『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」か?

次は以前書いたメモ。
「元禄十四年(1701)、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は、江戸城で勅使の御馳走役を命ぜられたが、指導役の吉良上野之介との間に齟齬をきたし、わけあって江戸城本丸の松の廊下にて吉良に刃傷に及んだ。吉良は軽傷だったが、浅野は即日切腹を命ぜられた。桜の盛りの春、三月十四日のことであった。
風さそふ花よりもなほ、われはまた、春の名残をいかにとかせん 浅野長矩
なきがらは芝高輪の泉岳寺に葬られた。藩主の一件は、五万三千石の領地取り上げ、お家断絶、多くの家臣が路頭に迷ふこととなった。謎の多い事件だが、将軍綱吉の生類憐みの令といひ、現代人が理解するのは容易でないのかもしれない。吉良には何のお咎めもなかったこと、そして内匠頭の亡霊を恐れ、家老の大石内蔵助良雄以下四十七士の藩士による仇討ちへと発展して行くのである。
四十七士の一人、大高源吾は、江戸で呉服屋を装ってゐた。茶道に親しみ、吉良家の茶会にも招かれるなどして様子をうかがった。討ち入りの日取りは、源吾の得た情報により、吉良家の茶会の日と決められた。元禄十五年十二月十四日、討ち入りを前に、源吾は、雪の両国橋の上で、かつて知ったる俳人の宝井其角に出会ふ。其角は密かに呼び掛ける。
年の瀬や、水の流れと人の身は
源吾が応へる。
あした待たるるその宝船
その言葉で、其角は討ち入りを悟ったといふ。
浅野の首をとり、本懐を遂げた四十七士は、全員切腹を命ぜられた。大石内蔵助の辞世の歌。
あら楽し。思ひは晴るる。身は捨つる。浮世の月にかかる雲なし 大石良雄」
年の瀬に日本人が好んできた『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」のことであると言ったのは、丸谷才一(『忠臣蔵とは何か』中央公論社)という人だった。内匠頭を太陽にたとえ、討ち入りの成就によってその復活を果たしたという意味だが、なるほどと思う。12月14日は、旧暦なら大寒のころ、新暦なら冬至の直前である。
太陽の神の復活儀礼は、新しい年を予め祝福することでもあり、そのようなことは、世界中の民族によっていとなまれてきた。日本では天照大神の岩戸隠れの神話、また正月行事そのものがそうである。冬至のころの西洋のクリスマスにまつわる民俗も同様であるらしい。
「あした待たるるその宝船」……まさに新年の予祝なのだろう。
Comments