ユリシーズ

ギリシャ神話というか、ホメロスの叙事詩を再構成したイタリア映画『ユリシーズ』をNHK-BSの正月テレビで見たが、なかなか良い映画で、音楽が良ければもっと良いだろうと思う。
ジョイス(丸谷才一訳)の小説『ユリシーズ』は、40年も前に購入して未読のまま収納中。

ユリシーズ(ギリシャ名でオデュッセウス)は、トロイ戦争で手柄をあげて帰還するとき、さまざまな島へ立寄って、島の王女やら魔女やら女神たちに遭遇したり、一つ目の巨人の神との戦いなどのシーンもあり、飽くなき冒険は20年も続いた。映画でも、ナウシカ、キルケ、セイレーンなどの名前は多く出てくるが、話を2時間以下の映画にまとめなければならないのは大変だ。
出逢った女たちについては魔女キルケの話が映画のクライマックスになっていて、その島を抜け出そうとするとき、島に残って不死の身で神となり恐れるものもなく暮らすか、外へ出て人間のまま死を怖れて暮すか、の選択を試される。「怖れてこそ勇気の価値がある」と映画のユリシーズは言う。勇気とは、ユリシーズが武人だからそういう言葉を使うのかもしれないが、怖れとは、畏怖のことだが、限りあるもの、儚いものへのうつくしみでもあるのだろう。

ジョイスの訳者・丸谷才一によると、20世紀文学の特徴の一つに神話的方法があるとのことで、神話的方法はナショナリズムを越えるためのものであるという。けれど日本国内だけの狭い意識で記紀神話をとりあげても、そうはならないので、よくよく注意しなければならない。
ユリシーズ
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「こだま」と「ひかり」

昭和39(1964)年の東海道新幹線の開業のときの列車名は、「ひかり」と「こだま」だった。「こだま」とは音速の意味でもあり、秒速340メートルとまではいかないまでも速いもののことだったのだろう。新幹線以前の最速特急列車の名前をそのままひきついだものである。「こだま」より速い「ひかり」は、光速の秒速30万キロメートル、大げさではあるが、高度成長時代の景気付けだったのかもしれない。

バブル崩壊後の1992年に更に速い新幹線「のぞみ」が誕生した。「のぞみ」は、いかにも不況の時代を示すような名前であり、人々が精神の内面の世界をさまようようになってしまった時代の象徴だろうと、堀井憲一郎という人が書いている(『若者殺しの時代』)。
それに付け加えるならば、「ひかり」や「こだま」は必ず反射して帰ってくるものだが、人々の「のぞみ」には見返りがあるとは限らないということである。人々の一方的な無数の「のぞみ」が衝突しあう時代になってしまったからだろうか。「のぞみ」以前の昭和50年代(1975〜1984)には、実際に、若者たちが地方に帰って就職先を求めた「Uターン現象」が注目された時代もあったのである。

「こだま」以前の国鉄最速特急の名前は「つばめ」だったと思う。つばめも秋には南方へ去って春には帰ってくる。周期の期間こそ違うが、「こだま」も同様の命名法によるものだった。虎は千里行って千里帰る、だから出征兵士に千人針の布を持たせた時代もあった。片道とか片便りといった「片」のつくものを日本人は嫌い、二つ揃ったものを縁起の良いものとしてきた。紅白まんじゅうや、相撲の横綱も東と西の二人は対等であるし、手紙の便箋も2枚にするために白紙を添えた。そのような日本人的な感性でもあった。

しかし「ひかり」が反射して帰ってくるものだというのは、理科の知識としてはその通りだが、日常感覚としてはどうだろうか。否、それよりも、宇宙には光速よりも速いものは存在しないという知識がありながら、次世代のことは考えずに、単なる一世代に過ぎない者たちが、この世の最速を名乗ってしまったのは、なぜだろうか。
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翁の知恵

数ヶ月前から「翁の知恵」ということを考えていた。
人間五十を過ぎれば「翁」であろう。
巷では「おばあちゃんの知恵」と称して、家事に関しての古くからの知恵が、意外に理にかなったものであり、人の心も豊かにするような、そんな伝承の価値が再認識されている。それに対しての翁の知恵のことである。
そういうのが高齢化社会の新しい文化になったら良いのではないかと思った。

『老人力』という十年以上前のベストセラーをもう一度開けばヒントになるかと思ったが、たまたまコンビニで売っていた『中央公論』の新年号の、山崎正和氏の言葉が面白かった。
簡単にまとめてみると、もともと江戸時代の文化は、大田蜀山人をはじめ中高年が文化の担い手であったという。若者はもっぱら肉体労働に従事し、文化の作り手は中年以上の旦那衆や御隠居衆だった。吉原も若者が行く場所ではなかった。
江戸時代以前は世界中がそうであり、明治以後の日本だけが若者文化中心になりすぎているらしい。芥川賞も青春文学ばかり。
日本の古典の教養よりも、西洋文化の聞きかじりが優位にまかり通ってしまった時代、教養が省みられず、単なる技術的な知識だけが蔓延してしまった時代、ということになる。

そんなことをヒントに考えて行けたら良いと思う。すぐに役に立ちそうに見えない教養というものは、しかし中高年になって初めてボディーブローのように効いていることがわかってくるものである。
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