「おやけのとと」と組頭

佐藤常雄(著)『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)が近世史の最良の入門書だと思うが、この本は冒頭から、日本では江戸時代初期まで夫婦が同居する慣習がなかったことから始まっていたと思う。
核家族と直系の祖父母が同居する家族形態は、江戸時代の最初の百年くらいのうちに徐々に定着していった。それが可能となったのは、時代とともに近代的な意識に近づいていったのが大きいのだろうと思う。
秀吉の時代に行なわれた検地は、田畑を耕す者の耕作権と所有権を保証するものであったが、当時は、同じ苗字のリーダー格の者が数町歩を所有することが多かったようで、江戸時代になると家族はそれぞれ独立・分家して小規模経営の農業が主体となっていった。こうして農業では「中間搾取」のようなものはほぼ皆無になったことになる。

寺請制度なども、家族生活の保証と引き替えに、庶民の側で受け入れることになったのだと思う。それ以前は家族の成員ごとにお寺が違うのが当たり前であったのだが、それは、住んでいる場所が違ったからお寺も違ったのだともいえる。

分家というのはほとんど江戸時代の初期か明治以降に成立した家のことである。
「同じ苗字のリーダー格の者」とは、越後方言でいえば「おやけのとと」のことであり、後に分家する「をぢ」たちとともに江戸時代初期までは共同で暮らしていたようだ。歴史学者は、おやけのととのことを名主(みょうしゅ)と言い、をぢのことを名子(なご)と言っている。
名主(みょうしゅ)とは、江戸時代の村の名主(なぬし)とは違うものである。ややこしいので、名主(みょうしゅ)でなく「おやけのとと」の用語を使うことにする。

おやけのととの中には、村の名主になった者もいたが、最初は名主の下の村役である組頭(くみがしら)というものになった。分家が成立したとき、1軒の家が平均すると5軒になったので、そのグループの呼び名を、北武蔵あたりでは苗字で「○○一家(いっけ)」と呼んだが、苗字の使用は禁止されたので幕府のいう「五人組」という言葉を村でも使うことになった。この「五人組」の頭(かしら)が「組頭」である。すべての組頭が集まって村の代表の名主を互選し、村は名主を含めた組頭たちの合議制で運営されていくわけだが、時代が進むと同苗一家のリーダーがよりふさわしい別の家に交替することも多く、新しいリーダーが組頭になるわけである。
名主・組頭・百姓代といった村の三役が整備されると、百姓代になった「おやけのとと」もある。
すべての同苗一家が同じ戸数ではないので、五人組の中に違う苗字の者が入ることもあり、家々の様々な盛衰によって組合せも変化する。
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