社日とは

社日とは、「春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。土の神を祭って、春は成育を祈り、秋は収穫のお礼参りをする」日の意味だと広辞苑にある。

漢字の「社」の成り立ちも、「土」の神と、祭壇の意味の「示」からなる。
つちのえとは「土の兄」の意味で、陰陽五行の考え方では、十干の1つであり、土のちからの盛んなことをいうようだ。

日本では、春秋の鎮守の祭りがあり、祭日を決めるときに、右のような社日の日を選ぶことがある。祭日の決定に、中国の考えかたを取り入れているが、祭の中身そのものは、貼るならば、日本各地で行われる豊作祈願の行事にかわりはない。

暦の上では、戊の日は、10日で一巡する。
春分の日当日と、前後4日間、後の4日間の、計9日のどれかが戊の日であれば、その日は間違いなく社日である。
それ以外に、春分の5日前と5日後が戊の日になることがある。
5日前と5日後では、どちらが「春分に最も近い」であろうか。
今年令和6年(2024)は、3月20日が春分の日になり、15日と25日が戊の日である。
市販の暦、カレンダーでは、社日を15日とするものもあれば、25日とするものもある。
これでは、どちらの日に行事を計画すればよいか、主催者をはじめ困ってしまうことになる。


ここで権威があり頼りになるのは、伊勢の神宮の暦、神宮歴である。
伊勢の暦は、江戸時代から広く普及している暦であり、多種類の農作物の種蒔き時なども書かれ、農家の人に重宝され、伊勢参りのお土産としても必須のものだった。
「大安」とか「友引」などの六曜には元は否定的で採用しなかった時期が長く、それが原因で部数を減らしてしまったという指摘もあるが、ここではやはり伝統的な伊勢の暦に従うのが良いだろう。
伊勢の神宮歴では、今年の社日は25日である。20日が「春分(後〇時六分)」とある。()内は午後〇時六分の意味で、春分や秋分とは、本来は時刻のことなのである。午後0時6分が春分であるなら、最も近いのは5日後の25日になる。
日本では江戸時代から当事の最高水準ともいわれる天保暦などの正確な暦法があったが、さまざまな暦も流通してきた。それらの中には、5日前と5日後では無条件に5日前を採用するものも少なくないようだ。しかしそれでは、社日は、春分の日をふくみ春分の5日前から4日後までの10日間のどれかに限られることになり、「最も近い日」という定義は無意味なものになる。

ここはやはり神宮歴に従うべきであろう。
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空想科学漫画『忘れられた小道』

ブログ「しらふ語り」
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空想科学漫画『忘れられた小道』全1冊
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ユリシーズ

ギリシャ神話というか、ホメロスの叙事詩を再構成したイタリア映画『ユリシーズ』をNHK-BSの正月テレビで見たが、なかなか良い映画で、音楽が良ければもっと良いだろうと思う。
ジョイス(丸谷才一訳)の小説『ユリシーズ』は、40年も前に購入して未読のまま収納中。

ユリシーズ(ギリシャ名でオデュッセウス)は、トロイ戦争で手柄をあげて帰還するとき、さまざまな島へ立寄って、島の王女やら魔女やら女神たちに遭遇したり、一つ目の巨人の神との戦いなどのシーンもあり、飽くなき冒険は20年も続いた。映画でも、ナウシカ、キルケ、セイレーンなどの名前は多く出てくるが、話を2時間以下の映画にまとめなければならないのは大変だ。
出逢った女たちについては魔女キルケの話が映画のクライマックスになっていて、その島を抜け出そうとするとき、島に残って不死の身で神となり恐れるものもなく暮らすか、外へ出て人間のまま死を怖れて暮すか、の選択を試される。「怖れてこそ勇気の価値がある」と映画のユリシーズは言う。勇気とは、ユリシーズが武人だからそういう言葉を使うのかもしれないが、怖れとは、畏怖のことだが、限りあるもの、儚いものへのうつくしみでもあるのだろう。

ジョイスの訳者・丸谷才一によると、20世紀文学の特徴の一つに神話的方法があるとのことで、神話的方法はナショナリズムを越えるためのものであるという。けれど日本国内だけの狭い意識で記紀神話をとりあげても、そうはならないので、よくよく注意しなければならない。
ユリシーズ
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120年前のタイムマシン

正月のテレビ番組も面白いものがないので、昔テレビでみた映画『タイムマシン』のDVDを中古で入手して見た。H・G・ウェルズの小説が原作の1960年のアメリカ映画。
物語の舞台は19世紀末のイギリスで、1899年大晦日から1900年1月5日までの話。今からぴったり120年前になる。
昔みたのは40年ほど前なので、青春ドラマとして解釈したようである。青年科学者は夢を見たのかもしれないし、しかし未来から持ち帰った花一輪だけが真実を語る、といったふうな記憶だった。今回見たら、青年科学者は、再び未来へ旅立って行った。最終場面の記憶が消えていたのは、その直前で物語は完結していると解釈したためかもしれない。当時この映画についての批評的な短文を書いた記憶があるので、文章で粗筋をまとめるときに記憶の微妙な変形があったのかもしれない。

青年科学者は、帝国主義と戦争に明け暮れる19世紀が嫌いだといい、未来へ飛び立った。学者仲間たちとの「時間」についての議論する場面もある。議論じたいは難しい内容ではないが、映画を見る側に多少の哲学的素養ないし人生経験などがあれば、その思考を刺激してくるのである。まして人生において老年となった身には、時間とは何かというテーマは、非常に重いものとして受けとめざるをえない。ジャスト120年後といい、良いタイミングで見ることができた。

さて、タイムスリップの物語といえば、手塚治虫の『ワンダースリー』というマンガを思い出す。そこでは地球に来た3人の宇宙人が、2度変身する。1度めは動物に、2度めは地球人に変身する。2度めのときは、命令に逆らった罪により、罰として変身させられるのである。3人が記憶を消され、死後の転生のように別の個体の生命を生きるときに、時間がスリップして、かつて動物に変身して生きた時代……全ての登場人物と同時代を再び生きることになる。記憶は消されているのだが、「前生の記憶」が蘇る瞬間があることを示唆して、物語は終る。
「前生の記憶」が蘇るのは、1度の瞬間だけではないかもしれないと思って、すぐに再読することになる。再読して、あの場面とこの場面は「前生の記憶」によるものではないかと想像したり、なぜ気づかないのだろうとハラハラしてみたり、何度も再読した作品になった。今、老年になって思うことは、「ワンダースリー」のように、ああやって動物などに転生して前生の記憶は消されても死後の世界で懐かしい人たちと同じ時代を生きられたら、それ以上の幸福はないのではないかということ。

蛇足 SFの約束事として書く必要はないのだらうが、タイムマシンの物語は、一種の天動説に基づいているので、それを思うと虚しくなることがある。天動説というのは、80万年後に移動しても、地球の表面の同じ場所から動くことがないという意味である。実際は地球の表面さえプレート移動で年3cm動くとすれば、80万年後は24kmほど移動しているはずである。地球自体も太陽に対して公転し、太陽も、銀河系も常に動いている……ということを考えてしまう。
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「こだま」と「ひかり」

昭和39(1964)年の東海道新幹線の開業のときの列車名は、「ひかり」と「こだま」だった。「こだま」とは音速の意味でもあり、秒速340メートルとまではいかないまでも速いもののことだったのだろう。新幹線以前の最速特急列車の名前をそのままひきついだものである。「こだま」より速い「ひかり」は、光速の秒速30万キロメートル、大げさではあるが、高度成長時代の景気付けだったのかもしれない。

バブル崩壊後の1992年に更に速い新幹線「のぞみ」が誕生した。「のぞみ」は、いかにも不況の時代を示すような名前であり、人々が精神の内面の世界をさまようようになってしまった時代の象徴だろうと、堀井憲一郎という人が書いている(『若者殺しの時代』)。
それに付け加えるならば、「ひかり」や「こだま」は必ず反射して帰ってくるものだが、人々の「のぞみ」には見返りがあるとは限らないということである。人々の一方的な無数の「のぞみ」が衝突しあう時代になってしまったからだろうか。「のぞみ」以前の昭和50年代(1975〜1984)には、実際に、若者たちが地方に帰って就職先を求めた「Uターン現象」が注目された時代もあったのである。

「こだま」以前の国鉄最速特急の名前は「つばめ」だったと思う。つばめも秋には南方へ去って春には帰ってくる。周期の期間こそ違うが、「こだま」も同様の命名法によるものだった。虎は千里行って千里帰る、だから出征兵士に千人針の布を持たせた時代もあった。片道とか片便りといった「片」のつくものを日本人は嫌い、二つ揃ったものを縁起の良いものとしてきた。紅白まんじゅうや、相撲の横綱も東と西の二人は対等であるし、手紙の便箋も2枚にするために白紙を添えた。そのような日本人的な感性でもあった。

しかし「ひかり」が反射して帰ってくるものだというのは、理科の知識としてはその通りだが、日常感覚としてはどうだろうか。否、それよりも、宇宙には光速よりも速いものは存在しないという知識がありながら、次世代のことは考えずに、単なる一世代に過ぎない者たちが、この世の最速を名乗ってしまったのは、なぜだろうか。
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翁の知恵

数ヶ月前から「翁の知恵」ということを考えていた。
人間五十を過ぎれば「翁」であろう。
巷では「おばあちゃんの知恵」と称して、家事に関しての古くからの知恵が、意外に理にかなったものであり、人の心も豊かにするような、そんな伝承の価値が再認識されている。それに対しての翁の知恵のことである。
そういうのが高齢化社会の新しい文化になったら良いのではないかと思った。

『老人力』という十年以上前のベストセラーをもう一度開けばヒントになるかと思ったが、たまたまコンビニで売っていた『中央公論』の新年号の、山崎正和氏の言葉が面白かった。
簡単にまとめてみると、もともと江戸時代の文化は、大田蜀山人をはじめ中高年が文化の担い手であったという。若者はもっぱら肉体労働に従事し、文化の作り手は中年以上の旦那衆や御隠居衆だった。吉原も若者が行く場所ではなかった。
江戸時代以前は世界中がそうであり、明治以後の日本だけが若者文化中心になりすぎているらしい。芥川賞も青春文学ばかり。
日本の古典の教養よりも、西洋文化の聞きかじりが優位にまかり通ってしまった時代、教養が省みられず、単なる技術的な知識だけが蔓延してしまった時代、ということになる。

そんなことをヒントに考えて行けたら良いと思う。すぐに役に立ちそうに見えない教養というものは、しかし中高年になって初めてボディーブローのように効いていることがわかってくるものである。
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