1両は、今の30万円、それとも?

宝島社新書の『江戸の家計簿』という本をぱらぱらと見た。
江戸時代の物の値段の紹介なのだが、監修者礒田道史とある。
監修者の序文に「1両は5万円? それとも30万円?」という見出しがあり、
1両は、米の値段で換算すれば5万円、大工見習いなどの給金で換算すれば30万円となり、現代の米の値段が安くなっていると書かれる。
よく読むと、この本は5万円と30万円のどちらを採るということが書かれていない。

中身を読みはじめてみると、両単位の金額については、30万円。
職人の手当ての銀何匁という単位は、60匁が金1両なのでで、30万円。

そのあと「医者と髪結い、高収入は江戸も同じ」という見出しがあり、
医者の薬礼、13文からで、1000円から、
髪結い代の32文は、2400円だという。
さらに旅籠代、高めの宿の200文は15000円というので、換算が高過ぎるように思った。(一泊300文の例もある)
……少し考えてみると、1両=30万円を、1両=4000文で計算するとそうなるようだ。
実際は両と文は常に変動するのだが、江戸中期以後は1両は6000文以下になったことはないそうだ。
私は、1両=32万円、1両=6400文が、実際に近い数字であり、計算もしやすいと思う。
それによれば、1文はちょうど50円になる。
髪結い代は1600円になり、それほど高いとはいえない。

花魁の花代、金1分は7万5000円、これは文が単位でないので、この通りだろう。

そのあと魚の初物の値段で、鯛一尾の金1分以上は、1万5750円以上だという。
花代1分のときと、大幅に換算金額が違う。これでは1両が6万3000円になる。
この換算法は、序文の「米の値段で換算すれば5万円」とも違う。
(鯛一尾が花代と同じ7万5000円とは、初物好きの熱狂が原因であり、庶民の感覚ではないが。)

そのあと、そば一杯16文は、250円だという。これは、1両=10万円の換算。

ここまでくると、1両は、5万なのか、6万3000円なのか、10万円なのか、30万円なのか、読んでいてわからなくなる人も多かろう。
宝島社の編集部で、数人で分担執筆し、それぞれネタが違ったのが原因なのだろう。

図版が多く、日用品などの値段のことを知るには、面白い面もある本なのだが。
「1両=30〜32万円」のほか「1文=50円」を頭に入れて読むしかない。

さて、1両は今の何円かについて、山本博文氏が書かれるには、5万円でも6万円でも良いではないか、当時の日本は現代の途上国と同じであり、給料や物価が今の数分の一の安さだったのは当然、という主旨だったが、それはそれで理屈が通っているのかもしれない。
それに関連して思い当たることがある。あるとき、明治末期の1円は今の2万円くらいだろうと私が言うと、ある人がそれは高すぎるといい、その根拠に当時の西洋建築の建築費の例を上げた。べらぼうに高くなるという。これはつまり、明治のころの日本は途上国で物価が安かったが、西洋建築については欧米先進国の物価水準で先進国に支払わなければならなかったということなのだろう。今の途上国も、日本から来た土木事業者に対しては日本の物価水準で支払うことになる。それは例えば現地の巨大な橋の通行料金が日本並の料金になっていたりするので、すぐわかる(バングラデシュなど)。

とはいえ、これだけ米が安くなり、さらに政府はTPPを押し進め、さらにその先もあるというし、今後、米がさらに異常に安くなる日が目に見えている。残念ながら「米の値段に換算すれば……」というのは、もう通用しなくなってしまった。

「1両=約30万円」という1つの尺度が、20年も通用しているのは、今の経済成長が止まったおかげでもある。(昔はインフレというのがあったので、定額でなく米の値段に換算としたわけである)

江戸時代の1文は今のおよそ50円、そば一杯は800円。ちょっと高いかもしれないが、このそばは手打ちであり、原材料はすべて無農薬、輸送に排気ガスを撒き散らさないし、食器も大量生産品ではない。今それらのすべての条件を満たして800円でできるかどうか。
「食料品が高かった」ということもあろうが、物ができるまでには、さまざまな手間が幾重にもかかっていることを考えるようにすれば良いと思う。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

江戸時代の飢饉は本当にあったか?

だいぶ前にどこかで読んだのだが、天保の飢饉といわれているものは都市部における単なる風評被害にすぎないものであると。たしか福島県あたりのどこかの村で若干の凶作があり、その話に尾ヒレがついて江戸に広まり、米の買い占めや売り惜しみに走るものがまたたくまに増えて米価が高騰し、江戸以外の都市部まで広がって、一部では米を買えない町人による打毀し事件まで起こったという話である。

地元の村の古文書で当時のことに関連する文書が一つだけあり、それは幕府からの村々への通達文書の写しである。同じものが埼玉県史資料編にも載っていた。内容は、村々に対して、米は当面必要な量だけを残しておいて残りは市場に出して売るように協力せよ、隠し持っていてはならぬ、ということである。都市部での売り惜しみに対しても同様の通達があったに違いない。それでも効果がなかったので、村々に通達したのだろう。このことからわかることは、村々には米がじゅうぶんあったということである。あるいは都市部の風評を聞いて、年貢米以外の自由売買予定の米を売り惜しんで溜めこんでいた農民もあったということである。
各地の膨大な村々の文書から天保の飢饉なるものが実際にあったことを証明することは困難であると書いた本も読んだことがあるが、書名は忘れた。

さて昨年末、石川英輔氏のNHKラジオ講座のテキスト(「世直し大江戸学」)を読んでみたら、岩手県で、天明のころの古文書等を再調査する過程で、南部藩における天明の飢饉は虚構であったことが証明されそうである。天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
大石大二郎氏によると、江戸時代というのは、それぞれの藩は独立国家のようなもので、幕府がその上に乗る連邦国家であった。したがって、南部藩のこの行いは、外交上の策略であって、組織内で上層部に虚偽の報告をするのとはわけが違い、必ずしも避難されるべきものでもないわけである。それは南部藩に限らない。無論ばれた場合はどうなったかはわからない。しかし、江戸時代を通じて、否、現代までも南部藩にはだまされ続けてしまったわけである。最近読んだちくま新書の本(民俗学の冒険シリーズ)で、山折哲雄氏の小論があり、南部藩における「天明の飢饉」での悲惨さが語られていたが、山折氏までだましてしまったのである。

規模は小さい話になるが、村々においても、上からの要請を断ったり負担の軽減を望むときは、「困窮至極の村にて」などといった決まり文句をよく使う。助郷免除願いの文書で「困窮至極」と書き、免除の代償として数10両もの大金を用意していたりする。要するに労役は村人がイヤがるので金納にしてくれということなのだが、どういうわけか「訴え」という性質の文書には「困窮至極」という言葉が決まり文句なのである。

小学館だったか最近の通史ものの本で、18世紀(江戸中期)は天災と飢饉の連続だったと書いてあった。しかし江戸中期といえば、内乱もなく、歴史上最も平和で安定した時代であり、人々もそこそこ豊かだった時代である。

最も平和でそこそこ豊かだった時代にだけ、「飢饉」が多発したことになっているのは何故か。
少なくともこの時期の「飢饉」については一つ一つ事実の裏づけを確かめる必要がありそうだ。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

享保の新田開発

江戸時代中期の享保年間の検地帳が2冊出てきたので、内容を吟味してみた。
八代将軍吉宗のころ、地方の新しい産業を興すことが奨励され、草加せんべいなどこの頃からの名産品も全国に多いと聞くが、国民の総生産が増えれば税収も増えるというわけで、農村に対しては新田開発が奨励された。そのとき新たに開墾された田畑の目録が、この検地帳である。
一冊は享保十四年九月、もう一冊は享保十八年三月の日付である。

最初の享保十四年の新田開発は大がかりなもので、検地帳には、約70筆のこまごまとした畑と数筆の田の、所在地や開墾者の名が登録されている。全ての村人が関ったと思われる。
所在地については最も多いのが「屋敷添」で49筆、面積は平均2〜3畝で(1畝は30坪)狭いのだが、この屋敷添以外はほとんど1畝ないしそれ以下なので、面積でいえば屋敷添の土地が全新田のうちの9割近くになると思われる。
屋敷添とは、村人の住居のそばの土地のことで、武蔵国北部の当地は、冬には上州からの空っ風にさらされ、屋敷の西部と北部に防風林(屋敷林ともいう)をもつ家が多かったのだが、その林の一部を開墾して畑にしたようである。
この新田開発にあたっては、上からの割当や目標が示されたようなのである。関東の平地の村々では既に開墾すべき土地はほとんど残っていないのが実情である。目標をクリアするために屋敷林を畑にするしかない。当時村の名主を交替で勤めた2軒の家は平均をだいぶ上まわる1反(300坪)前後の屋敷添の土地を畑にしたのだが、これは、開墾を渋る一般農民を説得するため、見本を示さなければならなかったということだろう。指導者というのはつらいものである。
屋敷添の他の土地では「あみたとう(阿弥陀堂)」に2畝余。阿弥陀堂という小さな祠の裏の林のことだろう。
その他については、1畝前後かそれ以下の極めて狭い土地ばかりである。所在地として字名などが記入されているが、そのなかに「山から」と記入されたものがあり、字名としては聞いたことがない。しかしこれらの土地が何であったかを推定するのは、当地では簡単なことである。当地では市内唯一の古墳群があり、今はその数は少なくなってしまったが昔は非常に多くの数の古墳が連なっていたと伝えられている。屋敷林や阿弥陀堂の裏まで開墾するくらいだから、古墳も開墾されたのであろう。
以前「享保の改革」に関連して、上田秋成の次のような歌をどこかで引用したことがある。
  しめ延へし苗代小田にかげ見えて、年ふる塚の花も咲きけり (上田秋成)
出典は忘れてしまったのだが、古墳が削られて田畑に成り変ることを惜しんで詠んだ歌であるといわれる。これは大きな古墳が削られて小さくなってしまったのだが、もともと小さな名もない古墳は、かげさえ残せずに消えてしまったようである。

さて享保十八年の2度目の新田開発は、わづか九筆で平均1畝未満の小規模なものであった。所在地は2種類の字名が記入されているが、この字名は、村鎮守2社の裏手に当る字名である。開墾できる土地はがなくなり、鎮守の森に手を付けてみたのだが、ほんのわづかしか手を付けられるものではなかったのである。そして3度目はなかった。

当地ではどの家にも広い屋敷林があり、古墳群もあった。しかしそのようなもののない村々では、どのような土地を開墾したのであろうか。おそらく1度目から鎮守の森を開墾した村もあったことだろう。江戸時代の村高のわりに境内の狭い鎮守社しかない地域というのをときどき見かけることがある。当地の鎮守社は、比較的広い境内を保有したまま明治維新を迎えることができた。それには古墳群が犠牲になったからという経緯もあるのである。

田中圭一氏の著作によると、下総国のある村では、享保の新田開発のときに、集落から離れた小さい山の上に平らな部分があったので、そこを開墾して畑にしたという。しかしその畑を耕作するために村人が通うにはあまりに遠距離だったので、いつしか元の林に戻ってしまったという。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

『大岡仁政録』を読む

江戸時代の『大岡仁政録』(白子屋庄三郎一件)の古い写本があったので読んでみると、罪と罰についての考え方の時代による変遷の一端が垣間見えて興味深い。

「白子屋庄三郎一件」の話はこうである。
江戸でも中規模の店を構える白子屋の庄三郎は大変な働き者だった。しかし妻のお常は、派手好きで享楽にばかりふける不道徳者だった。お常は先代の娘で庄三郎は婿である。娘のお熊には又七という聟をとったが、聟の持参金を遊興に使おうという母お常の思惑からであった。母は髪結いの男を間男にしていたが、娘も店の手代とできていて、母娘で道楽三昧であった。
やがてお常は遊ぶ金がなくなると、日頃世話になっている店の旦那に借金の相談に行ったが、お常の遊び癖は既に知られており、説教されて、店は聟夫婦に任せてお常夫婦は隠居するように意見された。
だがお常は逆に聟は追い出そうと計略をはかり、毒殺を試みたりもした。さらに、婿の持参金を返さずに離縁する方策として、下女をだましてカミソリを持たせて聟を襲わせ、婿と下女の不貞による心中未遂をでっちあげようとした。だが失敗して御用となる。

 大岡越前守の裁定はこうである。
 娘お熊 密夫 殺人共謀などにより 引廻し・獄門
 手代  密通と五百両の盗みなどにより 引廻し・獄門(髪結も同じ)
 下女  主人への殺人未遂により 死罪
 お常  養子への殺人教唆により 遠島
 当主庄三郎 監督不行届きにより 江戸追放

なかなか重い罰であるが、当時は罰則については厳しいものがあった。現代では罰則は軽く、特に役人による不正に対する罪があまりに軽すぎると思うがそれは余談である。

さて、気になるのは重い罰が多い中に、お常の罪が比較的軽いという点である。元はといえばこの女が一番悪いような気もする。
しかしよく考えてmると、おそらくこういうことだろう。つまり、お常は仮にも被害者の養母だからということである。
すなわち、処罰するということは、被害者から見れば報復なり仇討ちのようなものであって、それを公権力が代行するにも等しいのだというような意識が、当時は強かった。お常が死罪となれば、養子が養母を殺すに等しいということになり、「親殺し」になるので、それは避けたいという意識なのだろう。とくに処罰する側の武士の、親や主君に対する意識では、そうなるのである。
そそのかされたにすぎない下女が死罪となるのは、「主君への謀反」のようなものだからであろう。

お常、お熊のように、代々娘が婿をとるのは、江戸時代の商家では普通のことである。庄三郎は元は先代の番頭だった。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

名主が小作をする証文 など

江戸時代の農村では、よほどの例外でもない限り、身分ないし専業職としての「小作人」というのは確認できないと思う。西洋史を無理やりに当てはめて日本の農村に大地主がいて、土地を持たない大勢の小作人が働くということを吹聴するのは大きな誤りであるというほかはない。
当地では小作人はもちろん存在しなかった。
司馬遼太郎の対談集での発言によると、彼の故郷の大阪近郊では、よっぽどのわけありの家が一軒だけ「小作人」としてあっただけだったという。それは昭和初期の話であるというが、明治以後の地主が増えていった時代でさえそうなのである。また西日本のほうが東日本より子供の出生率がやや高く人口も過剰ぎみであるにもかかわらずである。

さて『百姓の江戸時代』(筑摩書房)の著者田中圭一氏によると、越後地方にはいくらかの「小作人」がいたような書き方である。小作だけなら年貢もないし、休みたいときに休めるので気楽であり、そのほうが良いと考える人もあるということである。こうした人に他に職があるのかどうか詳細は不明だが、いづれにせよこれもごく小数ということだろう。

北武蔵の当地に、江戸中期から後期の「小作證文」が数通残っているが、小作すなわち他人の土地を期間を定めて借りて耕作していたのは、比較的裕福な家ばかりで、名主や組頭クラスの人たちばかりである。
江戸時代は庶民の家はどこも子供が少なかったのだが、裕福な家なら4〜5人以上の子供があり、男子も2人以上あった例が多い。そうでなく子供が少ない家では、男の子のない家が3割近くあり、そういう家では娘に婿をとるのだが、婿を供給するのが上層農民ということになる。上層農民の家では二男以下の男子が成長してくると、労働力が過剰になる。そこで逆に働き手の少ない家の土地を借りて耕作したということだろう。それで小作をするは上層農民ばかりだということになる。

同じ一軒の家でも、ある時代には三代の夫婦が十分働けるときもあれば、一組の夫婦しか働き手がいない時期もある。こうした労働力の過剰と不足を、村内の人々で補い合うのが小作なのだと思われる。

名主が他村の名主から小作をするという證文が存在するのだが、これは少々変っていて、小作料が先払いになっている。小作に借りる土地というのが、もとはこちらの名主の名義だった土地で、その土地を他村の名主に質入れして借金をして金銭を得、さらにその土地を小作することによって小作料を先払いで得たことになる。何かの金策のための便宜かもしれない。あるいはその土地も元は名主のものではなく、質として預ったものが流れたために、貸したお金が戻らず、そのための金策かもしれない。

ところで明治の初めには、土地を売る農民が増え、土地を売って金を得て、同じ土地を小作して毎年の小作料を得るようなことがブームになったらしい。そのほうが当面の収入は増えるのである。しかし長期的に見ればマイナスになることはもちろんである。けれどそれが新しい時代の生活スタイルであるかのようにもてはやされたようである。
これと似たようなことが、1990年代ごろからのフリーターのブームとしておこったことは記憶に新しい。正規社員よりも派遣社員やフリーターのほうが、当面の年収は確かに多かった。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

「おやけのとと」と組頭

佐藤常雄(著)『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)が近世史の最良の入門書だと思うが、この本は冒頭から、日本では江戸時代初期まで夫婦が同居する慣習がなかったことから始まっていたと思う。
核家族と直系の祖父母が同居する家族形態は、江戸時代の最初の百年くらいのうちに徐々に定着していった。それが可能となったのは、時代とともに近代的な意識に近づいていったのが大きいのだろうと思う。
秀吉の時代に行なわれた検地は、田畑を耕す者の耕作権と所有権を保証するものであったが、当時は、同じ苗字のリーダー格の者が数町歩を所有することが多かったようで、江戸時代になると家族はそれぞれ独立・分家して小規模経営の農業が主体となっていった。こうして農業では「中間搾取」のようなものはほぼ皆無になったことになる。

寺請制度なども、家族生活の保証と引き替えに、庶民の側で受け入れることになったのだと思う。それ以前は家族の成員ごとにお寺が違うのが当たり前であったのだが、それは、住んでいる場所が違ったからお寺も違ったのだともいえる。

分家というのはほとんど江戸時代の初期か明治以降に成立した家のことである。
「同じ苗字のリーダー格の者」とは、越後方言でいえば「おやけのとと」のことであり、後に分家する「をぢ」たちとともに江戸時代初期までは共同で暮らしていたようだ。歴史学者は、おやけのととのことを名主(みょうしゅ)と言い、をぢのことを名子(なご)と言っている。
名主(みょうしゅ)とは、江戸時代の村の名主(なぬし)とは違うものである。ややこしいので、名主(みょうしゅ)でなく「おやけのとと」の用語を使うことにする。

おやけのととの中には、村の名主になった者もいたが、最初は名主の下の村役である組頭(くみがしら)というものになった。分家が成立したとき、1軒の家が平均すると5軒になったので、そのグループの呼び名を、北武蔵あたりでは苗字で「○○一家(いっけ)」と呼んだが、苗字の使用は禁止されたので幕府のいう「五人組」という言葉を村でも使うことになった。この「五人組」の頭(かしら)が「組頭」である。すべての組頭が集まって村の代表の名主を互選し、村は名主を含めた組頭たちの合議制で運営されていくわけだが、時代が進むと同苗一家のリーダーがよりふさわしい別の家に交替することも多く、新しいリーダーが組頭になるわけである。
名主・組頭・百姓代といった村の三役が整備されると、百姓代になった「おやけのとと」もある。
すべての同苗一家が同じ戸数ではないので、五人組の中に違う苗字の者が入ることもあり、家々の様々な盛衰によって組合せも変化する。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

「おじ」という言葉

日本人は、伯父と叔父、伯母と叔母の書き分けは、学校で教わるのでたいていはできる。ところが親の兄弟姉妹以外の、祖父母の兄弟姉妹や親類の年長者、近所の年長者に対しても、オジサン、オバサンと呼び、いつの時代からか「知らないオジサン」という使い方もあり、文字表記は適当にすますしかない。

未来社『日本の民話』越後東頚城郡に「伊勢参りと雷様」という昔話があり、冒頭部分に「おじ」という言葉が出てくる。

「村の孫右衛門と吉右衛門と徳右衛門の三人連れで、伊勢参りの相談をしました。三人とも"おじ"で分家したばかりで、おやけ(本家)の"とと"に相談して、許しを得ることになりました。おやけのとと(親父)は、喜んで許してくれました。」(同上書)
このあと、留守を預る村人たちが日を決めて行なう予祝行事のしきたりの数々が書かれ、興味深いのだが、それは本題ではない。

本家のあるじを「とと」といい、分家のあるじを「おじ」といっていたことがわかる。昔話を聞いているのは村の子供たち一般であるので、誰から見て伯父叔父なのかということではないわけである。分家の後に何代を経ようとも、分家のあるじは「おじ」であり、村全体で、そのように「とと」「おじ」と呼んでいたのだろう。

武蔵北部のある家の墓所の区画内に、「伯父」「為伯父」と刻まれた江戸時代中期の石塔(墓石)が2つある。分家2軒の初代の墓を、本家のあるじが立てたもので、続柄から言えば「叔父」または「親の叔父(祖父の弟)」に当たるが、伯父という漢字はただ字を宛てただけのことで、要するに大和言葉の「おじ」であり、分家のあるじなのである。このような意味の「おじ」という言葉は、さらに広い地域で使われていたと思う。

書名はすぐに出てこないのだが、実話集か物語か忘れたが、井原西鶴の訴訟事を扱った読み物のなかに、親類どうしのもめごとがあり、双方が相手を「おじ」と呼びあっていたという話がある。なぜお互いが「おじ」なのか、話の結論では、男が孫娘と結婚すると、娘の父親と男の関係は伯父と叔父の関係になるらしい。そうした近親どうしの関係を奉行所で暴かれて、話は終る。しかしどうも腑に落ちない話だった。
今思うには、分家どうしだから「おじ」と呼びあっていたのではないか。そうした村のしきたりを知らない武家か商人がそれを端で聞いて、興味をおぼえて、後に頓知話のようなカラクリ構造のような関係を思いついて話が出来、西鶴の耳にも入ったのではないか、と思えるのである。
comments (2) | trackbacks (0) | Edit

都市と農村と、領主

 ヨーロッパ史では、民主主義は、日本の近世の時代に、都市部の市民階級から広まったという。農村部では日本の武士階級に相当する貴族が城を構えて大規模な農場を所有・経営し、農場では農奴のような人が働いていたらしく、農村部で貴族と農奴とではなかなか対等な関係は生れにくいのだろう。ヨーロッパのお城は、郊外の村(森近く)に多い。
 日本の近世では、お城の下には城下町が拡がり、都市である。都市の武士と町人とでは、やはり政治的に対等な関係は生れにくい。日本においては、農村部で、小規模な家族経営の農民たちの間では、かなり平等な人間関係が誕生していたようである。日本の民主主義は農村部から始まったともいえ、このへんのところは今後より明らかになって行くだろうと思う。しかし政治の中心は都市へ都市へと集中してゆく時代であり、農村が主役となることはなかったが、少なくとも地方自治の見本は既に成立していたのである。

 近世の日本の武士は、ほとんど土地を所有せず、江戸の旗本たちは、住居さえ公用地を徳川氏から借りるか、商人から借りて住んでいたらしい。土地を持って土地にとらわれることを恥としていたともいう。のちに明治新政府が出来たとたんに、彼らは住む土地すらも失い、抵抗どころではなかったのだろう。

 日本の武士が持っていたのは領地に対する年貢の徴収権である。武士は年貢と引替えに、治水事業などを行なって農地での耕作を保証する義務があった。畑より田の年貢が高いのは、治水の費用がかかるからである。戦国時代末期から江戸初期にかけて、治水土木事業で名を残した武士は多い。そのほか、農工具の貸し出しもした。日本の政治は、環境を調えることに主眼があったようで、福祉事業などはおおむね村任せということかもしれない。
「土木事業によって必要な環境を整備するのが政治」という考え方は、現代では必要性がなくても道路や箱物作りに勤しむような歪んだ形になっている。
 また稲作のための種籾の保証も領主の役割である。年貢米は、貸与された種籾に対する返礼の意味でもあり、領主というのは司祭性を持つものである。

 西洋では土地も生産物もすべて領主のものであるが、なんといっても、生産食料の分配権を領主が独占することに最大の特徴があるのではないだろうか。家庭の食卓でも家族に食肉を切り分け分配するのは父親の役割だという。食料の分配に政治の主眼があり、民を食わせられない領主は打ち負かされる可能性もあるわけである。戦争経験も多く、食料を輸入に頼ることはない。
 日本の近世を飢饉の連続だったかのように言う者もあったが、実際は、乱開発による洪水などの「人災」であったり、買占めが原因の食料不足であることが多かったらしい。自然の恵みは比較的豊かな国であり、村々の地域社会の相互扶助や連係はしっかりした国だった。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

年貢の話 その2

年貢の多い少ないという話である。
東京板橋区で出版した史料集の解説によると、村人のうち20石以上の者もあれば2〜3石の者もあり、「農民の階層分化」が進んだせいだと書いてあったが、表に出た数字だけを論じているだけのようである。江戸時代の論評で「農民の階層分化」という言葉が強調されているものは、ほとんど信用できないものばかりである。

20石とはどの程度の経済規模かというと、たとえば商売でいえば、商売を始めて最初は苦労したが今ではどうにか人を雇えるくらいになった、というような、それが20石程度である。本人と使用人の2世帯の稼ぎということだ。
中規模以上の農村では名主クラスの家では使用人がいるのが普通で、番頭と呼ばれていた。人別帳などでは本百姓(納税者)ではないという意味で「下人」と書かれるが、商家の番頭以下もみな下人なので、そういう用語を使う決まりがあったのだろう。
村の名主は、農繁期であっても外交などで外出せねばならぬことも多く、番頭の男手は必要であった。名主家の番頭は、村役人の娘婿などの縁者であるとか、信用のある者が雇われ、もし離散した農家があればすぐに後釜として独立して、本百姓となることができる。

当地には造酒屋があったが、その造酒屋の借金の證文に「酒造株 五十石」という評価が書かれている。50石という数字から経営規模や雇用規模を推し量ることができると思うが、納税方法については、まだわからない。

当時の平均は1軒が10石ということだそうだが、この平均に及ばない5〜6石前後の家が、当地では少なくない。これは隣接する宿場の御伝馬の馬子を兼ねる兼業農家だからである。5〜6石の石高は農業分だけのものである。
御伝馬とは、宿場に設けられた幕府公用の運輸を担う職業で、宿場ごとに必要数の人馬の確保が義務づけられ、実際は宿内で営業する問屋が一切を請うことが多かった。問屋は必要な人馬を調達するのに、手元に気性の荒い専門の馬子を寄宿させるのではなく、周辺の村々と契約を結んで農家に依頼するほうが安心と考えたようだ。村で御伝馬を引き受ける農家は、馬喰(馬子)としての現金収入もあった。当地ではこれが村高に加算され、村全体では314石も加算されている。

2石余りしかない家が1軒見つかったが、中山道の端で居酒屋を営む家である。村内では対等の付き合いをしているのでいわゆる極貧ではない。2石余りは田畑の分で、別に店の分があったのだろうと思う。店の分の石高や納め方は未確認。居酒屋などに対し国定忠次のような集団が金品の徴収権を持つことは黙認されていたろうが、それが公の年貢と二重になるのかならないのかは未確認(筆者は徴収権は二重にならないのではないかと疑っているが)。
comments (3) | trackbacks (0) | Edit

年貢の話 (四公六民の謎?)

 加賀百万石、岡崎五万石など、江戸時代には国や城下の生産高を表現するのに石高が使われた。
 日本の村々の平均的な石高は、五百石ほどで、平均戸数は五十軒ほどという。一軒の石高は十石くらいになる。十石とは、田畑に換算すると十反(一町)。一町歩の田畑があれば、家族が働き、平均的な生活水準を維持できた。
 ところで量の単位では1石は10斗である。米4斗が1俵なので、1石は米2俵半。1反の田から米1石(2俵半)の収穫を想定して、これが一人が1年間生活するための米の必要量であるとされた。現代人はそんなには食べないが。

 「四公六民」という年貢の計算方法があるらしいが、四公すなわち4割が年貢だとすると、年貢は田1反につきちょうど米1俵である。江戸時代の村の文書にも、一反につき平均ほぼ一俵の記載がある。しかし実際の一反の田からの収穫は、米2俵半ということはない。災害さえなければ5〜6俵以上だろう。これだけでも田の年貢は、実際の米の収穫の2割以下になる。裏作の麦の収穫を考慮すれば、田の年貢は1割ちょっとにすぎない。
 年貢は土地にかけられる固定資産税のようなもので、米2俵半とは固定資産税の評価額のようなものである。評価額が実際の市場価格と異なるように、米2俵半は実際の収穫とはかけ離れた数字である。

 さて畑の年貢については、当地では1反で永90文余りで、これは普通の銭では4倍の360〜380文になるので、ほぼ1朱である。米1俵の平均的な価格を1分2朱とすると、畑6反で米1俵分の年貢である。畑の年貢は田の6分の1ということになる。畑からの収穫量は、江戸時代初期は同じ面積の田の米の収穫よりずっと低かったと思われるが、江戸中期以降は商品作物の栽培も増え、田の収穫を上まわるケースもあったようである。それでも畑の年貢はあまり上がっていない。

 田と畑を5反づつ所有している家では、年貢は収穫の1割をだいぶ下まわる。ただし街道筋の村では、助郷と称する運輸労働の奉仕が月1〜2回程度あるので、このぶんを金銭に換算すると、1割程度といったところであろう。
 むろん間接税もなく、現代からみれば非常に安い税金だったのだが、これは今でいう「小さな政府」のためであり、生活の多くは村の自治に依存していたためである。「地方税」ともいうべき村の費用の負担は、別に納めなければならない。
 とはいえ農民が「四公六民」の重税に苦しんだというのは誤りである。

 江戸時代を通じて、年貢は書類の上ではほとんど値上げされなかった。しかしそれでは農民の収入ばかり増えて、物価は上がっても武士の収入は増えない。次第に年貢先納や臨時の上納金などが増えることになるが、それらについても武士は体面を重んじて、農民に対して借用書を書いている。最低限の利息で暮の年貢の際に清算するという内容である。しかし借金が1年ぶんの年貢額を上まわり、清算しきれないで溜まった借金がある程度まで増えると、「借切」と称して、借金がなかったことにしたようである。その額はおそらく農民の収入増に比例した程度のものだったろう。しかしその負債分を一部の村役人のみが負うことになると、幕末のころには新手の商売に手を出す農民も増えてくるわけである。
comments (2) | trackbacks (0) | Edit

  page top