「おじ」という言葉

日本人は、伯父と叔父、伯母と叔母の書き分けは、学校で教わるのでたいていはできる。ところが親の兄弟姉妹以外の、祖父母の兄弟姉妹や親類の年長者、近所の年長者に対しても、オジサン、オバサンと呼び、いつの時代からか「知らないオジサン」という使い方もあり、文字表記は適当にすますしかない。

未来社『日本の民話』越後東頚城郡に「伊勢参りと雷様」という昔話があり、冒頭部分に「おじ」という言葉が出てくる。

「村の孫右衛門と吉右衛門と徳右衛門の三人連れで、伊勢参りの相談をしました。三人とも"おじ"で分家したばかりで、おやけ(本家)の"とと"に相談して、許しを得ることになりました。おやけのとと(親父)は、喜んで許してくれました。」(同上書)
このあと、留守を預る村人たちが日を決めて行なう予祝行事のしきたりの数々が書かれ、興味深いのだが、それは本題ではない。

本家のあるじを「とと」といい、分家のあるじを「おじ」といっていたことがわかる。昔話を聞いているのは村の子供たち一般であるので、誰から見て伯父叔父なのかということではないわけである。分家の後に何代を経ようとも、分家のあるじは「おじ」であり、村全体で、そのように「とと」「おじ」と呼んでいたのだろう。

武蔵北部のある家の墓所の区画内に、「伯父」「為伯父」と刻まれた江戸時代中期の石塔(墓石)が2つある。分家2軒の初代の墓を、本家のあるじが立てたもので、続柄から言えば「叔父」または「親の叔父(祖父の弟)」に当たるが、伯父という漢字はただ字を宛てただけのことで、要するに大和言葉の「おじ」であり、分家のあるじなのである。このような意味の「おじ」という言葉は、さらに広い地域で使われていたと思う。

書名はすぐに出てこないのだが、実話集か物語か忘れたが、井原西鶴の訴訟事を扱った読み物のなかに、親類どうしのもめごとがあり、双方が相手を「おじ」と呼びあっていたという話がある。なぜお互いが「おじ」なのか、話の結論では、男が孫娘と結婚すると、娘の父親と男の関係は伯父と叔父の関係になるらしい。そうした近親どうしの関係を奉行所で暴かれて、話は終る。しかしどうも腑に落ちない話だった。
今思うには、分家どうしだから「おじ」と呼びあっていたのではないか。そうした村のしきたりを知らない武家か商人がそれを端で聞いて、興味をおぼえて、後に頓知話のようなカラクリ構造のような関係を思いついて話が出来、西鶴の耳にも入ったのではないか、と思えるのである。
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都市と農村と、領主

 ヨーロッパ史では、民主主義は、日本の近世の時代に、都市部の市民階級から広まったという。農村部では日本の武士階級に相当する貴族が城を構えて大規模な農場を所有・経営し、農場では農奴のような人が働いていたらしく、農村部で貴族と農奴とではなかなか対等な関係は生れにくいのだろう。ヨーロッパのお城は、郊外の村(森近く)に多い。
 日本の近世では、お城の下には城下町が拡がり、都市である。都市の武士と町人とでは、やはり政治的に対等な関係は生れにくい。日本においては、農村部で、小規模な家族経営の農民たちの間では、かなり平等な人間関係が誕生していたようである。日本の民主主義は農村部から始まったともいえ、このへんのところは今後より明らかになって行くだろうと思う。しかし政治の中心は都市へ都市へと集中してゆく時代であり、農村が主役となることはなかったが、少なくとも地方自治の見本は既に成立していたのである。

 近世の日本の武士は、ほとんど土地を所有せず、江戸の旗本たちは、住居さえ公用地を徳川氏から借りるか、商人から借りて住んでいたらしい。土地を持って土地にとらわれることを恥としていたともいう。のちに明治新政府が出来たとたんに、彼らは住む土地すらも失い、抵抗どころではなかったのだろう。

 日本の武士が持っていたのは領地に対する年貢の徴収権である。武士は年貢と引替えに、治水事業などを行なって農地での耕作を保証する義務があった。畑より田の年貢が高いのは、治水の費用がかかるからである。戦国時代末期から江戸初期にかけて、治水土木事業で名を残した武士は多い。そのほか、農工具の貸し出しもした。日本の政治は、環境を調えることに主眼があったようで、福祉事業などはおおむね村任せということかもしれない。
「土木事業によって必要な環境を整備するのが政治」という考え方は、現代では必要性がなくても道路や箱物作りに勤しむような歪んだ形になっている。
 また稲作のための種籾の保証も領主の役割である。年貢米は、貸与された種籾に対する返礼の意味でもあり、領主というのは司祭性を持つものである。

 西洋では土地も生産物もすべて領主のものであるが、なんといっても、生産食料の分配権を領主が独占することに最大の特徴があるのではないだろうか。家庭の食卓でも家族に食肉を切り分け分配するのは父親の役割だという。食料の分配に政治の主眼があり、民を食わせられない領主は打ち負かされる可能性もあるわけである。戦争経験も多く、食料を輸入に頼ることはない。
 日本の近世を飢饉の連続だったかのように言う者もあったが、実際は、乱開発による洪水などの「人災」であったり、買占めが原因の食料不足であることが多かったらしい。自然の恵みは比較的豊かな国であり、村々の地域社会の相互扶助や連係はしっかりした国だった。
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年貢の話 その2

年貢の多い少ないという話である。
東京板橋区で出版した史料集の解説によると、村人のうち20石以上の者もあれば2〜3石の者もあり、「農民の階層分化」が進んだせいだと書いてあったが、表に出た数字だけを論じているだけのようである。江戸時代の論評で「農民の階層分化」という言葉が強調されているものは、ほとんど信用できないものばかりである。

20石とはどの程度の経済規模かというと、たとえば商売でいえば、商売を始めて最初は苦労したが今ではどうにか人を雇えるくらいになった、というような、それが20石程度である。本人と使用人の2世帯の稼ぎということだ。
中規模以上の農村では名主クラスの家では使用人がいるのが普通で、番頭と呼ばれていた。人別帳などでは本百姓(納税者)ではないという意味で「下人」と書かれるが、商家の番頭以下もみな下人なので、そういう用語を使う決まりがあったのだろう。
村の名主は、農繁期であっても外交などで外出せねばならぬことも多く、番頭の男手は必要であった。名主家の番頭は、村役人の娘婿などの縁者であるとか、信用のある者が雇われ、もし離散した農家があればすぐに後釜として独立して、本百姓となることができる。

当地には造酒屋があったが、その造酒屋の借金の證文に「酒造株 五十石」という評価が書かれている。50石という数字から経営規模や雇用規模を推し量ることができると思うが、納税方法については、まだわからない。

当時の平均は1軒が10石ということだそうだが、この平均に及ばない5〜6石前後の家が、当地では少なくない。これは隣接する宿場の御伝馬の馬子を兼ねる兼業農家だからである。5〜6石の石高は農業分だけのものである。
御伝馬とは、宿場に設けられた幕府公用の運輸を担う職業で、宿場ごとに必要数の人馬の確保が義務づけられ、実際は宿内で営業する問屋が一切を請うことが多かった。問屋は必要な人馬を調達するのに、手元に気性の荒い専門の馬子を寄宿させるのではなく、周辺の村々と契約を結んで農家に依頼するほうが安心と考えたようだ。村で御伝馬を引き受ける農家は、馬喰(馬子)としての現金収入もあった。当地ではこれが村高に加算され、村全体では314石も加算されている。

2石余りしかない家が1軒見つかったが、中山道の端で居酒屋を営む家である。村内では対等の付き合いをしているのでいわゆる極貧ではない。2石余りは田畑の分で、別に店の分があったのだろうと思う。店の分の石高や納め方は未確認。居酒屋などに対し国定忠次のような集団が金品の徴収権を持つことは黙認されていたろうが、それが公の年貢と二重になるのかならないのかは未確認(筆者は徴収権は二重にならないのではないかと疑っているが)。
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