産塚八幡

神川町元阿保

 武蔵七党のうちの丹党の支流である阿保(あぼ)氏は、旧可美(かみ)阿保(あぼ)郷(神川町元阿保(もとあぼ)付近)を本拠として鎌倉室町期に独自の勢力を築いた。阿保(あぼ)忠実のころ、秋山新蔵人に攻められて、妻は井に身を投げたとも、生き埋めにされた(埼玉県伝説集成)ともいふ。その地には(ちち)を求めて愛児の亡霊が夜毎ただよふといふので、里人は塚を築き祠を建てて霊をまつった。祠は、産塚(うぶづか)八幡宮と呼ばれ、安産守護を願ふ参詣者が絶えなかったといふが、明治の末に元阿保(もとあぼ)阿保(あぼ)神社に合祀されたたとき、旧地に「産塚の碑」が建てられ、歌が刻まれてゐる。

 ○世の人もこころにいのれ。産塚の千代まで残るこれの石文  金鑽宮守

 ○ありし世のむかし語りをしのぶ草、偲ぶもゆかし。産塚の跡  金鑽宮守

 「八幡宮」とは、稀に尋常ではない死に方をした御霊(荒御魂)を意味するときがある。

 秋山は旧那珂(なか)郡秋山村(児玉町)の者だらう(右の事件の年代は未調査)。足利高氏・直義兄弟が争った観応の擾乱のころ、賀茂川原合戦で秋山蔵人源光政の戦死を知った父光助の歌がある。

 ○なべて世のならひと思ふことわりも、この別れには知れざりにけり  草庵集