漢字の旧字体の話

 3月以来、漢字の旧字について熱中してしまって別の執筆がはかどらない。熱中した割りには、成果は少ないかもしれない。

 学生時代はお金もなく、古本屋で安売りの文庫本などを購入すると、旧漢字の本は少なくなかった。(当時を基準に)10〜20年前の古本がそうだったし、古本でなくても岩波文庫の再版など旧字のものは少なくなかった。1970年代の話である。

 最近、昭和33年の筑摩書房の「現代日本文学全集」のうちの「夏目漱石集(三)」を見たところ、「現代日本」というタイトルではあるが、全文が旧字旧仮名である。旧字でも昔の本は活字のデザインが良いので、とても読みやすい。8ポイント文字は老眼の進んだ人には小さすぎるかもしれないが。

 昔の書籍を、当時の文字遣いのままpdfなどの電子本として再現できないかという動機から、いろいろ調べてみたわけである。PCでは花園明朝Plusという一種の大量外字集を使えば、かなりのところまではできることがわかった。変換する文字のリストを作れば、変換プログラムで簡単にできなくはない。しかし仮名遣いならぬ「文字遣い」の問題が、ことをややこしくする。

 実際に古い本を、文字遣いを意識して見てゆくと、今の漢和辞典などが区別する旧字(俗字でない本字)とは違う文字が少なくない。
親譲りの
 戦前の夏目漱石全集は、全ページの撮影画像を国会図書館サイトで見ることができるが、漱石独自の文字遣いがあるのがわかる。日本で一番有名な小説の書き出しは「親譲りの無鉄砲で子供の時から……」という文だが、最初の「親」という字の左上の「立」の先は、縦に短く書くのではなく、横方向に小さく一と書く版がある。この字形は漢和辞典などでは俗字・異体字とされるが、漱石の本では、親のほかに新、薪なども横一本の書き方である。「帝、締」や「敵」などの「立」の先は、漱石では縦に短く書く。「化」の匕は斜め左下に突き抜けるが、「花」という字では、漱石は突き抜けていない。これらは漱石全集でも戦後の現代日本文学全集夏目漱石集でも同じなのだが、全集は版によって違うかもしれない。
 節や郷を、卽のように書くのは、漱石以外でも昔は主流だったが、今の漢字学者の意見では正式な旧字ではないようで、パソコンの字体は漢字学者の意見が主流である。漱石では、櫛だけは と書く。左下の2本の歯のような形が、いかにも櫛らしいからであろうか、というのはジョークではなく、案外当たっているのではないかと思う。櫛は折口信夫でも同じだった。
 折口信夫全集では、初や呪などの字形が、漱石とも違う。

 多数の作家を調べたわけではないが、作家によって異なる「文字遣い」があるように思う。仮名遣いと違って、文字遣いはルールが非常に緩く、私的な嗜好まで含めてしまっているようでもある。

 しかし、人によって字形が違っても、読むときに不便は感じないものである。漢字とはもともと1つの字にさまざまな字形があるものが当たり前だからだろう。たとえば「言」という字の一画めは、印刷物では短い横線だが、手書き文字でそう書く人は少なく、たいていは斜め方向の点1つに書く。こういう字形の違いについて、人は普段は意識したことはない。
 新字を使っていても文藝の藝だけは芸でなく藝を使うケースは、馴れない人が読むと気になるかもしれないが、馴れればどうということはない。
 とにかく、新字→旧字へ変換するプログラムのための変換リストは、作家の数だけ用意しなければならない場合もありうるのである。

 とはいえ、古い本に親しむためには、旧字はたくさん憶えておかなければならない。というより、親しんでいるうちに、自然に憶えるものであろう。
 古文書や昔の崩し字は、旧字をもとに崩してあるので、元の字を知らないと想像もつかないようなことになることもあるらしい。
 
 ちなみに「親」という字について。漢和辞典によると、親の左側部分は「辛+木」から成り、辛は針のこと。木の位牌に敬意を込めて針を差し立て、それを見上げることから親の字になったという。針を立てるのなら、立の先は立っていなければならないわけだ。
「章」は、辛つまり針や刃物で入墨したことから始まり、針なので先は立つ。「童」も刃物と関係あるらしく、原義は子供ではなく牧童のような身分のことで、先は立つ。
「商」は、台の上に音(おん)を意味する章から成り、章と同様に先は立つ。
「帝」、3本の縦の線を真ん中でまとめる形。1つにまとめるので、先は立つ。下からまとめるので、肩を怒らせたような逆三角形の形に書くのは変だということになるだろうか。
 滴の右側は、啻という字が元なので、帝と同じ。

「音」は、言という字の口に何か挟んだ形からできた字なので、言と同様に、先は横線になる。「立」のような字形を含む字のなかでは、この字だけが横である。
 これらの字はみな「立」という形に見える部分を含むが、どれも「立」という字とは無関係である。

 親の位牌に針や釘を立てるというのは、近世以後の日本人には思いもつかないことである。むしろ親とは小言を言うもの、上から雷を落とす存在だと思えば、「言」や「音」と同じように、先は横の線に書きたくなるのが、われわれ日本人の感覚ではなかろうか。漱石の「親」という字もそうなっている。
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