神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

年貢の話 その2


年貢の多い少ないという話である。
東京板橋区で出版した史料集の解説によると、村人のうち20石以上の者もあれば2〜3石の者もあり、「農民の階層分化」が進んだせいだと書いてあったが、表に出た数字だけを論じているだけのようである。江戸時代の論評で「農民の階層分化」という言葉が強調されているものは、ほとんど信用できないものばかりである。

20石とはどの程度の経済規模かというと、たとえば商売でいえば、商売を始めて最初は苦労したが今ではどうにか人を雇えるくらいになった、というような、それが20石程度である。本人と使用人の2世帯の稼ぎということだ。
中規模以上の農村では名主クラスの家では使用人がいるのが普通で、番頭と呼ばれていた。人別帳などでは本百姓(納税者)ではないという意味で「下人」と書かれるが、商家の番頭以下もみな下人なので、そういう用語を使う決まりがあったのだろう。
村の名主は、農繁期であっても外交などで外出せねばならぬことも多く、番頭の男手は必要であった。名主家の番頭は、村役人の娘婿などの縁者であるとか、信用のある者が雇われ、もし離散した農家があればすぐに後釜として独立して、本百姓となることができる。

当地には造酒屋があったが、その造酒屋の借金の證文に「酒造株 五十石」という評価が書かれている。50石という数字から経営規模や雇用規模を推し量ることができると思うが、納税方法については、まだわからない。

当時の平均は1軒が10石ということだそうだが、この平均に及ばない5〜6石前後の家が、当地では少なくない。これは隣接する宿場の御伝馬の馬子を兼ねる兼業農家だからである。5〜6石の石高は農業分だけのものである。
御伝馬とは、宿場に設けられた幕府公用の運輸を担う職業で、宿場ごとに必要数の人馬の確保が義務づけられ、実際は宿内で営業する問屋が一切を請うことが多かった。問屋は必要な人馬を調達するのに、手元に気性の荒い専門の馬子を寄宿させるのではなく、周辺の村々と契約を結んで農家に依頼するほうが安心と考えたようだ。村で御伝馬を引き受ける農家は、馬喰(馬子)としての現金収入もあった。当地ではこれが村高に加算され、村全体では314石も加算されている。

2石余りしかない家が1軒見つかったが、中山道の端で居酒屋を営む家である。村内では対等の付き合いをしているのでいわゆる極貧ではない。2石余りは田畑の分で、別に店の分があったのだろうと思う。店の分の石高や納め方は未確認。居酒屋などに対し国定忠次のような集団が金品の徴収権を持つことは黙認されていたろうが、それが公の年貢と二重になるのかならないのかは未確認(筆者は徴収権は二重にならないのではないかと疑っているが)。

comments (3) - 編集

コメント

toya | 2009/08/03 11:46
江戸時代の百姓は重税に苦しんでいたというのが常識になっていますが、それはデマだということなのですね。この程度の税率であるなら、現代のサラリーマンのほうがよほど重税ということになります。驚いたものです。「百姓重税説」は、いったい誰が何のために流布したものなのでしょう?これならば「百姓は生かさず殺さず」ではなく「武士は生かさず殺さず」が真実ということになりますね。う〜む。
深谷地区は、幕府の直轄地・天領でしたよね?
森の番人 | 2009/08/03 21:20
最近は「貧農史観」は誤りであることは学者によっても徐々に否定されつつあります。「江戸時代暗黒時代説」ともいうようですが。
中国で前の王朝をボロクソに言うのにならって、明治の薩長政権が始めたものですが、奇妙なことに明治末以後の左翼勢力の論調もこれに一致したのです。彼らの場合は彼らの時代の貧困を過去からのものとみたのかもしれませんが。
武士については後日に書きます。
五街道の宿場はすべて御料(徳川領)でしたが、関東では他の村々は御料のほか旗本領、大名領、寺社領などに細かく分割され、1つの村内でも領主が複数に分かれていましたので、税率の格差や不平等はほとんどありません。万一不平等が強制されれば一揆になってしまいますから。
森の番人 | 2009/08/04 15:11
明治のころの学者の中には、ヨーロッパ史の「中世暗黒時代」を日本の近世に強引に当てはめた人たちもいましたね。

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