滋賀県(近江)

淡海(あふみ)の海、夕波千鳥、()が啼けば、心もしのに(いにしへ)思ほゆ  柿本人麻呂

余呉湖

 琵琶湖の北に余呉湖といふ小さい湖がある。むかしこの湖に、天から織女が舞ひ降りて水浴びをしたとき、きりはた太夫といふ男が天の羽衣をどこかへ隠してしまった。天へ帰れなくなった織女は、太夫の妻となって、一児が生まれた。その子も大きくなったある夜、母が天を眺めながらため息をもらすと、子は母のために羽衣を捜し出して来た。そして母がいふには、年に一度、七月七日に湖の水を浴びて待てば、必ず逢ひに来ると約束して、天に帰って行った。 ○余呉の湖、きつつなれけん。乙女子が天の羽衣ほしつらんやは  曽丹集

 天正十一年の賎ヶ岳の戦では、柴田勝家は柳ヶ瀬峠に、羽柴秀吉は木之本に陣を構へた。



竹生島、伊吹山

 むかし夷服(いふき)岳(伊吹山)と浅井岳が高さを競ったとき、浅井岳が頭を斬られて、頭の部分が琵琶湖に落ちて竹生島(ちくぶじま)となったといふ。浅井岳の浅井比売命は都久夫須麻(つくふすま)神社にまつられる。

 ○目に立てて誰か見ざらん、竹生島、浪にうつろふ朱の玉垣     隆祐

 竹生島には弁天様がまつられてゐる。源平の争乱のころ、平経正がここに参篭し、名器「仙童の琵琶」を借りて、弁天様の前で上弦石上の曲を夜通し奏でた。すると白龍(白狐ともいふ)に姿をかへた神が現はれたといふ。

 ○ちはやふる神に祈りのかなへばや、しるくも色のあらはれにけり  平経正

 竹生島の周囲には大鯰が棲み、中秋の名月のころに、島の北に大群が集まって踊り狂ふのは、弁天さまが招き寄せたものといはれる。

 ○月の出も間近かるべし。鯰つる沼の面白く水明りせり       若林健二

 伊吹山は、古代からお灸の原料の(もぐさ)など、薬草の産地だった。

 ○かくとだにえやは伊吹のさしもぐさ、さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方

 織田信長もここに海外の薬草を植ゑ、広大な薬園をつくったといふ。



浅妻舟

坂田郡米原町朝妻

 朝妻(米原町朝妻)は、琵琶湖の東にそそぐ息長川の河口に開けた古代の港町であった。慶長のころに米原の港ができるまでは、「本朝遊女の始まりは、江州の朝妻、幡州の室津」(好色一代男)といはれたほどの繁昌をきはめた。町の遊女を歌ふのに浅妻舟といふ言葉もできた。

 ○おぼつかな。伊吹颪の風さきに、浅妻舟(あさづまぶね)は逢ひやしぬらん     西行

 ○この()ぬる浅妻舟の浅からぬ契りを誰にまた交はすらむ      也足軒通勝卿

 柳の下の繋舟に、金烏帽子に水干を着けた白拍子が、鼓を持って乗る浅妻舟の絵は、浮世絵などの画題としても好まれた。米原町磯崎神社付近の琵琶湖を歌った万葉歌。

 ○磯の崎漕ぎたみゆけば、淡海の海、八十のみなとに鶴さはに鳴く  高市黒人



法界坊

彦根市

 近江国彦根の上品寺の住職の子に生まれた法界坊は、八つのときに父に死なれ、諸国へ修行の旅に出た。十年後に故郷に戻ってみると寺は荒れ放題、再建のための寄付金集めに再び旅に出た。江戸では新吉原、扇屋の遊女・花里がこの若いお坊さんの志に感銘し、廓内の寄付を取りまとめてくれた。花里は志半ばで他界したが、(いもうと)の花扇が残りを集め、立派な釣鐘が完成して、法界坊はそれを持って寺へ帰った。数日後、法界坊の夢に花里が現はれ、朝起きると枕もとに観音像が置かれてゐたといふ。

 ○はれの間や浅茅ヶ原へ客草履                  遊女花里



井伊直弼

彦根市

 開国問題で揺れ動いた幕末のころに彦根藩主となった井伊直弼は、攘夷派と対立し、幕府大老に就任後、二年で江戸城桜田門外で暗殺された。

 ○近江の海、磯打つ浪のいくたびも御世に心をくだきぬるかな    井伊直弼

 明治以後の物語類の中では、崩壊しつつある幕藩体制の中で苦悩しながらも思ひ切った断行をする人として描かれる。



蒲生野

八日市市

 むかし天智天皇が近江国蒲生野(がま ふ の)で遊猟されたとき、額田王と大海人皇子が詠んだ歌がある。

 ○あかねさす紫野ゆき、標野(しめの)ゆき、野守は見ずや、君が袖振る    額田王

 ○紫の匂へる(いも)を憎くあらば、ひと妻ゆゑにわれ恋ひめやも      大海人皇子

 蒲生野は八日市市船岡山付近といひ、八日市市はその名の通り古代の市が栄えた地で、市の神をまつった市神神社がある。ここを流れる愛知川の上流に木地師の里がある。



鏡山

蒲生郡竜王町

 九代将軍足利義尚(日野富子の子)が、応仁(1467--69)のころ近江で炎天下に行軍中、歌を詠むと、涼風が吹き五万の兵も生気をとりもどしたといふ。

 ○今日ばかり曇れ近江の鏡山、旅のやつれの影の見ゆるに      足利義尚

 鏡山は蒲生郡竜王町にある。義尚は長享元年(1473)に近江守護の六角氏を征伐するために出陣したが、近江で病死した。



三上山 俵藤太の百足退治

野洲郡野洲町三上山

 延喜十八年(918)、俵藤太が瀬田の唐橋を通らうとすると、橋の上に大蛇が寝そべってゐた。藤太が大蛇を跨いで進まうとすると、大蛇は訴へた。自分は琵琶湖に住む大蛇だが、三上山の大ムカデのために、一族が滅ぼされようとしてゐると。そこで藤太は、大蛇の巻き起こす水柱に乗って三上山へ飛んで行き、唾をつけた矢で百足を退治したといふ。

 ○千早振る三上の山の榊葉の栄えぞまさる末の世までに       能宣



草津名物 姥が餅

草津市

 草津の代官佐々木某の姥が、主君の死後に遺児を育てるために、餅を売って養育費を稼いだといふ。姥が餅といふ。

 ○出船召せ召せ、旅人の乗り遅れじとどさくさ津、お姫様より先づ姥が餅



大津の義仲寺

大津市馬場

 木曽義仲が木曽で挙兵したとき、山吹といふ名の木曽の女が女兵として従った。山吹はふとしたことから義仲の寵愛を受けることになったが、義仲は京を制圧してからは都の女に溺れるやうになり、山吹は身も心もやつれるばかりだった。義仲一党は京に五ヶ月ゐただけで都落ちとなり、病床の山吹もひとり都を後にしたが、大津まで来て息絶えたといふ。

 ○木曽どのをしたひ山吹ちりにけり

 ○木曽殿と背中あはせの寒さかな                 芭蕉

  ◇

 ○さゝ波や志賀の都はあれにしを、むかしながらの山さくらかな   平忠度

 ○春がすみ志賀の山越えせし人にあふここちする花桜かな      能因



唐崎の松

大津市

 近江の坂本(大津市)に築城した明智光秀が、唐崎の松の枯れたのを惜しんだ歌。

 ○われならで誰かは植ゑむ、一つ松、心して吹け、志賀のうら風   明智光秀

 三条西実隆が志賀の唐崎の松が枯れかかってゐたのを見て、歌を書いて松に掛けると、まもなく青々とした葉を付けるやうになったといふ。

 ○花の咲くためしもあるを、この松のふたたび青き緑ともがな    三条西実隆



近江八景

 江戸時代に太田蜀山人が長崎への旅の途中、瀬田橋で駕篭かきと問答して、近江八景を一首に詠んで駕篭賃を只にしたといふ。

 ○乗せたから先はあはづかただの駕篭、比良石山やはせらせてみい  蜀山人

 近江八景は、瀬田の夕照、唐崎の夜雨、粟津の晴嵐、堅田の落雁、比良(ひら)の暮雪、石山の秋月、矢橋(やばせ)の帰帆、三井(みゐ)の晩鐘。



布袋丸

大津市 石山寺

 むかし存如上人が石山寺に詣でたとき、ある女性とめぐりあひ、男の子が生まれたので、布袋丸と名づけた。布袋丸が六歳のとき、母は、「鹿の子の小袖と絵姿、これがある場所がわたしの浄土です」と謎のことばと歌を残して、いづこかへ去って行った。

 ○恋しくばたづね来てみよ、唐橋の石立つ山は母のふるさと

 布袋丸はひたすら修行を重ね、蓮如と名告る立派な僧になった。三十二歳のときに北陸行脚の途中、立ち寄った石山寺で見なれた鹿の子の小袖と絵姿を見つけた。幼い日に別れた母は、石山の観世音菩薩だったことを悟り、念珠を供へたといふ。

 石山寺では、紫式部が籠って源氏物語を書き始めたといふ伝説がある。



愛護の若

比叡山

 京の左大臣の二条清平にははじめ子が無く、夫婦で初瀬観音に数日篭もって祈願して授かった子が、愛護の若である。若は十三才で母を亡くし、後妻の邪恋による怨みを買って殺されさうになり、猿や鼬に助けられて家を出たあとは、数奇な運命をたどることになった。四条河原の革細工職人や、粟津の商人・多畑之助兄弟らの力添へでなんとか命をつなぎながら、叔父である(そち)阿闍梨(あじゃり)を頼って比叡山に登った。しかし誤解がもとで叔父にも見はなされ、若は穴生の里の飛竜ヶ滝に身を投げて死んだといふ。このとき傍らの松に掛けてあった若の小袖に、歌が残されてあった。

 ○かみくらや飛竜が滝に身を投げる、語り伝へよ、松のむら立ち   愛護の若