疫隈の里〜鞆の浦

 むかし素戔嗚尊が、(たけ)(あららき)(ぶとう)の神と名告って旅をしたとき、備後国の疫隈の里で一夜の宿を求めた。里には兄の蘇民(そみん)将来と弟の巨旦(こたん)将来が住み、富裕な弟の巨旦は宿を貸すことを断ったが、貧しい兄の蘇民は粟柄(あはがら)を敷いて座敷をつくり、粟飯で神をもてなした。年を経て蘇民の家を訪れた武塔神は、茅の輪を腰につけることを教へ、茅の輪の霊験によって蘇民の一家は疾病を免れたといふ(備後国風土記逸文)。その茅の輪は、夏越の大祓の「茅の輪行事」のもとともなり、家の戸口に「蘇民将来子孫之門」「蘇民将来子孫繁昌也」と書いた護符などを掲げて魔除けとする習俗もうまれた。疫隈の里とは諸説があるが、福山市の沼名前(ぬ な くま)神社の地ともいふ。ここの海は、鞆の浦といひ、瀬戸内の重要な航路だった。

 ○吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は、常世にあれど、見し人そ無き  大伴旅人