御伽かるた

otogikaruta.jpg
「御伽かるた」というものがあり、むかし駄菓子屋などで売っていたものではないかと思う。復刻版などもあるようだ。
読み札もあり、テキストにしてみた。ただし歴史的仮名遣に変えた。というのは、囲炉裏(ゐろり)、絵(ゑ)、踊(をどり)など、歴史的仮名遣は正確だったからである。絵札上の「お」と「を」は逆だが、「踊(をどり)」「乙姫(おとひめ)」という言葉は間違いないので、画家による書き間違いだろうか。

一寸法師はお椀の舟 〔一寸法師〕
牢に入った欲張り爺さん 〔花咲爺〕
はやく芽を出せ柿の種 〔猿蟹合戦〕
握り飯と替へた柿の種 〔猿蟹合戦〕
掘れ掘れわんわん大判小判 〔花咲爺〕
下手な踊りでこぶつけられた 〔こぶとり爺〕
とった渋柿投げ付けた 〔猿蟹合戦〕
ちくりと刺した蜂の針 〔猿蟹合戦〕
龍宮城は海の底  〔浦島太郎〕
ぬっと大鬼現はれた 〔一寸法師〕
瑠璃や真珠で輝く御殿 〔浦島太郎〕
をどり上手なお爺さん 〔こぶとり爺〕
わった臼たく隣の爺さん 〔花咲爺〕
かちかち山でやけどした 〔かちかち山〕
欲張り婆さんお化けのつづら 〔舌きり雀〕
たぬきのお舟は土の舟 〔かちかち山〕
れつを作ってお伴する 〔桃太郎〕
そっとのぞいた隣の爺さん 〔花咲爺〕
つづらから出た宝物 〔舌きり雀〕
ねもとのほらで雨宿り 〔こぶとり爺〕
波をくぐって亀の舟 〔浦島太郎〕
来年の春にまたきませう 〔舌きり雀〕
むりに鳴かして掘ってみる 〔花咲爺〕
うさぎのお舟は木のお舟 〔かちかち山〕
ゐろりから栗がとびだした 〔猿蟹合戦〕
のりこえ攻めいる鉄の門 〔桃太郎〕
乙姫様のおもてなし 〔浦島太郎〕
熊もころりと負けました 〔金太郎〕
やねから臼が落ちてきた 〔猿蟹合戦〕
まさかりかついだ金太郎 〔金太郎〕
けだもの集めておすもうごっこ 〔金太郎〕
ぶんぶく茶釜は芸上手 〔ぶんぶく茶釜〕
腰につけたはきびだんご 〔桃太郎〕
えものはうれしい打出の小槌 〔一寸法師〕
寺の茶釜に尾がはへた 〔ぶんぶく茶釜〕
足柄山でお馬のけいこ 〔金太郎〕
さるももらったきびだんご 〔桃太郎〕
きじがつなひくえんやらや 〔桃太郎〕
ゆめとすごして月日をわすれ 〔浦島太郎〕
芽が出たのびた実がなった 〔猿蟹合戦〕
みやげにもらった玉手箱 〔浦島太郎〕
舌きり雀のお宿はどこだ 〔舌きり雀〕
絵をかくように花が咲く 〔花咲爺〕
姫のおともの一寸法師 〔一寸法師〕
桃の中から桃太郎 〔桃太郎〕
せいを打ち出す打出の小槌 〔一寸法師〕
雀とをどるお爺さん 〔舌きり雀〕
京へのぼってご奉公 〔一寸法師〕

ざっと数えてみたところ、次の10の話からとられていた。ただし()内の数は正確でない可能性がある。
 花咲爺    6
 かちかち山  3
 ぶんぶく茶釜 2
 猿蟹合戦   7
 金太郎    5
 舌きり雀   5
 桃太郎    6
 一寸法師   6
 浦島太郎   6
 こぶとり爺  3

 楠山正雄の再話で『日本十大昔話』というのがあり、7つは同じだが、
 一寸法師・浦島太郎・こぶとり爺の3つではなく、次の3つが入っている。
 くらげのお使い・ねずみの嫁入り・猫の草紙
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

障害者と神話的作法、女人救済

身体障害者をテーマにした小説などを書きたいと思ったとき、実在の人物をモデルにすることが憚れることもあろう。モデルの人物を詮索されないためにはどうすればよいか。それは、物語の背景となる時代を、現代ではなく、遠い過去の時代の歴史物語に変えてしまうのも一つの方法だろう。歌舞伎の忠臣蔵が南北朝時代の話として書かれたように、である。歴史上の人物・古い物語の中の人物と、書きたい人物とか重ね合わされたような人物として書くやりかたもある。ともかく、障害をもったまま亡くなる人への供養が大事だ。

記紀の神話の時代から、障害者らしき人の物語は少なくない。
「おかくじら」というブログは、よくまとめて書かれていると思った。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-c1ae72.html
こういう人たちは、昔は現代のような差別とは遠く、特異な霊能力者のように描かれることも多かった。
他に、説経節などにも、同類の話は多かったと思う。


説経節については、12月の記事
http://nire.main.jp/sb/log/eid303.html
で、「『愛護の若』は、現代語の本が少ないかもしれない」と書いた。
その後、京都で発行されている同人雑誌に、現代語訳の投稿が掲載されていることを調べたので、取り寄せて読んでみた。
一般の解説によると、「愛護の若」は説経節のなかでは時代のもっとも新しい作らしく、伝わる本も浄瑠璃の形式の本だけであるという。作品に新しい時代の内容がかなり含まれるようになったと説明されるが、その「新しさ」とは何のことかの説明は、わかりにくいものだった。
その雑誌で読んだ現代語訳の「愛護の若」は、いかにも女の情念の表出といった感があり、山本健吉のいう女人救済のための浄瑠璃という印象は薄いものだった。「愛護の若」とは、継母が継子を恋慕したが叶えられず、死後に大蛇となって、のちに入水した継子(愛護の若)の身体にからみついて思いをとげるという話なのだが……、1月になってから、この話は一種の心中物ではないかと思った。愛護の若とは、心中物の萌芽ではないかと。愛護の若の「新しさ」とは、心中物への過渡のことであるとすれば、じつにわかりやすい説明になる。浄瑠璃の年表では、このあとに近松門左衛門の心中物が続くからである。現代語訳は、現代人が心中物に寄せる悲哀のイメージに沿って書かれるのが良い、という結論になる。今どきの成熟した女の少年愛ではマニア小説になってしまう。

障害者の話にもどるが、先ごろ自分の中学生時代の自作の物語や漫画類を整理してみたところ、昔話の「手なし娘」のような人物が、複数の作品に登場していた。それらは社会の障害者問題を扱ったものではなく、一種の神話的な作りかたであり、作劇法としては幼いためであろう。手塚漫画の『どろろ』の影響もあるだろう。『どろろ』とは、百鬼丸という少年が、父の欲望のために身体の百の部位を生贄として差出されたまま誕生し、父の犯した罪の贖罪として、旅を続けながら百の魔物を退治して百の部位と自らの生を取り戻すという、神話的な話である。百鬼丸の話が象徴的でわかりやすいのは、近代の作であるからだろう。古い物語ではそんな簡単にはいかないが、神話的な作法がふくまれていることは考慮しておかねばならない
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

空想科学漫画『忘れられた小道』

ブログ「しらふ語り」
の、こんな記事
空想科学漫画『忘れられた小道』全1冊
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

音楽の「楽」とは

「音楽は楽の字がつくのだからタノシクなければならない」というコメントを見たので、そうではないだろうということで、「楽」の意味から考えてみる。

 広辞苑に
  き-ど【喜怒】 喜びと怒り。「‥哀楽」
とあるが「喜怒哀楽」の項が、(使用の版に)ないのは何故だろう。
 小学館国語大辞典では、
  きどあいらく【喜怒哀楽】喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。さまざまな人間の感情。
これだけではよくわからない。
 タノシミとは「喜び」とどう違うのか、喜怒哀楽の4つのうち2つが似ているのは単なる数合わせのためなのか、若いころそんなことを思っていた。あるとき、
 「楽」とは「安楽」のこと、「やすらぎ」のことではないかと気づいた。他の3つよりも次元が高いような感情である。特に老齢をむかえた人にとっては、理想的な感情であろう。

 音楽は神に捧げるものとして生れた。神を慰めるためともいう。「なぐさめ」の「なぐ」とは、凪ぎ、和むなどと同源であろう。反対語は「荒れる、荒ぶ」など。荒魂(あらみたま)に対して和魂(にぎみたま)という言葉が、古事記などにも出てくるが、「にぎ」というのも「なぐ」と同源であろう。荒魂を鎮めるためのものが音楽であるなら、現代人のそれぞれの私的な楽しみなどとは様相を異にしてくるであろう。

 大衆歌謡に目を転じてみると、記紀時代の童謡(わざうた)がある。意味不明の歌が多く、あまり研究は進んでいないのかもしれない。
 日本人は曖昧な表現を好んで、あとは感受性を共有する人に察してもらえばじゅうぶんだと思っているのかもしれない。
 西条八十以来の象徴的な表現は、日本人には受け入れやすいと思う。

 戦後のヒット曲「テネシーワルツ」の日本語の歌詞(思い出なつかしあのテネシーワルツ……)は、オリジナルとは全く別物らしい。オリジナルは、恋人を親しい友に奪われた女の絶望を歌ったものという。欧米の歌謡には絶望を直接うったえるものも多いかもしれない。高石ともやとナターシャセブンが紹介したカントリーソングにも多い。「柳の木の下に」という失恋と自殺をうたった曲(編曲は陽気な)は、岩井宏の「かみしばい」というノスタルジックな歌詞のものと、ほとんど同じ曲に聞こえる。
 やりばのない不幸の感情をうったえる歌は、『アメリカを歌で知る』 (ウェルズ恵子著、祥伝社新書) によれば、ごく普通のフォークソングである。

 シャンソンでも同様なのだろう。当時、多くの訳詞をてがけた、なかにし礼、安井かずみなど、 どんなふうに訳したのだろう。既存の平凡な抒情だけの歌詞には、いらだちをおぼえてはいなかったろうか。平凡なものばかり見せられれば、第二芸術論とか短歌的抒情の否定などという言葉にひかれる一般人がいたのもうなづけようというもの。
 森田童子の作詞も、こういう流れの中にあるのだろう。

 古い日本の歌謡では、大正〜昭和初期の、『金色夜叉』『燃ゆる御神火』などは、第三者が物語のように悲劇を語る形式である。
 一人称の悲劇の歌謡というのは、歌劇などの伝統のある欧米なら、日常的な歌の形式なのだろう。
 日本の江戸時代の芝居では、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん、私を薄情な女とお思いか、人の落目を見捨てるを、廓の恥辱とするわいなあ」 (『お俊伝兵衛、近頃河原達引』)などという心中物の名文句もあるそうだが、どうだったろうか。

以上は森田童子についての2つめの文である。
3つめは、「時」の理解について、抒情の問題とからめ、森田童子の発言から考えてみようと思う。2020年1月に新設したブログカテゴリ「時間の話」のカテゴリになる。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

笑いとパロディ

 笑いやユーモアとは何か、というテーマに興味を持ったのは十代のころで、新書判の解説本などをいくつか買い求めたことがあった。あまり満足のいく本はなかったように思うが、当時の本は、社会諷刺による笑いが最もランクが高いような書き方のものが多かった。1970年前後のことなので、政治的な批評を重視した時代の風潮のためなのだろう。その後も、古書店などで、目に入った本などを買い足している。本当に面白いと思った本にはまだ出会っていないが、いつか、笑いについて何か書かねばならないと思い続けてきた。
 私のテーマは、喜劇などで、なぜこの場面が笑いをさそうのだろうということにつきる。内省的な分析、そして脚本上の技術的な効果の問題などもある。
 最近、柳田國男の『不幸なる芸術・笑の本願』などを拾い読みしたところ、笑いと笑みは違うという話はもっともだが、笑いをふくむ芸能の歴史に主眼があり、笑いも学問の対象になるのだという力説はもっともだが、関心の方向が違うのかもしれない。

 1990年代に、NHKテレビで「お江戸でござる」という番組があり、その舞台でくりひろげられる笑いに、懐かしい質の笑いを感じたので、そのへんの所から書きはじめるのが良いかもしれないと思ったこともある。それからさらに20年以上も経過した。

「お江戸でござる」で今でも記憶にある笑いは、3人が相互に借金の約束をするという話で、たしか江戸時代の戯作か何かに元ネタがあったと思う。
 その話は、ある商人の男(A)が、取引先から入金の予定が1日遅れると連絡があったが、そのお金はどうしても明日の内に入り用なので、困ってしまった。そこで友人(B)に1日だけ金子を借りられれば明後日には必ず返済できるのだがと相談したところ、友人は江戸っ子らしく二つ返事で自分が何とかすると引き受けた。
 とはいえ友人も手元にお金があるわけではなく、馴染みの花魁(C)にそのことを話すと、花魁は身請けが決まっていて、明日身請金が入る予定なので、1日だけならそのお金を融通しようと言う。友人(B)は大喜びで商人(A)の男に報告。
 さて何が問題なのかというと、花魁を身請けする男とは、その商人の男(A)のことで、どうしてもその日に入用の金とは、身請け金のことだったのである。3人はそれぞれお金を用立てる約束をしたが、当てにしている入金はそれぞれ3人のうちの別の相手であり、それではぐるぐる回りになって、そのお金はどこにも存在していないという可笑しさ。借りる側としてはお金を催促するのも遠慮がちの涙ぐましい笑いもあり、観客はことの一部始終を見て全てを知っているので、可笑しくてたまらないわけである。

落語によくある笑い、「失敗による笑い」に分類できるかもしれない。また、気を使いすぎたときの笑いというのもあると思う。

「失敗の笑い」については、本人にとっては顔から火が出るほど恥かしいものでもあるが、場合によっては自虐ネタにすることもある。
 言葉使いをうっかり間違ったとき、みんなで笑ったときの楽しさが記憶に残り、わざと間違った言い方を繰返しているうちに、だんだんとおかしみが薄れ、違和感まで消えて、普通の言い方の一つとして定着することもあるのではないか。古語から現代語へと変化してきた途中のどこかには、そんな間違いがきっかけになったこともないとはいえまい。となると失敗や笑いが歴史を動かしたのである。

 気を使いすぎて遠回しに言ったことを勘違いするようなギャグは、昭和初期のアメリカ映画にも多かったと思う。故郷の異なる開拓民が集まって一つの町に住んだアメリカ人も、互に気を使ったことだろう。江戸の笑いにも似たところがある。
 そうした見知らぬどうしが気を遣うのは、都市文化だけだろうか。
 日本人は、内と外の区別意識が強いといわれる。家族以外は「外」の領域であり、村の中でも気を使うことが多かった。夫婦でさえ気をつかうこともある。

 ここで、美術史に関する本で、小林忠『江戸の画家たち』という本を読んでいたら、鈴木春信の見立絵について論じている部分が目に入った。

「四周を海に囲まれた列島の内で、かつて単一の民族が濃密な文化伝統を共有してきた我が国では、たがいのコミュニケーションが至極容易に成り立ち得る便宜がある。一を聞いて十を悟るといった、相手の心に寄りそっての親密な理解が、往々身分や階級の枠をもこえて可能となるような、恵まれた環境が古来用意されていたのである。」

 そうした対象への推量や想像の共有があるから、俳句や短歌などの短詩型の文学も繁栄したのだろうという。

「あえて直接的な表現を避け、比喩、暗喩の機智が楽しまれる傾向が強いのも、相手の思いやり深い推察を期待する「甘え」の心理が働いているのであろう。」

ここでいう「単一民族が濃密な文化伝統を共有」とは、笑いについてではなく、著者がのちに述べようとする和歌の本歌取りや見立絵についての「序」のような部分である。ここでは、濃密な関係でなくても、「直接的な表現を避け」遠回しな言い方をする例は山ほどあることを確認したい。

 ものごとを遠回しに言うために、誤解もおこりやすい。そこに笑いも生れる。

 昔読んだ笑い研究の本では、失敗による笑いを「嘲笑」の笑いに分類して、嘲笑の心理は価値が低い、社会諷刺の笑いのほうが上位であるという本が多かった。しかし誤解による笑いは、嘲笑だけなのだろうか。
 落語の「てんしき」では、医者の言う「てんしき」という言葉を、僧は推察して「呑酒器」と解釈した。酒を呑む器、盃のことだろうという。聞くは一時の恥という訓を怠って、知ったかぶりをするという点では、嘲笑の要素もあるだろうが、言葉の語呂合せのようなおかしさが大きいと思う。よくぞそこまで推察したという努力も、おかしいと思う。

 先の小林忠氏の本では、読み手の推察や想像を期待して、和歌では「本歌取り」という技法が成立したという話になり、本歌取りに相応する絵の技法が、見立絵ということになる。
 鈴木春信の「見立て菊慈童」という絵は、岸辺に咲く菊の花の前に、美人がひざまづいているだけで、美人画の一種でもある。菊慈童とは、中国の故事にある、皇帝に寵愛された小姓の名だが、その小姓に見立てた絵ということになる。したがって一種のユーモアも感じられる絵であるが、中国の故事では悲劇の童でもある。重層的な想像の世界が広がって、絵をみたときの感慨に厚みを増してゆく。
 さまざまな見立絵のなかには、笑いがメインになっているようなのも多い。パロディづくめの絵もある。パロディという言葉は、日本語ではないが、しかし日本にパロディの文芸などがなかったわけでもなく、江戸の戯作などはパロディばかりである。
 たとえば江戸時代には、百人一首のパロディ本が何十種類……何百かもしれないが、大量に書かれ、出版されている。その数については、コレクターがいるだろうから、聞いてみてもよいかもしれない。そのほか、平家物語や源氏物語、さまざまの古典をパロディ化して庶民を楽しませた。古典といっても義経や弁慶の話など、子供でもよく知っている話が多いのである。日本では口承文芸といわれる多くの物語があり、歴史物語も混在して、多くの国民の共有知識になっていた。西洋では共有の物語は聖書の話が多いので、笑いの対象にはなりにくかったのかもしれない。

 笑いについては、パロディを中心に考察してゆくのが良いのではないかと思う。パロディは、さまざまな知識の共有が前提になる笑いであるので、知的な笑いのように分類され、庶民の笑いではないように考えられてきたかもしれない。しかしパロディは必ずしも高度で知的な笑いというわけでもない。
 たとえば、童話や昔話には、よく「繰返し」のパターンがある。「花咲爺」でいえば、正直爺さんの行動を、隣りの爺がそっくり真似ようとする場面がある。これを行動のパロディとみることもできる。新しい童話(小沢正のものなど)を読むと、繰返しの場面は必ず笑いがともなうので、昔話でも同様だったと考えて良いと思う(ここが重要)。そうした物語の繰返しや、人真似をする場面などは、それ自体を一種のパロディとみなしうるのである。こうした類のパロディをふくめて考察してゆけば、パロディとは必ずしも広範な古典の教養を必須とするものではないことも明らかになるだろう。

以上のことを書いてきて、十代のころに課題とした一つのテーマについて、半世紀を経て、ようやくその糸口が見えてきたような気がする。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

森田童子と『血の歌』

9784620327198.jpg 『血の歌』は、作詞家でもある なかにし礼の小説で、没後に発表された。
薄い本なので、2度読んだが、2度めは森田童子のカセットテープ(筆者自作ベスト盤、mp3化したもの)を聴きながら読んだ。森田童子は、なかにしより少し早く亡くなったらしい。
 小説には森田童子と思われる謎の歌手のことも書かれ、なかにし礼の兄の娘であるという。謎の歌手といっても、少しは実像がわかったほうが良いこともあるだろう。

 その父というのは、満州で成功した実業家の息子で、アコーディオンでタンゴを奏でたり、東京の大学生としてはダンスホールで遊びなれたお坊ちゃんだったが、大戦末期に軍にとられて飛行機乗りとなり、1年で終戦を迎え、父を亡くしてからは事業は失敗の連続だったらしい。彼の指は自己流でピアノも奏で、そこから聞えてくるタンゴの甘く切ないメロディーは女性たちをとりこにするものであったらしく、死ぬまで夢を追い続けた借金王でもあったのだろう。
 日本に入ったタンゴはヨーロッパ経由のものが多いが、弟のなかにし礼は、学生時代にシャンソンの訳詞などをしていて、1965年に「知りたくないの」という歌の訳詞で大ヒットとなり、売れっ子作詞家となった人である。なかにし礼が売れっ子になったころ、広い屋敷を建て兄弟2家族同居の時代があったらしい。森田童子が中学生から高校生のころと思われる。森田童子のデビューの前年の1974年も兄弟は毎日顔を合わせていたと小説にあるが、それと矛盾する表現もある(1974年は兄弟で芸能プロをを始めたころなので矛盾ではない。巳年生れなど年次はかなり正確)。

 森田童子の歌に出てくる、男の「弱虫」、「ダメになった僕」の原型は父のことでもあったようなのだ。でなければ、あれだけのいたわりややさしさを表現できないだろうし、同時に父への惜別の意味もあるのだろう。
 歌詞はよく聞くと、男子どうしの友情のようなものを歌ったものが多い。センチメンタルな内容とあいまってBLのハシリにも見えてしまうが、それはともかく、聞く側は、森田童子という芸名が性別不明であるように、性別のない愛の歌として聴いたはずだし、声は女声なので男女の愛の歌を翻案した歌として聞いたろう。今後も同様だろう。「ぼく」とは女のことかもしれない。あるいは女性の視線から、男子の弱いホンネをいたわりをこめてダイレクトな言葉で表現したようにも聞えた。男子にはここまで自分の弱さをさらすことはできない。

 森田童子がデビューした1970年代の後半は、ラジオの深夜放送などでよく聴くことがあった。歌が聞え始めると、手を止めて聞き入ってしまう。終ったあとも、静寂につつまれたまま、しばらく頭が空っぽになるような歌だった。当時松任谷由実氏も番組を持っていて、曲を流したあと2〜3秒無言で、溜め息まじりに「いい歌ですね」と短くコメントして次の話を進めていたような記憶がある。

 前述のベスト盤は、80年代の中ごろ、廉価盤で再発売されたアルバムのLP3枚を買えるようになったので(それ以前の私は輸入盤のシャンソンやタンゴのほうが重要だった、森田より年少だが)、その3枚からカセットで作ったものである。アルバムカバーのデザインは、あまり良いものはない。ダイレクトな歌詞のその一部だけ切り出した言葉なら、全体の歌詞を負い続けるが、その単語だけ切り放してデザイナーの私的イメージに任せすぎたのだろうか(崩れ落ちる十字架や、一羽の鳩の絵だとか)。欲しくなるようなデザインのものが一つもない。あるいは映像化を拒む歌なのかもしれないが。
 ベスト盤の中に、「雨のクロール」という曲があり、これは森田童子が好んだというつげ義春の漫画「海辺の叙景」をヒントに作られた歌だということを思い出した。ネットで森田童子を調べると、筆者が知らないでもない劇画家二人や劇画雑誌元編集長の記事などが検索上位に出る。今後の再発売の際は、CDカバーのデザインに、つげ義春の絵を使ってはどうだろうか。

 自作ベスト盤の最初の3曲は、「僕たちの失敗」「僕と観光バスに乗ってみませんか」「早春にて」。気になる曲として選んだのだと思う。

 「早春にて」はワルツテンポの曲だが、曲の最後のほうにジェット機の音が入っていた。軍隊で練習機を墜落させてしまった森田の父を連想してしまった。親友が故郷へ帰る歌詞なので、飛行機で帰ったと解釈したアレンジなのだろうけれど。

 「僕と観光バスに」は、「雨のクロール」と同様の8分の6拍子の弾むような曲で、(君と今夜が最後なら……)「Do you wanna ダンスで昔みたいに浮かれてみたい」という歌詞が気になっていたのかもしれない。弾むような曲は、ラテンのダンス音楽に近く、タンゴのイメージなのかもしれない。
 「雨のクロール」もそうだが、二人は今日別れるという歌が多い(なかにし礼にも「今日でお別れ」があるが?)。あるいは別の歌で、やがて時が癒してくれるだろうと歌うことも多いような気もする。普通の抒情歌は、全てを過去の美しい思い出に昇華して歌うのだが、森田童子の歌は、常に青春まっただ中に身を置いて、見えない未来に語りかけているようなのだ。

 「僕たちの失敗」は、「さよなら僕の友だち」とともに代表曲のように知られている。4拍子のリズムだが、3拍子に変えて口ずさんでみると、ダンス音楽になる。3拍子にすると、少し似ている曲を思い出した。シャンソンの「聞かせてよ愛の言葉を」である。「さよなら僕の友だち」も同様のリズムであり、これらをふくめると、ほとんどの曲が3拍子か8分の6拍子になる。
 古いシャンソンには、発売禁止(自殺幇助のような理由で)になった「暗い日曜日」という、暗い歌もある。日本人の心性に虚無への衝動があるというのは本当かもしれない。
 音楽史における森田童子の系譜上の位置が垣間見えたとしたら、この小説のおかげだろう。

★これを書いた二日後に、BS放送で近松門左衛門原作の心中物の映画『鑓の権三』(岩下志麻主演)を見たが、ななかなの映像美であり、昔から日本人の好む心中物というのがあることを痛感した。映画では言い訳のようなセリフは少なくして映像美で見せるのが良いようである。森田童子も新しい音楽というより綺麗なメロディと声が重要なのだろう。
★古いタンゴには劇中歌のような歌詞が多いと聞いたが、古いシャンソンも同様で、大衆歌謡とは、近代的個人の自己表現ではなく、劇中歌の形式が始りであろう。森田の歌詞はその要素を残していて、劇画漫画関係者でファンが多いというのは、物語のセリフの言葉に近いものがあるためであろう。映画演劇のセリフは演者の肉声と不可分になってしまうが、劇画漫画はそうではないところがあるだろう。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

薮入りと初山

初山入りという正月行事は、新年に初めて山に入って薪をとり、その薪は小豆粥や、田植のときの昼飯を炊くのにも使うという。事典などによると、1月11日のほか、2日、4日、16日など地方により日は一定でないらしい。今は残っていない地方もあるだろう。

ここでいう山とは屋敷林でもじゅうぶんなので、年の最初の薪と最初の火を、山の神から授かるという意味もあるのだろう。初山は仕事始めの意義もあるらしく、2日というのは元旦の翌日、4日は3が日を休んだ翌日、16日は小正月の翌日になる。
田植のときの昼飯とは、田の神を祭る日の食事になる。田植祭は年の初めに水源地などで行なわれることも多いのだが、そこでも初山の薪が使われるのではないか。

山椒太夫』の物語で、捕われの身となった安寿と厨子王が、山に入って薪取りを命ぜられる場面があり、初山の伝承行事を背景にしたものと指摘されている。その日に、二人は山椒太夫のもとから脱出を相談し、厨子王は脱出し、安寿は折檻を受けて命を落とした日でもある。安寿姫の命日は1月16日であるという伝承が全国各地にあるので、16日の初山の日になる。

1月16日は、薮入りの日、閻魔祭の日でもある。
薮入りは、江戸時代では奉公人たちが里帰りする日とされるが、実際は奉公先から解き放たれる自由な日であり、それと同様ないしより自由な日というのが中世にもあり、厨子王が脱出できたのも、そのような日であるということが背景にあるとのことである。閻魔祭の日には地獄図絵が開帳されるので、その日に語られた安寿の物語には残酷表現が加わるのだという。安野真幸著『下人論』を読むと、そのようなことが詳細に書いてある。

同書に次のような一文がある。
「『お岩木様一代記』から『山椒太夫』への変化の中に母子神信仰・御霊信仰から氏神信仰へという世界観の大転換を見てとることがdきよう」133p

ここでいう氏神信仰とは、近世初頭の単婚小家族の成立、檀家制度、小農自作農たちによる村の形成、村鎮守の成立などと深く関連するもののことである。そうした近世とは異なるのが中世なのだろうが、著者は「母子神信仰・御霊信仰」と表現している。読者のために断っておくがこの「母子」とは近世近代的な密着型の母子のことでは勿論ない。母子神信仰とは女人救済につながるものだと思う。

中世では人口の大多数は下人の身分だったであろう。安寿と厨子王の物語は、離れ離れの親子が一緒に暮したいという目的のために生きる物語である。下人には家族同居の生活ができないことがわかる。人口の大多数がそうだったことになる。厨子王の元の家は、陸奥の領主であり、多数の下人たちと一家をなしていたはずである。厳密には親子水入らずの生活ではない。山椒太夫とは違って、善政をしいていた。
 岩城の家の没落後は、父は単身で西国へ配流となり、母と姉弟と乳母で落ち延びていた。
乳母はうわたきという名で、四人は越後で誘拐され、その直後には乳母のみが命を断った。近代的な視点から申せば、姉だけでなく乳母についての供養も省略できないと思う。

山本健吉『古典と現代文学』(「近松の周辺」)では、説経節と浄瑠璃の関係が書かれ、女人救済について述べている。

「浄瑠璃の元は説経であり、神仏の縁起を説く語り物であった。説経とは唱導であり、唱導者が布教の手段とし声明道で練った美声で節廻し面白く、経文の実例になる話を語ってきかせたのである。彼等が如何に哀愁の深い物語を声美しく語り、しかもその美貌を以て聴衆を恍惚とさせたかは……」
「説経は男の語り物であるが、説経から出た浄瑠璃は、もと女の語る物であった。(中略)瞽女が語ったもので、自分たち女の呪われた身の救いを説いた。」

「説教は男の語り物」そして「浄瑠璃は、もと女の語り物」と区別した書き方になっているが、説経も瞽女が語ったと書く研究書もある。「その美貌を以て聴衆を恍惚とさせた」というのは女性のようでもあるし、「美貌」は化粧などによるものとすれば、盲目の瞽女にどこまでできたかなどの不明な部分もあるが、説経と初期の浄瑠璃とは、区別不明の重なる部分もあるのだろう。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

鏡開き

1月11日は「鑑開き」の日といわれる。
正月の神へのお供えの餅を下げてきて、固くなっているのを割って、雑煮にして食べる。神様の魂や御利益もいただくということになる。

正月の餅は、非常に重要なものとされ、樋口一葉の小説『大つごもり』にも出てくる。貧乏な伯父夫婦は、幼い子に正月の餅を食べさせられないことを、非常な恥と思っていた。

「大道餅買ふてなり三ヶ日の雜煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし」(大つごもり

正月の餅を食べられない子は一人前の大人になれないという考えのようだ。あるいは、
武士でないのに、貧乏していても武士……といった印象をうけるので、金を無心するための誇張があるのかもしれないが、それはともかく、正月の餅が重要であることは理解できる。

国語大辞典(小学館)をみてみる。
「かがみびらき【鏡開】
(「開き」は「割り」の忌み詞)正月行事の一つ。正月に供えた鏡餅をおろし、二〇日の小豆粥(あずきがゆ)に入れて食べる。のち一一日の仕事始め(倉開き)に行なうようになった。武家時代には、男子は具足に、婦女は鏡台に供えた鏡餅を、二〇日に取り下げ、割って食べた。婦女は初鏡祝いともいう。鏡割り。」

「武家時代」とは江戸時代のことであろう。武家のしきたりの説明が長い。後に11日に変わったのは、民間行事と習合してのことなのかは不明。
鏡開きは、正月の連続する行事の「ひと区切り」の行事でもある。民間では古くは15日の小正月のほうを重視したので、それより前にお供餅を下げることはないのかもしれないが、神棚の大神宮様の餅なら、下げるかもしれない。一年の仕事始めの前には、餅を食べていないと、仕事が始まらないようにも思う。仕事始めが11日というのは「初山入り」と関係があるようで、職業によって仕事始めは異なると思われる。
元旦や小正月、さらに節分行事がからんでくると、年が改まるというのは、ある一瞬にということではなく、次第次第に改まるということなのだろう。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

新年の雪の歌

万葉集20巻の末尾、4516首目の大伴家持の歌。

 新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや頻(し)け。吉言(よごと)

元日の朝に雪が降り、その雪が頻りに積もるように、この年に吉事よ、多くあれ。
といった意味だろう。
正月の雪が、縁起の良いものと考えられていたことがわかる。
万葉集20巻を結ぶにあたって、未来への予祝をこめた歌でもあるのだろう。

続いて、古今集の最初の歌。
    
 年の内に 春は来にけり 一とせを 昨年(こぞ)とやいはん 今年とやいはん (在原元方)

年内に立春が来た。さてこの一年を振り返るのに、新しい春からみて「昨年」というべきか、まだ12月なので「今年」というべきか。

新暦しか知らないと、正月のことをなぜ「新春」というのですかという質問が出るわけだが、立春に近い朔日(月齢1)を、1月の最初とするのが旧暦なので、1月から3月を春と呼ぶ。立春は1月1日の前後の約30日間のどれかの日になる。12月中に立春が来る確率は約50%なので日常的にはよくあることになる。
「昨年」というべきか「今年」というべきかというのは、挨拶言葉をどう言ったら良いかということにもつながる。
古今集3番めの歌。

 春霞 たてるやいづこ みよしのゝ 吉野の山に 雪はふりつゝ {読人不知}

春が来たなら霞が立つはずだがいづこに見えるのか、吉野の山は雪が降っている。
この「いづこ」というのは否定的な意味ではなく、それならどこに春のきざしがあるか、探してみようという意味にもとれる。
そして6番めの歌。

 春たてば 花とや見らん 白雪の かゝれる枝に うぐひすのなく (素性法師)

雪を花に見立てれば良いではないか、というのも一つの挨拶の方法なのだろう。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

「五説経」とは

中世の説経節の物語で有名なものを「五説経」といふことを思い出して、頭の中で1つ2つと数へてみたら、5つでは足りないような気がした。そこで国語辞典4つと百科事典2つを調べてみた。
山椒太夫と苅萱の他は、入れ替ることがあるとのことで、8つくらいはあるらしい。
表にまとめてみた。◎印が各辞典の説明の最初に出てくる5つ、○印は入替の例。

    広辞苑 国語大 大辞林 大辞泉 平凡百 ブリ百
山椒太夫 ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎
苅萱   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎   ◎
信田妻  ◎   ◎   ○   ○   ◎   ○
梅若   ◎   ◎   ○   ○   ◎   ○
梵天国  ◎   ○   ◎   ◎       ◎
愛護の若 ○   ◎   ○   ○   ◎   ○
俊徳丸      ○   ◎   ◎   ○   ◎
小栗判官     ○   ◎   ◎   ○   ◎


広辞苑には、「説経浄瑠璃の代表的な五つの曲目。
山椒太夫」「かるかや」「信太妻」「梅若」「梵天国」(または「愛護の若」)。」とある。

大辞林では「古くは「苅萱」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘太夫」「梵天国」(表の◎印)をさしたが、のちには、「苅萱」「三荘太夫」「信田妻」「梅若」「愛護若」(広辞苑説に近い)をいう」のだそうで、ブリタニカもこれに習ったような書きぶりだった。大辞林、大辞泉、ブリタニカの3つが一致するのは、典拠が同じためかもしれない。
平凡社の世界大百科では、「五説経」の語は、江戸の寛文のころに見えるが「何をさしたか不明」といふ。江戸時代以後の言葉であるなら、「古くは云々、のちに云々」といっても、たいした時代差ではないようなので、選別にこだはる必要もないと思ふ。

歌語り風土記には、俊徳丸、梵天国を除いた6つを載せた。(本記事内にある、題名からのリンクを参照)

子ども向けの再話の本や、現代語訳の本では、「21世紀版・少年少女古典文学館」の第16巻、ねじめ正一の「山椒太夫」「俊徳丸」が、良いと思ふ。七五調を折り交ぜた文章で、少年向けだからと原作の残酷な表現を全削除といふこともなかった。残酷表現とは、曼陀羅や地獄図に似た宗教性とともに理解されるべきなのだらう。
「梵天国」は、『御伽草子集』に入ることがある。
「梅若」は謡曲「隅田川」の構成のままでは面白みが少ないと思ふ。
「愛護の若」は、現代語の本が少ないかもしれない。
comments (0) | trackbacks (0) | Edit

  page top