忠臣蔵と瑶泉院

テレビ東京の正月番組『忠臣蔵・瑶泉院の陰謀』というドラマを、面白く見た。原作は湯川裕光氏の小説で『瑶泉院〜忠臣蔵の首謀者・浅野阿久利』(新潮文庫)とのこと。
浅野内匠頭は辞世を詠む暇がなく、ある僧に作ってもらって瑶泉院に届けられたなど、現代人が納得しやすいリアリティのある筋立ても多く、またユーモアも多く退屈させない。浅野内匠頭はかんしゃく持ちだったとの有力な説を採用しながら、品位を落とすところもない。

浅野内匠頭はその特異な人間性からも御霊となって、浪士の討入りはその鎮魂儀礼であったとか、「忠臣蔵」の上演は、太陽の王の復活のカーニバルとして庶民に受け入れられた、とかいうようなことが丸谷才一『忠臣蔵とは何か』に書かれている。同書では「御霊神のもとの形は若い男神と若い女神とが一対であった」とも書かれ、また太陽神は女神であるという庶民の信仰からすれば、瑶泉院が主役とされたこともうなづける。

大石内蔵助が江戸へ来てからの遊興の相手に、一学と名のる比丘尼(この時代は遊女のこと)がいたことは、考証家の解説本にも載っているが、ドラマでは一学は瑶泉院の妹ということになっていて、容姿はうり二つである。
これも大石内蔵助が垣見五郎兵衛に扮し、堀部安兵衛が剣術指南の長江長左衛門、神崎与五郎は小豆屋善兵衛、などなど、四十七士の全てが町人などに扮して別名を名のることと同様に、不自然とはいえないわけである。
丸谷氏の同書に「大星由良之助の向うには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだといふ、事実と虚構の二重構造」(講談社文芸文庫版112ページ)という表現が見える。歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では、大星由良之助は大石内蔵助になぞらえ、顔世御前は瑶泉院になぞらえた登場人物であるということだが、「まるで瑶泉院の色っぽい妹のやうだ」と丸谷氏が表現した理由は、知識不足のせいか、よくわからない。高師直(吉良上野之介になぞらえる)の顔世御前への横恋慕というのが歌舞伎の虚構なので、史実の瑶泉院との「二重構造」という意味をそのように表現したのだろうか。

人気歌舞伎の要素のようなものを、丸谷氏は忠臣蔵を例に7つ指摘している。
1、社会を縦断する書き方。殿様から足軽や町人まで、奥方様から遊女までが登場
2、二つの時代の重ね合せ。南北朝時代を描きながら上演された江戸時代を描く
3、「実は……」という作劇術。上に述べた垣見五郎兵衛じつは大石など、貴種流離譚
4、儀式性。 勅使饗応に始り切腹、開城などの武家儀式への庶民の関心
5、地理、国ぼめ。 関東と関西、京の遊郭や東海道などが広範囲に描かれる
6、歳時記性。 桜の下の切腹から雪の夜の討入りまで
7、呪術性、御霊信仰 
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