神話の森のブログ

+古文書の森。 日本の神話や民俗、また近世農村研究

絵経


絵経盛岡てがみ館 http://www.malios.co.jp/~mfca/tegami/
で5月初旬まで行われた「諸資料が物語る幕末の盛岡藩」という企画展のパンフレットに、絵経が掲載されていた。それを見ながら、なんと読むのだろうかと首をひねっていた。
「吉祥陀羅尼」というお経の名前を頼りに、調べてみた。

消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shousaijyu.htm

上記ページとは繰返し部分が若干異なるが、「きちじょうだらに」で始まり、最後は「しりえい そもーこー」と読むのだろう。

「そもーこー」は「そわか」ともいうようだ。蜂に刺されたときなどの呪文に「……アビラ、ウンケン、ソワカ」というのがあったが、ソワカとは、仏の誓が成就する意味になるのだろう。
消災妙吉祥陀羅尼は、庶民の大師講や太子講でも、「般若心経」や「大悲心陀羅尼」などとともによく唱えられると、越前の永平寺関連のページにあった。

絵経は文字の読めない庶民のためのものという。全部ひらがなにしないところに、文字や図象に対する信仰があるようにも思う。幕末に流行した「神代文字」に似た点もある。

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すさまじきオヤジギャグ


むかし高校の古文のテストで、「すさまじ」の現代語訳を書けという問に、「しらける」という流行語を書いてしまって良い点をもらえなかったことがある。

枕草子に「すさまじきもの」という段がある。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/makuranosousi.htm#su
そのなかの牛車の話に……
必ず来ると言った人(男)に女が牛車を差し向けて待っていると、牛車が帰って来た音が聞えたので、門が見えるところまで出てみた。ところが牛車は門の前を通り過ぎて行って、脇の車庫に入ってしまった。男は今日は来ないらしい。……こういうのが「すさまじ」ということのようである。期待を持たせてがっかりさせるもののこと、という感じで、辞書ではよく「興ざめする」意味と書かれる。

枕草子の冒頭には「すさまじきもの。昼ほゆる犬。春の網代。三、四月の紅梅の衣……」とある。
「春の網代」というときの「網代」とは、冬に川の流れの中ほどに仕掛けておく魚を採る篭のことで、網代は冬を連想するものである。また「火おこさぬ炭櫃」も「すさまじきもの」というからには、「期待をさせてがっかりするもの」のほかに「寒い」という意味もあるのだろうと、金田一春彦氏の本にある。
「三、四月の紅梅の衣」とは、桜や牡丹の季節に、梅の模様の衣を着ている人を見たら、梅の季節を思い出して寒々しいということだろう。

さてちょっと知性派のようなおじさんの話を、まあまあ良い話だなと思って、続きを期待しながら聞いていると、突然オヤジギャグのダジャレを言い出す。こういうときに若い人は「さむい」と言う。「寒い」を意味する言葉を「がっかりする」という意味でも使うのは、現代の若者も、清少納言も同じだということになる。(ちなみに、こういうダジャレをある時代の高校生は「しらける」と表現した)。

「すさまじい」は「凄じい」と書くが、平安時代の辞書には「凄」という漢字に「さむし」という訓が書かれているという(金田一氏による)。「寒い」という意味から「ものすごい」という意味になるのは、寒気がして鳥肌が立つほど驚いた、または恐ろしいという意味なのだろうか。

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使用漢字の増えたWindows Vista


Windows Vista を導入してみたが、新たに、JIS第3水準、第4水準の漢字など、4354字の表示・印刷が可能となったとのこと、多くの漢字の表示を確認した。

今回JISのバージョンの規格変更により、168文字の字体が変更されたために混乱も伝えられるが、使用文字が増えたことは、歓迎したいと思う。ビジュアル面ばかりの特徴が宣伝されているWindows Vistaだが、多数の漢字を使えるようになったわけである。

神名地名難読漢字・ユニコード対照表」の中の漢字の8割程度が、普通に表示されるようになり、そのページに注記を追加して更新した。
これでたとえば「猨田彦神」とあるのを「猿田彦神」と書き替えずに住むようになったわけである。

Windows Vistaは、メモリ等ハードウェアの追加が必要となることが多いので、OEM版とメモリのセットで購入すると良いと思う。

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春夏冬二升五合


最近見聞きしたいくつかの洒落のきいた話。

ある料理屋の壁に飾られた色紙に次のように書かれてあった。
 「春夏冬
  二升五合」
「春夏冬」は秋が無いので「商い」のことだとすぐわかったが、「二升五合」の読み方に困って、同席の70才くらいの風流そうな人に聞いてみた。つまり「二升」は一升桝が2つでマスマス(桝桝)、「五合」は一升の半分だからハンジョウ(半升)。「商い益々繁昌」となる。昔の風流な人が店のお祝いの時にでも書いて贈ったものなのだろう。

ある上棟祭のときに神様にお供えする魚や野菜を大工さんが用意することになった。大工さんの手帳には野菜に「大根」と書いてあって、もっと高額なものを用意できる予算はあるのだが、大根は「胸がやけないから」大根なのだという。「棟が焼けない」を掛けているわけである。
上棟祭のときの引出物はどこの家でもヤカンと決まっていたものだった。これも家を「焼かん」という意味である。

人丸神社(ひとまるじんじゃ)が「火止まる」で火防せのご利益があったり「人生まる」で子授けや安産のご利益というのも、語呂合わせから始まったものなのかもしれないが、長い年月にわたって繰り返されているうちに、一つの信仰の形に定まってゆくのだろう。
現在でも、結納品の品目の「子生婦(コンブ)」やら「寿留女(スルメ)」といった書き方は、一式がセットで販売されていることもあって、よく知られていると思う。

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まつり(祭)の語源


まつり(祭)という言葉の古い意味は、つまり、しきたり通りに行うことであると、折口信夫の本にひとことだけ書かれた部分があったと思う。
しきたり通り行うとは、毎年繰り返すことであり、季節が繰り返し、年月、そして人々も世代をこえて、大事なものを繰り返し伝えて行っているということである。
「政治」の意味の「まつりごと」の元の意味も「しきたり通り行うこと」であったらしい。

まつりという言葉は、日本語の基本語中の基本語であり、他の言葉から派生したというような語源説は当たらないことだろう。むしろ、まつりという言葉がどのように意味を広げていったかを見るのが良いと思う。

「たてまつる」とは、食物などを献上したり相手をもてなす意味である。「たつ」とは、煙や湯気が立つように、下から上へ向かって新しいものが現れることで、「たてる」は、上に向かって現れるようにすることなので、それだけで「献上」の意味に近くなる。祭では物を献上したり神をもてなしたりすることは不可欠のことなので、「たてまつる」を「まつり」の語源とする説もあり、たいへん魅力があるのだが、「たてまつる」は派生語として後からできた言葉なのだろう。

「つかえまつる」とは、大祓詞では建物などを作って差し上げることで、「つかえる」に「築く、作る」の意味があるようだ。その建物のもとで奉仕する意味から、服従の意味に広がっている。「まつろう」(服従する)という言葉もある。神につかえまつることも、祭の重要な要素だが、これらも言葉の源ではなく派生語なのだろう。

「まつり縫い」とは、洋裁などでも使われて多彩な意味になっているが、和裁では、半返し縫いの意味もあると辞書にある。和裁の方面は詳しいことはまったくわからないのだが、糸が表で少し戻っては裏では更に先に進んで行くようなことを繰り返して、まっすぐ丈夫に伸びたり、複雑な刺繍が完成するらしい。

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ことばの言い替え


上のブログタイトルの下に「日本語などについて」とあり、一つのテーマです。このブログでは、古き良き言葉をたどるとともに、現代の日本語の問題点についても考えます。問題点とは、じつは若者言葉の多くは日本語史の流れからみて大きな問題はなく、官僚や企業、マスコミ用語に多くの問題があるという話になると思います。

さて最近耳にした「認知症」という言葉、認知症の老人とはボケ老人のことですね。差別感を危惧しての新語なのでしょう。本来なら認知障害としないと意味が通じないのですが、認知症と言替えたのでしょう。こういう言葉もある程度はやむをえないのでしょうが、最近はあまりに多量過ぎます。

ある程度やむをえないとは、日本語では忌むべき言葉を言い替えたり遠回しに言う言葉が多いからです。

今は駅などでもトイレという表示ばかりになりましたが、お手洗いその他、どんどん言い替えられて死語のようになった言葉がたくさんあります。古い言葉では厠(かはや、カワヤ)という言葉。ただし1300年前の古事記にも厠という漢字が出てくるのですが、後世の訓で慣習的に読んでいる可能性があるかもしれません(詳細については調べていませんが)

腰という言葉は今では腰骨の周辺のあいまいな部分をいいます。古代では細腰というようにウエストの意味だったのです。今の腰骨の周囲を呼ぶ言葉もあったのでしょうが、その言葉は嫌われて死語となったのでしょう、その部分から少し離れた部分を意味した腰という言葉で代用するようになりました。性的なものを連想する言葉が言い替えられたのでしょう。古事記には性的な表現が多いのですが、これらも後世の訓で読まれたための可能性があり、「大らかな古代」についても少し差し引いて見なければならないと思います。

ネズミをヨメと言い替えた話は10月10日の記事に書きました。ネズミを神の使いまたは神そのものと見て、忌々しきものと考えたからでした。神さまの名前を口にすることを忌んで、長い年月のうちにその名を知る者が誰もいなくなって、学者の知恵で再び名づけられたような例もあります(しかしそれで信仰の形が変わったというわけではありません)。

人を呼ぶのに、他人や格上の人の実名を呼ぶのは非礼だという感覚は今でもありますが、そういう場合に「部長」などの職名で呼ぶ場合があります。単なる職名の言葉なのですが、常に「格上」という感覚がつきまとって最近は「敬称」とまで意識する人が増えました。やや敬語法の混乱を招いている嫌いもあります。

★神や人の名前・所有物、性的なもの、排泄に関するもの、など、どの時代の言葉でもそれより古い時代の言葉が言い替えられたものであることが多いわけです。

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仏教のことば、神道の言葉


ひろさちや氏に、"知らずに使っている仏教からきた日常語"といったような内容の本があったような記憶があるので、書棚を探したら、同氏の監修による『仏教のことば 早わかり事典』(主婦と生活社)があった。

食堂、大袈裟、普請、勘定、会釈、行儀、行水、ろれつ、……、そのほか、仏教にゆかりする日常語が多数解説されている。たとえば会釈とは、「利会通釈」の略で、矛盾するかに見える理論を照らし合わせて相通じる意味を求めること、転じてお互いが理解しあい心配りをすること、という説明がある。

日本人の宗教のもう一つの重要な柱に神道があるが、神道からきたこのような言葉を探すのは意外にたいへんかもしれない。
最近よく耳にする言葉では、官僚のアマクダリとか、当選した汚職議員のミソギは済んだとか、良い言葉ではない。古くからの言葉ではオハライ箱というのがあり、伊勢神宮の御札を納めた箱のことで、御札は1年でとりかえられて御用済みになるからそういうとの説もあるが、別の説もある。仏教からの言葉でもオシャカになるという。

仏教の言葉は、外来した当時のまま語形が変化しないで残っている。行燈などは読み方まで中世のままである。それに対して大和言葉でものの名前を言ったとき、あまりに日常語すぎて語形が変ったり、言葉そのものが入れ替わったりしてしまう例も多い。行燈そのものは特に仏教というわけではないのだが、仏教とともに外来したときのインパクトがそのまま残ったのだろうか。

それでも神道らしい言葉を探すと、まづ「から」がある。"一族"という意味の同胞(はらから)、輩、朋がら、そして、人柄、家柄、さらに神柄という言葉もあった。似たような意味の「スヂ」は、血筋のほか、沖縄のスデ水などとも通じる。胡座(あぐら)や櫓(やぐら)の「くら」も神座と関係する言葉である。

名詞ではなく動詞という観点からみると、日本の神名、特に女神の名に、動詞と言える言葉がそのまま使われている例が多いのに気づく。天照大御神、下照姫、玉依姫、木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)、宗像の多紀理姫(たぎりひめ)と湍津姫(たぎつひめ)など。

良い意味の言葉に出会っても、文学的情緒的に感動してしまって、分類してメモしておこうという気持ちにならないのも大和言葉なのかもしれない。
いづれにせよなかなか先が見えないでいる。

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