で換算すれば5万円」とも違う。
(鯛一尾が花代と同じ7万5000円とは、初物好きの熱狂が原因であり、庶民の感覚ではないが。)

そのあと、そば一杯16文は、250円だという。これは、1両=10万円の換算。

ここまでくると、1両は、5万なのか、6万3000円なのか、10万円なのか、30万円なのか、読んでいてわからなくなる人も多かろう。
宝島社の編集部で、数人で分担執筆し、それぞれネタが違ったのが原因なのだろう。

図版が多く、日用品などの値段のことを知るには、面白い面もある本なのだが。
「1両=30〜32万円」のほか「1文=50円」を頭に入れて読むしかない。

さて、1両は今の何円かについて、山本博文氏が書かれるには、5万円でも6万円でも良いではないか、当時の日本は現代の途上国と同じであり、給料や物価が今の数分の一の安さだったのは当然、という主旨だったが、それはそれで理屈が通っているのかもしれない。
それに関連して思い当たることがある。あるとき、明治末期の1円は今の2万円くらいだろうと私が言うと、ある人がそれは高すぎるといい、その根拠に当時の西洋建築の建築費の例を上げた。べらぼうに高くなるという。これはつまり、明治のころの日本は途上国で物価が安かったが、西洋建築については欧米先進国の物価水準で先進国に支払わなければならなかったということなのだろう。今の途上国も、日本から来た土木事業者に対しては日本の物価水準で支払うことになる。それは例えば現地の巨大な橋の通行料金が日本並の料金になっていたりするので、すぐわかる(バングラデシュなど)。

とはいえ、これだけ米が安くなり、さらに政府はTPPを押し進め、さらにその先もあるというし、今後、米がさらに異常に安くなる日が目に見えている。残念ながら「米の値段に換算すれば……」というのは、もう通用しなくなってしまった。

「1両=約30万円」という1つの尺度が、20年も通用しているのは、今の経済成長が止まったおかげでもある。(昔はインフレというのがあったので、定額でなく米の値段に換算としたわけである)

江戸時代の1文は今のおよそ50円、そば一杯は800円。ちょっと高いかもしれないが、このそばは手打ちであり、原材料はすべて無農薬、輸送に排気ガスを撒き散らさないし、食器も大量生産品ではない。今それらのすべての条件を満たして800円でできるかどうか。
「食料品が高かった」ということもあろうが、物ができるまでには、さまざまな手間が幾重にもかかっていることを考えるようにすれば良いと思う。

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