神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

叶福助


叶福助福を呼ぶという縁起物の福助人形の起源は、はっきりしないようだが、いくつかの資料を総合すれば、享和年間(1800-04)から文化元年(1804)までには、江戸で最初に売られ始めたらしい。
小柄で頭の大きな風貌のモデルは、摂津国の百姓の子であるとも、京都の呉服屋・大文字屋の主人であるともいうが、宮田登氏のよると(「庶民信仰の幻想」)、江戸吉原の娼家の大文字屋の主人だったともいう。

土の焼き物、または張り子で作られた福助人形は、小さな座布団の上に置かれ、大黒様のように棚や祠に祀られ、福を呼ぶ神として流行したという。

  今年よりよい事ばかりかさなりて、心のままに叶福助

という落首もある。「叶(かのう)」が福助の苗字なのだろう。

一部では女のお多福人形と並べて祀られたこともあったらしいが、福助そのものは子どものようでもあり、フクは火を吹くにも通じるのかもしれない。大きな頭は知恵の象徴のような気もしないではないが、当時はそういうイメージはなかったようだ。

comments (1) trackback (0) 編集

木を植える神(植樹祭の季節に)


植樹祭の季節になる。
戦後の焼け跡に多くの家が建ち、学制改革によって全国に新制中学校が建てられ、多数の木々が伐採された。そのころから、天皇皇后両陛下をお招きしての植樹祭が始まった。「全国植樹祭」の名称は昭和45年からという。木を植えることは、緑や自然環境を保つということ以上に、人間らしい安らぎを得られるようにも思う。
全国植樹祭での昭和天皇の御製。
  美しく森を守らば、この国の禍(まが)も避けえむ。代々(よよ)を重ねて

日本の「木の神」については、古事記の最初の部分に見える久久能智神(くくのちのかみ)がある。日本書紀では木の種を持って父の素盞嗚尊(すさのをのみこと)とともに天下った五十猛神(いたけるのかみ)がある。五十猛神は別名を大屋毘古神(おほやびこのかみ)ともいい、妹の大屋津姫命(おほやつひめのみこと)と爪津姫命(つまつひめのみこと)とともに、全国に木々の種を蒔き、のちに紀伊国に留まった神だという。

「いたける」の語義については、「神奈備にようこそ」で詳細な検証がされている。
その一部に柳田国男説なども紹介され、柳田翁によれば、イタとは、東北地方の民間の巫女であるイタコのイタと同様であり、語りごと、すなわち神語りの意味だという。語りごとによって子の神として親神を祭る立場の神という名前の意味になる。
ところで同じ柳田翁の『野鳥雑記』によれば、雀のことを方言でイタクラと言う地方があり、紀伊国西牟婁郡 大和国十津川地方、阿波国祖谷地方などでそう呼ぶらしい。単にクラとだけ呼ぶ地方も沖縄など少なくない。クラは小鳥の総称の意味にも使われ、燕のことをツバクラまたはツバクラメというときのクラのことだろう。するとイタクラとは、「語りごとをする小鳥」の意味になる。

ところで、各地を飛び回って木の種を蒔くこと自体が、鳥の役割なのではないかと思う。私見ではあるが、イタという言葉に既に「種を蒔く鳥」のような意味があって、その鳥(イタ)の鳴き声を、神の語りごととして聞いたために、「語りごと」の意味になったのではないかと思えなくもないのである。

comments (0) trackback (0) 編集

大国主命の父母と乳母


まもなく立冬、冬の更衣えのことは重陽の節句のところでも書きましたが、この季節に「玄松子の記憶」というサイトを見ていたら石川県輪島市の重蔵神社の記事に、
  天之冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
という名の神が祭られているとありました。
重蔵神社は今は「じゅうぞう」と読みますが、もとは「へくら」だったともいい、能登半島の真北50kmほどのところにある舳蔵島(へくらじま)の神との関係が言われているようです。重蔵神社の主祭神は、天之冬衣命と大国主命になっています。

古事記によれば、天之冬衣命は須佐之男命の五世の孫にあたり、大国主命の父になります。本居宣長以来、出雲の日御崎神社にまつられる天之葺根命(あめのふきねのみこと)と同一神とされ、草薙の剣を天照大神に届けた神といわれます。大国主命の母は、刺国大神の娘の刺国若姫(さしくにわかひめ)。刺国の意味は不明。ちなみに北海道の江差(えさし)の言われはアイヌ語の岬の意味のようです。

大国主命の別名が大穴牟遅神(おほなもちのかみ)です。
若き大穴牟遅神が八十神たちに迫害されたとき、八十神たちは大木の幹を裂いてその中に大穴牟遅神のからだを挟み、大穴牟遅神は圧死してしまったのですが、そこへ御祖命(みおやのみこと)が駆けつけ、大穴牟遅神を救いだして生き返らせ、紀伊国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所へ逃れさせたという話があります。参照木の下の神話 この御祖の命が、母神の刺国若姫のことだろうといわれます。

それより前にも大穴牟遅神は、八十神たちに真っ赤に焼かれた猪の形の大石を突き落とされ、焼け死んでしまったのですが、御祖命と高天原の神御産巣日之命(かみむすひのみこと)のはからいで、蚶貝姫(きさがひひめ)と蛤貝姫(うむがひひめ)が遣わされ、生き返ることができたのでした。そのとき蛤貝姫は、母の乳汁を大穴牟遅神のからだに塗って蘇生させたということです。
ウムガヒヒメのウムとはウバと通じ、二人の姫は大穴牟遅神の乳母だったようです。岡山県阿哲郡大佐町永富の湯児神社(ゆこじんじゃ)の境内社・乳母神社(ちぼじんじゃ)に、支佐加比比売命(きさかひひめ)宇武岐姫命(うむきひめ)の名で祭られています。

鳥取県日野郡日野町根雨の根雨神社(ねうじんじゃ)の境内社・十二所権現には、以上の四柱の神がそろって祭られています。ある史料では次のような順に書かれています(カッコ内は筆者)。
 蚶貝比売神  (3 叔母?)
 天之冬衣神  (1 父)
 刺国若比売命 (2 母)
 蛤貝比売神  (4 叔母?)
おそらく実際の神座の向かって右から順番に縦書きで記録したものと思います。中心に近い向かって右の位置が一番の上座で父神、次に母神の順です。神話や古代の物語では、乳母は実母の妹であることが多いので、蚶貝比売神と蛤貝比売神は、刺国若姫の妹たちだったのだろうと想像できます。
蚶貝姫と蛤貝姫画像は青木繁(1882-1911)の「大穴牟知命」。蚶貝姫と蛤貝姫も描かれる。


comments (0) trackback (0) 編集

月読命(ツクヨミノミコト)


古事記や日本書紀に出てくる月の神を、月読命(つくよみのみこと)という。天照大神、須佐之男命と三柱で「三貴子」と呼ばれるが、月読命に関する物語は他の二神とくらべてずっと少ない。

古事記では「夜の食国(をすくに)」を支配する神という。
また、日本書紀の一書で、海原を支配するというのは、潮の満ち引きを支配するという意味なのだろう。海の水を支配し、万葉集に「月よみの持てる変若水(をちみづ)」と歌われたように、若返りの水をももたらす神である。

読(よみ)とは、「数える」という意味の言葉で、日を数えることを日読(かよみ)といい、暦(こよみ)と転じたという。月の満ち欠けを順に数えて月日の移りを認識したのだろう。農耕の時期を知らせる神でもある。
新月から次の新月までの期間は約29.5日という半端な日数なので、暦法の未発達のころは月が出てみないと新しい月になったかどうかはわからなかったと思う。古い時代には、一日の始りは、月の出、ないしは日没だったという。神が現れて祭りが行なわれるのも古くはこの宵の口からで、夜明けの鶏の鳴き声とともに神は帰った。
明るい夜の照明に慣れた近代人が抱くような闇夜への恐怖感はぐっと少なかったのだろうと思う。
日本書紀で「月弓尊」と書くのは、三日月や半月の形から「弓」と書いたのだろうが、ギリシャ神話でも月の神アルテミスは狩りの神であり、こういうのは世界共通の観念なのだろう。
記紀では月読命は女神だとも男神だとも記さない。

月読命をまつる神社は、伊勢の別宮の月夜見宮や、出羽三山の月山神社など、多数ある。東北関東では月山と関係の深い神社も多い。

comments (6) trackback (0) 編集

山田の案山子、クエビコ


今でも日本の田畑では案山子(かかし)を見かけることがある。最近では古くなったマネキン人形などが案山子代わりに立ててあるのを見て驚くこともある。作物をねらう鳥たちもこれを見てさぞ驚くことだろうと思う。

この案山子が古事記にも登場する神々の一員であることは、古事記を読むまで気づかなかった。
古事記では、大国主神が美保の岬にいたとき、遠くから近づいてくる神があった。その神の名は誰も知らなかったが、谷蟆(たにぐく、"ひきがえる"の意)が言うには、クエビコなら知っているだろうという。そこでクエビコに聞いてみると、少彦名神だという。
このクエビコ(久延毘古)は、山田のソホドともいい、「足は行かねど、ことごとに天の下の事を知れる神なり」という。歩くことはできないが、あらゆる知恵の能力を備えた神だというわけである。

案山子は田の守り神でもある。古くはカガシと濁って発音し、カガシとは臭いのことで、動物の死骸を焼いたときの臭気で悪神を退散させるのだという。関東や信州などでは、10月10日に十日夜(とおかんや)という行事があるところがあり、案山子に大根などが供えられて祭られ、カカシアゲという。田の神としての役割が終って山に帰るときのお見送りの行事であるらしい。

クエビコを祀った神社もある。石川県中能登町の比古神社(くてひこじんじゃ、""の字は実際は"低"の旁部分)は、由緒も古く規模も大きい神社である。ほかには小さい祠だったものが鎮守様に合祀されて末社になったようなものが多い。
ソホドはソホヅともいう。

あしひきの山田に立てるそほづこそ、おのがたのみを人にかくなれ 古今六帖

comments (0) trackback (0) 編集

伊邪那美命(いざなみのみこと)


伊邪那美命伊邪那美命(いざなみのみこと)は、夫の神の伊邪那岐命(いざなきのみこと)とともに、国土やさまざまの自然の神々を産み、万物を産んだ神である。
最後に産んだのが、それら万物を焼き尽くすかのような火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)であるが、そのために身を焼かれて死者の国である黄泉国(よみのくに)へ去り、以後は黄泉大神(よもつおほかみ)とも呼ばれた。日本の神話抄1
万物を産み、また死と再生をもつかさどる神だといえる。

延喜式鎮火祭祝詞によると、地上に残してきた火の神の災いを防ぐための方法を教えた神でもある。火の神との関係のエピソードが多く、火の神の母神である。
夫の伊邪那岐命は黄泉国を訪れたが、じゅうぶんな再会をはたすことかできず、死の国の穢れを清めるために、禊(みそぎ)をすることになる。

原初の生産をなした母神として、多くの神社で祭られている。生産と豊穣をもたらす神であるといえる。とりわけ熊野神社などでは再生のイメージが強いかもしれない。火の神の母神という点ではアイヌのハルニレヒメと似ていなくもない。

以下は、いろは47文字を使用した歌のようなもの。須佐之男命の詩のページにもいろはうたを載せた。
 ちはやぶる 黄泉ついざなみ 
 遅悪子(おそわろこ) 在らせ終へ得
 めのほとに 受けし傷ゆゑ 
 隠れ居て 眠りたまひぬ

comments (0) trackback (0) 編集

木地師の祖神、惟喬親王


平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)は、母は紀氏でしたが、即位することはありませんでした。清和天皇が九歳で即位され、外祖父の藤原良房が人臣初の摂政となった時代です。
親王は太宰帥などの地方官を歴任し、貞観十四年(782)、二十八歳で出家して、比叡山の麓の小野の里に住んだといいます。

  桜花、散らば散らなむ。散らずとて、ふる里びとの来ても見なくに  惟喬親王

伝説では、親王は近江国の君ケ畑などに住み、老木からお椀などを作ることを考案され、轆轤挽(ろくろびき)の方法を考案しました。その技法は木地師に受け継がれ、そこから木地師は全国にちらばって木地製品を広めたのだといいます。親王は木地師たちに祖神として崇められ、掛け物にも描かれます。

お椀のほか、こま、盆、こけしなども、木地師が木を回転させながら削って作ったものです。
木地玩具

comments (0) trackback (0) 編集

瓦職人と稲荷の神


瓦職人がまつった神は稲荷様ではないかと、ある理由で予想を立て、ネット検索を試みたら、あっさり京都の伏見稲荷にまつわる解説ページに行き当たりました。
伏見稲荷というより、伏見人形についてのページです。

各地の郷土玩具として有名な焼物の土人形は、どれも瓦職人が作ったもので、それらの元となったのが伏見人形だということです。

豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたって、瓦職人を伏見稲荷のある深草の地に集めて瓦を焼き、そのときの瓦職人が手遊びで作ったものともいいます。
あるいは古くから伏見稲荷の土を持って帰って田畑にまけば稔りが良くなるという土への素朴な信仰があって、土のかたまりが売られるようになり、だんだん土人形になっていったともいいます。狐をはじめいろんな動物の人形も売られました。

 西行も牛もおやまも何もかも 土に化けたる伏見街道  一休禅師

雄略天皇のころ、食器に使う焼き物を諸国に住む土師部から献上させ、伏見に住んでいた土師部も献上したと日本書紀にあります。土師部は古代の埴輪や土器を作った部民で、伏見にも住んでいたわけです。秦氏が伏見に稲荷社を祀る以前のずっと昔の話です。
深草には、瓦町、砥粉山町、開土町などの地名があります。

伏見人形の歴史 伏見稲荷訪問記 伏見人形のお店

comments (2) trackback (0) 編集

鍛冶屋の神


鉄製品の生産は、近代の工業化以前は、おもに鍛冶屋職人たちの仕事でした。
大きな都市には今でも鍛冶屋町、鍛冶町という地名が残っていますが、どこも鍛冶屋職人たちの多かった町です。江戸では神田周辺に鍛冶町、神田鍋町があり、近くの岩本町に金山神社があるようです。鍛冶職・金工職人・金物商などが祭った神であり、埼玉県川口市の鋳物業者たちも金山神をまつると聞きます。

しかし長沢利明氏の『金山神社のふいご祭り』によると、岩本町の金山神社は戦後にできたものであって、江戸の鍛冶職人たちはもっぱら稲荷神をまつったといいます。
旧暦11月8日の「ふいご祭り」は「いなりふいご祭り」と呼ばれていました。
ふいご祭は、ミカンを投げて子供たちが拾うことで知られますが、「ほたけ、ほたけ」というかけ声で囃すといいます。

「みちのくの鉄」というサイトによると、近畿中国地方でも鍛冶の神は稲荷神だったようです。
また、火の神である三方荒神を祀る職人たちもあり、金屋子神のばあいもあります。柳田国男以来「金屋子神は古い八幡神と共通するので、もともとは八幡信仰であった」という見方になっているようです。

金山神を描いた掛け軸の画像が次のところで見られます。
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/kyoudo/kobako/050_99/kobako60_.htm
「憤怒の形相の3つの頭、6本の手には刀剣を2本、斧、弓矢、宝珠を持ち、雲に乗って睨みをきかす明王形の像」と表現されています。
江戸時代末には沼津地方の鍛冶職は金山神を祀っていたようで、金山神は東海道を経由して東京に入ったのかもしれません。川崎市の若宮八幡宮の末社・金山神社の「かなまら祭」は、神社公式HPには遊女の病気平癒祈願から始まったと書かれますが、当時の鍛冶職のことは不明です。

以上、鍛冶職たちがまつった神の名前をピックアップしてみました。

comments (2) trackback (0) 編集

油と八幡宮


京都府乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮は、通称「山崎八幡宮」ともいい、平安時代末以降、京都へ油を流通させる拠点の「油座」という組織があったそうです。石清水八幡宮の配下の人たちらしいですが、独占的な権利を得て、諸国の油業者たちから税をとりたて、油の製造と流通を支配したそうです。(山崎の油

  宵ごとに都に出づる油売り、ふけてのみ見る山崎の月       職人尽歌合

油屋の人たちは八幡様をまつっていたということなのでしょう。

さて、そこで、全国に「油」の文字がつく地名に鎮座する八幡社を調べると25社あります。油の地名で八幡社でないものを含めた全体が118社ですから21%です。これは全国の神社に占める八幡社の割合が11%であることと比較して、やはり多いといえます。

広島県神石郡油木町には、9社のうち、「亀鶴山八幡神社」「鶴山八幡神社」「大仙山八幡神社」、単に「八幡神社」と称する3社、以上6社の八幡様があります。
山口県大津郡油谷町には、12社のうち、「河原八幡宮」「久冨八幡宮」「八幡人丸神社」「蔵小田八幡宮」「伊上八幡宮」「向津具八幡宮」の6社があります。
その他にも多いのですが、やはりこれは偶然というべきものではないのでしょう。

さらに、全国の「山崎」という地名のところにも、「八幡神社」が多いように思ったのですが、それほど多い比率ではありませんでした。
しかし香川県高松市西山崎町の八幡神社の由緒には「昔城州山崎より勸請せしものと傅へられ、依って地名をも山崎と云ふ。」とありますので、もっと探してみても良いかもしれません。
このテーマは、もっと詳しく調べてみても良いテーマです。興味のある人はやってみてください。
日本植物油協会、油にまつわる神仏

comments (0) trackback (0) 編集
<< 2/3 >>