如月(きさらぎ)

春は名のみの風の寒さや、という唱歌の通りの昨日今日の気候である。

二月を、きさらぎといい、寒いので着物を着た上に更に着るから「衣更着(きさらぎ)」というのだなどという語源説もあるくらいだが、旧暦の二月は春分の前後をいうので、二月が寒いというのでは明治以後の語源説なのだろう。ほかの語源説では、芽の伸び始めで「生更ぎ(きさらぎ)」の意味というほうが、より説得力はある。広辞苑でも

  「生更ぎ」の意。草木の更生することをいう。着物をさらに重ね着る意とするのは誤

とある。大野晋氏の執筆と思われる。
「如月」と書くが、「如」の意味を小型の漢和辞典で調べたが、なぜそう書くのかはわからなかった。
「更」は改めるという意味であって、「着た上に更に」ということではないのだろう。

「如月の仏の縁」「更衣(きさらぎ)の別れ」という言葉もあり、如月は仏様に縁があるようである。
「鞍馬天狗」を書いた大仏次郎(おさらぎじろう)という作家は、天文学者の野尻泡影と兄弟だが、仏のことを「さらぎ」ともいったようなのだが、二月には涅槃会などの仏の重要な行事があったためなのかどうか。あるいは一説に「さらぎ」は仏に供物を供える容器の意味の古語でそれが転じて仏の意味になったともいうが、どうなのだろう。

次の歌二首は、春の陽気の二月と、まだ寒い二月を歌っている。

 ながめやる よもの山辺も 咲く花の にほひにかすむ 二月の空  近衛基平
 二月や なほ風さむき 袖のうへに 雪ませにちる 梅の初花    後宇多院
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仁に遠き者は道に疎し

豆まき 遠仁者疎道
 不苦者于智

漢詩のように見えるが、

 オニハソト
 フクハウチ

と読むらしい。節分の豆まきの掛け声の「鬼は外、福は内」である。あるいは次のようにも読むという。

 仁に遠き者は道に疎し
 苦しまざる者は智にうとし

 「于」には「ゆく」という意味があるそうだが、「歎く」という意味もあり、もともと紆余曲折というか曲がったものをいうと辞書にあるので「うとし」とも読むのだろう。
 仁とは愛に近いような徳のことをいうのだろうし、苦しむことも大事だという話にもなる。実は落語の『一目上がり』という話に出てくる。
 本来の「新年」であるところの立春を迎える気持ちとしては、良いものだろう。
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とんど焼き・左義長・小正月

 1月15日を小正月といい、民間では古くは小正月の行事が正月の中心行事だったという。旧暦では1月15日の夜は満月である。秋田の「なまはげ」など、元は小正月の日に行われた新年の行事も多い。
 現在でも、地方によっては小正月に小豆粥を食べたり、竹筒でその年の吉凶を占う筒粥神事などが知られる。また、前年のおふだや神棚の飾り、正月の松飾などを持ち寄ってお焚き上げする「とんど焼き」も広く行われる。とんど焼きは、火で焼くことによって古い年のものをお祓いし、新年の新しい命の再生を願うものなのだろう。その火で焼いた餅や団子を食べると病気にならないともいう。
 「とんど焼き」の「とんど」の意味は不明である。とんど焼きではなく「左義長(さぎちょう)」と呼ぶ地方もあり、京都で行われた行事を左義長と呼んだ影響と思われるが、この言葉の意味も不明である。一説には、正月に毬を打ち合う「毬打」という行事があり、毬を打つ杖のことをギチョウと言い、その杖を三つ、正月15日に焼いたともいうが、「三毬杖」でサギチョウとは公家による付会の色が感じられ正確なところは不明である。
 火を燃やすとき、「とうどやとうど」「とうどの鳥の渡らぬ先に」などと囃子言葉をかける地方もあるといい、地方によっては青年たちの勇壮な行事がある。

 道なかに御幣(おんべ)の斎串(いぐし)そそり立ち、この村ふかく太鼓とどろく 釈超空

 「とうどの鳥」という言葉から、鳥追い行事との関連が考えられるだろう。秋田の小正月行事の「かまくら」も、子どもたちの鳥追い行事のための仮小屋ないし宿だったという。

 古く民間では少年が十五歳になると一人前の若い衆と認められ、若者組や青年団に入ることができた。その行事を1月15日に行った地方が比較的多かったので、戦後に「成人の日」を定めるにあたって、その日が採用されたらしい。現在では成人の日は日を定めない祝日となっている。
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七草なづな、唐土の鳥の

1月7日は七草粥。七種類の野菜を入れて煮たお粥を食べる日である。一年の無病息災を祈るものとされ、七つの野菜とは、歌にも歌われる。

  せり、なづな、御形、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、これぞ七くさ(河海抄 1362年)

平安時代の京都では、正月最初の「子(ね)の日」に、野に遊んで若菜を摘み、それを煮て食べ、長寿を祈った。「子の日の遊び」といい、百人一首の次の歌はその光景を詠まれたものという。

  君がため春の野に出でて 若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ  光孝天皇

春の初めの若菜摘みの行事は、ところによっては旧暦の小正月を過ぎたころであるとか、時期はまちまちだが、民間行事としても古くからのものであるらしい。少女たちが集団で野に出る話は、古事記の神武天皇が高佐士野(たかさじの)で出会った七少女や、万葉集の竹取の翁の物語など、数多く伝えられ、それ自体が成人儀礼のようでもあり、神武天皇の例のように求婚する男子が現れる場合もある。
 近世の民間では、七草を煮炊きする前日に、歌をとなえながら俎板の上で包丁の背や擂粉木(すりこぎ)などで叩いた。

  七草なづな とうどの鳥の ゐなかの土地へ わたらぬさきに ストト・ト・トン

この歌は、小正月のころの鳥追いの歌と類似のものである。鳥追いとは、秋の収穫のころに飛来する渡り鳥が農作物に害を及ぼすことがあるため、その鳥を追い払う行事を年の初めに行っておくのである。田植え祭なども年の初めに山間の清流近い場所で行われることが多く、年の初めには一年の無事を祈るさまざまのことが行なわれた。
「とうどの鳥」つまり「唐土の鳥」とは、大陸から飛来する渡り鳥のことと意識されるが、意味は不明のところもある。柳田国男翁は、同じ小正月のころの行事である「とんど焼き」の「とんど」に通じるものではないかと述べたことがある。

先の歌は「七草なづな、唐土の鳥が日本の土地へ……」と歌われることもあり、『志ん朝の風流入門』では地方によって次のような文句もあると紹介される。

 千太郎たたきの太郎たたき 宵の鳥も夜中の鳥も渡らぬさきに

参考 秋の七草
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若水汲み

手水「かつぎや」という落語がある。かつぎやとはつまり縁起かつぎの人のことである。
縁起かつぎで、目出度いものが大好きという呉服屋の旦那が、元日の朝、井戸に橙を供えて歌を唱えるようにと、下男に命じた。その歌は、

  あら玉の年立ち返る朝(あした)より若柳水(わかやぎみづ)を汲み初めにけり

下男は歌を間違えて失敗してトンマな話になる。

若柳水とは、一般には若水と言うことが多く、元日の朝に汲む水のこと。その水で口をすすぎ、また煮炊きしたものを神仏に供え、同じものを「おさがり」として家族もいただく。若水は、その年の邪気を祓い、その一年の無事を約束してくれる水であるという。文字の通り、年の始めに命を若返らせる水、生まれ変われる水のことである。ところによっては自然の泉のわき出ている場所に出かけて汲むこともあるらしい。若水を額につける習俗もあり、禊(みそぎ)の一種なのだろうともいう。

落語では、その後、客人が来て旦那と娘の二人を褒め、「大黒様のようだ、弁天様のようだ」と言い、「この家には七福神がいる」と言う。二人では二福ではないかと旦那が問うと、「こちらの御商売が呉服屋(五福)でございます」というのが落ちである。

落語の下男のように、新年や節分の行事の準備をする役割の者を、年男(としおとこ)という。昔の大きな家では下男などの仕事だったが、一般家庭では世帯主の仕事である。お供え物を年神さまや神仏に供えるのは男の仕事だった。節分の豆まきも同様である。(現代では女性による豆まきも行なわれる)。
=====昨年の"幻のブログ"歌語り歳時記の記事を補筆したものです12/31=====
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煤払い

煤払い今日は冬至だった。年末年始は季節の行事の話題が多くなると思う。

さて暮れの煤払いという行事があった。
江戸では12月13日、江戸城でも行なわれたそうで、同じ日に京都でも行なわれたけれど京都のほうが元なのだろう、徳川様といえど、煤払いだけに後塵を拝したと、古今亭志ん朝師匠の『風流入門』(ちくま文庫)にある。

12/14の忠臣蔵の記事に書いた元赤穂藩士の大高源吾は、一説によると笹竹を売り歩く商人になっていたという。笹竹は煤払いに使うもので、討ち入りの直前はさぞ忙しかったと思うが、雪の両国橋の話も史実ではないとのことである。

有名な寺社で笹竹で建物の入り組んだ部分のほこりを払う場面がテレビニュースでも報道された。画像はある雑誌の広告(伊勢名物の赤福という甘味のお菓子)だが、伊勢神宮でも行なわれるようだ。
  神楽殿 巫女が総出の煤払ひ  浦田長吉

昔の庶民の家は天井がない家すらあり、カマドや囲炉裏から出た煤が、天井や屋根裏にたまって真っ黒い色をしていた。その煤を払うのだから煤払いの男の顔も真っ黒になって、飼犬にも誰だかわからずに吠えられたという。
  俺だわえ吠えるなと言う十三日
この川柳も志ん朝師匠の本にあったもの。煤と一緒に一年のうちに降りかかった火の粉のかすのような災やらを祓い清める意味もあるのだろう。煤払いが終っていよいよ正月の準備にとりかかったらしい。現代は暮れの数日のうちに大掃除をする家が多いと思う。
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冬の季節のお正月

まもなくお正月。
今の太陽暦では、お正月は真冬の時期にあたるので、子ども時代に「新春」とか「初春」「迎春」という言葉を耳にしたとき、なぜ春というのか不思議に思ったことは誰にもあったのだろうと思う。陰暦(旧暦)というのがあってどうのこうのと、大人たちに教えてもらっても、すぐには実感できないものである。
けれど日本の古典や歳時記は、陰暦を知らなければわからない部分も多い。

古今集のいちばん最初の歌に、こんなのがある。

 年の内に春は来にけり 一とせを 去年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん 在原元方

詞書に「ふるとしに春たちける日よめる」とあって、新年にならないうちに立春が来たことを詠んだ歌である。旧暦の一月一日は、立春の前後の30日間のうちのどれかの日に当り、年によっては、立春の後に新年が来ることもある。それだけのことを述べた歌なので、理屈っぽい歌と評されることもあるようである。とはいえ、現在が今の年なのか古の年なのか、今と古がその区別を越えて年を巡って一つにつながっていることが古今集の題名の意味でもあるのだろう。

民間では元旦の行事より1月15日の小正月のほうが重要だったという。旧暦の小正月なら、立春の前に来ることはないので、新春らしい祝になる。同様に古い年の厄祓いをした節分の豆まきも小正月の前に済ませることができる、という理屈になる。
正月三が日というのは重視されず、三が日の初詣というのもなかったようだ。正月とは1月の一ヶ月間のことなので、一ヶ月のうちにお詣りするのが、その年の最初のお詣りである。初詣は、太陽暦になった明治時代からだんだん盛んになり、大正時代ごろになってから俳句の季語にも加わった。それ以前は季語にはなかったというか、庶民になじみのある言葉ではなかったらしい。

太陽暦以後、新年を祝う行事と、春を迎える行事は、分離されて行なわれる傾向になる。
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初夢と宝船

宝船の絵にえがかれた宝船には、宝物や米俵が載せられ、七福神が乗っていたりする。江戸時代ごろから、その絵に次のような歌を書き、元旦(または二日)の晩にその絵を枕の下に置いて寝ると、縁起の良い初夢を見ることができるのだという。

 長き夜の 遠の眠りの 皆目ざめ 浪乗船の 音のよきかな

この歌は、回文歌。つまり上から読んでも下から読んでも同じに読める歌である。ひらがなだけで書くと次のようになる(正確な歴史的仮名遣ではない)。

 ながきよの とをのねぶりの みなめざめ なみのりぶねの をとのよきかな

さて縁起の良い夢といえば、「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」である。
なぜこれらが縁起が良いとされたのかは、諸説があって、はっきりしない。駿河国の名物を上げたものが夢判じをする人たちによって広まったとか、富士の裾野は曾我兄弟の仇討の場所、鷹の羽は浅野家の紋なので赤穂浪士の仇討の意味……というのもあるが、はっきりしない。
初夢は、もとは節分が明けた立春の朝に見る夢のことだったらしいが、江戸時代ごろから正月の夢を言うようになったらしく、庶民は暮れになると宝船の絵を買い求めたのだろう。
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『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」か?

「元禄忠臣蔵」日本文化出版社1960元禄15年の今日、12月14日は、赤穂浪士、四十七士の討ち入りのあった日である。
次は以前書いたメモ。

 「元禄十四年(1701)、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は、江戸城で勅使の御馳走役を命ぜられたが、指導役の吉良上野之介との間に齟齬をきたし、わけあって江戸城本丸の松の廊下にて吉良に刃傷に及んだ。吉良は軽傷だったが、浅野は即日切腹を命ぜられた。桜の盛りの春、三月十四日のことであった。
  風さそふ花よりもなほ、われはまた、春の名残をいかにとかせん  浅野長矩
 なきがらは芝高輪の泉岳寺に葬られた。藩主の一件は、五万三千石の領地取り上げ、お家断絶、多くの家臣が路頭に迷ふこととなった。謎の多い事件だが、将軍綱吉の生類憐みの令といひ、現代人が理解するのは容易でないのかもしれない。吉良には何のお咎めもなかったこと、そして内匠頭の亡霊を恐れ、家老の大石内蔵助良雄以下四十七士の藩士による仇討ちへと発展して行くのである。
 四十七士の一人、大高源吾は、江戸で呉服屋を装ってゐた。茶道に親しみ、吉良家の茶会にも招かれるなどして様子をうかがった。討ち入りの日取りは、源吾の得た情報により、吉良家の茶会の日と決められた。元禄十五年十二月十四日、討ち入りを前に、源吾は、雪の両国橋の上で、かつて知ったる俳人の宝井其角に出会ふ。其角は密かに呼び掛ける。
  年の瀬や、水の流れと人の身は
源吾が応へる。
  あした待たるるその宝船
その言葉で、其角は討ち入りを悟ったといふ。
 浅野の首をとり、本懐を遂げた四十七士は、全員切腹を命ぜられた。大石内蔵助の辞世の歌。
  あら楽し。思ひは晴るる。身は捨つる。浮世の月にかかる雲なし  大石良雄」

年の瀬に日本人が好んできた『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」のことであると言ったのは、丸谷才一(『忠臣蔵とは何か』中央公論社)という人だった。内匠頭を太陽にたとえ、討ち入りの成就によってその復活を果たしたという意味だが、なるほどと思う。12月14日は、旧暦なら大寒のころ、新暦なら冬至の直前である。
太陽の神の復活儀礼は、新しい年を予め祝福することでもあり、そのようなことは、世界中の民族によっていとなまれてきた。日本では天照大神の岩戸隠れの神話、また正月行事そのものがそうである。冬至のころの西洋のクリスマスにまつわる民俗も同様であるらしい。
「あした待たるるその宝船」……まさに新年の予祝なのだろう。
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師走の影

12月を師走(シワス、しはす)という。師とはお坊さんのことで、12月になると忙しく走りまわるから師走というのだという落語のような話がある。暮れになると借金取りに追われるからだというオチがつく場合もある。

「三尺下がって師の影を踏まず」という諺がある。
尊敬すべき人に対する態度としては、三尺下がって距離をとれということだが、それだけでなく、影を踏んでは非礼になるということでもある。影とは人そのものであり、少なくともその人の分身だという意識なのである。
それは現代人が自分の写真の顔を土足で踏まれたようなものなのかもしれない。プライドを傷つけられたというのではなく、影を踏まれること自体が不吉なこととされたのである。
古い時代には影を踏まれることは、かなり深刻な問題だったらしい。子どもの影踏みの遊びは、そういう時代の名残をとどめているのだろうと思う。

播磨国の明石にあった楠の巨木は、朝日にはその影は淡路島を覆い隠し、夕日には難波の仁徳天皇の高津宮にまで及んだという。
巨樹は神そのものであり、その影に隠れることは、むしろ吉だったようである。「おかげさまで」という言い方があるのは、神の影響下での吉を祝う気持ちで言うのだろう。
肥前国の佐賀の大楠も、同様の巨樹だった。明石の楠は伐られて船に作られ船は「速鳥」と名づけられたという。
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