谷崎夫人と丸谷夫人

丸谷才一と、谷崎潤一郎夫人、松子さんの対談(『文学ときどき酒』に収録)を読んでいたら、次のような部分が、目に入った。

「丸谷 『倚松庵の夢』という奥様の随筆集を拝見しましてね。およそあれほど初期の谷崎潤一郎の文章----つまり、主語がきちんとあって目的語があって、述語は何を受けているか、副詞はどこにかかるかがきちっとしている英文和訳みたいな文章ですよね。そういう文章と全く違う文章を、明治維新以後の日本に求めるならば、これは奥様の文体だろうと思いました。(中略)それで奥様の恋文の影響で、谷崎潤一郎は『文章読本』を書いた、というのがぼくの仮説なんです。」

それで、ピンとくるものがあったので、丸谷才一夫人、演劇評論家の根村絢子さんの文章を探して、現代演劇協会機関誌『雲』第5号(昭和39年11月)に掲載の「翻訳劇の落し穴」を読んでみた。
ある一つのセンテンスの中の、文末というか、句点(。)の直前を書き出してみよう。

  結構だと思う。
  のはどういうわけだろう。
  ような気がするのです。
  なのじゃないかしら。
  どうして後廻しにされているのか。
  を否定するのはいい。
  のはずです。
  ではないでしょう。

ますです調と、である(言切り)調に、口語的な「かしら」が混ざり、丸谷さんのエッセイに良く似ていますね。言切りはあっても「である」がないのは、女性らしい柔らかい感じ。
末尾の2文字が同じものは「です」が2つあるだけで、3文字まで見れば、同じものは一つもない。
探して見つけた文章は、予想通りの文章ではあったのだが……?
kumo
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