笑いの優しさ〜「お江戸でござる」から

NHKの『お江戸でござる』というコメディーを見始めたころ、こういう懐かしい古典的な笑いは、何年ぶりだろうかと思いました。こういう笑いは、どこが違うのだろうと思って何回か見ているうちに、その笑いのパターンがだんだん見えてきました。どんなパターンかというと……

一種のウソというか、他人のための善意のウソから始まって、その嘘をつき通そうとする気持ちと、やはり嘘はいけないという気持ちが交錯しながら、もうこれ以上嘘はつけないとなったころ、相手も気づいていて、終幕にはお互いが許しあい理解しあうというストーリーです。

こんな話もありました。
ある店の若旦那が花魁を20両で身請けすることになり、取引先から20両が入る予定の日に迎えに行くと決めたのですが、前日になって入金が一日遅れると取引先から連絡が入り、困った若旦那は、友人の男に1日で返すからと20両の借金を申し込みます。男は二つ返事で引き受けたのはいいけれど、何か当てがあるわけではなく、たまたま馴染みの花魁のところに遊びに行った折りに20両の話をすると、その花魁は実は若旦那と身請けの約束をした女で、その当日に若旦那から20両を預かる予定なので、一日だけその20両を男のために用立ててあげる約束をします。
これでは三人ともお金を借りることはできませんね。三人とも20両が必要な理由はウソでごまかすのですが、だんだん期限が迫ってくると、お互いの催促の言葉もきつくなり、緊迫感と笑いが入り交じってストーリーが進みます。

当人どうしは最初はウソとはわからず、観客だけがそれを知っていて笑います。当人たちがだんだんウソに気づいて最後に笑うとき、観客と同じ視線に戻っています。

十返舎一九の物語に似たような話があったようです。
こういう笑いは、水戸黄門や大岡越前や遠山の金さんが、平民のなりで町に出たとき、そうとは気づかない人たちとのやりとりの中で起る笑いとも、共通するものがあると思います。高い身分であることを隠すことと、愛情や思いやりのための借金であることを隠すこと。見る側にも、ウソを気づかない人をあざけるのではなく、優しい笑いがあります。

物語の中心にウソがあるとき、古代のワニをだました因幡の兎の話や、女装で敵を倒したヤマトタケルの話、スサノヲでさえヤマタノヲロチに酒を飲ませて酔いつぶれたところを退治しているように、日本の神話物語には、英雄が敵をウソでだます話が多いのです。ウソがウソでないような古代の論理があったものとは思いますが、近世の草子類の笑いの論理と、どこかでつながっているような気がしてなりません。今はじゅうぶんには説明できませんが。
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