合併後の新市名

楠原佑介著『こんな市名はもういらない!』(東京堂)は、2003年4月の発行で、今回の合併ラッシュをひかえての危惧から書かれたと思われる。その内容は妥当なことばかりで、「歴史的・伝統的地名保存マニュアル」の謡い文句も誇大宣伝には思えない。実際の合併での新市名決定に際しこういった本が参考にされたこともあったとは思うが、それでも新しい地図で奇妙な地名を見ることも少なくない。

悪い新市名の代表例に「さいたま市」や「南アルプス市」があげられ、3つの点で問題ありという。

1つは、むやみな、ひらがなやカタカナの使用。(外国語は論外)

2つは、狭い地域による広い地域の地名の使用。県名としての埼玉を小地域が使用したものであり、南アルプス国立公園も3県にまたがっている。(逆に広い地域の地名に、中心部の狭い地域の地名を使用するのは普通のことなので問題ない。)

3つは、離れた全く別の地域の地名(埼玉郡、行田市埼玉)を別の市が名のること。また今の南アルプス市の中心部は富士川釜無川流域にあり、国立公園地域はまったくはずれのごく一部だけであるような例。

まったくその通りなのだろう。本の発行後にできた関東地方の新地名を見てみた。(採点を「◎、○、△」で示す)

茨城県の新市名
◎ 桜川市(岩瀬町などが合併、市内を流れる桜川は謡曲でも知られる)
○ 行方市、稲敷市(郡名、範囲に問題がなければ○)
△ 坂東市、常総市、かすみがうら市(広域を意味するはずの地名)
△ 小美玉市(三町村名から一字づつ)、つくばみらい市(不明)
栃木県
△ 下野市(旧国名)、那珂川町(茨城県へ流れる川の名)
△ さくら市(不明)
群馬県
○ 東吾妻町(東村と吾妻町が合併)
△ みどり市(不明)
埼玉県
? ふじみ野市
千葉県
◎ 香取市(佐原市ほかで合併、郡名であり香取神宮の名でもある)
○ 横芝光町(横芝町+光町、連称)、匝瑳市、山武市、いすみ市(以上郡名)
△ 南房総市(南の安房+北の上総下総で房総、その南部だから南房総?)
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叙情と判官贔屓

山折哲雄著『「歌」の精神史』(中公叢書)という新刊本を見かけ、帯に書いてある
「伝統的詩歌と歌謡に底流する生命の昂揚感と無常観。その叙情をわれわれ日本人はもはや喪失してしまったのか」という言葉にひかれて、読んでみた。
この20年前後の間に、日本人は今までになく大きなものを喪失してしまったのではないか、日本人そのものが大きく変ってしまったのではないかと、感じている人は少なくないだろう。社会科学方面から問題にするのは大変困難を極めることなので、こういう本なら読みやすいと思った。
そこそこ面白く読めるのだが、しかしここ20年ほどの「現在」を問題にしている部分は少ない。「叙情」をキーワードに短歌や文学が戦後捨ててしまった叙情が大衆歌謡で継承されていたという指摘は良いのかもしれないが、歌謡論になってくると、日本の近代文芸評論のような個人の評伝中心の記述となり、歌謡曲は贔屓がからんでくるので退屈する部分がある。
1986年の『サラダ記念日』は文学に親しんで来た人にとっては、伝統的で新しくもある短歌に見えたのだが、コピーライトの時代のコピー短歌という評価もあったとのこと。大人も子どもも歌える歌謡曲というのが消えてしまって、誰でも知ってて歌えるのはCMソングだけになった時代でもある。総合雑誌というのが消えてしまったのは広告会社の主導で雑誌が作られるようになってしまったからという論をどこかで読んだことがあるが、商品広告が大衆文化を席巻してしまったということなのだろうか。小泉前首相のワンフレーズ・ポリティクスもこの時代に続くものなのだろう。

日本的な叙情というのも、ある程度のところまで行くとわかりにくくなってしまっていけないのだが、日本人らしさのもう一つのキーワード「判官贔屓」が失われつつあるかのようなある論評も見たことがある。それは昨年の小泉選挙で「勝馬に乗る」という選挙行動が強く見られ、そういう大衆心理が各方面で広まりつつあるのだという。そうなのかもしれない。しかし判官贔屓そのものが無くなったと断定するのは早すぎるだろう。須佐之男命や倭建命の古事記の時代から引き継がれて来たものが無くなったというのでは未来がなくなってしまうに等しいことである。現代に残る判官贔屓の現象を探してみるのも良いだろうと思う。
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