遷都と宮城

初代橿原宮から50代桓武天皇の平安京までのリスト。表記はおもに日本書紀により、〔〕は古事記による。
初代 神武天皇橿原宮〔畝火の白梼原宮〕 玉襷畝傍の山の橿原
2代 綏靖天皇葛城高丘宮〔葛城の高岡宮〕
3代 安寧天皇片塩浮孔宮〔片塩の浮穴宮〕
4代 懿徳天皇軽曲峡宮〔軽の境岡宮〕
5代 孝昭天皇掖上池心宮〔葛城の掖上宮〕
6代 孝安天皇室秋津島宮〔葛城の室の秋津島宮〕
7代 孝霊天皇黒田廬戸宮〔黒田の廬戸宮〕
8代 孝元天皇軽境原宮〔軽の堺原宮〕
9代 開化天皇春日率川宮〔春日の伊邪河宮〕
10代 崇神天皇磯城瑞籬宮〔師木の水垣宮〕
11代 垂仁天皇纒向珠城宮〔師木の玉垣宮〕
12代 景行天皇纒向日代宮〔纏向の日代宮〕
13代 成務天皇志賀高穴穂宮〔近淡海の志賀の高穴穂の宮〕
14代 仲哀天皇穴門豊浦宮、筑紫橿日宮〔穴門の豊浦の宮、筑紫の訶志比の宮〕
15代 応神天皇軽島豊明宮、大隅宮〔軽島の明宮〕
16代 仁徳天皇難波高津宮〔難波の高津宮〕
17代 履中天皇磐余稚桜宮〔伊波礼の若桜宮〕
18代 反正天皇丹比柴籬宮〔多治比の柴垣宮〕
19代 允恭天皇遠飛鳥宮〔遠飛鳥宮〕
20代 安康天皇石上穴穂宮〔石上の穴穂宮〕
21代 雄略天皇泊瀬朝倉宮〔長谷の朝倉宮〕
22代 清寧天皇磐余甕栗宮〔伊波礼の甕栗宮〕
23代 顕宗天皇近飛鳥八釣宮〔近飛鳥宮〕
24代 仁賢天皇石上広高宮〔石上の広高宮〕
25代 武烈天皇泊瀬列城宮〔長谷の列木宮〕
26代 継体天皇樟葉宮 筒城宮 弟国宮 磐余玉穂宮〔伊波礼の玉穂宮〕
27代 安閑天皇勾金橋宮〔勾の金箸宮〕
28代 宣化天皇檜隈廬入野宮〔檜隈の廬入野宮〕
29代 欽明天皇磯城島金刺宮〔師木島の大宮〕
30代 敏達天皇百済大井宮、訳語田幸玉宮〔他田宮〕
31代 用明天皇磐余池辺雙槻宮〔池辺宮〕
32代 崇峻天皇倉梯柴垣宮〔倉椅の柴垣宮〕
33代 推古天皇豊浦宮、小墾田宮〔小治田宮〕
34代 舒明天皇飛鳥岡本宮
35代 皇極天皇飛鳥板蓋宮
36代 考徳天皇難波宮 績麻なす長柄の宮 御食向ふ味原の宮 おし照る難波の宮 あり通ふ難波の宮
37代 斉明天皇飛鳥板蓋宮 飛鳥川原宮 飛鳥後岡本宮 飛鳥田中宮 朝倉橘広庭宮
38代 天智天皇近江大津宮 石走る淡海の国の、漣の大津の宮
39代 弘文天皇近江大津宮
40代 天武天皇飛鳥浄御原宮
41代 持統天皇飛鳥浄御原宮、藤原宮
42代 文武天皇藤原京 荒栲の藤原
43代 元明天皇藤原京、平城京 作らしし香具山の宮
44代 元正天皇平城京
45代 聖武天皇平城京(恭仁京、近江紫香楽宮、難波京) 甕の原 恭仁の都
46代 考謙天皇平城京
47代 淳仁天皇平城京
48代 称徳天皇平城京
49代 光仁天皇平城京
50代 桓武天皇平城京、長岡京、平安京
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ユリシーズ

ギリシャ神話というか、ホメロスの叙事詩を再構成したイタリア映画『ユリシーズ』をNHK-BSの正月テレビで見たが、なかなか良い映画で、音楽が良ければもっと良いだろうと思う。
ジョイス(丸谷才一訳)の小説『ユリシーズ』は、40年も前に購入して未読のまま収納中。

ユリシーズ(ギリシャ名でオデュッセウス)は、トロイ戦争で手柄をあげて帰還するとき、さまざまな島へ立寄って、島の王女やら魔女やら女神たちに遭遇したり、一つ目の巨人の神との戦いなどのシーンもあり、飽くなき冒険は20年も続いた。映画でも、ナウシカ、キルケ、セイレーンなどの名前は多く出てくるが、話を2時間以下の映画にまとめなければならないのは大変だ。
出逢った女たちについては魔女キルケの話が映画のクライマックスになっていて、その島を抜け出そうとするとき、島に残って不死の身で神となり恐れるものもなく暮らすか、外へ出て人間のまま死を怖れて暮すか、の選択を試される。「怖れてこそ勇気の価値がある」と映画のユリシーズは言う。勇気とは、ユリシーズが武人だからそういう言葉を使うのかもしれないが、怖れとは、畏怖のことだが、限りあるもの、儚いものへのうつくしみでもあるのだろう。

ジョイスの訳者・丸谷才一によると、20世紀文学の特徴の一つに神話的方法があるとのことで、神話的方法はナショナリズムを越えるためのものであるという。けれど日本国内だけの狭い意識で記紀神話をとりあげても、そうはならないので、よくよく注意しなければならない。
ユリシーズ
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120年前のタイムマシン

正月のテレビ番組も面白いものがないので、昔テレビでみた映画『タイムマシン』のDVDを中古で入手して見た。H・G・ウェルズの小説が原作の1960年のアメリカ映画。
物語の舞台は19世紀末のイギリスで、1899年大晦日から1900年1月5日までの話。今からぴったり120年前になる。
昔みたのは40年ほど前なので、青春ドラマとして解釈したようである。青年科学者は夢を見たのかもしれないし、しかし未来から持ち帰った花一輪だけが真実を語る、といったふうな記憶だった。今回見たら、青年科学者は、再び未来へ旅立って行った。最終場面の記憶が消えていたのは、その直前で物語は完結していると解釈したためかもしれない。当時この映画についての批評的な短文を書いた記憶があるので、文章で粗筋をまとめるときに記憶の微妙な変形があったのかもしれない。

青年科学者は、帝国主義と戦争に明け暮れる19世紀が嫌いだといい、未来へ飛び立った。学者仲間たちとの「時間」についての議論する場面もある。議論じたいは難しい内容ではないが、映画を見る側に多少の哲学的素養ないし人生経験などがあれば、その思考を刺激してくるのである。まして人生において老年となった身には、時間とは何かというテーマは、非常に重いものとして受けとめざるをえない。ジャスト120年後といい、良いタイミングで見ることができた。

さて、タイムスリップの物語といえば、手塚治虫の『ワンダースリー』というマンガを思い出す。そこでは地球に来た3人の宇宙人が、2度変身する。1度めは動物に、2度めは地球人に変身する。2度めのときは、命令に逆らった罪により、罰として変身させられるのである。3人が記憶を消され、死後の転生のように別の個体の生命を生きるときに、時間がスリップして、かつて動物に変身して生きた時代……全ての登場人物と同時代を再び生きることになる。記憶は消されているのだが、「前生の記憶」が蘇る瞬間があることを示唆して、物語は終る。
「前生の記憶」が蘇るのは、1度の瞬間だけではないかもしれないと思って、すぐに再読することになる。再読して、あの場面とこの場面は「前生の記憶」によるものではないかと想像したり、なぜ気づかないのだろうとハラハラしてみたり、何度も再読した作品になった。今、老年になって思うことは、「ワンダースリー」のように、ああやって動物などに転生して前生の記憶は消されても死後の世界で懐かしい人たちと同じ時代を生きられたら、それ以上の幸福はないのではないかということ。

蛇足 SFの約束事として書く必要はないのだらうが、タイムマシンの物語は、一種の天動説に基づいているので、それを思うと虚しくなることがある。天動説というのは、80万年後に移動しても、地球の表面の同じ場所から動くことがないという意味である。実際は地球の表面さえプレート移動で年3cm動くとすれば、80万年後は24kmほど移動しているはずである。地球自体も太陽に対して公転し、太陽も、銀河系も常に動いている……ということを考えてしまう。
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谷崎夫人と丸谷夫人

丸谷才一と、谷崎潤一郎夫人、松子さんの対談(『文学ときどき酒』に収録)を読んでいたら、次のような部分が、目に入った。

「丸谷 『倚松庵の夢』という奥様の随筆集を拝見しましてね。およそあれほど初期の谷崎潤一郎の文章----つまり、主語がきちんとあって目的語があって、述語は何を受けているか、副詞はどこにかかるかがきちっとしている英文和訳みたいな文章ですよね。そういう文章と全く違う文章を、明治維新以後の日本に求めるならば、これは奥様の文体だろうと思いました。(中略)それで奥様の恋文の影響で、谷崎潤一郎は『文章読本』を書いた、というのがぼくの仮説なんです。」

それで、ピンとくるものがあったので、丸谷才一夫人、演劇評論家の根村絢子さんの文章を探して、現代演劇協会機関誌『雲』第5号(昭和39年11月)に掲載の「翻訳劇の落し穴」を読んでみた。
ある一つのセンテンスの中の、文末というか、句点(。)の直前を書き出してみよう。

  結構だと思う。
  のはどういうわけだろう。
  ような気がするのです。
  なのじゃないかしら。
  どうして後廻しにされているのか。
  を否定するのはいい。
  のはずです。
  ではないでしょう。

ますです調と、である(言切り)調に、口語的な「かしら」が混ざり、丸谷さんのエッセイに良く似ていますね。言切りはあっても「である」がないのは、女性らしい柔らかい感じ。
末尾の2文字が同じものは「です」が2つあるだけで、3文字まで見れば、同じものは一つもない。
探して見つけた文章は、予想通りの文章ではあったのだが……?
kumo
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大嘗祭について

令和の大嘗祭が、11月14、15日に執り行われた。
大嘗祭とは小学館国語大辞典に次のようにある。

「天皇が即位の後、初めて行う新嘗(にいなめ)の祭。その年に新たに収穫された穀物を、天皇みずから、天照大神をはじめ天地の諸神にさし上げる一代一度の大礼。
祭に用いられる新穀は、あらかじめ卜定された悠紀(ゆき)、主基(すき)の国から奉られ、祭の日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿ついで主基殿で、これを神に供え、みずからも喫する。(中略)季・冬(季語は冬)」(小学館国語大辞典)

補足すれば、穀物以外の収穫物も各地から献納される。悠紀国の「国」とは明治の廃藩置県以前の国(武蔵国など)のことで、現在は県を卜定して悠紀地方、主基地方という。

「新嘗祭」とは、毎年の収穫やそれを加工したもの(酒など)を神前に供え、その年の収穫を報告・感謝し、神前から下げたものを、祭の参加者がいただく(直会や宴の形式になることもある)というもの。収穫感謝の儀礼は世界のどの民族でも伝統的に行なってきたものだが、日本では新嘗祭という形式で発展してきたもので、宮中をはじめ日本中の村々や町(の神社)でも行なわれ、あるいは別名で「秋祭」などと言っているところもある。
その年の感謝の祭なのだが、明くる年の収穫を祈る祭でもある。新しい穀物などを食することによって、感謝とともに、次の年のちからになるからであろう。

日本では穀物や食物に関する儀礼の中心に天皇があり、その天皇が代替りされることから、その役割を継承され、日本中の村々の新嘗祭を統合する形式で、新しい御代の収穫や災害のない世を祈られるということになる。
天皇が国民統合の象徴であるように、大嘗祭は国民の祈りの統合の象徴というべきだろうか。
天皇は日本の象徴ともいわれるが、それだけでなく日本の歴史の象徴でもあり、未来の象徴としても新しい天皇は即位されるのだろう。

『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』(高森明勅)では、多数の国民が具体的に多様な奉仕によって大嘗祭に関ることの意義が語られていたと思う。律令制とともに定着したということなのだが、本は読了していない。大嘗祭が稲作を普及させることにもなったといえるかもしれない。

『日本人とは何か』(中西進 1997)で大嘗祭について少し書かれた部分が気になっているのだが、その本が見つからず、引用できない。

折口信夫の『大嘗祭の本義』は基本文献である。伊勢の神嘗祭との違いについてや、村々の祭については当時の現場を見知っていた折口の描写と語りはリアルで深いものがあり、民と天皇のつながりを見抜いたものでもあったろう。
悠紀殿や主基殿の中の設備のことを、「或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。」(大嘗祭の本義)という。「共寝」の話が出てくるわけではない。
「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾と申して居る」という。
高天原の天照大神の田の稲種を授かって、瓊瓊杵尊が降臨して葦原中国に伝えたという神話が、再現されるという、そういった神をたたえる文学の国民的共有は、あっても良いものだろう。
それは日本の文学や芸術の統合の象徴である、といえば、象徴という言葉を便利に使いすぎかもしれないが。
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即位の礼 正殿の儀

10月22日に、即位の礼 正殿の儀が執り行われ、天皇陛下は高御座(たかみくら)に登られ、即位を内外に宣明された。

 (陛下のお言葉)
 さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御み心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
 国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。


その日は両陛下は午前7時に御所を出発され、饗応の儀の終了が午後11時半という報道があり、それだけで16時間半というのは、大変な長時間である。
ところで、9年前の2013年に即位したベルギーのフィリップ新国王の言葉を読んで気になっていたことがある。全文は現在はわからないが、主要部分を見つけることができた。
「ベルギーの憲法と法律を順守し、国家の独立と領土が侵害されることがないよう維持することを誓います」

https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000009208.html
領土云々のところが、日本とはだいぶ違うと思った。現代の王室が法的に国防義務を課せられているとは考えにくいので、なにか昔からの名残りで引き継がれている文言なのだろうと思った。
ヨーロッパの王室の起りは、ハプスブルグ家でも13世紀、イギリス王室は17世紀であり、日本の応仁の乱が15世紀なので、日本でいえば一種の武家政権のようなものなのだろう。「貴族」という言葉の意味合いが、西洋史と日本史ではだいぶ違うので、注意が必要だ。

日本の場合は、耶馬台国時代に百余国ないし数十ヶ国が乱れたときに、1つが他を征服するのではなく、倭国連合の女王に卑弥呼が共立されることによって平和を取り戻したという話があるが、そういったお国柄だったのだろう。
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ガーデン・シュレッダー

小さな森の管理のため、ガーデンシュレッダーなるものを購入したのは、10年ほど前のこと。HM-1605 という製品で、値段は3万円余。太さ1〜2cm程度の枝を、3cmほどのチップにしてしまう機械である。
(以下は悪戦苦闘の記録)

使い始めて最初のうちは調子が良いので、何本もの枝を突っ込み、負荷がかかりすぎては動作が停止するので、逆回転スイッチで枝を戻して、詰まり物を除き、再スタートといった具合。だいぶ仕事がはかどったあと、負荷のための停止のあと、再スタートできなくなり、機械はそのまま放置することになった。

10年めの今年春、スイッチを入れてみたが、やはり動かない。
そこで、安価な新機種を購入したのだが、この機械は、力が弱く、切断方式も異なり、作業中は腕の力で枝を押し込み続けていなければならない。残りの枝が短くなったら専用の「押し込み棒」で押し込む。これでは、すぐに腕が疲れてしまう。

最初のHM-1605は、切断刃が歯車(ギア)の形になっていて、歯車が枝を引き込みながら切断するので、最初に枝を軽く突っ込むだけで、どんどん切断してくれて、楽だった。
この春に、念のためにHM-1605の本体外カバーのネジを外し、中を入念に清掃後、スイッチを入れたら動き出した。微細な破片などの詰まりが動作不良の原因だったようだ。半月ほどして、だいぶ作業がはかどったあと、必ずしも処理しなくても良かった篠などをまとめて突っ込み、再び故障の憂き目に遭った。今回は清掃くらいでは動かない。
(カバーを開けた状態で、スイッチを押し続け、回転ファンを手動で少し動かしてやると、動き出すが、スイッチを離すと停止する)
LSG2100
その後、半年ほどして、安価な中古の同等品と思われるもの(LSG-2100)を入手。
外カバーは綺麗で酷使された形跡はないが、回転刃の表面の錆びが気になる。動作は、快調というわけにはいかなかった。枝の量がそれほど多くなくても停止してしまうことがある。詰まって停止したときは、逆回転で戻してから、再スタート、という方式のはずなのだが、いきなり再スタートボタンを2秒程度押し続けると、それ以後は普通に動く。旧機種ではそのようなことはなかった。弱めの負荷でも自動停止してしまうということだろう。

自動停止のメカニズムについて想像すると、回転数が基準値より下がったときに、自動停止すると思われる。始動のとき、スイッチを一瞬だけ押したのではすぐに止まってしまい、1〜2秒押し続けて、回転数が上がって基準に達してからスイッチの指を離す。安全性を考えてのものだろう。
動作不良は、概ね、回転数不足によるものだと思う。

回転数不足の原因には、どんなのがあるだろうか。
1、大量の枝を投入。歯車の凹の部分に、いったんはチップになった枝が余裕をもって全て収まる量でなければならない。
2、回転部分に、細かい木屑や繊維などの異物が引っかかったりして回転不足を起こすことがありうる。説明書に竹類は不可と書いてある。「枯木はなるべく粉砕しないでください」というのは、微細な粉末などが詰まって、清掃せずに固まるようなことがあるのかもしれない。
3、刃受け部分の不安定。
4、刃の劣化。
5、電気的な原因。指定外の細い延長コードでは電圧不足になる。そのほか電子部品の問題からくるもの。

HM-1605の本体カバーを開けたとき、内部はモーターと歯車などの主要部分の他、2つのパーツがプラグ方式で接続されていた。1つは大型コンデンサー、1つはスイッチ基盤である。外したり付け替えたりは簡単に出来そうなので、同等機種ならパーツを交換して、動作を確認できるかもしれない。

★補足
ホームセンターで、植木剪定の機械用の潤滑スプレーを発見。潤滑のほか「ヤニ取り」の効果があるという。シュレッダーの場合も、古枝の粉末と、若枝のヤニが混合して、回転部の隙間にもぐりこんで固まるなどして具合が悪くなることがありうるだろう。
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新元号「令和」

5月1日の譲位にともなう新元号は「令和」となることが発表された。
万葉集巻五、梅花の歌三十二首併せて序、「初春の令月にして気淑く風和らぎ、云々」からとのこと。
令月とは、「?@万事をなすのによい月。めでたい月。?A陰暦二月の異称」と広辞苑にある。
(この令は、せしむる、命令するという意味ではないことになる。)
もとは、後漢の張衡という人の『歸田賦』の「於是仲春令月、時和気清」という言葉を踏んでいるらしい。張衡の詩は自然を称え、自然回帰のようにもとれるもの。
張衡は令月を仲春としているが、日本では初春になっているのは、満ち足りた春に満足するのか、春の予兆を重視するかの違いだろうか。日本の「春」とは、一年を均等に四分割したうちの一つではないようだ。

令和
令の書き方は、筆記ではいくつかの書き方があり、下の部分を「マ」のようにも書く。
どの字も活字のように四角いマスをいっぱいに使おうとすると、「令」の字は小さく見えてしまうので、「令」の左右は「和」より大きく書き、「令」の先はあまり尖らせないほうが良いかもしれない。
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御飯の食べ方

江戸時代のある手引書に、御飯の食べ方などの作法について書かれていたので、読んでみた。

御飯の食べ方
○箸は三ツ折にして中を取ると心得べし。
○飯のくひやうは、右の手にて飯椀(めしわん)のふたを取り、左の手にうつして下に置き、次に汁椀(しるわん)のふたも右のごとく取りて、飯椀のふたの上にかさね置くなり。
さて、飯椀を右の手に取りあげ、左の手にうつし持ちて、二箸ほどくひて、下に置き、
次に、汁椀を右の手にて取上げ、左の手へうつし、汁をすひ、右の手にうつして下に置く。
また飯を前のごとくにくひ、また汁をすひ、今度は汁の実をくひ、
また飯をくひて、其の次に菜(さい)をくふなり。
引落しのさい、右の方に有る物を左にて引寄せ、左の方なる物を右の手にて取る事有るべからず。(一部を漢字に変更)


「箸は三ツ折にして中を」というのは、実際に折るのではなく、長さを三等分したときの中ほどを持つということだろう(指先が中ほどになる)。持つ位置は、極端に上すぎても、下すぎてもいけない。
食べるときは、飯、汁、飯、汁と実、飯、菜、の順。菜とは副食物のことだろう。汗を流して働く人の場合に汁を先にという考えもあるかもしれないが、和食では、飯が先である。飯は水分の多いものであり、雑炊や粥のときもあるが、米を重視する国民ということなのだろう。茶道の作法で茶よりも菓子が先というのも、菓子を米に見立てているのかもしれない。

○まんぢうくふてい(饅頭の食べ方
まんぢうは、左にて取り、右のひとさしゆびと大ゆびにてもち、二ツにわりて、右の方を下におきて、ひだりよりくふべし。


饅頭は半分に割って、左から食べるということ。本人からみて左が上位である。椀も飯椀が左。

○めんるい喰ふてい(麺類の食べ方
めんるいは、汁をおきながら、一はし二はしすくひ入れて、汁をとりあげてくふべし。


「汁」とだけ書いてあるが、これは汁椀のことであろう。蕎麦等を入れるときは汁椀は置いた状態でということ。
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民家の間取り

漫画のサザエさんの家の間取りの図を、とあるサイトで見た。漫画で絵の背景を多数見ながら、パズルを組立てるようにして、全体を描いたものなのだろう。
http://www.sazaesanitiba.com/madori.html
サザエさんの家は、昭和20〜30年代の首都圏のサラリーマン家庭の家だと思うが、間取りは、関東の農家の家に似ている。部屋を田の字型に区切り、東西に3部屋、南北に2部屋の計6部屋である。東の2部屋と、西の田の字の4部屋を、南北に廊下が区切る。
 北側は西から、台所、茶の間、子供部屋。
 南側は同じく、床の間、客間、若夫婦の部屋。

 東側に若者の部屋を置くのは、農家と同じ。その西の廊下の部分は、農家では土間が広めにとってあった。西の4部屋の南側に、廊下または縁側が付く。廊下の西の突き当たりが便所。茶の間は中央北側のじめじめした部屋で、日当たりの良い南の部屋は、客間として確保される。
 農家と違う点は、北西の台所、北東の玄関である。農家の玄関は、南北に続く廊下の南であり、廊下の北端に台所が続く。北西は主人夫婦の部屋。昔は子供部屋というのはなかったので、子供は親と同じ部屋に寝て、学校の宿題などは縁側でした。大きくなったら若者の部屋となる。南西の床の間は、本来の客間なので、普通は使用しないが、家族の人数に応じて使われることもある。
 昭和30年代ごろから、どの家も、洋間風の客間を設けることが広まった。和室のまま絨毯を敷いて応接家具を置く家も多かった。床の間が使われなくなり、物置状態になった家が多い。子供部屋についても、なんとかしないといけないと、親は思うようになった。

 昭和の頃の平均以上の農家では、土間の西は4部屋でなく6部屋あった、東北の1部屋が茶の間、または囲炉裏を置いた居間で、その西は壁の多い納戸である。納戸は、寝室であり貴重品をしまう部屋だったが、昭和の戦後は、タンス部屋ないし収納専用の部屋になった家が多いようだ。壁の多いこの部屋を、子供の勉強部屋にした家を見たことがある。
 明治時代以前の各部屋の意味については、あらためて書くことにしよう。
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