「前方後円墳」の名づけ親・蒲生君平

しもつけ風土記の丘資料館 寛政の三奇人の一人、蒲生君平は「前方後円墳」の名づけ親であるそうで、栃木県立しもつけ風土記の丘資料館で特別展示が行なわれている。蒲生は当時所在のわからなくなっていた古代の天皇陵を調べて考証し、『山陵志』という著書にまとめたが不遇の生涯であった。幕末の尊王思想の時代になって再評価され、宇都宮藩の資金で更に陵の調査が行なわれ、それは幕府公認の事業だったという。
(資料館は、下都賀郡国分寺町の思川と姿川の川俣の台地にあった国分寺跡国分尼寺跡にある。ここから北西2〜3キロのところに「室の八島」で知られ下野総社といわれた大神神社(おおみわじんじゃ)がある。)

寛政の三奇人
 寛政の三奇人といわれた林子平(はやししへい)、蒲生君平(がもうくんぺい)、高山彦九郎は、浪人の身で各地を遊学し、それぞれ面識があったようである。
 林子平は、父が士籍を失ったため、生涯を浪人の身で過ごした。兄が仙台藩に仕官できたことから、ともに仙台に移って居候となる。長崎や江戸へ遊学し、寛政三年(1791)に海防の必要を説いた『海国兵談』を自費で出版したが、「奇怪異説、政治私議」との理由で幕府に出版を差し止められ、版木も没収された。仙台に幽閉させられたまま、二年後、不遇のうちに没した。
  親も無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無けれど、死にたくも無し  林子平
この歌から戯れに六無斎と号した。

 蒲生君平は、宇都宮の半農半商の家に生れたが、農商を好まず、学問を志した。先祖に会津城主蒲生氏郷がいることから蒲生を名のる。尊王の志に燃え、北を巡っては北辺の無防備を憂い、西へ赴いては天皇陵の荒廃を嘆いた。享和元年『山陵志』を著す。よく母に仕え、兄の死に際しても田畑の受け取りを返上して歌を送ったという。
  たらちねにおも似る老の ます鏡 かたちとともに落つる涙か (蒲生君平)

 高山彦九郎は、上野国新田郡に生れた。京を訪れ、江戸城の豪華さに比べて御所の姿を嘆いた。諸国を巡遊して勤王を説き、膨大な著作を残した。
 米沢藩の莅戸太華(のぞきどたいが)は、彦九郎に惚れ込み、自らは失脚後で貧乏だったが、七十両の大金を恵んだ。その貧乏のありさまを他人が詠んだ歌がある。
  米櫃をのぞきてみれば米はなし。明日から何を九郎兵衛かな
 彦九郎は寛政五年、九州で病に倒れたことがもとで、自刃した。彦九郎の六歳の子が詠んだ歌。
  喪屋にゐて、天のはらはら落ちくるは、哀れぞまさる涙なりけり
  藤衣、ころも寒しと風吹けば、木の葉散り行く音ぞかなしき
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柿の木の伝説

柿柿は古代から霊木とされてきたようだ。
信州では亡くなった人の魂が家に帰ってくるときは柿の木に降りてくるといい、また幽霊は柳ではなく柿の木の下に出るという。
となると「柿本人麻呂」という名前はどういう意味になるのだろうか。

柿本神社のある島根県石見地方では、柿の種には人丸さん(人麻呂)が宿るから種も枝も燃やしてはいけないという。
兵庫県明石の柿本神社の柿は、人麻呂が植えたものだといい、その実を懐中すれば安産の御守りになり、また、火事の類焼を除けるために次の歌を書いて門口に貼るという。

  焼亡(じょうもう)は柿の木まで来たれども あかひとなればそこで人丸

「人丸」に「火止まる」をかけて火事を防ぐのだという。また「人産まる」で安産の御利益の神といい、どちらも語呂合せにも見える。

日本俗信辞典によると、柿を燃やしてはならないという禁忌は全国に拡がり、荒神様が嫌うからだと説明されることが多い。また古くから火葬の行なわれた地方では柿を燃やして焼くので、普段は燃やしてはならないとされるようになったのではないかという。嫁入りに柿の苗をもってゆき、死んだときはその木で火葬にしたという地方もあるらしい。
普段燃やすことのない柿だから「火止まる」の力があるとするのは、語呂合せだけともいえないようだ。
「人産まる」についても、死を媒介することはあの世ともつながる木であり、新しい命もそこから行き来するのかもしれない。村の境や、坂などに植えられることも多かったという。

柿の実はすべて採らずに一つか二つ残しておくものだという。鳥のため、また旅人のためともいう。その実は「木守り(きまもり)」と呼ばれ、また来年の実りを約束してくれる木守りさんに供える実なのだともいう。来年の実りとは柿の実りのことだけではなく、すべての作物の豊作を約束してくれるということである。木守りさんとは木の神のことだろう。新年に豊作を祈る「成木責め(なりきぜめ)」も柿の木に対して行なわれることが多いという。

柿の実にはビタミンCも多く、高血圧にも良いらしい。
「雪月花 季節を感じて」に「柿のはなし」という秋らしい記事がある。
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辞世の歌(太田道潅、ほか)

秋を思いながら、『日本故事物語』(池田弥三郎著)の「もの言えば唇寒し」の項を読んでいると、辞世の歌に話が飛んでいた。

  かかる時、さこそ命の惜しからめ。かねてなき身と思ひ知らずは  太田道潅

太田道潅が討ち死にのとき、槍でからだを突かれた状態で詠んだという。池田氏は「誰かが書き留めてやったのだろう」という。武士の情けでそういうこともあったかもしれない。しかし氏の言葉はどうも懐疑的なニュアンスである。懐疑的というのは後から他人が作って伝わったものだろうという意味。
ほかに石川五右衛門、浅野内匠頭の辞世のあと、吉田松陰の歌の話になる。

  身は、たとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし。大和魂  吉田松陰

「気の毒に文法の誤りがある」という。「まし」は反実仮想の助動詞なので意味が逆になってしまうと言われてみれば、その通り。「まし」を使った歌に、万葉集の石川郎女が大津皇子に答えた歌がある。

  わを待つと、君が濡れけむ足引きの山の雫にならましものを  石川郎女

私を待って君は濡れてしまったという。せめてその山のしづくに私はなりたかった(なれなかったけれど)という意味である。吉田松陰の歌は「大和魂を留め置きたかった(現実は留め置けなかったけれど)」となって、おかしなことになる。「気の毒に文法の誤りがある」というのは誰が気の毒かというと、吉田松陰その人であろう。やはり本人の歌ではなかったようだ。

実はこのような後世の人が作ったであろう伝説の歌は数限りなくある。「歌語り風土記」に載せた歌の中にも多い。しかし語りつがれる伝説の中でこそ歴史物語は生き、時代という客観性すら与えられるものなのかもしれない。


2011-9-27 「辞世の歌(太田道潅、吉田松陰)」を「辞世の歌(太田道潅、ほか)」に改題。
本人の作でない伝説歌にこそ価値があるというテーマです。
テーマとは関係なく本人の作でなければ無価値であるという先入観に基づくコメントが目立ちました。1つ1つはイエローカードでも連続させればレッドカード(迷惑行為)であると判断し(少なくともキーワード「太田道潅」での検索順位が下がります)、削除したコメントがあります。
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神無月とは

旧暦10月のことを神無月(かんなづき)という。
日本中の神さまが出雲に集まって何か相談されるので、村々には神さまがいなくなるので、神無月というという。逆に出雲では神在月(かみありづき)という。

田を守ってきた神さまが、収穫を終えて帰って行くときの神送りの行事がもとにあるともいい、また11月の新嘗祭など重要な収穫の祭のためにお籠りをしたので、10月は神を祭らなかったからともいう。
現代では10月の祭礼行事は多い。

家々には留守神(るすがみ)があって、カマド神や荒神(こうじん)、恵比須、大黒さまなどが留守を守るといわれた。これらは普段から家の神や土地の神として、主として女性たちによってまつられてきた神である。

鎌倉時代の『徒然草』によると、神々は出雲ではなく伊勢の神宮へ集まるという別の考えかたも紹介しているという。出雲の大社は伊勢の神宮と並びうる国民の信仰だったということだろう。

  雲さそふ空にしられて神無月 嵐のうへをゆく時雨かな  二条為定

雲が動き嵐や雨が降るという歌である。旧暦10月は立冬のころからをいうので、嵐というのはあまりありえないかもしれないが、神送りにはがつきものだったという伝説がある。

(※ この日の夜、関東の一部では雷がなり雨が降ったので、この時期はそういう天候もあるのだろう。新潟県上越地方では新暦11月に初あられが降るという。)
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月読命(ツクヨミノミコト)

古事記や日本書紀に出てくる月の神を、月読命(つくよみのみこと)という。天照大神、須佐之男命と三柱で「三貴子」と呼ばれるが、月読命に関する物語は他の二神とくらべてずっと少ない。

古事記では「夜の食国(をすくに)」を支配する神という。
また、日本書紀の一書で、海原を支配するというのは、潮の満ち引きを支配するという意味なのだろう。海の水を支配し、万葉集に「月よみの持てる変若水(をちみづ)」と歌われたように、若返りの水をももたらす神である。

読(よみ)とは、「数える」という意味の言葉で、日を数えることを日読(かよみ)といい、暦(こよみ)と転じたという。月の満ち欠けを順に数えて月日の移りを認識したのだろう。農耕の時期を知らせる神でもある。
新月から次の新月までの期間は約29.5日という半端な日数なので、暦法の未発達のころは月が出てみないと新しい月になったかどうかはわからなかったと思う。古い時代には、一日の始りは、月の出、ないしは日没だったという。神が現れて祭りが行なわれるのも古くはこの宵の口からで、夜明けの鶏の鳴き声とともに神は帰った。
明るい夜の照明に慣れた近代人が抱くような闇夜への恐怖感はぐっと少なかったのだろうと思う。
日本書紀で「月弓尊」と書くのは、三日月や半月の形から「弓」と書いたのだろうが、ギリシャ神話でも月の神アルテミスは狩りの神であり、こういうのは世界共通の観念なのだろう。
記紀では月読命は女神だとも男神だとも記さない。

月読命をまつる神社は、伊勢の別宮の月夜見宮や、出羽三山の月山神社など、多数ある。東北関東では月山と関係の深い神社も多い。
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月とウサギ

月に兎が住むという考えは、日本だけでなく、世界中に広がっているらしい。兎は夜行性の動物であり、特に月夜にはその行動が目立つものだからなのだろうという。
わらべうたにも、「兎、兎、何見てはねる。十五夜お月さま見てはねる」と歌われる。(明日15日は十三夜である)

日本の神話物語では、出雲の大国主命に助けられた因幡の素兎の話がある。助けられた素兎が、八上比売(やがみひめ)は大国主の兄たちではなく大国主命の求愛を受けるだろうと言ったのは、兎は予知能力をもつと信じられたからだという。

因幡の兎は、鳥取市の白兎神社(はくとじんじゃ)など、山陰地方の神社で兎神としてまつられている。
群馬県高崎市でも、和泉神社(いづみじんじゃ)など7社でまつられ(前橋市にも1社)、須佐之男命(すさのをのみこと)とともにまつられる例が目立つが、由緒については未調査。幕末の平田篤胤学派などで須佐之男命と月読命(つきよみのみこと)とを同一と見なす考えもあったが未調査。

兎埼玉県さいたま市(旧浦和市)の調神社(つきじんじゃ)では、狛犬の代りに兎の石像が多数ある。調(つき)とは神への貢物(みつぎもの)のツキの意味だが、いつのころからか月の意味にも解されるようになったらしい。調神社には古いケヤキの御神木があるが、古典に出てくる槻(つき)という木はケヤキのことだという説がある。
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トラ

虎虎は日本には生息しなかったが、絵画にはよく描かれた。虎の実物を見たわけではないので、有名な画家の絵といえども、どこか奇妙な虎に描かれている。まして素人が描いた虎の絵はどこから見ても猫にしか見えず、そういうときは竹の絵を書き加えればそれらしく見えると、江戸の川柳が教えている。

  猫でない証拠に竹を書いておき

毘沙門天をまつる京都の鞍馬寺には、狛犬の代りに一対の虎の石像がある。虎との関係については、山を開いた鑑禎という僧が初めて毘沙門天を拝したのが、寅の月・寅の日・寅の刻だからだという。(類似の話は十二支の多くの動物の話に語られる)
鞍馬山で育った源義経は当時遮那王(しゃなおう)と呼ばれたが、牛若丸の別名もあり、この「牛」のいわれはよくわからない。

  遮那王が背くらべ石を山に見て、わがこころなほ明日を待つかな  与謝野寛

トラは、女性の名前にも多かった。曾我兄弟の仇討で知られる曾我十郎の妻の虎御前がよく知られる。トラはある種の巫女に多かった名だという。諸国を歩いたトラという名の巫女によって語り伝えられたものが曽我物語だということだろう。虎御前をまつる神社は、出身地の神奈川県や仇討の舞台となった静岡県の富士山麓にいくつかあるが、新潟県上越市今泉の大和神社の配祀神の一柱にも、虎御前の名が見える。


白虎は、中国の五行説では四方を守る四神の一つで、西を守る。幕末の会津藩では世代別に四つの隊を編成したという。
東 青龍隊(せいりゅうたい、36〜49歳)、
南 朱雀隊(すざくたい、18〜35歳)、
西 白虎隊(びゃっこたい、16〜17歳)
北 玄武隊(げんぶたい、50歳以上)、
精鋭部隊といえるのは若い朱雀隊で、南を守ることが重視されたということだろうか。
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ウシの御前

牛食事の後にすぐ横になってごろごろすると、牛になると言われた。牛というのは、鼻に金輪を通され、重い荷車を引かされ田の代掻きをさせられたりの重労働を強いられる動物であり、牛になると言われた子どもたちは、本当に恐怖を感じていた時代があった。

牛に関する地名では、岡山県の牛窓が歌枕としても知られる。大陸渡来の人たちが牛を生贄に捧げた名残りだろうと言う。

牛を神の使いとするのは天神様である。菅原道真が生まれたのが丑年であり、遺言でなきがらを牛に引かせて運ばせたなどのエピソードがある。(参考 岩津天満宮・「天神さまと牛」
一部に天神=雷神への生贄だったという説もあるが、牛の生贄は大陸系の話なので信じがたいと思う。

むかし大江山の酒呑童子を退治した源頼光という武将に、一人の弟があったという。母が夢に北野天神が宿った夢を見て、三年三月後に生まれたのがその子で、丑年の丑の日の丑の刻に生まれたので牛御前と呼ばれた。牛御前は、生まれた時から二つの牙を持ち、鬼神のような風貌のため、父に憎まれて東国に追放された。都の軍と戦ったときは、水に入って大きな牛に化け、敵の軍勢を溺死させた。その後も長雨を降らせて民衆を困らせたという。
牛御前は隅田川に現れて牛御前社(のちの牛嶋神社)にまつられたというが、今の牛嶋神社は須佐之男命をまつっている。須佐之男命は牛頭天王とも習合されて信仰される。葛飾北斎に須佐之男命厄神退治之図あり。

 牛の御前、言問橋もうつりけり。移りがたしも。わが旧ごころ    釈迢空

九州に多い保食神社(うけもちじんじゃ)では牛が祀られることもある。保食神(うけもちのかみ)は食物の神でもあるが、牛が古くから食用にされたということではないだろう。日本書紀に、保食神の亡骸から穀物のほかに蚕や牛馬が生まれたとあり、養蚕や牛馬の守護神でもあるからである。
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ネズミとヨメ

鼠ネズミの嫁入りという昔話がある。鼠の親が強い者に憧れて太陽のところへ娘を嫁にやろうとするが、太陽を隠してしまう雲のほうが強いという。雲は自分を吹き飛ばす風のほうが強いといい、風はいくら吹いても動かない壁が強いといい、壁は自分をかじって穴をあけてしまうネズミのほうが強いという。けっきょくネズミのところへ嫁入りするという話。

ネズミのことを方言でヨメ、あるいはヨメ様という地方があるらしい。ヨメとはヨモノという言葉が縮まった言葉で、ヨモノとは「夜物、夜に活躍する動物。ねずみ・きつね・たぬきの類」と辞書にある(国語大辞典 小学館)。柳田国男によると、夜のということではなく、忌々しきモノの転であるという。怖れられた動物という意味であり、危害が及ばぬようにヨメ様とていねいに言うらしい。ネズミは農作物や蚕に危害を及ぼし、貯蔵してある穀物も食べてしまう。

幕末の怪盗、鼠小僧次郎吉は金持の蔵を狙ったことからそう呼ばれ、盗んだものを貧しい人に分け与える義賊だったという伝説になっている。鼠小僧は実在の人物で、実際は貧しい人に施すということはしなかったらしいが、幕末の不穏な世相の中で庶民のヒーローのように見られたのだろう。あるいはネズミという存在への畏怖が畏敬となり、義賊に祭り上げられてしまったのかもしれない。

滋賀県大津市の日吉大社の末社に祀られる鼠社は、時の帝に約束を守ってもらえなかった三井寺の頼豪という僧が復讐のために鼠に化けて荒れ狂ったとき、その鼠を封じ込めたときの祠だという。頼豪鼠という。

鼠が大量に発生した場所は、一種の異界なのではないかと思われるが、はっきりしたことはわからない。アイヌ語で鼠のことをエルムといい、岬のことをエンルムというらしいが、語形が似ているだけかもしれない。
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『谷蟆考』について

クエビコ(案山子)のことを良く知っていたのは、タニグクひきがえる)だったという古事記の話があった(前回記事)。

中西進氏は、『谷蟆考』(小沢書店)で、クエビコとタニグクとは一心同体のようなものだろうと言う。歩くことができない案山子の足となってヒキガエルは地面にはいつくばってどこまでも歩いてゆけるのだという。万葉集や延喜式祝詞には、皇神たちの支配の及ぶ範囲を次のように表現する。
「天雲の向伏す極み、谷ぐくのさ渡る極み」
「山彦の応へむ極み、谷ぐくのさ渡る極み」
天雲が遠く伏すように地面にくっついて見えるあたり、やまびこがこだまして返ってくるあたり、つまりそれは地平線の果てのことであって、ヒキガエルもそこまで渡って行ける能力があることになる。

われわれは、カエルは両生類だから水にも住むのだろうという知識があるが、古代の見方では、とことん地べたから離れず、しかもその行動範囲はわれわれの想像を越えて地平線の果てるところまでなのである。そこまで歩いてゆけるのは、歩くことができずに総てを知るクエビコの頭脳があってこそということになる。
カエルのようには生まれたくないという人間の心が、カエルへの畏怖となって、クエビコと一体のものと見るようになったのだろうし、クエビコ自身は不具に生まれた人そのものでもあり、そのような異形の者にそなわった特別な能力を畏怖してのものなのだろう。

ヤマトタケルが伊勢国で亡くなるときは、歩くことができなくなり、ずっと地面を這いつづけたといい、それはこの世の果てに近づいたという意味であるらしい。以上は中西氏の本を基調にした。

※ 地面を這うことは葬送儀礼に関係するのだともいう。タケルはその後、地面を這う存在から白鳥となって飛翔する。
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