大里村
大里郡大里村の吉見神社は、もと「天照大神宮」と称した。この地は旧吉見郡にあたり、興味深い古文書がある。その要旨は次の通り。
天穂日命は、天孫降臨に先立って出雲に降った神である。その天穂日命が、諸国を巡って国見をされ、東国へ来て「ここは葦草の茂れる萌刺埜」といったので、旡邪志(武蔵)といふ。その子・建比奈鳥命が、出雲国から降ったとき馬を入れた地を、入馬(入間)といふ。建比奈鳥命の子・建予斯味命が、出雲国より入間郡に遷られた。その地を吉見といふ。予斯味命は、牟刺(武蔵)国造の始である。
景行天皇の御代に、豊城入彦命の曽孫の御諸別王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。 当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(大里郡)を置いた。御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬を、天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。(大里郡神社誌)