スサノヲの乱暴〜逆剥ぎ

昨日に続いて、皮を剥がす話。機織の小屋の話も出てきます。

古事記によると、若き素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が荒れ狂ったとき、天の斑馬(ふちこま)の皮を「逆剥ぎ(さかはぎ)」に剥がして、服屋(はたや)の屋根に穴をあけてそこから投げ入れたそうです。

「天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時、その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥に剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女、見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。」(古事記)

「逆剥ぎ」についてはいろいろなことが言われてきましたが、通常の剥がし方とは逆の方向に剥がしたということでしょう。生贄として捧げられた馬があって、そのあとは捧げ物ですから皮も肉も骨も無駄なく使わなければなりません。皮を剥がすときは普通は尻の部分から剥がすのが普通らしいです。逆というのは頭から剥がすことです。「逆剥ぎ」は後世まで「天つ罪」として忌むべきものと伝えられてゆきましたが、なぜ頭から剥がすのが罪になるのかというと、その方法では、脱皮する蛇が頭から出てくるように、馬が生き返ってしまうと怖れられたから、というのが本当のところでしょう。

女性が籠っている小屋の屋根に穴があいている、という話は、古事記にもう一つあります。海神(わたつみ)の神の娘の豊玉姫が、お産をする場面です。

「海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。ここにその産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しさに忍びず。かれ産殿に入り坐しき。」(古事記)

ここで生まれたのが「うがやふきあえずの命」という神です。
これについては、産屋の屋根にはもともと穴をあけておくもので、生まれる子どもの魂は外から穴を通して入ってきて、生まれた子どものからだの中に入り込む、と考えられたからだといわれます。

となると、機織の小屋(服屋)にも、もともと穴があいていたのでしょう。機織は神を迎える巫女の神事ですから、霊魂の出入りする部分が必要です。
けれど、その穴に馬(逆剥ぎで生き返ってしまったのかのような馬)を投げ入れてはいけない、ということだったのだと思います。
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剥けの朔日(ついたち)

時期は6月1日の話。群馬県や栃木県では、この日を「衣脱ぎの朔日(きぬぬぎのついたち)」とか「剥けの朔日(むけのついたち)」といい、昔は7日まえから村人たちが神社に集まってずっとお籠りをしたそうです。ちょうどその時期は、桑畑で蛇が脱皮をするので、畑の中に入ってはいけない、だから養蚕の仕事も休んだということです。
旧暦のころから6月のようですから、ちょうど今ごろの梅雨の長雨の中の「忌み籠り」ということになります。

 花の色は移りにけりな いたづらにわがみ世に降る長雨せしまに 小野小町

百人一首の有名な歌です。「世」とは男女の仲の意味でもあり、長雨のなかを、花を眺めているうちに、花の色が変わったというのですが、色が衰えてゆく嘆きの歌という解釈も多いようです。けれどこの花が紫陽花のことだとしたら、花の色はだんだん赤味をおびて熟してゆくのです。

剥けの朔日とは、水神である蛇の脱皮にあやかって、人間もお籠りをして脱皮するように生命の再生を祈るものとだいわれます。一肌剥けたあとは、赤くみづみづしい肌となるはずです。

現代の6月1日は衣更え。私が若いころは、もっと早く夏服に着替えても良いのではと思いましたが、年齢とともにその時期で良いのだろうとも思います。この衣更えの習慣も、水神の信仰にちなんでその日となったのかもしれません。
最近はクールビズというそうですが、夏も変らぬ背広姿でないほうが、新しい気持ちでものごとにとりくめるような気がします。
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猫の目の形で時刻を知る歌

猫の目の形で時刻を知る歌というのがある。
猫の目が、夜は丸く大きくなり、昼は細く小さくなるのを、その段階に従って歌で詠んで、歌をおぼえて、おおむねの時刻を知るための智恵の歌なのだろう。
時刻は江戸時代の数え方で、猫の目の形は「丸→卵→うりざね→針」にたとえている。

 六つ丸く、四八うりざね、五と七と卵となりて、九つは針   谷川士清

「明け六つ」「暮れ六つ」というように、六つは日の出、日の入りのこと。
日の出・日の入りが、六つ。 →丸く
午前8時、午後4時が、五つ、七つ。→卵
午前10時、午後2時が、四つ、八つ。→うりざね
正午が、      九つ。 →針

歌の語呂の関係で、卵とうりざねは順番通りではない。
たまたま何かで見て手帳にメモしておいた歌だったが、ネット検索で調べたら、作者の谷川士清という人は、今の三重県の津市に生まれた国学者とのこと。
そのほかの時刻の数え方は以下の通り。

明け六つ 日の出
  五つ 午前8時
  四つ 午前10時
  九つ 正午
  八つ 午後2時
  七つ 午後4時
暮れ六つ 日没
  五つ 午後8時
  四つ 午後10時
  九つ 午前0時
  八つ 午前2時
  七つ 午前4時
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いちばん古い七夕の由来

日本の古い年中行事は、1年をきっちり半分に分けたとき、1月からの行事と7月からの行事で、似通ったものが2回繰り返されるといわれます。
たとえば7月15日のお盆と1月15日の小正月、どちらも祖霊祭に原義があります。半年を周期に年月の流れをとられていたからだといわれるわけです。
では7月7日の七夕は、1月のどんな行事に似ているでしょう。
それは、若水汲みになります。

吉成直樹『俗信のコスモロジー』(白水社1996年)に沿って紹介しましょう。
高知県などでの七夕に関する俗信の調査によると、
  里芋の葉にたまった水を集めて顔を洗うと肌が綺麗になる。
  その水でイボや傷・吹き出物につけると直る。
といったことが言われます。他には「その水で墨をすって字を書くと字が上手なる」というのもありますが、これはこの日に技芸の上達を祈るという中国の乞巧奠の影響だろうということです。
里芋の葉の水とは、天から落ちてきた水だと考えられました。そして肌や皮膚に関して人が若返るという信仰は、盆に備えるために禊で清めるというものとは異質のものだろうといいます。皮膚が若返るとは、脱皮を意味するもので、水神=蛇を模したものです。その水神は天に住んでいるのだという信仰なのです。

同じ調査では、6日の晩に14歳以上の未婚の少女たちが一つの宿に集まって、夜を通して、苧(お)を績(う)む行事があったと報告され、かつては全県で同様の行事があったといいます。「苧を績む」とは麻の繊維から麻糸を作ることです。
辞書によれば「苧績み宿」「糸宿」ともいい「娘宿の一。夜間、娘たちが集まって麻糸を紡いだり糸引きの仕事をしたりする集会所。糸引き宿。よなべ宿。」(大辞泉yahoo版)と説明され、全国的な民俗だったようです。
機織りについて糸を績むことと類似の行為と見てよいと思います。

七夕とは、神を祭る棚機姫(たなばたつめ)と呼ばれる女性が、水辺の棚の上で、機を織りながら、神の来訪を待つ神事だといわれます。それは選ばれた特別の女性のようなイメージなのですが、村のすべての少女が集団で行なってきたことだったのです。
七夕の伝説が一人の美しい女性の物語となっていったのは、物語だからそうなったといえばそれまでですが、神に選ばれたという結果から解釈された物語なのかもしれません。神に選ばれたとは、つまり毎年の糸引きや神祭りを続けることによって誰もが結婚の資格を得ていったということなのでしょう。
まだ学校のなかった時代ですから、娘宿では機織などの他にも学ばねばならないことはたくさんありました。あるいは春先には、日中に外へ出て若菜を摘んで自炊したり、さまざまな経験をするところが娘宿だったようです。
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旅の心得の歌

前日の『少年探偵手帳』から
忍者の旅の心得の歌。

 道中は、一度にものは食らわずに、休み休みて、いくたびも食え
 腹の立つことも旅はこらえつつ、言うべきことは、のちにことわれ
 道中は、自由をせんと思うまじ。不自由せんとすれば自由ぞ
 得たりとて旅では出すな、わがわざを。隠さぬ人は、難にあうなり
 物言いも、旅ではことに和らげよ。理屈がましく声高にすな
 道中で、立ち寄り見るな。変死人。けんか、口論、碁や将棋

ことを荒立てないように、危険を避けるということでしょう。「旅の恥はかきすて」とは大違いです。

 空腹で風呂に入るな。ことのほか くたびれたなら熱い湯に入れ
 宿とりて、一に方角、二に雪隠、三に戸締まり、四に火の元
 長雨ののちにて山岸を行かば気をつけよ、崖のくづれに
 道中で知りたる者に、薬などすすめられても、ひらに断れ
 渇きても知らぬ山路や谷川の水は飲むまじ、くすりにて飲め
 船中の板子や竿に目をつけて、まさかのときは持ちて波間に

武道や作法、そのほか稽古事などには、よく「心得の歌」というのはあったようです。料理のコツの歌なども聞いたことがあります。
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猫を探すおまじないの和歌

少年探偵手帳「鉄腕アトム」「鉄人28号」などが連載され、ある世代には懐かしい雑誌『少年』(光文社)には、『少年探偵手帳』という付録が付いていたことがありました。江戸川乱歩原作の少年小説「少年探偵団」の小林少年たちが持つ手帳で、団員のしるしである「BDバッチ」の付録も人気がありました。この手帳の内容が文庫本で復刻されたのが、串間努著『少年探偵手帳』(光文社文庫、1999年)です。

その本の中に「猫を探し出す方法」として、次の和歌を紙に書いて柱に貼ると良いと書かれています。「志みづ」は「しみづ(清水)」と読みます。

 逢坂の関の志みづにかげみえて つながぬねこのかへるなりけり

出典等はよくわかりません。一般に、いなくなった猫は探さないというのが日本人の習慣だったと思います。いついた家が猫の家であって、生まれた猫の子までその家で二代三代と飼うのは昔は嫌われていたそうなので、猫を探すというのは戦後の習慣なのだとは思います。

他に、鼻血を止めるときに唱える和歌というのもあります。

 鼻血ならあおむけにねて鼻つまみ、頭と鼻を水で冷やせ

唱えろと書いてあって、実際にその通りしろとは書いてないのですが、治療法を記憶するための和歌ですから、したほうがいいのだとは思います。こういう生活の智恵を和歌で暗記するということはよく行われます。

寝坊をしないための歌というのもあります。寝る前に唱えると良いとあります。

 うちとけて もしもまどろむことあれば ひさおどろかせ わがまくらかみ

 寝るぞ根太(ねだ) 頼むぞ垂木(たるき) 聞けよ梁(はり) *時になったら起こせ戸や壁

※ 「*時」のところは起きたい時刻を唱えます 
※ 根太(ねだ)とは、床板を裏で支える横木のこと。
ちなみに、垂木とは、屋根の裏側に縦方向に何本も付いて支えるもので、梁は、屋根裏内で骨組みをしっかり支えるために横方向に渡された何本かの太い木のことです。
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群馬県の近戸神社

鈴木繁『群馬よもやま俗話』(あかぎ出版 2004年)という本のなかに、「赤城信仰の背景」と題した一章があり、有名な赤城山の赤城神社のほか、近戸神社という神社がいくつか紹介されています。

前橋市大胡町 大胡神社 大胡城の鎮守で「近戸大明神」と言っていた。

勢多郡粕川村深津 近戸神社
聖武天皇の時代に小野綱手が城の鎮守として祭った。坂田城址や、鳥山御殿という館址がある。
……やはり城の鎮守となっている

前橋市上増田町 近戸神社
推古天皇の御代に赤城神の告げていうのに、「われ大明神は天に在って相生神で男星である。この国の人はわが名を磐筒男命と呼んでいる。この赤城山は内宮であり、水海に近きところは外宮である。汝、科野(信濃)大神の告げによって田を開かせる。よって先ず外宮である近外山(近戸)の神を祭るべしと」
……外と内、という対比になっている。
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「心もしのに」

yブログのタイトルについては、なかなか良いものが思い浮かばず、とりあえず「心もしのに」で始めることにしました。
万葉集の有名な歌の
  淡海(あふみ)の海、夕波千鳥、汝(な)が啼けば、心もしのに、古(いにしへ)思ほゆ
から取ったものです(柿本人麻呂作歌)。
その意味は、辞典などでは、最近は「心が撓(しな)えるように」とあるのもありますが、「しっとり、しみじみ」あるいは「しきりに」の意味との説明もあります。
いづれにせよ、重要視したいのは、「心もしのに」に続く「古思ほゆ」であるわけです。

もっと良いタイトルがあれば変更するかもしれませんが、とりあえず、このまま行きます。音声読み上げソフトへの対応のため、おおむね現代仮名遣いを使用します。

7月9日楽天広場への移行にともなって「神話の森のブログ」と改称しました。

 * * *
近江国の伝説などについてはこちら
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/32siga.htm
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市町村合併と消えた地名

福島県の東南端の棚倉町を訪れたときのこと、地図に「八槻(やつき)」とある地名の場所に車で差しかかると、商店の看板などに「近津」という文字があちこちに見えるようになりました。近津は地名のようにも見えますが地図にはありません。しかしよく地図を見ると、JRの駅名に「ちかつ」とありました。

あとで調べてみると、この地域は、戦後に棚倉町に編入される以前は、「近津村」と言っていたようです。それで近津小学校もあれば近津郵便局もあったのでした。
この近津村も、明治時代の町村合併で初めて出来た村です。八槻のほか「寺山、手沢などと相合せて近津村と改む。近津宮のあればなり」と地名辞書にあります。近津宮とは、明治に都都古別神社と名を改めた古社のことです。都都古別神社は延喜式のころからの由緒ある名前なのですが、近世の繁栄をもたらした近津の名も惜しいものがありますから、村の名で残ることになったのでしょうか。近津の名は、明治の新しい村名ですがそれ以前の古い由緒を伝える地名でもあったのです。

近津村のように、今は地図から消えてしまった地名は少なくありません。坂口安吾の飛騨高山についての随想を読んでいたら、いくつもの出てくる地名が気になり、地図で調べたところ、ほとんど載っていなかったことがあります。執筆されたのが昭和20年代ですから、書かれた地名はその当時の村名であって、30年代以後に合併のために村がなくなったのだろうと思います。

最近また「平成の大合併」などと旗が振られ、またも多くの地名が消えつつあります。

ところで、今の大字の地名の大部分は、明治以前には村の名前であり、ほとんど室町時代から変らないというところが多いそうです。エッセイなどで「○○市の稲荷神社」と書いても将来はわからなくなるでしょうから、「○○市大字△△の稲荷神社」と書くのが良いと思います。大字の名前がもし「△△町何丁目」に変わったとしても、それでわからないことはありません。しかしそれには大字の名を町名に残しておいてもらう必要がありますけれども。
対等合併で新しい市の名前で困ったときは、「近津村」の例も参考になると思います。

玄松子さんという人は、地名変更によってホームページ内の地名表記を一つ一つ訂正しているそうですが、「神話浪漫館諸国編・歌語り風土記」は未定です。
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オノゴロ島

「島」とは、どんなものをいうのでしょうか。
広辞苑によると「周囲が水によって囲まれた小陸地。成因上から火山島・珊瑚島・陸島などに分類」とあります。
私などのように関東の二大河の利根川と荒川の接近した地域に住んでいると、大字の名前などで「〜島」という地名が実に多く、遥か古代にはこれらの川は想像を絶するような広い川幅の中に沢山の島々があったのだろうと、以前は思っていました。

けれど「周囲が水によって囲まれた」というような外から客観的な形状を眺めるような態度で古代の人が見ていたかというと、そんなことはないのでしょう。広辞苑の説明はあくまで地学などの自然科学による見方です。
月の形でいえば、十六夜(いざよひ)とか二十三夜待ちとか、日本人は、その満ち欠けの形よりも月の出の時刻に注意を払っていたことがわかります。つまり、十六夜とは日没から月の出までの半時余りの闇夜を神秘なものと見たものですし、二十三夜待ちとは下弦の月が出る夜中の12時ごろを待つ宵待ちのことです。

島についても、形ではなく時間の流れ、地形ですからかなり長い年月の流れになりますが、そういうふうに見ると、島とは、
古い時代に水の底だった土地が、歴史の経過とともに陸地となっていった土地
と定義するのが良いように思います。これが島の定義といっていいと思います。

長い年月の間に、川の流れが変化したり堆積によって「洲」ができます。「洲」をシマと読むのは、日本の国のことを「大八洲(おおやしま)」といっていたことでもわかります。では日本の国は、水の流れの堆積によってできたのでしょうか? じつは、そうともとれるような話が古事記にあります。 

古事記によれば、イザナキ・イザナミの命が結婚して、最初に出来たオノゴロ島は、もとは海水だけがあった所に、二神が天上から「あめのぬぼこ」という鉾(ほこ)を差し下ろして水を掻き回したら、鉾の先から塩がしたたり落ちてできた島だといいます。オノゴロ島も、元は水底だった場所が陸になった場所という意味では、前述の「島の定義」と食い違いはないのです。

かつて海の底だった土地が長い歴史とともに海水が引いて陸地となったような土地もあるでしょう。地名の中には、長い年月を経て受け継がれた記憶から名づけられるものも多いでしょうし、代々受け継がれた人々の記憶は、自然を主人公にした一つの物語に形作られて、地名に結実していったこともあったかもしれません。ここでいう自然とは神々のことでもあります。さらにはその土地でおきた歴史上の人間の物語も地名に篭めらることもあります。
和歌の修辞法である枕詞についての解説によると、「空みつ 大和」など枕詞は地名に付くのが古い形であり、古い物語を伝えるためのものであると言われるのですが、上に述べたような理由もあるのかもしれません。
そうやって、歴史は一歩を踏み出して行ったのでしょう。

 あしゆびもおのころ島をはなれねば、わが思ふこと、おほよそ虚し  釈迢空
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