神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

辞世の歌(太田道潅、ほか)


秋を思いながら、『日本故事物語』(池田弥三郎著)の「もの言えば唇寒し」の項を読んでいると、辞世の歌に話が飛んでいた。

  かかる時、さこそ命の惜しからめ。かねてなき身と思ひ知らずは  太田道潅

太田道潅が討ち死にのとき、槍でからだを突かれた状態で詠んだという。池田氏は「誰かが書き留めてやったのだろう」という。武士の情けでそういうこともあったかもしれない。しかし氏の言葉はどうも懐疑的なニュアンスである。懐疑的というのは後から他人が作って伝わったものだろうという意味。
ほかに石川五右衛門、浅野内匠頭の辞世のあと、吉田松陰の歌の話になる。

  身は、たとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし。大和魂  吉田松陰

「気の毒に文法の誤りがある」という。「まし」は反実仮想の助動詞なので意味が逆になってしまうと言われてみれば、その通り。「まし」を使った歌に、万葉集の石川郎女が大津皇子に答えた歌がある。

  わを待つと、君が濡れけむ足引きの山の雫にならましものを  石川郎女

私を待って君は濡れてしまったという。せめてその山のしづくに私はなりたかった(なれなかったけれど)という意味である。吉田松陰の歌は「大和魂を留め置きたかった(現実は留め置けなかったけれど)」となって、おかしなことになる。「気の毒に文法の誤りがある」というのは誰が気の毒かというと、吉田松陰その人であろう。やはり本人の歌ではなかったようだ。

実はこのような後世の人が作ったであろう伝説の歌は数限りなくある。「歌語り風土記」に載せた歌の中にも多い。しかし語りつがれる伝説の中でこそ歴史物語は生き、時代という客観性すら与えられるものなのかもしれない。

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2011-9-27 「辞世の歌(太田道潅、吉田松陰)」を「辞世の歌(太田道潅、ほか)」に改題。
本人の作でない伝説歌にこそ価値があるというテーマです。
テーマとは関係なく本人の作でなければ無価値であるという先入観に基づくコメントが目立ちました。1つ1つはイエローカードでも連続させればレッドカード(迷惑行為)であると判断し(少なくともキーワード「太田道潅」での検索順位が下がります)、削除したコメントがあります。

comments (5) - 編集

コメント

| 2005/12/14 09:46
処刑直前に認めた辞世はこれ
「これほどに思定めし出立をけふ聞く声ぞそうれしかりける」

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」→処刑前の書『留魂録』に書き記されたもの
森の番人 | 2005/12/15 10:15
無署名でも書込完了となる設定になっていました。
さて留魂録という書は次のURLで見ることができます。
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/jpn/syoin/ryukon.html
ざっと見たところ、死を覚悟し、やるべきことは果たしたという安らいだ気持ちが感じられ、末尾の5首もほぼ淡々と書かれています。それに対して冒頭の「留め置かまし」の歌の激しさはやはり作風の異なるものです。書名から後の人が付け加えた可能性を先学たちは示唆したのでしょう。
あるいは最後の1首「七度も生き返りつつ」も『太平記』からの流用のしかたが安易の印象があり疑われるのかもしれません。
悠(yuu) | 2009/07/01 08:25
 「辞世の歌」で検索していて、偶然たどり着きました。含蓄のある文章に出会いました。
 ただ、松陰の名誉のために、書き込みたく存じます。松陰の辞世の歌は「反実仮想」の歌とはちがいますね。「まし」が「未然形+ば〜まし」の形で、反実仮想を表わしますね。ここでの用法は単独での用法ですから、「意志〜(し)よう」という意味の「まし」ですね。老婆心ながら。
森の番人 | 2009/07/03 22:50
そんなわけであらためて万葉集の用例を当たってみましたが、やはり「まし」は自分の強い意志を表現する言葉ではないようです。「身はたとへ」で力んで始まっているのに「まし」でグニャッとなってしまう感じがします。上の句がこの時代でいう万葉調なのでしょうか、どうしても万葉集と比べてしまいますが、あるいはこの時代はこういう使い方もあるのかもしれません。
名誉云々ということではなく、辞世の歌とはそういうもので、確実に本人の作といえるのはむしろ少ないのではないかということなのです。
念の為に書きますが「文法の誤り」の指摘は池田弥三郎氏によるものであることを読み落とさないでください。本人の作ではないほうが本人の名誉です。歌の実作者は「許すまじ」というときの「まじ」と混同しているのだと思いますね。昭和初期の流行歌の歌詞で「〜まし」を、短い人生をはかなんで「せめて〜したい」の意味で使った例はあるようで、こちらは古歌の諦めや儚さの雰囲気だけは継承しています。
森の番人 | 2011/10/05 21:09
>「意志〜(し)よう」という意味の「まし」ですね。

「広辞苑「まし」0媚屬鯢修錣后できたら…しよう。」
できないことを言うわけです。「反実仮想」の用語の使い方はそれぞれでしょうが、「まし」は実際にはやらないことに使います。意志一般としての「意志〜(し)よう」の意味とするのは間違いです。実現性が薄いけれどもという表現ですので、多くの弟子があれば魂が残らないかもしれないという不安は不要と思います。
広辞苑に補足説明がありました
「(なお江戸時代にはこれをマジと濁音に読んでいたので、「まじ」と混同しやすかった)」

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