明治3年のこよみ

旧暦時代の、明治三年のこよみを見たら、七月のところに、こうある。
  立秋 十二日
  処暑 二十七日
十二日の立秋は、「くさかりよし」とも書かれる(理由は未調査)。
十四日は戊(つちのえ)の日なので、「たねまきよし」と書かれる。どちらも「下段」のうちでも生活実感のある暦注であり、詳細に調べてみると面白いかもしれない。

二十四節気には中気と呼ばれるものが12あり、そのうちの7番めの「処暑」がふくまれる月が旧暦七月になる。
処暑が三十日のときは十五日が立秋となり、その月の一日(立秋の14日前)から七月なので、俳句では秋の句を詠まなければならないのかもしれない。今年(2021年)なら立秋の14日前は新暦7月24日にあたる。
七夕などの夜の行事では涼しさを感じられる季節である。処暑とは暑さが止むという意味らしいが、旧暦七月の半分は残暑の季節なのだろう。

十月を見ると、
  立冬 十四日
  小雪 二十九日
立冬の前後には「むぎまきよし」という日が3日ある。
この年の十月は、二十九日までの、「小の月」である。
翌月は「閏十月」、
  大雪 十五日
二十四節気のうちの「中気」がない(小雪も冬至もない)ので、閏月となる。前月と同じ「小の月」がつづくが、閏月は小の月が多いと思う。
暦注は、八日の戊(つちのえ)の日が「たねまきよし」。
二十七日の辛(かのと)の日が、「か(う?)まぬりつめとりよし)。「かま」か「うま」か判読できなかったが、カマなら辛(かのと)と関係あるかもしれない。「つめとり」は翌月の小寒の前後にも2日ほどあって干支は異なる。農耕馬の蹄の手入れのことだと思う。

十一月は、「大の月」で、
  冬至 一日
  小寒 十六日
  大寒 三十日
中気である冬至と大寒が、同じ月にある
次の十二月を見ると、「小の月」で、またも中気がない。
  立春 十五日
普通は大寒がふくまれる月が旧暦十二月なのだが、先に冬至がふくまれるので十一月なのだろう。大寒は翌月分とみなされたようなかたち。
翌月は立春だけで雨水がない。雨水があれば正月だが、中気がない。

ややこしい話になるが、
冬至を中気のない前月分と見なして前月は閏十月でなく十一月とし、大寒の月はそのまま十二月とし、立春だけの月を閏十二月とするという方法を、なぜとらなかったのだろう、という疑問がわく。
前述のように、中気のない月がひと月置いてまた現れるときは、先に現れたほうを閏月とする方式かもしれない。あるいは、間にはさまれた中気が2回の月の、2つの中期の時刻を詳細に計算して(現代なら何分何秒まで計算して)、前月または翌月に遠いほうの中気をその月の中気として優先するという方式かもしれない。

(画像の最後に「明治二年」とあるのは発行年)

旧暦十二月十五日が立春だというので、古今集の最初の歌、
「年のうちに春は来にけり」を思い出した。

参考(国会図書館) 明治三年の三島暦
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