神話の森のブログ

日本の神話や民俗、また近世農村研究

伊勢参宮道中記 9冊 その2


伊勢道中記についての収集本が、またたまってしまった。

伊勢道中記6
 「伊勢参宮日記考」三冊(川崎吉男著、茨城県・筑波書林・昭和62)
上巻と中巻が資料編。7種類の道中記を翻刻掲載。おおむね常陸国からの出立と思う。当時の街道筋の道標をスケッチした絵が載っていた。
下巻は随想編で、解説である。

伊勢道中記5
 「秩父坂東湯殿山紀行・伊勢太々講道中記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集33、平成21)
太々講道中記の文量が多い。天保14年、茅ヶ崎辺りからの出立。狂句、狂歌が面白い。

 「伊勢参宮紀行・道中日記」(藤沢市文書館・藤沢市史料集28、平成16)
文政11年の藤沢周辺から道中記2点、翻刻で収録。

 「青梅市史史料集第五十二号」(青梅市教育委員会、平成16)
嘉永2年の女性による道中記を翻刻収録。道中記以外の日記等もあって厚い本。

伊勢道中記4
 「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社、平成3)
文政5年、板鼻の宿場の人の道中記で、長崎まで行っている。大量の写真画像と翻刻文の併載。

 「善兵衛さんの道中記」(宮本勉編、静岡・羽衣出版、平成4)
「駿河国安倍郡水見色村の庄屋」佐藤善兵衛の元禄6年の旅というから、かなり古いもの。水見色村は安倍川上流の山間の村。写真画像と翻刻文の併載。

 「政えんどんの旅日記」(静岡古文書研究会、平成11)
安政4年瀬名村から出立。道中記は写真画像と併載だが、文量は少ない。解説が多い。

以上で9冊。次の2点は古い道中記の全文掲載のないもの。

伊勢道中記7
 「社寺参詣と代参講」(世田谷区立郷土資料館、平成4)
資料館の企画展示のためのパンフレット。伊勢講・富士講・御嶽講などの資料。道中記の翻刻はない。
 「復刻版 宝来講道中細見記」(奈良大学鎌田研究室、平成4・平成6増補)
道中記の収録はない。現代の道中体験記と歴史研究。

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なるほど知図帳日本


カテゴリ「伊勢参宮」を新設した。

なるほど知図帳日本
伊勢参宮特集が少々載っている「 なるほど知図帳日本2012」(昭文社)。
同書に掲載の「道中手形」は、当ブログの、2007年11月23日のものが大きくて見やすいと思う(カテゴリ「伊勢参宮」をクリックすると良いだろう)。
市町村合併も一段落したあとの地図なので、中古で求めても面白いかもしれない。

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WXGの2011年問題


 ダウングレードの時代
3・11以後の哲学的な問題は別に考へていかねばならないが、実際生活の問題としては、エネルギーの浪費を戒めることが重要になってくるのだらう。
さういへば、3年前に、パソコンをダウングレードした。ペンティアム4の2GHz超から、1.6GHzのAtomとし(マザーボードはmini-ITX)、初のダウングレードだった。

 WXGの辞書が壊れる?
IMEは長年WXG(Ver.4)を使用して来たが、古いためか、WindowsXPでは調子がいまいちなので、先月来、辞書の再整備を始めたところ、新たな問題につきあたってしまった。辞書の最適化がまったくできなくなってゐた。必ず「辞書が壊れています」のエラーが出る。原因は不明だが、もしかして古いPCでなら問題ないのではないかと思ひ、Windows98時代のノートPCで同じ処理をしてみたら、問題なくできた。このノートPCはWXGの辞書管理専用機として長く使ひ続けることになるのだらうと思った。ある日、このノートPCで作成した辞書の日付が2010年9月になってゐたことに気づき、長く使はずにゐたPCだったので時計が狂ってゐたわけだが、時計の日付を修正した。翌日、このPCでも、辞書最適化のエラーが出るやうになった。辞書ツールが使へないのは日付が原因かと思ひ、PCの時計を意図的に1年前に戻すと、エラーは出なくなった。WXGは、2010年までの使用しか想定してゐない疑ひが濃厚になった。

 バイナリエディタでファイル修正して修復
ネット検索で調べてみると、某掲示板で同様の指摘があった。
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/software/1170889754/
上のページの1月6日、No844の書き込みによると、WXGDLIB.DLLを書き替へると正常になるといふ。
> 2000/01/27 221,184 00:00 Wxgdlib.dll
> 0000CEB5 DA 97
> 0000CEB6 07 08

2000-01-27 00:00 の日付の WXGDLIB.DLL、ファイルサイズ221,184バイト。ファイル先頭から 0000CEB5〜6 の位置の "DA 07" といふデータを "97 08"に書き替へると、2199年まで使用できるといふ。

PC内を探すと、C:\Windows\System32 といふフォルダに、WXGDLIB.DLLがあった。しかし日付は1998-12-28 00:00、ファイルサイズ 220,672 バイト。細かいバージョンの違ひがあるやうだ。
バイナリエディタ(Stirling)をダウンロードしてこのファイルを調べると、"DA 07"といふデータは2ヶ所あった。
 00000A26〜7
 0000CE66〜7
このうち2つめのデータが掲示板での指摘位置に近いので、これを書き替へることにした。System32フォルダのWXGDLIB.DLLを別フォルダにコピーし、コピーしたファイルを改めてエディタに読み込み、とりあへず一ヶ所、0000CE66番地のDAをFFに書き替へる(0000CE67はそのまま)。これで2047年まで使へることになる。
上書保存してエディタを終了。書替済のファイルはそのままSystemフォルダへ上書コピーはできない(IME使用中)ので、コントロールパネルから「既定の言語」をMS-IMEあたりに変更して再起動後、書き替へたWXGDLIB.DLLをSystem32フォルダ内へ上書コピーした。(コピー完了後「規定の言語」をWXGに戻す)
 そして辞書の最適化を試みると、エラーは出なくなった。

 さて現在進めてゐる辞書の整備は、歴史的仮名遣変換辞書であるので、この文も歴史的仮名遣で書いた。

※ "DA 07" は16ビットでは 07DA、これは16進数表記であり、10進数なら2010の意味。
※ バイナリエディタはc.mos氏に敬意を表してBZを試みたが、16進数での検索方法がわからない。これでは新規ユーザーはつきにくいのではないか。

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将軍の年賀のごあいさつ


稲垣史生著『楽しく読める江戸考証読本』全四冊(新人物往来社)は何かと参考になる本である。

以前ブログでふれた大岡越前の白子屋事件について書かれた部分もあり、親に対する罪は刑罰が格別に重かったのだというコメントもあった。
「大名と旗本編」では、江戸時代の年貢の平均的な数字も書かれ、上の田が1反につき米5斗少々、下の田は4斗少々とあった。村々に残された古文書で確認できる数字ではある。4斗とは米1俵のことだが、実際の年貢の量を書いた出版物は、なぜか極めて少ないのである。

そんなわけで全般的に良い本なのだが、「楽しく読める」というエッセイの形式で書かれている点は注意が必要だ。
「将軍様と町人編」の123ページに、元旦においての将軍の祝賀の言葉が、「女性上位の元旦のご挨拶」という見出しで紹介されている。
御台様と雛壇に並んで将軍のほうから先に言葉があるという。
「新年お目出とうござる。幾久しく」
あとから御台様が、
「新年のご祝儀めでとう申しあげます。相変りませず」
と答えるという。これについて「下々と違いまさに女性上位であった」と書かれる。

これと同様の年賀行事を、京都の天皇様と皇后様も行われていたと、どこかで読んだことがある。地方の旧家で、夫婦で囲炉裏の回りを這いながら回って後、夫から先に祝賀の言葉を述べるしきたりの話もある。これらは正月行事の「成木責め」や、遠く神代の昔に夫婦の神が天の御柱を見立てて廻って言葉を掛け合うとき、男神から先でなければならないという話にも通じるものがあると思う。これらは人間どうしの挨拶の言葉ではなく、新しい一年への予祝の言葉なのだろう。

このような民俗学的な視点は、『江戸考証読本』では欠けている。人間どうしの挨拶は下の者から先に述べるものだという視点があるにすぎない。「なあんだ、普通と逆なのか(笑)」で終るのが江戸の町の洒落本の世界なのかもしれないが、やはり近代の民俗学のちからを借りて江戸時代を生き生きと見たいものである。
しかし将軍家のこのような行事を紹介してくれる本はありがたい。
洒落本が町人文化のものだとしたら、天皇や公家や武家には、農民文化にもとづいた風習があることがわかる。

「色恋沙汰と艶ばなし編」で、女性の貞操観念についてのコメントは、弟子筋に当たる杉浦日向子氏や、あるいは田中優子氏の書くこととは、だいぶ趣きが異なる。稲垣氏は明治45年生れ、そのような時代の影響による価値観念があったのだろう。しかし全体としては、この本は為になる良い本である。

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伊勢参宮道中記 9冊


伊勢道中記についての収集本より。全て読了しているわけではない。

伊勢道中記

 「お伊勢参り 附・文政の道中記」沢内勇三著(岩手県・宮古郷土史研究会・昭和47)
解説本としては最も充実した内容で、江戸時代の古文書を多数引用しながら、伊勢講組織に始まり、出立前後の当人たちや村人たちの儀礼、道中や旅籠について、伊勢での様子や、帰郷後の様々のお祝い、伊勢の遷宮儀式や、抜け参りなどの特殊な参拝に、若者の筆下ろしに至るまで、詳細に書かれている。文政13年の道中記が付されている。昔懐かしい和文タイプの版下。

 「伊勢参宮道中記」(福島県・いわき地域学会・平成5)
天明6年の道中記と小遣帳。小遣帳が詳細で、道中の洗濯代や髪結代まで書かれる。

 「道中記」(山形県・自費・平成18)
明治8年、酒田を出立。道中記としては取上げた中で最も長文である。史跡やそれにまつわる歌句の覚書が多い。

 「伊勢参宮道中記」石原博著(MBC21・平成12)
明治13年、神奈川県横浜から。原本の画像と活字の翻刻文を並べて掲載しているので、古文書の勉強にもなる。本人はかなり趣味人のようで、道中の出来事が面白おかしく書かれ、自作の川柳も多く詠まれている。

伊勢道中記2

 「伊勢道中記史料」(東京都世田谷区教育委員会、昭和59)
文化4年から明治14年までの、区内で発見された道中記15点を集成したもの。古書店などでの入手は難しくない。

 「伊勢参宮道中記 附・資料注釈」(福岡県・平成元年)
明治18年、福岡を出立。道中記以外に、当時の案内地図など多数の図版が収録されるが、印刷状態は良くない。初版は伊勢の神宮文庫にも寄贈されたという。

 「伊勢道中日記・旅する大工棟梁」西和夫編(平凡社・1999年)
天保12年、相模国を出立。大工らしく、参詣した寺社の建造物について詳しい。翻刻文と解説。解説は建築関連、御師、道中のことなど。

伊勢道中記3

 「お伊勢参り道中記」(宮城県古文書を読む会テキスト)
寛政6年、仙台に近い村からの旅。翻刻ではなく、古文書をコピー機で複写したものをそのまま版下にして(写真でなく白黒2値)、軽印刷にしたようで、文字がかすれて読みにくい。

 「伊勢道中日記史料」(茨城県・土浦市史編纂委員会・昭和63)
文化4年の農民たちの旅と、弘化2年の地元の文人の旅日記の2つ。前者では、宿場町や路傍のことに比較的関心が高いように思えた。
(自費出版的なものは著者名を略す)

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江戸時代の飢饉は本当にあったか?


だいぶ前にどこかで読んだのだが、天保の飢饉といわれているものは都市部における単なる風評被害にすぎないものであると。たしか福島県あたりのどこかの村で若干の凶作があり、その話に尾ヒレがついて江戸に広まり、米の買い占めや売り惜しみに走るものがまたたくまに増えて米価が高騰し、江戸以外の都市部まで広がって、一部では米を買えない町人による打毀し事件まで起こったという話である。

地元の村の古文書で当時のことに関連する文書が一つだけあり、それは幕府からの村々への通達文書の写しである。同じものが埼玉県史資料編にも載っていた。内容は、村々に対して、米は当面必要な量だけを残しておいて残りは市場に出して売るように協力せよ、隠し持っていてはならぬ、ということである。都市部での売り惜しみに対しても同様の通達があったに違いない。それでも効果がなかったので、村々に通達したのだろう。このことからわかることは、村々には米がじゅうぶんあったということである。あるいは都市部の風評を聞いて、年貢米以外の自由売買予定の米を売り惜しんで溜めこんでいた農民もあったということである。
各地の膨大な村々の文書から天保の飢饉なるものが実際にあったことを証明することは困難であると書いた本も読んだことがあるが、書名は忘れた。

さて昨年末、石川英輔氏のNHKラジオ講座のテキスト(「世直し大江戸学」)を読んでみたら、岩手県で、天明のころの古文書等を再調査する過程で、南部藩における天明の飢饉は虚構であったことが証明されそうである。天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
大石大二郎氏によると、江戸時代というのは、それぞれの藩は独立国家のようなもので、幕府がその上に乗る連邦国家であった。したがって、南部藩のこの行いは、外交上の策略であって、組織内で上層部に虚偽の報告をするのとはわけが違い、必ずしも避難されるべきものでもないわけである。それは南部藩に限らない。無論ばれた場合はどうなったかはわからない。しかし、江戸時代を通じて、否、現代までも南部藩にはだまされ続けてしまったわけである。最近読んだちくま新書の本(民俗学の冒険シリーズ)で、山折哲雄氏の小論があり、南部藩における「天明の飢饉」での悲惨さが語られていたが、山折氏までだましてしまったのである。

規模は小さい話になるが、村々においても、上からの要請を断ったり負担の軽減を望むときは、「困窮至極の村にて」などといった決まり文句をよく使う。助郷免除願いの文書で「困窮至極」と書き、免除の代償として数10両もの大金を用意していたりする。要するに労役は村人がイヤがるので金納にしてくれということなのだが、どういうわけか「訴え」という性質の文書には「困窮至極」という言葉が決まり文句なのである。

小学館だったか最近の通史ものの本で、18世紀(江戸中期)は天災と飢饉の連続だったと書いてあった。しかし江戸中期といえば、内乱もなく、歴史上最も平和で安定した時代であり、人々もそこそこ豊かだった時代である。

最も平和でそこそこ豊かだった時代にだけ、「飢饉」が多発したことになっているのは何故か。
少なくともこの時期の「飢饉」については一つ一つ事実の裏づけを確かめる必要がありそうだ。

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享保の新田開発


江戸時代中期の享保年間の検地帳が2冊出てきたので、内容を吟味してみた。
八代将軍吉宗のころ、地方の新しい産業を興すことが奨励され、草加せんべいなどこの頃からの名産品も全国に多いと聞くが、国民の総生産が増えれば税収も増えるというわけで、農村に対しては新田開発が奨励された。そのとき新たに開墾された田畑の目録が、この検地帳である。
一冊は享保十四年九月、もう一冊は享保十八年三月の日付である。

最初の享保十四年の新田開発は大がかりなもので、検地帳には、約70筆のこまごまとした畑と数筆の田の、所在地や開墾者の名が登録されている。全ての村人が関ったと思われる。
所在地については最も多いのが「屋敷添」で49筆、面積は平均2〜3畝で(1畝は30坪)狭いのだが、この屋敷添以外はほとんど1畝ないしそれ以下なので、面積でいえば屋敷添の土地が全新田のうちの9割近くになると思われる。
屋敷添とは、村人の住居のそばの土地のことで、武蔵国北部の当地は、冬には上州からの空っ風にさらされ、屋敷の西部と北部に防風林(屋敷林ともいう)をもつ家が多かったのだが、その林の一部を開墾して畑にしたようである。
この新田開発にあたっては、上からの割当や目標が示されたようなのである。関東の平地の村々では既に開墾すべき土地はほとんど残っていないのが実情である。目標をクリアするために屋敷林を畑にするしかない。当時村の名主を交替で勤めた2軒の家は平均をだいぶ上まわる1反(300坪)前後の屋敷添の土地を畑にしたのだが、これは、開墾を渋る一般農民を説得するため、見本を示さなければならなかったということだろう。指導者というのはつらいものである。
屋敷添の他の土地では「あみたとう(阿弥陀堂)」に2畝余。阿弥陀堂という小さな祠の裏の林のことだろう。
その他については、1畝前後かそれ以下の極めて狭い土地ばかりである。所在地として字名などが記入されているが、そのなかに「山から」と記入されたものがあり、字名としては聞いたことがない。しかしこれらの土地が何であったかを推定するのは、当地では簡単なことである。当地では市内唯一の古墳群があり、今はその数は少なくなってしまったが昔は非常に多くの数の古墳が連なっていたと伝えられている。屋敷林や阿弥陀堂の裏まで開墾するくらいだから、古墳も開墾されたのであろう。
以前「享保の改革」に関連して、上田秋成の次のような歌をどこかで引用したことがある。
  しめ延へし苗代小田にかげ見えて、年ふる塚の花も咲きけり <上田秋成>
出典は忘れてしまったのだが、古墳が削られて田畑に成り変ることを惜しんで詠んだ歌であるといわれる。これは大きな古墳が削られて小さくなってしまったのだが、もともと小さな名もない古墳は、かげさえ残せずに消えてしまったようである。

さて享保十八年の2度目の新田開発は、わづか九筆で平均1畝未満の小規模なものであった。所在地は2種類の字名が記入されているが、この字名は、村鎮守2社の裏手に当る字名である。開墾できる土地はがなくなり、鎮守の森に手を付けてみたのだが、ほんのわづかしか手を付けられるものではなかったのである。そして3度目はなかった。

当地ではどの家にも広い屋敷林があり、古墳群もあった。しかしそのようなもののない村々では、どのような土地を開墾したのであろうか。おそらく1度目から鎮守の森を開墾した村もあったことだろう。江戸時代の村高のわりに境内の狭い鎮守社しかない地域というのをときどき見かけることがある。当地の鎮守社は、比較的広い境内を保有したまま明治維新を迎えることができた。それには古墳群が犠牲になったからという経緯もあるのである。

田中圭一氏の著作によると、下総国のある村では、享保の新田開発のときに、集落から離れた小さい山の上に平らな部分があったので、そこを開墾して畑にしたという。しかしその畑を耕作するために村人が通うにはあまりに遠距離だったので、いつしか元の林に戻ってしまったという。

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イヌクシュク


イヌクシュクバンクーバー・オリンピックのロゴマークは、イヌイットという北米先住民が岩を積み上げて築いて道標などにした「イヌクシュク」というものをデザインしたものという。イヌクシュクの意味は、彼らの言葉で「人の代り」といったような意味だそうだ。道祖神のようなものでもあるのだろう。

イヌが「人」の意味というのは、アイヌ語の「アイヌ」が音も似ているが意味も「人」であることに共通する。大和言葉で類似の言葉を探すと、一人称ないし二人称代名詞の「うぬ」「おのれ」などがある。日本語は一人称と二人称の言葉が入れ替わることがよくある(関西方言のワレなど)。
「クシュク」は大和言葉のシャクジ(石神などの意味)に似ている。

さらに犬卒塔婆という、Y字形の木の枝を道の辻などに挿し立てたものが関東に伝わっていたが、「犬」の意味がわからないでいた。イヌクシュクと関係あるのかもしれない

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酒造地蔵


幕末から明治初期ごろの印刷物で「酒造地蔵」の由緒が書かれているものが出てきた。

酒造地蔵
当山 酒造地蔵菩薩は 海中出現にして
霊験少からず。往古三浦八兵衛一子病疹
悪腫にして落命免れがたきを、当寺に
祈願せしところ全快を得たり。然に病中
一人の童子 月毎に来り 病人を慰む。
折から酒三五献飲勧喜して去。依てその
跡を尋るに当山に入。その後も時々遊
行す。よって諸願を祈るに神酒をそなへ
誠心を籠れば成就せざる事なし。これに
よって諸人 字して酒造地蔵尊と号す。
又は化身地蔵ともいふ。
(画像クリックで拡大)

三浦八兵衛という者があり、その子の重病に際し、ある寺の地蔵尊に祈願した。その後、家に毎月童子が現れるようになり、病の子を看てくれるので、酒をふるまってもてなした。やがて子は全快し、童子のあとを追ってみたら地蔵尊のある寺に入ったので、童子は地蔵尊の化身だとわかったという。

良い話だが、酒造地蔵の所在が不明である。関東近辺ではないかと思う。「海中出現」とあるので、海辺に近い場所かもしれない。

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『大岡仁政録』を読む


江戸時代の『大岡仁政録』(白子屋庄三郎一件)の古い写本があったので読んでみると、罪と罰についての考え方の時代による変遷の一端が垣間見えて興味深い。

「白子屋庄三郎一件」の話はこうである。
江戸でも中規模の店を構える白子屋の庄三郎は大変な働き者だった。しかし妻のお常は、派手好きで享楽にばかりふける不道徳者だった。お常は先代の娘で庄三郎は婿である。娘のお熊には又七という聟をとったが、聟の持参金を遊興に使おうという母お常の思惑からであった。母は髪結いの男を間男にしていたが、娘も店の手代とできていて、母娘で道楽三昧であった。
やがてお常は遊ぶ金がなくなると、日頃世話になっている店の旦那に借金の相談に行ったが、お常の遊び癖は既に知られており、説教されて、店は聟夫婦に任せてお常夫婦は隠居するように意見された。
だがお常は逆に聟は追い出そうと計略をはかり、毒殺を試みたりもした。さらに、婿の持参金を返さずに離縁する方策として、下女をだましてカミソリを持たせて聟を襲わせ、婿と下女の不貞による心中未遂をでっちあげようとした。だが失敗して御用となる。

 大岡越前守の裁定はこうである。
 娘お熊 密夫 殺人共謀などにより 引廻し・獄門
 手代  密通と五百両の盗みなどにより 引廻し・獄門(髪結も同じ)
 下女  主人への殺人未遂により 死罪
 お常  養子への殺人教唆により 遠島
 当主庄三郎 監督不行届きにより 江戸追放

なかなか重い罰であるが、当時は罰則については厳しいものがあった。現代では罰則は軽く、特に役人による不正に対する罪があまりに軽すぎると思うがそれは余談である。

さて、気になるのは重い罰が多い中に、お常の罪が比較的軽いという点である。元はといえばこの女が一番悪いような気もする。
しかしよく考えてmると、おそらくこういうことだろう。つまり、お常は仮にも被害者の養母だからということである。
すなわち、処罰するということは、被害者から見れば報復なり仇討ちのようなものであって、それを公権力が代行するにも等しいのだというような意識が、当時は強かった。お常が死罪となれば、養子が養母を殺すに等しいということになり、「親殺し」になるので、それは避けたいという意識なのだろう。とくに処罰する側の武士の、親や主君に対する意識では、そうなるのである。
そそのかされたにすぎない下女が死罪となるのは、「主君への謀反」のようなものだからであろう。

お常、お熊のように、代々娘が婿をとるのは、江戸時代の商家では普通のことである。庄三郎は元は先代の番頭だった。

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