こぶとりじいさん

数日前に見たテレビアニメの再放送「日本まんが昔ばなし」の「こぶとりじいさん」は出来の良いものだったと思う。
野村敬子氏の書いたもの(平凡社世界大百科事典)であらすじをおさらいしてみる。

「頬にこぶのある爺が,山中の洞穴で雨宿りするうちに鬼・天狗の酒盛りに迷い込み,舞や踊りを披露して鬼などの歓心をかう。再び来る約束のためにこぶを取られるが,爺は大喜びで帰る。 それを隣の爺が真似する。しかし舞や踊りがへたであったので鬼は喜ばない。質ぐさに取った前の爺のこぶまで付けられて,泣きながら帰る」

アニメの話では、じいさんが雨宿りをしたのは洞穴ではなく大きな木のウロの中で、そこでうとうと居眠りをしたのだった。昔話の細部には異伝が多いわけである。鬼の酒宴は夜明けの鶏が鳴くまで続いた。

母なる大樹の懐の穴に、翁はからだを胎児のように丸めて居眠りをしていた。「鶏が鳴いたら神は帰らなければならない」と言われるように、鬼たちは遠い昔の神々のようでもあり、翁は里人を代表してウロの中でおこもりをして、祭にそなえたのである。何か古い祭祀の形をそのまま伝えているような話だった。
おこもりをして翁は生まれ変わった。それが証拠に、こぶが取れている。こぶとは皮膚にふりかかった災いのことだろうし、こぶが取れるとは脱皮することでもあるのだろう。

日本人は肌のみづみづしさにことさらこだわってきた人種かもしれない。もちろんそれは、現代の日本人女性の中にもはっきりと受け継がれているが、男性たちも美容以前の問題で昔はかなりこだわったのかもしれない。

こぶとりじいさんの話は、最近ブログに書いたテーマといくつか結び付くものがあるような話だった。
ウロの中が異界に通じているような話でもあった。
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消えた湖の伝説その2

むかし湖だったという伝説のその2、西日本編です。

(7)伊賀の湖沼
三重県上野市の愛宕神社の由緒。「満々と水を貯えていた伊賀の湖沼は(第三紀古琵琶湖層群の一部)は地殻の変動をくり返すうちにだんだん水位がさがり先ず最初に南宮山(伊賀一ノ宮)が現われ、次いで朝日嶽(愛宕山)が出現して伊賀の国原が生み成されたといわれます」

(8)京都盆地
綾戸国中神社の由緒。「素戔嗚尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し国となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた」

(9)巨椋の池
京都の都から南へ行ったところに実際にあった大きな沼。

(10)亀岡盆地(京都府)
亀岡市上矢田町の鍬山神社の由緒。「大巳貴神が国土を経営し給ひし時に丹波国は泥湖にて洪水山を抱き濁浪天を凌ぎ、土人の産業安からず、茲に八柱の神を黒柄嶽に召し給ひ図りあひ給ひて、乃て一葉の船を泛べ一把の鍬を挙げ、保津請田のあたりを疎通し給ひければ、沃土出で来り家郷開けにしより後、人其の徳を尊びこの地に祀りたりと伝説す。」
亀岡市の桑田神社の由緒にも「往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる」とあります。
桑田神社の祭神は女神の市杵嶋姫命なので、鍬山神社の男神の力も必要だったのでしょう。

(11)豊岡盆地(但馬)
兵庫県の豊岡市の小田井縣神社の由緒。「国作大己貴命は、……大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であって、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開いて水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました」

(12)阿蘇谷
熊本県の阿蘇神社の由緒。「健磐龍命(たけいはたつのみこと)は、……大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた」

(13)ほかに奈良盆地(大和平野)が湖だったという伝説もあります。
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消えた湖の伝説その1

 むかしこの土地は湖だったという伝説が各地にあります。中には事実が確認されているものや、近代になって干拓されたことが明らかなものもありますが、何故か神社の由緒に、この土地は湖だったと書かれることが多いのです。東日本の例をいくつか見てみましょう。

(1)福島盆地
福島市の鹿島神社の由緒。「古昔、信夫郷が湖沼であった時、僅かに水上に出ていた鹿島山上に常陸国鹿島神宮より蝦夷経営のため分祀勧請した」

(2)伊奈良の沼(群馬県東南端〜)
板倉町の雷電神社の由緒。「ここは奈良時代、万葉集に伊奈良(いなら)の沼と詠まれた大湖のあった所で、雷電の社はこの湖水に浮かぶ小島に鎮座し、昭和の初め干拓がなされるまでは水郷風景さながらでした」
現在の利根川、鬼怒川、渡良瀬川などが合流する付近は、大きな湖や沼が多かったようです。
  上毛野(かみつけの)伊奈良の沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され  万葉集3417

(3)椿湖(つばきのうみ)千葉県
八日市場市の水神社の由緒。「下総の国に椿湖(つばきのうみ)と呼ばれる、太古以来神秘の水をたたえた霊湖がありました。今から三百余年前の寛文年間に、この湖を干拓して農地をつくろうとはかり……」

(4)甲府盆地
東八代郡中道町の佐久神社の由緒。向山土木毘古王(むこうやまとほひこおう)が、第二代綏靖天皇の時代に甲斐国に来たころは「甲斐の国の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為、土地の豪族、苗敷に住める六度仙人(去来王子)、姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て、南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、住民安住の地を確保した。」向山土木毘古王の別名は蹴裂明神(けさくみょうじん)ともいい、同じ県内各地で微妙に異なる伝説があります。

そのほか
(5)秋田県の横手盆地が湖だったことは地質学で証明されているようです。
(6)長野県の安曇野などの犀川流域での「竜の子太郎」伝説。母の竜が湖の水を外に流して豊かな平野ができたといいます。
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笑いの優しさ〜「お江戸でござる」から

NHKの『お江戸でござる』というコメディーを見始めたころ、こういう懐かしい古典的な笑いは、何年ぶりだろうかと思いました。こういう笑いは、どこが違うのだろうと思って何回か見ているうちに、その笑いのパターンがだんだん見えてきました。どんなパターンかというと……

一種のウソというか、他人のための善意のウソから始まって、その嘘をつき通そうとする気持ちと、やはり嘘はいけないという気持ちが交錯しながら、もうこれ以上嘘はつけないとなったころ、相手も気づいていて、終幕にはお互いが許しあい理解しあうというストーリーです。

こんな話もありました。
ある店の若旦那が花魁を20両で身請けすることになり、取引先から20両が入る予定の日に迎えに行くと決めたのですが、前日になって入金が一日遅れると取引先から連絡が入り、困った若旦那は、友人の男に1日で返すからと20両の借金を申し込みます。男は二つ返事で引き受けたのはいいけれど、何か当てがあるわけではなく、たまたま馴染みの花魁のところに遊びに行った折りに20両の話をすると、その花魁は実は若旦那と身請けの約束をした女で、その当日に若旦那から20両を預かる予定なので、一日だけその20両を男のために用立ててあげる約束をします。
これでは三人ともお金を借りることはできませんね。三人とも20両が必要な理由はウソでごまかすのですが、だんだん期限が迫ってくると、お互いの催促の言葉もきつくなり、緊迫感と笑いが入り交じってストーリーが進みます。

当人どうしは最初はウソとはわからず、観客だけがそれを知っていて笑います。当人たちがだんだんウソに気づいて最後に笑うとき、観客と同じ視線に戻っています。

十返舎一九の物語に似たような話があったようです。
こういう笑いは、水戸黄門や大岡越前や遠山の金さんが、平民のなりで町に出たとき、そうとは気づかない人たちとのやりとりの中で起る笑いとも、共通するものがあると思います。高い身分であることを隠すことと、愛情や思いやりのための借金であることを隠すこと。見る側にも、ウソを気づかない人をあざけるのではなく、優しい笑いがあります。

物語の中心にウソがあるとき、古代のワニをだました因幡の兎の話や、女装で敵を倒したヤマトタケルの話、スサノヲでさえヤマタノヲロチに酒を飲ませて酔いつぶれたところを退治しているように、日本の神話物語には、英雄が敵をウソでだます話が多いのです。ウソがウソでないような古代の論理があったものとは思いますが、近世の草子類の笑いの論理と、どこかでつながっているような気がしてなりません。今はじゅうぶんには説明できませんが。
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安寿と厨子王、神と仏

『安寿と厨子王』の物語を懐かしく思って、楠山正雄の再話(講談社学術文庫)で、また読んだことがあります。
そのとき、物語の中で、神仏に関する描写というか場面が三ヶ所ありました。どんな場面かというと……

1 山椒大夫の屋敷に二人がとらわれの身となっていたとき、怪我をした厨子王の身体に観音様の小さい仏像を当てると、怪我が回復したこと。病気平癒の御利益ということ。

2 屋敷を一人で脱出して京へ行った厨子王に、のちに後見人となってくれる貴族の男を引きあわせてくれたのが、清水(きよみづ)の観音様であること。一種の縁結びの御利益。

3 死んだ安寿姫は、祠にまつられたこと。祠が小さい神社の意味だとすると、死後は神々に仲間入りしたことになる。

つまり、現世利益は仏様の役割で、死後は神様の役割になっているわけでする。

今の日本人の多くは、縁結びや健康祈願といった現世利益のためには、神社におまいりし、死んだ後はお寺のお世話になるのが普通です。それが安寿と厨子王の話では逆になっているのです。そんなところが、日本の神仏の歴史の謎の一つだと思うのですが、その答えについては、まだよくわかりません。

その後の安寿と厨子王と母の話は、佐渡でのできごとになっています。
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「歌語り風土記」の前口上

神話浪漫館歌語り風土記に、次のような前口上を載せました。

日本には、国民の誰もが共有する物語と歌がありました。
源義経やヤマトタケルたち英雄の伝説や、平家や南朝の遺臣たちの落ち延びていった秘話。また、愛護の若、石堂丸、真間の手児奈、生田川の少女などの薄幸の少年少女たち。西行法師やスクナヒコナノミコトらのユーモラスなエピソード。そして古代の郷土を造り成した神々の物語。それらの物語は、美しい和歌とともに時代を越えて語り継がれてきました。
「歌語り風土記」は、忘れてはならないそれらの物語と歌を、短くわかりやすく紹介するとともに、若干の解説をほどこして歌と物語の奥にある日本の自然や神々への信仰の姿を感じ取ることができるようにと、綴ったものです。

こういう説明をあまりしてこなかったようです。
niftyからホームページを分けたあと、新サイトへのリンクは少ないためか、検索でヒットするページが以前より少なくなっています。ある程度はリンクをお願いするようにしないといけないかもしれません。更新が少なかったせいかもしれませんが。
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スサノヲの乱暴〜逆剥ぎ

昨日に続いて、皮を剥がす話。機織の小屋の話も出てきます。

古事記によると、若き素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が荒れ狂ったとき、天の斑馬(ふちこま)の皮を「逆剥ぎ(さかはぎ)」に剥がして、服屋(はたや)の屋根に穴をあけてそこから投げ入れたそうです。

「天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時、その服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥に剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女、見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。」(古事記)

「逆剥ぎ」についてはいろいろなことが言われてきましたが、通常の剥がし方とは逆の方向に剥がしたということでしょう。生贄として捧げられた馬があって、そのあとは捧げ物ですから皮も肉も骨も無駄なく使わなければなりません。皮を剥がすときは普通は尻の部分から剥がすのが普通らしいです。逆というのは頭から剥がすことです。「逆剥ぎ」は後世まで「天つ罪」として忌むべきものと伝えられてゆきましたが、なぜ頭から剥がすのが罪になるのかというと、その方法では、脱皮する蛇が頭から出てくるように、馬が生き返ってしまうと怖れられたから、というのが本当のところでしょう。

女性が籠っている小屋の屋根に穴があいている、という話は、古事記にもう一つあります。海神(わたつみ)の神の娘の豊玉姫が、お産をする場面です。

「海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして、産殿を造りき。ここにその産殿、未だ葺き合へぬに、御腹の急しさに忍びず。かれ産殿に入り坐しき。」(古事記)

ここで生まれたのが「うがやふきあえずの命」という神です。
これについては、産屋の屋根にはもともと穴をあけておくもので、生まれる子どもの魂は外から穴を通して入ってきて、生まれた子どものからだの中に入り込む、と考えられたからだといわれます。

となると、機織の小屋(服屋)にも、もともと穴があいていたのでしょう。機織は神を迎える巫女の神事ですから、霊魂の出入りする部分が必要です。
けれど、その穴に馬(逆剥ぎで生き返ってしまったのかのような馬)を投げ入れてはいけない、ということだったのだと思います。
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