神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

安宅の関と住吉の神


NHKドラマの『義経』で、安宅の関の場面をやっていた。歌舞伎の『勧進帳』でも有名な場面である。番組の最後に史跡案内が短く紹介され、安宅の関の址、その近くには安宅住吉神社があるという。
安宅の関も神社も海べりにあり、住吉の神といえば昔から海上交通の神である。

しかし「関」と呼ばれるような場所に住吉の神がまつられる例は、他にもあった。奥州街道の白河の関、そして関所はなかったが、中山道の美濃・信濃の境の神坂峠(8/27 峠の神の伝説と歌の神 参照)である。
船の交通の要所の神であったものが、だんだん陸にものぼって山や峠の難所にもまつられるようになったということだろう。そして難所の神は歌の神でもあったのである。

安宅住吉神社はいわゆる延喜式内社ではないようだが、安宅の関は延喜式にも載り、源平盛衰記には「安宅関住吉浜」とも書かれているらしい。しかし所在がわからなかった時代も長く、古い和歌には読まれていないようだ。

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つくもの物語


どこからメモしておいたのか忘れたが……たぶん『国文学』という雑誌かもしれない……、「つくもの物語」という話。

よく熟した柿が一つある。動物たちが集まって、誰が食べるべきか話し合うが、年齢の高い者が食べるのがよいということになった。
鷺は、「みそさぎ」といって、三十。
鴫は、「よそしぎ」といって、四十四。
鳩は、「やへはと」といって、八十。
蜘蛛が、「百年に一年足らぬつくも(九十九)」といって、一番となって柿を食べたという話。

意味はよくわからないのだが、イソシギやイヘバトなら今の辞書に載っている。

 百年に一年足らぬつくも髪。我を恋ふらし。面影に見ゆ  伊勢物語

この歌は白髪の老女に恋われた在原業平が詠んだものである。
「つくも」とは「つくも草」のことで、老女の白髪のように見えるらしく、そこから老女の白髪を「つくも髪」というのだそうだ。
「つくも」は「つぐもも(次百)」の縮まったもの、次が百とは、九十九のことだから、九十九と書く。百に一つ足りないというわけで、百という漢字から一を除くと「白」となり、白髪のこと。さて草の名が元なのか、漢字の白が元なのかよく解らない説明だ。
九十九才のお祝いは白寿である。「お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪のはえるまで」とは女性の歌う民謡である。「共白髪」とは結納品で麻緒をたばねたものをいう。

美男で知られる在原業平に、老女が恋するとは奇妙な話かもしれない。しかし老女の恋は、古事記に、雄略天皇に恋した引田部の赤猪子(アカイコ)の話がある。赤猪子は志都歌(しづうた)を歌う巫女で、雄略帝を若返らせる歌を詠んだ。在原業平の色好みというか若々しさも、つくも髪の老女によって祝福されたものなのだろう。

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辞世の歌(太田道潅、ほか)


秋を思いながら、『日本故事物語』(池田弥三郎著)の「もの言えば唇寒し」の項を読んでいると、辞世の歌に話が飛んでいた。

  かかる時、さこそ命の惜しからめ。かねてなき身と思ひ知らずは  太田道潅

太田道潅が討ち死にのとき、槍でからだを突かれた状態で詠んだという。池田氏は「誰かが書き留めてやったのだろう」という。武士の情けでそういうこともあったかもしれない。しかし氏の言葉はどうも懐疑的なニュアンスである。懐疑的というのは後から他人が作って伝わったものだろうという意味。
ほかに石川五右衛門、浅野内匠頭の辞世のあと、吉田松陰の歌の話になる。

  身は、たとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし。大和魂  吉田松陰

「気の毒に文法の誤りがある」という。「まし」は反実仮想の助動詞なので意味が逆になってしまうと言われてみれば、その通り。「まし」を使った歌に、万葉集の石川郎女が大津皇子に答えた歌がある。

  わを待つと、君が濡れけむ足引きの山の雫にならましものを  石川郎女

私を待って君は濡れてしまったという。せめてその山のしづくに私はなりたかった(なれなかったけれど)という意味である。吉田松陰の歌は「大和魂を留め置きたかった(現実は留め置けなかったけれど)」となって、おかしなことになる。「気の毒に文法の誤りがある」というのは誰が気の毒かというと、吉田松陰その人であろう。やはり本人の歌ではなかったようだ。

実はこのような後世の人が作ったであろう伝説の歌は数限りなくある。「歌語り風土記」に載せた歌の中にも多い。しかし語りつがれる伝説の中でこそ歴史物語は生き、時代という客観性すら与えられるものなのかもしれない。

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2011-9-27 「辞世の歌(太田道潅、吉田松陰)」を「辞世の歌(太田道潅、ほか)」に改題。
本人の作でない伝説歌にこそ価値があるというテーマです。
テーマとは関係なく本人の作でなければ無価値であるという先入観に基づくコメントが目立ちました。1つ1つはイエローカードでも連続させればレッドカード(迷惑行為)であると判断し(少なくともキーワード「太田道潅」での検索順位が下がります)、削除したコメントがあります。

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春と秋とどっちが良いか?


春と秋とどちらが良いかとは、今の日常会話でも話題になる。
万葉集巻一に額田王の有名な歌がある。

  冬ごもり春さり来れば、
  鳴かざりし鳥も来鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど、
  山を繁み入りても取らず。草深み取りても見ず。
  秋山の木の葉を見ては、
  黄葉をば取りてそ偲ふ。青きをば置きてそ歎く。
  そこし珍らし。秋山われは

春がくればそれまで鳴かなかった鳥も鳴き、咲かなかった花も咲くが、山は繁り草は深いために、入って取ることも見ることもできないという。
秋になると、山は紅葉し、紅葉を取っては思い、青い葉はそのまま置いては歎き、そういう秋の山は愛でるべきものであるという。
「山を繁み草深み」とは立夏を過ぎた時期にあたるようであり、そこまでを「春」に含めるのだろう。

手に取ることもできない高嶺の花では価値が解らないという率直な判断である。春と秋を対比させること自体に外来思想の影響が見られるとの評釈もあるが、判断内容は、人間世界から切り離されたところで抽象的な論理を組み立てるのではない日本の古代の発想なのだろう。

引用の歌は折口信夫『口訳万葉集』によるが、他の本では最後の1行が「そこし恨めし秋山われは」となっていることが多いと思う。
9月20日に引用した歌
「物皆はあらたまりたり。よしゑ、ただ、人は、古りにし宜しかるべし」は
「物皆は新しき良し ただしくも人は古りにし宜しかるべし」となっていることが多い。

万葉集は個人的に20年以上前に全ての歌をタイプして保存しておいたものからコピーしています。折口信夫は没後50年が過ぎて著作権が消滅したようなので、私のファイルを希望者に配布する用意もあります(ただし詞書を略してタイプしたものです)

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手鞠唄、数え唄


こんな手鞠唄があるそうです。

一番始めは一の宮、
二は日光の東照宮、
三つ三河のお稲荷さん、
四はまた信濃の善光寺、
五つ出雲の大社、
六つ村々鎮守様、
七つ成田の不動様、
八つやはたの八幡宮、
九つ高野の弘法様、
十で東京招魂社

ある人の話では手まり唄以外の遊戯唄として同じ歌詞で歌われることもあるそうです。
「東京招魂社」とは、明治2年に東京九段に創建された神社のことで、その10年後には「靖国神社」と名を改めた神社のことです。歌のできた年代もそのころなのでしょう。
そこで一つ作ってみました。

一は 稲荷の狐さま
二は 鶏 お伊勢さま
三は 山王 お猿さん
四は 鹿の住む 春日さま
五は 牛頭天王 八坂さま
六つ ムカデは 聖神社
七は 
八は 八幡 鳩が飛ぶ
九は 熊野の やたがらす

動物と神さまの関係を読んではみたのですが、七ができていません。
神使として有名な動物で残っているのは、蛇や竜がありますが……

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峠の神の伝説と歌の神


奥州街道の白河の関所の付近を道路地図で見たら、福島県と栃木県の県境に、「境の明神」という神社が記載されていた。地図をよく見ると福島県側なので「平成祭データ」で調べると、「福島県白河市字明神前 境神社」とある。けれどそれ以上の記述はなく、この資料で記載が少ないのは小規模の社であることが多く、そのような社なのだろうと思った。

その後、和歌山市にもある玉津島神社の分布を調べたとき、栃木県那須郡那須町寄居に、「玉津島神社 通称 境明神」という神社があることがわかった。地名辞書で調べると、奥州街道の下野と奥州の境の南北に2つの「境の明神」という小祠があるらしい。今の境神社と玉津島神社のことだろう。

和歌山市の玉津島神社は、平安時代から「和歌の神」としてよく知られる。歌枕にもなり、都の雅びな人に好まれ、多くの歌が詠まれた。そんな神社が、なぜ辺鄙といわれた奥州の入口に祀られるのだろうか。だが、その理由は難しいことではない。
もともと関所のおかれたような峠や湊では、土地の神に通行を許してもらうための歌が詠まれたのである。役人のいる関所に限らず、峠や交通の要所などでは、土地の神をたたえる歌を詠まなければ通してもらえなかった。「歌語り風土記」には、そのような歌がおそらく数百単位で載せてある。なかでも紀貫之が玉津島神社参詣の帰りに、和泉国の蟻通明神で馬が動かなくなったときに詠んだ歌は、こんな歌である。

  かき曇りあやめも知らぬ大空に有りとほしをば思ふべしやは  紀貫之

暗く曇った空にも有ると、星のことを思うべきだ、という意味の歌だが、「有りと星」とは「ありとほし(蟻通し)」を掛けている。単に「ありとほし」の名を巧みに詠み込んだだけの歌と見てしまいがちだが、このような歌を神に奉納しなければ通れない場所だった。
もう一つ、峠の神にものを手向けた有名な歌。菅原道真が上皇の吉野行幸に従ったときの歌である。

  このたびは幣も取りあへず、手向山、紅葉の錦、神のまにまに  菅原道真
  (この度の旅には手向の幣はあへて供へません。といふのは、この山の見事なもみぢ葉に優るものはないからで、どうぞこの紅葉の葉を御心のままにお受取り下さい)

峠(たうげ)という言葉は、「手向(たむけ)」という言葉が音便化した言葉であり、神に手向けをしなければならない場所という意味である。手向けるものの中で特に重要なものの一つに、歌がある。

白河の話にもどって、荻上紘一氏がこんなことを書かれている。
「白河の関は2箇所にあったので「二所の関」といわれている。片方だけ訪ねたのでは片手落ちになるので、そのもう一方といわれる栃木県との県境にある「境の明神」にも行ってみた。玉津島神社と住吉神社が並んでいるが、福島県側には「福島県側が玉津島神社、栃木県側が住吉神社」と書かれており栃木県側には「栃木県側が玉津島神社、福島県側が住吉神社」と書かれている。一体どうなっているのだろうか。」http://svrrd2.niad.ac.jp/faculty/ogiue/tabinikki/nasu.html

白河市には「住吉神社」という名の神社は前述の資料にはなく、この「住吉神社」とは冒頭に述べた「境の明神」のことだろうと思う。住吉の神は海上交通の神ともされるが、玉津島の神と並ぶ「和歌の神」でもある。柿本人麻呂をまつる柿本神社を加えて「和歌三神」ということもある。それはともかく、境の神として住吉神社が祀られるのも、歌の神だからなのだろうと思う。

中山道の信濃から美濃へ越える神坂峠(みさか)は、日本書紀によるとヤマトタケルの尊が難儀した場所である。、尊は白狛に導かれてこの峠を越えることができたという。この白狛は神坂社の使だという(似た話は埼玉県の三峰神社にも伝わる)。神坂社は長野県下伊那郡阿智村大字智里字杉ノ木平にあり、通称「住吉社」とも呼ばれ、表筒男命以下の住吉三神を祭神としている。ある本では、宗像系の安曇族が通過した跡だからこの神が祭られたのだろうと書かれるが、しかし峠を通過した部族は数知れず、ここは素直に「歌の神」だからとしたほうが良いだろう。
(この文の主要部分は半月前の発想だが、神坂峠の例を知って確信が持てたので、書上げてみた。峠に祭られる歌の神の例は、探せばもっと出てくるだろう)

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女帝とその御製


33代 推古天皇(592〜628年)
在位が長く聖徳太子には譲位されませんでした。大臣の蘇我氏を褒めた御歌です。

  真蘇我(まそか)よ 蘇我の子らは、馬ならば日向の駒、太刀ならば呉の真刀、
  宜(うべ)しかも 蘇我の子らを、大君のつかはすらしき

35代 皇極天皇(642〜645年)37代 斉明天皇(655〜661年)重祚
天智天皇に譲位するまでの間といわれましたが、在位は長かったようです。

  淡海路(あふみぢ)の鳥篭(とこ)の山なるいさや川、日(け)のこの頃は恋ひつつもあらむ

41代 持統天皇(690〜697年)
天武天皇から皇孫の文武天皇へ。律令制が確立した時代といいます。

  春過ぎて夏来たるらし。白栲(しろたへ)の衣乾したり。天の香具山

43代 元明天皇(707〜715年)
飛鳥を去り奈良へ遷都したときの御歌。

  飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば、君が辺りは見えずかもあらむ

44代 元正天皇(715〜724年)
橘諸兄に賜った御歌ともいわれます。

  橘は、実さへ、花さへ、その葉さへ、枝に霜降れど、いや常葉の木

46代 孝謙天皇(749〜758年)48代 称徳天皇(764〜770年)重祚
遣唐使を送る歌。

  四つの舟早帰り来と、しらがづくわが裳の裾に、斎ひて待たむ

109代 明正天皇(1629〜1643年)
歌が見つかりません。幼くして即位、若くして退位されましたが、退位後の御歌があってもよさそうですが……

117代 後桜町天皇(1762〜1770年)
良い歌が多いです。すでに近代文学といってもよいかも。

  直(す)ぐなるを心の友と植ゑそへてあけくれあかぬ園の呉竹

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辞世の歌(戯作者などの)


月おくれのお盆ですが、辞世の歌や句、なかでも戯作者のものや、頓知のきいた歌などを拾いだしてみました。

南無さらば妙法蓮華経かぎり  中村歌右衛門(初代)
  江戸の歌舞伎役者。経と今日をかけて今日かぎりというわけです。

死にたうて死ぬにはあらねどおとしには御不足なしと人やいふらん 朋誠堂喜三二
狂歌よむうちは手柄の岡持ちよ、よまぬだんでは日柄のぼた餅   朋誠堂喜三二
  江戸時代の戯作者で、手柄岡持(てがらのおかもち)の名で狂歌を詠んだ人。
  岡持は料理を入れる浅い桶のことで柄を手で持って運ぶもの。
  日柄は命日の意味。

この世をばどりゃおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら  十返舎一九
  線香、灰をかけていますが、掛詞でかけるだけでなく、
  灰は実際にかける物、というところが上手いものです。

人ごみをのがれて見ればはなし塚   三笑亭可楽
今日の旅 花か紅葉か知らないけれど風に吹かれて行くわいな  都々一坊扇歌
  江戸時代の落語家と都々逸の元祖の人。自然体の歌です。

打出しの太鼓聞えぬ真打は、まだ二、三席やりたけれども    正岡容
  作家、演芸研究家。昭和前期に活躍の人。

  江戸時代と室町後期の僧の歌二首。
良寛に辞世あるかと人問はば 南無阿弥陀仏といふと答へよ   良寛
宗鑑はどこへと人の問ふならば ちと用ありてあの世へと言へ  宗鑑

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敬語の力と歌の力


 浅田久子著『敬語で解く日本の平等・不平等』(講談社現代新書、平成13年)という本は出版されてすぐの頃に読んだ記憶がある。そのときのノートから拾い出してみると、
 「敬語は上位者と下位者をつなぐかけはしだった」と著者はいう。著者の論点を整理してみると、次のようになると思う。
 敬語などというと、身分社会の遺物のように思う人も一部あるかもしれないが、ヨーロッパや中国では、昔は身分が違えば言葉も違い、言葉はまったく通じなかったという。ところが日本では通じた。それは敬語があったためで、同じ日本語を共有し、その共通の日本語の上に敬語を発展させて来たからであるという。日本語に複雑な体系の敬語があるのは、身分社会が長く続いたためではなく、身分の違いを越えて古代から同じ日本語で上下の交流があったことの証拠なのだと著者はいう。

 古代から日本人はお互いどうしあまり血を流すことを好まなかった。しかし例外もあって、それは蝦夷や熊襲と呼ばれた人たちに対してである。彼らには当時の中央の「日本語」が通じなかった。だから異民族とみなされ、残酷な仕打ちも受けた。日本人の内と外の観念によると、内に対しては甘え、ひがみ、外に対しては遠ざけ、排除するというところがある。この外に対する排除というのは、あまり語られない、それ自体が避けられてきたテーマであるが、古代史の上では隠すことはできないで文献に残っているといわざるを得ない。

 再び著者の論にもどると、歌は訴えであるとは、よく言われることである。はるか古代に、日本人は神に訴えるときに、通常とは異なる発声で声を上げた。今でも和歌を詠むときには特別な調子がある。この古代の発声が、歌の起源であるという。歌がやがて文学として発展してゆくと、神に訴えるときには、別の方法が必要になる。発声を特別なものにするのではなく、語彙を変へてゆく方法がとられた。それが敬語の発生であると著者はいう。

著者のこの論は、面白い見方だとと思う。
ところで歌は、異民族だった蝦夷との間にも通じたという話が、前九年の役での源義家と安部貞任とのやりとりにある。

戦いに追い詰められた安部貞任が、衣川の館を捨てて逃げようとしたとき、源義家が馬上から連歌を詠み掛けた。
  衣のたてはほころびにけり(衣の経糸と衣川の館をかける)
貞任はこの歌に応じて付けた。
  年を経し糸の乱れの苦しさに(へし、繰る は糸の縁語)
義家はこの歌に感心して、そのまま見逃してやったという話である。

歌にも身分やときには人種を越えて解りあえる力があるという話である。

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蜂に刺されないおまじないの歌


夏休みに野山で遊ぶ子供たちは、蜂に刺されないように気をつけなければなりません。

蜂が近づいてきたときは、「アビラ ウン ケン ソワカ」という呪文を唱えると良いとか、口笛を吹くと良いとかいう話もあります。

  軒端なる蜂のずはへに梅咲きて、うそを吹き吹き花をこそ折れ (犬つくは集)

「ずはへ」とは若枝のことと鈴木棠三『日本俗信辞典』にあります。「うそ」とは口笛のことで「嘯」と書きます。
山形県の例では、次の歌を唱えると蜂除けになるそうです。

  わだの原こぎいでて見れば久方のくもりにまがふ沖つ白波

百人一首(藤原忠通)の歌の「雲居」を「くもり」に変えただけの歌で、よくわかりませんが、「お前は蜘蛛だから刺すはずがない!」という意味でしょうか?
そのほか、近くに落ちている平べったい石を裏返しにひっくり返すと良いというのも、広く行われたおまじないです。

古事記の話では、若い大国主命が、須佐之男命から試練を受けたとき、ムカデと蜂の室に入れられて苦行をさせられますが、妻の須勢理毘売(すせりびめ)に教えられて、「蜂のひれ」を三度振って脱出できたという話があります。

さて次の歌は竹の枝にできた蜂の巣(ハチス)を詠んだものといいます。

  末のよは竹もはちすになりければ仏にうとき身とは思はじ  赤染衛門

「よ」は竹の節の意味もあり、「末の世」と枝の「末の節」をかけてあります。
ハチスというと蓮根の意味にもなり、その花が蓮(ハス)ですから、仏とも縁が深いものだというわけです。
軒下に蜂が巣を作るのは、縁起の良いこととされます。よそから持ってきた蜂の巣をぶらさげても無病息災の御守りになるといいます。

Kさんご指摘の蜜蜂についてのサイトhttp://bee.lin.go.jp/bee/history/02_01.html

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