神話の森Home > 日本の神話

  日本の神話抄 2


●神武天皇

小村雪岱  磐余彦(いはれひこ)尊は、日向国から東に向ってお遷りになって行った(神武東征)。
 尊は、難波(なには)の海から南へ迂回して紀伊国(きのくに)へ上陸された。熊野の地から八咫烏(やたがらす)に導かれ、山道を歩んで大和へ入った。大和では、長髄彦(ながすねひこ)の軍と対することとなった。そのとき、不意に暗雲が立ちこめて雹を降らし、一羽の金色の鳶が飛来して、尊の弓筈(ゆはず)に止まった。尊は御歌を詠まれた。
  ○みつみつし 久米の子らが、粟生(あはふ)には (かみら) 一茎(ひともと)。そねが(もと)、そね芽繋ぎて、撃ちてし止まん(久米歌)
 たちまち長髄彦は退散した。その昔、天の磐船(いはふね)で大和に降りて住んでゐた饒速日尊(にぎはやひのみこと)が、長髄彦を倒して、磐余彦尊に帰順した。
 磐余彦尊は、畝傍(うねび)橿原(かしはら)の宮で即位された。神武天皇である。正式なお名前は、
  ○畝傍の橿原に底つ岩根に宮柱太敷き立て高天原に千木高知りて始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)
といふ。即位された場所は、今の橿原神宮のあるところである。
 あるとき天皇が腋上(わきがみ)の地を訪れて国見(くにみ)をなさったとき、「この国は、蜻蛉(あきつ)がつがったやうな形をしてゐる」といはれたことから、日本を「秋津洲(あきつしま)」といふやうになった。ちなみに、伊邪那岐尊は「日本(ひのもと)は浦安の国、細戈(くはしほこ)千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまのくに)」といはれ、大己貴(おほなむち)(大国主)の神は「玉牆(たまかき)の内つ国」といはれ、饒速日命は「虚空見(そらみ)つ大和の国」といはれた。万葉集には「敷島の日本(やまと)」といふ言ひ方もある。

●七少女

 即位されてまもなくのころ、神武天皇が大和の高佐士野(たかさじの)をお通りになると、野辺に七人の少女が楽器を奏で、舞を舞ってゐた。天皇のお伴として、そばでこれを見てゐた大久米命(おほくめのみこと)は、歌で天皇に申しあげた。
  ○倭の 高佐士野を 七行く 媛女(をとめ)ども、誰をし枕かむ  大久米命
 天皇は、先頭で舞ってゐた伊須気余理姫(いすけよりひめ)をいたくお気に入りになった。狭井河(さゐがは)の川上に、伊須気余理姫の家を訪ねて、結婚された。のち姫が入内されたときの天皇の御歌。
  ○葦原の しけしき小屋(をや)に、菅畳(すがだたみ) いや(すが)敷きて、我が二人寝し  神武天皇
 春から初夏にかけて、河原や山の辻に年頃の少女たちが集まって、一定期間の共同生活をし、また歌舞で神を祭るといふのは、古来からあった村々の行事である。これは成女戒としての行事であり、こののち少女は成人して結婚の資格を得るのである。神への饗宴、また自炊のために「野辺で若菜を摘む少女」の姿は、万葉集冒頭の雄略天皇の御歌を始め、多くの歌に詠まれてゐる。平安時代の宮廷では、この春の若菜摘みの行事は、正月最初の()の日に行はれた「子の日の遊び」といふ行事にもなり、女性が男性の長寿を祝ふものとされた。女性だけでなく男性が若菜を摘むこともあったやうで、百人一首の光孝天皇の御歌にもある。
  ○君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に、雪は降りつつ  光孝天皇
 正月の若菜摘みは、やがて春の七草の行事になった。
  ○芹 なずな、御形 はこべら、仏の座、すずな すずしろ、これぞ七草

●崇神天皇(天照大御神と三輪の神の祭祀)

 第十代崇神(すじん)天皇は、磯城(しき)の水垣の宮で、天の下を知らしめた。
 御代の初めに疫病が流行ったことから、皇女の豊鋤入姫(とよすきいりひめ)に天照大御神を祭らせ、大神の宮を大和の笠縫邑(かさぬひのむら)にお遷しされた。この遷祭の夕べの宴で、天皇は御歌詠みをされた(古語拾遺)。
  ○宮人の大夜(おほよ)すがらに、いさとほし、斎酒(ゆき)のよろしも。大夜すがらに  崇神天皇
 また、夢のお告げにより、三輪の大物主神(おほものぬしのかみ)の子の大田田根子(おほたたねこ)を探させて、三輪の神を祭らせた。三輪の神を祭るとき、御神酒(おみき)を捧げた活日(いくひ)といふ者が歌を詠んだ。
  ○この神酒(みき)は我が神酒ならず。倭なす大物主の醸みし神酒。幾久(いくひさ)、幾久  活目
天皇も三輪の神を讃へて御歌を詠まれた。
  ○うまさけ 三輪の殿の 朝門(あさと)にも、押し開かね。三輪の殿門(とのど)を  崇神天皇

●垂仁天皇(神宮の鎮座、時じくのかくの木の実)

 第十一代垂仁(すいにん)天皇は、纏向(まきむく)の宮で天の下を知らしめた。
 天皇の御代には、皇女の倭姫(やまとひめ)に天照大御神を祭らせた。倭姫は大神を鎮めまつる所を求めて、笠縫邑を離れ、近江国から美濃国をめぐり、伊勢国へ着いた。すると、どこからか天照大御神の御声が聞こえてきた。
  ○神風の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の頻浪(しきなみ)寄する国なり。傍国(かたくに)(うま)し国なり、この国に居らむと思ふ
この大神の御言葉により、五十鈴川(いすずがは)のほとりに宮を建てられたといふ。平成八年からさかのぼってちょうど二千年前のことである。
        ◇
 天皇は、晩年に、田道間守(たぢまもり)に命じて、常世の非時香木実(ときじくのかくのこのみ)を探させた。田道間守はその実を求めて常世の国に渡った。しかし幾年を経ても帰らず、待ちわびた天皇は九年後に崩御された。田道間守が木実を得て帰って来たのは、その翌年のことである。常世の国では時間の経過が早く、いつのまにか十年が過ぎてゐたといふ。田道間守は天皇に奉告できなかったことを悔やみ、天皇の御陵の前で泣き悲しんで、自ら命を絶った。非時香木実とは橘の実のことだともいふ。後の世の歌。
  ○五月待つ花橘の香をかげば、昔の人の袖の香ぞする  猿丸太夫

●狭穂姫

 垂仁天皇の后の狭穂姫(さほひめ)には、狭穂彦といふ兄があった。
 ある日、兄が姫を訪ねて言ふには「夫と兄と、どちらが愛しいか」と詰め寄った。「兄」と答へる姫に、兄は八塩折の紐小刀を持たせ、「この小刀で、天皇の寝たまふを刺し殺せ」と言った。
 その晩、天皇は、何も知らぬまま、姫の膝を枕にしてお休みになった。寝静まったころ、姫は、こっそり小刀を取り出して振り上げ、天皇の御首のあたりを目がけて、三度振り下ろさうとしたが、哀しい気持ちが込み上げてきて、耐へきれずに泣き出してしまった。涙があふれて、天皇の頬にこぼれ落ちた。天皇は、びっくりして起きあがって、かう尋ねられた。「をかしな夢を見たものだ。狭穂の地から風雨が吹いて来て、頬をかすめた。それに、錦色の小さな蛇が、首に巻き付いた夢を見た。いったい何のしるしだらう。」姫は観念して、兄のたくらみのことも、何もかも天皇に申し上げた。これを聞いた天皇は、ひどくお怒りになった。
 天皇が狭穂彦討伐の軍を差し向けると、狭穂彦は、稲城(いなぎ)を作って待ち受けてゐた。狭穂姫は兄を憐れみ、宮を抜け出して、ともに稲城へ入った。姫は懐妊中でもあるので、軍はなかなか攻めることができない。
 日月を重ねるうちに、皇子がお生まれになった。姫は、皇子を城の外に見せて、「天皇の御子ですので、お引取りに来てください」と伝へた。天皇は、兵の中から俊足の力士を数人選び、「皇子を連れて帰るだけでなく、姫もさらって来なさい。とにかく、髪でも手でも袖でも、どこでもいいから、つかんだら離さずに連れて来なさい」と仰せになった。姫も天皇の気持ちはわかってゐた。そこで、髪を生へ際からすっかり切り落として、その髪をかつらにしてかぶり、玉の緒はよれよれにして三重に手に纏き、御衣も酒で腐らして身に着けた。さうして、皇子を抱いて城の外にさし出した。力士らは、皇子を受け取ると、姫も連れ去らうとした。ところが、髪をつかめば髪は落ち、手をとれば玉の緒は千切れ、御衣をとれば袖から破れ、姫を捕へることはできなかった。
 姫を取り戻すことを諦めた天皇は、姫に向って「子の名は母が名づけなくてはならない。どんな名がよいか」と尋ねられた。姫は「稲城を焼く時に、火中(ほなか)に生れたので、誉津別(ほむつわけ)の皇子としてください」と答へた。
 また、「どのやうに育てたらよいか」と尋ねられると、「大湯坐(おほゆゑ)若湯坐(わかゆゑ)の二人を乳母として、育ててください」と答へた。
 「汝の結び固めた(みづ)小紐(をひも)は、誰に解かせたらよいか」と尋ねられると、「丹波(たんば)道主(みちのうし)王の娘の、兄姫(えひめ)弟姫(おとひめ)の二人は清き民(特別な処女)なので、のちぞへとしてください」と答へた。
 兵は稲城を襲ひ、狭穂彦が討たれると、姫も自害した。
  ○いなきにし くろ髪断ちて さにつらふ いろ()を追ひし佐保姫、思ほゆ
 この話は、異族どうしの結婚が進んだ古代の或る時代に、子の側から見た母の国への望郷の物語として伝へられたものであらう。歌は、見当たらないので、拙作を挿入した。
 「姫の結んだ小紐」といふのは、男子の衣服の内側に女子が二本の緒紐を縫ひ付けて、それを女子が固く結んで男子のお守りとしたもので、夫婦の契りのしるしでもある。

小村雪岱

●倭建皇子

 第十二代景行天皇は、纏向(まきむく)日代(ひしろ)の宮で天の下を知らしめた。この御代に、皇子の倭建(やまとたける)は、西国の熊襲(くまそ)を征伐した。
 熊襲を後にした倭建は、出雲の国に入り、出雲建と結友された。あるとき共に肥の川へ行き、川沐(かはあみ)された。川から上がると、お互ひの刀を替へての戦となった。倒された出雲建を哀れんで歌ふ。
  ○やつめさす 出雲建が ()ける刀。黒葛(つづら)多纏(さはま)き、さみなしにあはれ
   (やつめさす=枕詞)
        ◇
 出雲から帰った倭建は、休むまもなく東国の平定に派遣された。伊勢で叔母の倭姫から草薙の剣を賜り、尾張国から相模国へ向かった。
江森天寿・倭建命
 皇子の一行が、船で走水(はしりみづ)の海(東京湾)を渡らうとしたとき、渡の神が荒れ狂ひ、船は荒波に巻き込まれて押し戻された。嵐を静めるために、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、自ら海に入った。高波が姫を呑み込み、まもなくすると海はうそのやうに凪いで、船が進み出した。姫は海に入るとき、八重の畳を波の上に敷き、その上で歌を詠まれた。
  ○さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて、問ひし君はも  弟橘姫
   (さねさし=枕詞)
 七日後に、姫の櫛が、走水(はしりみづ)の浜に流れ着いたので、そこに墓が作られた。姫の櫛は今も走水神社に伝はるといふ。
        ◇
 常陸国などをめぐってのち、甲斐国では、酒折宮(さかをりのみや)に滞在された。ある夜の歓迎の宴で、皇子は皆に尋ねるやうに歌を詠まれた。
  ○新治(にひばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾夜(いくよ)か寝つる
 誰も答へることができなかったが、灯火の火を守ってゐた御火焼(みひたき)の翁が、御歌に続いて歌った。
  ○かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
 皇子は、老人を誉めて、国造(くにのみやつこ)に任命した。
 五七七を二人が掛け合ひで歌ふ形式の歌を旋頭歌(せどうか)といふが、古事記では「片歌(かたうた)続歌(つぎうた)」といふ。後の世の連歌(れんが)の起源ともなった。短歌のことを「八雲の道」といふのに対し、連歌のことを「筑波の道」といふのは、この歌に詠まれた「筑波」といふ言葉による。
        ◇
小村雪岱  皇子は、尾張の熱田の地に滞在したのち、大和へ帰ることになり、美濃の伊吹山へ向った。しかし伊吹山での戦ひに病んだ皇子は、やっとのことで三重の村へたどりつき、能煩野(のぼの)の地で国を偲んで歌を詠んだ。(国偲ひ歌)
  ○倭は 国のまほろば。たたなづく 青垣。山(ごも)れる 倭し(うる)はし
  ○命の (また)けむ人は、畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 熊白梼(くまがし)が葉を 髻華(うづ)に挿せ。その子
 病が急に重くなったとき、尾張の宮簀姫(みやずひめ)のもとに置いてきた草薙の剣を思ひ出してか、歌を詠まれた。
  ○をとめの 床の辺に 吾が置きし つるぎの太刀。その太刀はや
 この歌を残して倭建皇子は崩ぜられた。皇子のなきがらは、白鳥に姿を変へて飛び立ったといふ。
 大和から来たお后様や御子たちが詠んだ歌が四首ある。倭建は、刈ったばかり田の中を這って歩きながらここまで来たといふ。
  ○なづきの田の 稲幹(いながら)に、稲幹に、()(もと)ろふ 野老蔓(ところづら)
皇子は小竹(篠)の生ひ繁る道なき道をも這って歩んだ。
  ○浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず。足よ行くな
海岸づたひに海の中をも歩いた。
  ○海処(うみが)行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海処はいさよふ
鳥となって飛び立ったときの歌。
  ○浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ
 この四首の歌は、天皇の大葬に歌はれる歌だといふ。白鳥は西へ飛び、河内の国の志幾(しき)に留まったので、そこに御陵が作られた。名づけて「白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)」といふ。白鳥はそこから更に天に向かって飛び去ったといふ。
 草薙の剣は、尾張の熱田神宮の御神体とされてゐる。
        ◇
 倭建といふ名は、熊襲を征伐してからの名で、それまでは倭童男(をぐな)といった。使命を達して成年の名となったことから、この旅には、一種の成年戒の試練または苦行といふ一面があることがわかる。古代において、村々の成年戒はたいへん厳しいものがあり、命を落とすことも珍しくはなかった。幾代にも渡った余りに多くの数の未成熟の少年たちの霊が、後の世の信仰のありかたにも影響を与へてゆく。