煤払い

さて暮れの煤払いという行事があった。
江戸では12月13日、江戸城でも行なわれたそうで、同じ日に京都でも行なわれたけれど京都のほうが元なのだろう、徳川様といえど、煤払いだけに後塵を拝したと、古今亭志ん朝師匠の『風流入門』(ちくま文庫)にある。
12/14の忠臣蔵の記事に書いた元赤穂藩士の大高源吾は、一説によると笹竹を売り歩く商人になっていたという。笹竹は煤払いに使うもので、討ち入りの直前はさぞ忙しかったと思うが、雪の両国橋の話も史実ではないとのことである。
有名な寺社で笹竹で建物の入り組んだ部分のほこりを払う場面がテレビニュースでも報道された。画像はある雑誌の広告(伊勢名物の赤福という甘味のお菓子)だが、伊勢神宮でも行なわれるようだ。
神楽殿 巫女が総出の煤払ひ 浦田長吉
昔の庶民の家は天井がない家すらあり、カマドや囲炉裏から出た煤が、天井や屋根裏にたまって真っ黒い色をしていた。その煤を払うのだから煤払いの男の顔も真っ黒になって、飼犬にも誰だかわからずに吠えられたという。
俺だわえ吠えるなと言う十三日
この川柳も志ん朝師匠の本にあったもの。煤と一緒に一年のうちに降りかかった火の粉のかすのような災やらを祓い清める意味もあるのだろう。煤払いが終っていよいよ正月の準備にとりかかったらしい。現代は暮れの数日のうちに大掃除をする家が多いと思う。
Comments
また勉強しに貴サイトにお伺いします。では失礼します。
13日の意味はわかりませんが、14、15日はたいてい神さまを祭る大切な日であることが多く、その前日にという意味かと想像しています。赤穂浪士にとっては14日の夜はかなり大切な日でしたけれど・・・。