『谷蟆考』について

クエビコ(案山子)のことを良く知っていたのは、タニグクひきがえる)だったという古事記の話があった(前回記事)。

中西進氏は、『谷蟆考』(小沢書店)で、クエビコとタニグクとは一心同体のようなものだろうと言う。歩くことができない案山子の足となってヒキガエルは地面にはいつくばってどこまでも歩いてゆけるのだという。万葉集や延喜式祝詞には、皇神たちの支配の及ぶ範囲を次のように表現する。
「天雲の向伏す極み、谷ぐくのさ渡る極み」
「山彦の応へむ極み、谷ぐくのさ渡る極み」
天雲が遠く伏すように地面にくっついて見えるあたり、やまびこがこだまして返ってくるあたり、つまりそれは地平線の果てのことであって、ヒキガエルもそこまで渡って行ける能力があることになる。

われわれは、カエルは両生類だから水にも住むのだろうという知識があるが、古代の見方では、とことん地べたから離れず、しかもその行動範囲はわれわれの想像を越えて地平線の果てるところまでなのである。そこまで歩いてゆけるのは、歩くことができずに総てを知るクエビコの頭脳があってこそということになる。
カエルのようには生まれたくないという人間の心が、カエルへの畏怖となって、クエビコと一体のものと見るようになったのだろうし、クエビコ自身は不具に生まれた人そのものでもあり、そのような異形の者にそなわった特別な能力を畏怖してのものなのだろう。

ヤマトタケルが伊勢国で亡くなるときは、歩くことができなくなり、ずっと地面を這いつづけたといい、それはこの世の果てに近づいたという意味であるらしい。以上は中西氏の本を基調にした。

※ 地面を這うことは葬送儀礼に関係するのだともいう。タケルはその後、地面を這う存在から白鳥となって飛翔する。
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