音楽の「楽」とは

「音楽は楽の字がつくのだからタノシクなければならない」というコメントを見たので、そうではないだろうということで、「楽」の意味から考えてみる。

 広辞苑に
  き-ど【喜怒】 喜びと怒り。「‥哀楽」
とあるが「喜怒哀楽」の項が、(使用の版に)ないのは何故だろう。
 小学館国語大辞典では、
  きどあいらく【喜怒哀楽】喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。さまざまな人間の感情。
これだけではよくわからない。
 タノシミとは「喜び」とどう違うのか、喜怒哀楽の4つのうち2つが似ているのは単なる数合わせのためなのか、若いころそんなことを思っていた。あるとき、
 「楽」とは「安楽」のこと、「やすらぎ」のことではないかと気づいた。他の3つよりも次元が高いような感情である。特に老齢をむかえた人にとっては、理想的な感情であろう。

 音楽は神に捧げるものとして生れた。神を慰めるためともいう。「なぐさめ」の「なぐ」とは、凪ぎ、和むなどと同源であろう。反対語は「荒れる、荒ぶ」など。荒魂(あらみたま)に対して和魂(にぎみたま)という言葉が、古事記などにも出てくるが、「にぎ」というのも「なぐ」と同源であろう。荒魂を鎮めるためのものが音楽であるなら、現代人のそれぞれの私的な楽しみなどとは様相を異にしてくるであろう。

 大衆歌謡に目を転じてみると、記紀時代の童謡(わざうた)がある。意味不明の歌が多く、あまり研究は進んでいないのかもしれない。
 日本人は曖昧な表現を好んで、あとは感受性を共有する人に察してもらえばじゅうぶんだと思っているのかもしれない。
 西条八十以来の象徴的な表現は、日本人には受け入れやすいと思う。

 戦後のヒット曲「テネシーワルツ」の日本語の歌詞(思い出なつかしあのテネシーワルツ……)は、オリジナルとは全く別物らしい。オリジナルは、恋人を親しい友に奪われた女の絶望を歌ったものという。欧米の歌謡には絶望を直接うったえるものも多いかもしれない。高石ともやとナターシャセブンが紹介したカントリーソングにも多い。「柳の木の下に」という失恋と自殺をうたった曲(編曲は陽気な)は、岩井宏の「かみしばい」というノスタルジックな歌詞のものと、ほとんど同じ曲に聞こえる。
 やりばのない不幸の感情をうったえる歌は、『アメリカを歌で知る』 (ウェルズ恵子著、祥伝社新書) によれば、ごく普通のフォークソングである。

 シャンソンでも同様なのだろう。当時、多くの訳詞をてがけた、なかにし礼、安井かずみなど、 どんなふうに訳したのだろう。既存の平凡な抒情だけの歌詞には、いらだちをおぼえてはいなかったろうか。平凡なものばかり見せられれば、第二芸術論とか短歌的抒情の否定などという言葉にひかれる一般人がいたのもうなづけようというもの。
 森田童子の作詞も、こういう流れの中にあるのだろう。

 古い日本の歌謡では、大正〜昭和初期の、『金色夜叉』『燃ゆる御神火』などは、第三者が物語のように悲劇を語る形式である。
 一人称の悲劇の歌謡というのは、歌劇などの伝統のある欧米なら、日常的な歌の形式なのだろう。
 日本の江戸時代の芝居では、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん、私を薄情な女とお思いか、人の落目を見捨てるを、廓の恥辱とするわいなあ」 (『お俊伝兵衛、近頃河原達引』)などという心中物の名文句もあるそうだが、どうだったろうか。

以上は森田童子についての2つめの文である。
3つめは、「時」の理解について、抒情の問題とからめ、森田童子の発言から考えてみようと思う。2020年1月に新設したブログカテゴリ「時間の話」のカテゴリになる。
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