『火山で読み解く古事記の謎』

『火山で読み解く古事記の謎』蒲池明弘 著(文春新書 2017)。
古事記の物語の背景には、火山活動の記憶やその反映などが見え隠れするのではないかという本であり、興味深い。国文学者の益田勝美や物理学者の寺田寅彦、ロシアのワノフスキーらの先行する研究をふまえたものである。

 八俣のオロチが、赤い目をして八つの尾根と谷にまたがり、腹から血を吹き出していたという話。八俣のオロチを退治したことは、火山活動が鎮まったことの反映なのだろうと、最初に本の題名だけ見て思ったわけだが、読み始めると、その通りで、さらに多くのことが取り上げられている。

 天照大神の天の岩戸隠れの話は、日食などは関係ない。日食は数分で元に戻るものである。古事記に書かれるように、山から木を抜いて運んだり、鍛冶屋が銅鏡を鋳造するほどのひまはない。須佐之男命が大暴れしたのは、噴煙が長期間、天を覆い尽くすほどの火山の大噴火のことであるという。海の神でもある須佐之男は、海底火山の大噴火を意味し、実際に縄文時代には九州の南の鬼界カルデアが大噴火したことは考古学ないし地質学的にも証明されている。岩戸隠れで世界が闇夜となったのは、この大噴火の反映ではないかと。
 伊邪那美神が去った黄泉国でも、火山活動が活発らしい。黄泉とは、硫黄成分を含む温泉の意味であろうともいう。そのほか、多くの事例が書かれている。
 そして火山を鎮めるちからのある者が、この国を治めることになる。

 保立道久『歴史のなかの大地動乱』からの引用があり、奈良時代の天平6年、近畿地方の大地震の3か月後の聖武天皇の詔勅が紹介される。

 「このころ天すこぶる異を見せ地はあまた震動す。しばらく朕の訓導の明らかならざるによるか。民の多く罪に入るは、その責め予一人にあり」

 「地震は自分の「訓導」がよくなかったために起きたことであり、責任はすべて自分一人にあるというのである。」
 今の時代の陛下の被災地慰問等は、そうした古代的なことの現代的表現ではないかと、著者の蒲池氏はいう。内田樹氏も同じ見方をしているとのことである。なるほどと思う。

 聖武天皇の詔勅には、地震の結果、「民の多く罪に入る」と書かれる。罪とは何か、自然に起った災いのことも、古代では罪といった。穢れについても同様である。とすると、「罪・穢れを祓い清める」とは、地震や火山活動を鎮める意味にもなる。罪や穢れ、また禊ぎや祓いについても、自然災害や火山活動の視点から再考する必要があるのではないかと思えるのだが、これは今後の課題。
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